朝鮮戦争とは?原因や参加国、日本への影響などを分かりやすく解説

朝鮮戦争の結果・影響

北朝鮮の首都・平壌に建設された「祖国統一三大憲章記念塔」
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朝鮮戦争は結果として、たくさんの犠牲者を出しました。その数字は発表者によってかなり違いがありますが、犠牲者は全体で400~500万人(北朝鮮側250万人、韓国側133万人)、ほとんどが一般市民だったそうです。

アメリカ空軍は80万回以上、海軍航空隊は25万回以上の爆撃を行い、第2次世界大戦で日本に落とした4倍以上の爆弾を投下しました。目まぐるしく戦線が移動したために、朝鮮半島内の建造物は尽く破壊されてしまいました。結果として台湾に比べて朝鮮半島では、日本統治時代の建物が著しく少なくなっています。

休戦協定が結ばれたが、朝鮮は2つの国のまま

軍事境界線は今も残る
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朝鮮戦争が始まって半年あまりで、アメリカは朝鮮戦争の終結を見据えて、休戦の条件を探っていましたが、南北首脳は自国の政治体制での統一を掲げていたため、休戦には乗り気ではありませんでした。

しかし、戦争による被害が増える中で北朝鮮の金日成は休戦へと傾いていきました。韓国もまた、アメリカ軍を駐屯させて北朝鮮の武力から守るという内容の条約を条件に休戦に納得しました。

そして1953年にスターリンが死去したために、中国の毛沢東も休戦に応じ、協定が結ばれました。しかし、半島には軍事境界線が残り、国は2つに別れたままとなりました。

中国が世界に台頭するきっかけを作った

天安門広場に毛沢東の肖像画が飾られているのは有名
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1949年に建国されたばかりの中華人民共和国が、朝鮮戦争でアメリカと対等に戦ったことは世界を驚かせました。

中国の最高指導者であった毛沢東は、ソ連の支援を受けた中国共産党を率いていました。共産党に対する中国国民党はアメリカの支援が途絶えたために敗北、台湾に逃げざるを得ず、結果としてアメリカから見放された形になりました。

アメリカの影響がなくなった後で、中国が朝鮮戦争に軍を派遣したことが、毛沢東の威信を高め、広大な国を1つにまとめました。それは中国の力を世界に発信し、世界に台頭するきっかけになったのです。

特需だけじゃなかった!日本への影響

日本には連合国軍の兵士の棺も到着した
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朝鮮戦争当時、日本はアメリカを中心とする連合国に占領されていました。このため、日本が朝鮮へ兵士と物資を送る玄関口になり、日本は「朝鮮特需」と呼ばれる好景気となりました。

物資として食料、軍服や毛布、テントなどの繊維製品、鋼管や針金、鉄条網などの鋼材、コンクリート製品など多種多様な品物が送られました。

日本はこの朝鮮特需で経済再建を果たしましたが、朝鮮戦争の影響はそれだけではありませんでした。
朝鮮戦争での国連軍の劣勢が伝えられていたため、イギリスやアメリカの兵士が脱走して騒乱事件を起こします。そして、日本に戦闘が拡大する恐れから上野動物園では疎開を検討していました。

また、1950年6月29日には国籍不明機が接近したため、福岡市など6つの市に空襲警報が発令された上、灯火管制が実施されました。好景気に沸きながらも、日本の人々はきな臭さを感じ取り、警戒を強めていたようです。

朝鮮戦争の経緯年表

1945年 – 第2次世界大戦終結

朝鮮人民共和国の国旗
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第2次世界大戦が終結後、朝鮮半島は米・英・中・ソの4カ国で信託統治されることが決定していましたが、実際には終戦の前にソ連が朝鮮半島に侵攻してきました。

朝鮮を治めていた日本政府・朝鮮総督府では多くの日本人を抱えたまま、朝鮮半島がソ連に占領されることを危惧して、朝鮮の独立運動家に行政権を譲りました。この運動家が呂運亨で、彼が結成したのが朝鮮建国準備委員会、後に建国されたのが朝鮮人民共和国です。

この国は日本が勝手に建国したと連合国に解釈されたために、アメリカ軍政が始まり、朝鮮人民共和国は短い期間で瓦解してしまいます。しかし、後の朝鮮民主主義人民共和国へとつながっていきました。

1948年 – 朝鮮半島に2つの国が建国

大韓民国の国家成立記念式典の様子
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アメリカ軍政が始まり、朝鮮人民共和国が瓦解した後にできたのが韓国民主党です。韓国民主党が支持したのが、大韓民国臨時政府でした。これが後にアメリカの支持を受けて大韓民国を建国することにつながります。

