壇ノ浦の戦いとは?場所や主要人物、戦いの経過や結果を分かりやすく解説

「壇ノ浦の戦いってなに?」
「歴史の授業でなんとなく聞いたことはあるけど・・・いつの時代だったっけ?」
「そもそも壇ノ浦ってどこ?」

このように思われる方も多いのではないでしょうか。壇ノ浦の戦いとは、1185年に起きた源氏と平氏の最終決戦です。関ケ原の合戦など戦国時代の華々しい戦いに比べると映画やドラマで取り上げられることも少なく、そこまで知名度が高いとは言えないかもしれません。

壇ノ浦で沈んだ平氏の亡霊を描いた歌川国芳の浮世絵
出典:Wikipedia

しかし、壇ノ浦の戦いは、長年争いを続けていた平氏と源氏との間に終止符が打たれた歴史的に重要な戦いです。

この戦いに敗れた平氏は壇ノ浦で滅亡します。武士たちだけでなく、幼い安徳天皇や多くの女官たちも運命を共にしたという悲劇的な側面も持っているのです。

しかしなぜ天皇まで一緒に死ななければならなかったのか?そもそも天皇や女官がなぜ戦いの場にいたのか?どうして海戦だったのか?などいろいろな疑問が出てくるのではないでしょうか。この記事ではそういった疑問に答えながら、壇ノ浦の戦いについてわかりやすく解説していきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

壇ノ浦の戦いとは?

戦争壇ノ浦の戦い
年月元暦2年/寿永4年(1185年)3月24日
場所壇ノ浦(山口県下関市)
対戦源氏 対 平氏
結果源氏の勝利(平氏滅亡)

壇ノ浦の戦いをわかりやすくまとめると?

壇ノ浦の戦い
出典:Wikipedia

平氏と源氏との間で6年にわたって戦われた争乱(治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)、一般的には源平合戦とも)の最終章が壇ノ浦の戦いです。

平氏の最後の根拠地であった彦島に攻めてきた源義経率いる源氏軍に対して、平宗盛(たいらのむねもり)・平知盛(たいらのとももり)率いる平氏軍がこれを迎え討ち、壇ノ浦で海戦になりました。

軍勢は双方数百艘から数千艘(諸説あり)と、当時としてはかなり大規模な海戦でした。戦いが行われた時間帯については午前説と午後説がありますが、いずれにしても半日で決着が付いています。

最終的に、平氏は敗北、一族の多くが入水するなどして自決し、平氏は滅亡します。

壇ノ浦とはどんなところか

壇ノ浦古戦場址の碑(みもすそ川公園)
出典:Wikipedia

壇ノ浦は、山口県下関市の関門海峡です。平氏の拠点であった彦島も同じく関門海峡にあります。

壇ノ浦には、みもすそ川という地名もあり、現在はみもすそ川公園という公園が整備されています。みもすそ川というのは、二位尼(にいのあま)が安徳天皇を抱いて入水したときに詠んだとされる辞世の句「今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも 都ありとは」に由来します。

多くの海峡がそうであるように、壇ノ浦も潮の流れが速いのが特徴です。場所にもよりますが、最大で9.4ノット(時速約17.4km)にもなります。戦の明暗も潮の流れが左右したのではないかと言われています。

壇ノ浦の戦いはなぜ起きたのか

平氏に反旗を翻した以仁王
出典:Wikipedia

1180年に以仁王(もちひとおう)が平氏に反旗を翻します。これが以仁王の反乱(もちひとおうのはんらん)で、以後6年間にわたり治承・寿永の乱と呼ばれる源氏と平氏の争いが始まります。

治承・寿永の乱が発生した当時、平氏は都である京都にいました。しかし源氏の軍勢に押され、安徳天皇や三種の神器とともに西へ逃れます。いわゆる都落ちです。

その後一時戦線を盛り返すこともありましたが、拠点であった福原や屋島を次々と落とされ、最後の拠点である彦島まで撤退します。

壇ノ浦まで押されたときには、背後の九州はすでに源義経の弟、源範頼(みなもとののりより)に抑えられていたためもうこれ以上西へ逃げられなくなっていました。壇ノ浦で最後まで戦うしかなかったのです。

戦いの結末

安徳天皇を祀る赤間神宮
出典:Wikipedia

壇ノ浦の戦いは、源氏の勝利に終わります。平氏の多くは戦死・入水するなどしてそのほとんどが亡くなったため、平氏は事実上滅亡しました。武士だけでなく安徳天皇や二位尼を始めとする多くの女性や子どもも運命をともにしています。

壇ノ浦の戦い後、源頼朝が武士による政権である鎌倉幕府を樹立します。古代から中世へ時代は大きく変貌していくのです。

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