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一ノ谷の戦いとは?いつどこで起きた?戦いの経過もわかりやすく解説

「一ノ谷の戦いってなに?」
「いつ、どこで行われた戦いなの?」
「鵯越の逆落としって本当にあったの?」

このように思われる方も多いのではないでしょうか。一ノ谷の戦いは平安末期の1184年に摂津国(現在の兵庫県神戸市)で行われた平家と源氏による戦いです。

戦場となった一ノ谷(須磨浦公園)
出典:Wikipedia

この戦いで平家は大敗し、その後屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと敗北を重ね、滅亡への道をたどることになりました。またこの戦いは鵯越の逆落としや平敦盛のエピソードなどでも知られています。

この記事では一ノ谷の戦いについて、なぜこの戦いが起きたのか、結果はどうなったのかなどについていろいろなエピソードを交えながらわかりやすく解説していきます。

一ノ谷の戦いとは

年月1184年(寿永3年/治承8年)
2月7日
場所摂津国福原・一ノ谷
(兵庫県神戸市)
対戦勢力源氏 対 平氏
結果源氏の勝利

一ノ谷の戦いは平安末期に摂津国で行われた源氏と平家による戦いです。この戦いは前年に都落ちして京都へ復活を目指す平家とそうはさせまいとする源氏との間で行われました。

戦いは当初両者の間で一進一退の攻防が続きましたが、一ノ谷の平家軍を源氏軍の別働隊が奇襲したことで平家側は一気に崩れて敗走しました。

一ノ谷の戦い以前は平家が京都に舞い戻ってくる勢いでしたが、この戦いに源氏が勝利したことで戦況は源氏方に大きく傾き、以後平家は敗走を重ねることになります。

一ノ谷の戦いはいつどこで行われた?

鵯越ではないかと言われる鉄拐山から一ノ谷を望む
出典:Wikipedia

一ノ谷の戦いは1184年(寿永3年/治承8年)2月7日に摂津国福原及び一ノ谷周辺で行われました。福原は現在の兵庫県神戸市兵庫区及び中央区、一ノ谷は同市須磨区にあたります。

この戦いは一ノ谷だけではなく福原も戦場でした。それどころかむしろ主戦場は福原のほうだったのですが、「一ノ谷の戦い」と呼ばれています。これは

  • 一ノ谷での源義経の戦いぶりが有名になりすぎてしまったため
  • 福原がかつて一ノ谷と呼ばれていたため

など諸説があるようです。

一ノ谷の戦いはなぜ行われたのか?

三種の神器
出典:Wikipedia

一ノ谷の戦いは、京都に迫ろうとしている平家を撃退し、平家と共に行動している安徳天皇と三種の神器を取り戻すための戦いでした。

木曽義仲が京都へ攻めてきたことにより都落ちした平家ですが、勢力を盛り返して京都へ戻る日を虎視眈々とねらっていました。そして平家が福原まで戻ってきたところで、そうはさせまいとする源氏軍と戦闘になったのです。

一ノ谷の戦いの結末は?

平家が滅びた壇ノ浦
出典:Wikipedia

一ノ谷の戦いの結末は、平家軍が大敗しました。

平家は上洛の足がかりを失ってしまったばかりか、有力な一門衆を数多く失い、以降は屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと敗北を重ねていくことになります。

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鵯越の逆落としは本当にあったのか?

鵯越の逆落とし
出典:Wikipedia

一ノ谷の戦いといえば、鵯越の逆落としがよく知られています。これは断崖絶壁を騎馬のまま駆け下りて平家軍の背後を突き、平家を大混乱に陥らせたというものです。

この逸話が書かれているのは「平家物語」などの軍記物が主で、本当にあったかどうかは確定していません。当時の歴史書の「吾妻鏡」には鵯越の逆落としのことが書かれていますが、「玉葉」には書かれていないからです。

しかし「玉葉」にも源義経が搦手(背後)から一ノ谷を攻略したと書かれていますから、断崖絶壁を騎馬で下りたかどうかまでは不明ですが、平家軍を背後から襲ったことは間違いないようです。

主要な登場人物

源義経

源義経
出典:Wikipedia

源頼朝の弟で戦の天才と呼ばれ、数々のエピソードが残されています。一ノ谷の戦いでも鵯越の逆落としを行ったとされています。

先ほども説明したように、断崖絶壁を騎馬で駆け下りたかどうかまではわかりませんが、平家軍を奇襲して戦いの流れを源氏方に持っていったのは間違いないようですから、やはり軍事の天才なのでしょうね。

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平忠度(たいらのただのり)

平忠度
出典:Wikipedia

平清盛の異母弟です。歌人として有名で、新勅撰和歌集などにも忠度の歌が載せられています。一ノ谷の戦いで戦いますが、敗走中に討ち死にします。

戦死した忠度の箙(えびら・矢を入れる入れ物)には

行(ゆき)くれて 木(こ)の下かげをやどとせば 花やこよひのあるじならまし

という歌が結び付けられていたそうです。意味は「旅に行き暮れて、桜の木の下を宿とするならば、花が今夜の主となって私を慰めてくれるだろう」というものです。源平両軍とも文武に優れた忠度の戦死を惜しんだといわれています。

平敦盛

平敦盛を呼び止める熊谷直実
出典:Wikipedia

平清盛の弟、経盛の子です。17歳で一ノ谷の戦いに参加。敗走中に源氏方の熊谷直実に呼び止められ、組み合いになりますが百戦錬磨の直実に組み敷かれてしまいます。しかし直実は自分の子と同じ年ごろで大変な美男子だった敦盛を見て、討ち取ることを躊躇してしまいます。

しかし直実は「この状況では逃げ延びることもできまい。それならせめて私が。」と泣く泣く首を切りました。直実は後年出家しますが、このときのことも一つの原因ではないかと言われています。この場面は能の「敦盛」などの題材となり、今でも語り継がれています。

後白河法皇

後白河法皇
出典:Wikipedia

一ノ谷の戦いで平家が敗北した原因を作ったのではないかといわれている人物です。戦が起こる2月7日の前日に平家方へ休戦命令の使者を送りました。平家方は法皇の言うことを信じていた油断してところ源氏の奇襲を受けたというものです。

これには異説もあり、真実かどうかはわかりませんが、追討の宣旨を出したのも後白河法皇ですし、この時代のキーパーソンであったことには間違いありません。

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