「屋島の戦いって具体的にどんなもの?」
「扇の的のエピソードは本当にあったの?」
このように思われる方もいるのではないでしょうか。屋島の戦いとは、平安末期に讃岐国で行われた源氏と平家による戦いです。屋島の戦いという名前や扇の的のエピソードは聞いたことがあるのではないでしょうか。しかし屋島の戦いが具体的にどういうものだったのかはあまり知られていないようです。
このように少し地味な印象も受ける屋島の戦いですが、この戦いは平家にとって非常に重要な戦いでした。この戦いに敗れてしまったことによって平家の滅亡がほぼ確定してしまったからです。
また扇の的の逸話も当事者の那須与一にしてみれば、戦の合間に行われた微笑ましいエピソードなどではなく、生きるか死ぬか瀬戸際のイベントでした。
この記事では屋島の戦いがなぜ重要だったのか、この戦いの結果がどのような影響をもたらしたのかなどについて、扇の的のエピソードを交えながらわかりやすく解説していきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
屋島の戦いとは
年月 | 1185年(寿永4年/元暦2年) 2月19日 |
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場所 | 讃岐国屋島 (香川県高松市) |
対戦勢力 | 源氏 対 平氏 |
結果 | 源氏の勝利 |
屋島の戦いは1185年に讃岐国で行われた戦です。平家は強力な水軍により瀬戸内海の水運を抑えており、屋島は平家水軍にとって重要な拠点でした。
源氏は有力な水軍を持っておらず平家の水軍に悩まされていました。そのため、平家を滅亡させるには屋島を奪取することが必要不可欠だったのです。
屋島の戦いはいつどこで行われた?
屋島の戦いは1185年(寿永4年/元暦2年)、讃岐国(現在の香川県高松市)で行われました。屋島は現在では陸続きになっていますが、当時は陸地と離れており完全に島でした。
屋島は瀬戸内海を制圧する上で大変重要な拠点でした。屋島は標高が300m弱あり頂上から眼下を眺めると、瀬戸内海を行き来する船の様子が手にとるようにわかるからです。
屋島の戦いはなぜ行われた?
屋島の戦いが行われた原因は、九州方面を攻撃していた源範頼軍を助けるためでした。
一ノ谷の戦いに勝利した源氏は平家を孤立させるため、先に九州を抑えようとしていました。このため源範頼軍が中国地方を陸路西進しますが、平家の水軍によるゲリラ的な攻撃により補給路を断たれて苦戦します。
この範頼軍を救うため、源義経が平家水軍の一大拠点だった屋島を攻めることにしたのです。
屋島の戦いの結末は?
屋島の戦いは、源氏の勝利に終わりました。
平家はこの戦いに敗れたことで残された拠点は彦島(山口県下関市)だけになり、それまで抑えていた瀬戸内海の制海権をほぼ失ってしまいました。ほぼ滅亡といっても過言ではない壊滅的な状況になってしまったのです。
扇の的のエピソードとは?
扇の的のエピソードとは屋島の戦いの最中、平家方が船の竿先につけた扇を落としてみせよと源氏方を挑発し、那須与一がこれを見事に射落としたというものです。
最初は那須与一ではなく畠山重忠や那須十郎が選ばれたのですが、両人とも固辞して与一が選ばれたと言われています。確かに誰だってこんな大役は引き受けたくないですよね。しかも船の上で揺れる的。難易度は極めて高いものです。
与一は失敗したら切腹するつもりで弓を射たそうです。このとき与一が神に祈ったとされる岩が史跡として残されています。
ただこの話は軍記物である平家物語に書かれているものなので、実際にあったかどうかはわかりません。しかしこの時代の戦にはこのようなことも行われていたのかもしれません。