屋島の戦いとは?いつ、どの場所で起きた?扇の的のエピソードもわかりやすく解説

戦いの経過

暴風雨の中、四国へ

屋島の戦い関係図
出典:Wikipedia

しかし先ほども言いましたように、源氏は有力な水軍を持っておらず正面から屋島を攻めても勝てる見込みがありません。義経は摂津国渡辺津(大阪市)から船に乗り阿波国勝浦(徳島県)へ上陸、背後から屋島を奇襲する作戦を立てます。

しかも暴風雨の中を渡航しようとしました。当然船頭たちは嫌がりますが弓で脅して無理やり出港したそうです。率いた兵士はわずか150騎でした。

寿永4年2月18日、渡辺津を出港した義経軍は19日に勝浦へ到着しました。そして徹夜で進撃し、翌20日に屋島へたどり着いたのです。

屋島奇襲

佐藤継信の討死場面
出典:Wikipedia

屋島は現在のように地続きではなく島でしたが、陸地と島との間は干潮時に馬が渡れるくらいの浅瀬でした。義経は兵が少ないことを悟られないように周囲の民家に火をつけて大軍のように見せかけて一気に屋島へ攻め込みました。

攻めてくるなら海からだろうと思っていた平家方は慌てふためいて海へ逃げ出します。しかししばらくすると、義経軍が少数しかいないことに気付いて猛反撃に出ます。この激しい戦闘で佐藤継信が義経をかばって討ち死にしたといわれています。

佐藤継信たちの奮戦もあり、この日は決着がつかず日が暮れ休戦となります。休戦となった夕暮れに起きたのが扇の的のエピソードです。

平家敗走

主力軍を率いた梶原景時
出典:Wikipedia

翌日も平家から攻撃を受けますが撃退に成功。平家は屋島を奪い返せません。そうしているうちに梶原景時が率いる主力軍がやってきたため平家方は完全に屋島から撤退したのです。

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戦いの結果

平家が最後の拠点とした関門海峡と彦島(海峡左端の島)
出典:Wikipedia

平家は屋島を失い瀬戸内海の制海権や中四国への影響力を失ってしまいました。平家に残された拠点は山口県下関市にある彦島だけになりました。

しかも彦島の背後にある九州は源範頼軍が侵攻を続けています。平家は袋のネズミになってしまい、滅亡はほぼ決まってしまったといえます。

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屋島の戦いについてのまとめ

屋島の戦いについてまとめました。屋島を守り切ることができていれば、源範頼軍は崩壊していたかもしれません。そうなるともう少し源平合戦は長く続いていた可能性もあります。

このように屋島の戦いは源平双方にとってとても重要な戦でした。一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦いと比べるとやや地味な感じもする屋島の戦いですが、このように具体的な中身を調べてみるとまた面白さが出てくるのではないでしょうか。

この記事を読んでもし興味を持たれた方がいらっしゃれば、関連記事や関連書籍などでより知識を深めることをおすすめします。

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