戦いの流れ
1月26日 | 後白河法皇が平家追討の 宣旨を出す |
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2月4日 | 源氏軍が京都発 |
4日夜 | 三草山の戦い |
2月6日 | 後白河法皇が平家へ 休戦の使者を送る? (異説あり) |
7日明け方 | 一ノ谷の戦い開戦 |
同日 | 鵯越の逆落とし |
同日 | 平家敗走 |
三草山の戦い
2月4日、範頼が主力部隊5万6000騎を、義経が別働隊1万騎を率いて京都を出発。義経は同日、一の谷の北側を迂回して三草山の平家軍へ夜襲を仕掛けて撃退します。これが三草山の戦いで、一ノ谷の戦いの前哨戦です。
義経は進撃を続け、鵯越まで進んだところで部隊を二手に分けました。自らはわずか70騎の兵を連れて、一ノ谷に陣を敷いていた平家の裏手まで進出します。一ノ谷の裏手は険しい崖で、誰もこんなところから敵が攻めてくるとは思っていませんでした。
生田の戦い
7日明け方、義経以外の別働隊が塩屋口で、範頼率いる主力部隊が生田口でほぼ同時に戦端を開きます。前日の6日に後白河法皇が平家に休戦の使者を送ったため、平家が油断していたという説もあります。しかし平家軍は善戦し、いずれの戦場も一進一退の攻防でした。
主力部隊が戦った生田口では梶原景時が「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮闘をしたというエピソードが残されています。これは景時の次男景高が単独で敵中に突入したため、これを救おうと長男景季(かげすえ)と共に突入。今度は景季が敵陣に取り残されたため、もう一度景時が敵陣へ突入したというものです。
エピソードの真偽は不明ですが、戦いが一進一退の激戦であったことや時代を超えても変わらない親子の愛情が伝わる逸話ではないでしょうか。
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鵯越の逆落とし
膠着した戦況を一変させたのが源義経です。一ノ谷の裏手まで来ていた義経は、平家の陣を背後から奇襲します。これが鵯越の逆落としです。まさかこんなところから敵が来るとは思わなかった平家軍は大混乱に陥ります。
戦況は一気に変わり平家は敗走を始めます。東西から源氏に攻められている平家軍は、船で逃げるしかありませんでしたが、大混乱のため多数の溺死者が出たと伝えられています。
このように凄惨な敗走でしたが、一方で平忠度や平敦盛の心を打たれるエピソードが残されています。
終結までの流れ
このようにして一ノ谷の戦いは源氏の大勝利に終わりました。平家は平忠度、平敦盛など有力な一門の多くを失ってしまいました。また京都へ復帰する足がかりを失ってしまい、屋島まで撤退するしかありませんでした。
一方で源氏方も当初の目標だった安徳天皇と三種の神器と奪還できませんでした。そのため平家が撤退した屋島で次の戦が行われることになるのです。
一ノ谷の戦いがよくわかる関連書籍
超ビジュアル!源平合戦人物大事典
イラストや図表、マンガが中心でわかりやすい解説で構成されています。小学生向きとされていますが大人でも面白いですし、源平合戦の全体像を理解するのに最適です。もちろん一ノ谷の戦いについても触れられています。
源義経の合戦と戦略 ―その伝説と実像―
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戦略で読み解く日本合戦史 (PHP新書)
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一ノ谷の戦い関するまとめ
一ノ谷の戦いについてまとめました。この時代の戦いは史料も少なく、歴史的な事実がはっきりしないことが多く、ある程度は物語である軍記物に頼らざるを得ません。
しかしその分、よくわからない部分について想像力をふくらませることもできます。事実を確かめるのも大切ですが、足りない部分を想像して楽しむのも歴史の楽しみ方ではないかと感じました。
この記事を読んでもし興味を持たれたかたがいらっしゃれば、関連記事や関連書籍で知識を深めてみてはいかがでしょうか。