1948年8月15日にソウルで大韓民国の建国が発表されると、金日成がこれに対抗して9月9日に朝鮮民主主義人民共和国の建国を発表しました。北緯38度線は2つの国を分ける国境になり、全く政治体制の異なる国がほとんど同時に誕生することになりました。

金日成はこのときすでにソ連のスターリンに南への侵攻を相談していましたが、スターリンはアメリカの手前、首を縦に振りませんでした。

1950年6月 – 朝鮮戦争の勃発

北朝鮮が使用したT-34型の戦車(写真は戦後製)
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最初は慎重な態度だったスターリンですが、1950年には一転、積極的な姿勢を見せています。

1949年に原爆の開発に成功したこともその原因ですが、他に東洋屈指の軍港、旅順港を中国に返さずに使い続けるためだったとも言われています(中ソ友好同盟相互援助条約には、両国が戦争に巻き込まれそうになった場合にはソ連は旅順港を使い続けることができるとされていたため)。

アメリカを朝鮮半島に足止めしている間に、ソ連は自らの力を伸ばそうとしていたのかもしれません。

こうしてソ連の後押しを受けて、1950年6月25日に朝鮮戦争が開始されました。宣戦布告は行われず、当時農繁期で警戒態勢を解いていた韓国では対応が遅れた上、戦車がなかったため、戦闘は北朝鮮に有利に進むと思われました。

1950年9月 – 仁川上陸作戦

仁川上陸後にソウルで国連軍の兵士が戦っている
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韓国軍の敗退でソウルの街は北朝鮮の軍に破壊、占領されてしまいます。アメリカが中心となった国連軍が参戦しますが、苦戦が続きました。

転機となったのがダグラス・マッカーサーが考えた仁川上陸作戦でした。これが成功してソウルは奪還されましたが、マッカーサーは中国参戦の危険性を無視して、敗走する北朝鮮軍を追いかけていました。

その間に中国は着々と準備を進め、1950年10月19日、秘密裏に鴨緑江を渡って北朝鮮へと進軍しました。圧倒的な兵数で韓国軍を蹴散らし、アメリカ軍にも迫りました。もっとも中国軍の猛攻にさらされたアメリカ軍第2師団は、全兵員の25%が死傷しました。

こうして、朝鮮戦争は一進一退を繰り返すようになり、膠着状態となってしまいます。戦線が朝鮮半島を上下することからアコーディオン戦争とも呼ばれています。

1953年7月 – 休戦協定

マッカーサーの解任は大きな
話題になった
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1951年3月にはアメリカ大統領・トルーマンは停戦に向けて動き出そうとしていました。しかし、これに反対したのがマッカーサーです。

彼は「中華人民共和国を叩きのめす」と発表した後に、北緯38度線を越えて国連軍を進軍させたのです。また、物資補給をできなくするために、満州に残されていた工業設備や公共施設を爆撃し、放射性物質を撒くことを提案しました。彼を放っておけば、第3次世界大戦にもなりかねないと、マッカーサーは解任されました。

1951年のマッカーサーの解任、1953年のスターリンの死去で朝鮮戦争は休戦へと大きく動き出したのです。

朝鮮戦争のことがよくわかる関連作品

朝鮮戦争の謎と真実 A・V・トルクノフ

この本を読むと、朝鮮戦争は北朝鮮と韓国だけの戦争ではないことがよくわかります。ソ連と中国、そしてそれに対抗するアメリカの思惑を考えると、北朝鮮と韓国はただ利用されただけではないかと思えてきて、怖くなります。

図説 朝鮮戦争 田中恒夫

写真が訴えてくるものは大きく、日本が復興への道を歩んでいる最中に、すぐ隣の国で起こっていたことを学び、忘れてはいけないと感じます。それが現在の日韓関係をより良くしていくための最善策かもしれません。

朝鮮戦争に関するまとめ

朝鮮戦争について原因から結果、そして日本が受けた影響についてまとめました。朝鮮戦争で多くの日本人は経済的に恩恵を受けました。しかし、それは結果として物資補給で戦争に協力していたことになります。

そこまでは知らなかった、考えていなかったという人が多いかも知れませんが(実際に朝鮮戦争の実態はほとんど日本で報道されていなかったようです)、私たちはすぐ隣の国の戦争に協力してしまった事実を決して忘れてはいけないのではないでしょうか。

現在も日本と朝鮮半島の2つの国の関係は良好ではありません。朝鮮戦争について深く知ることで、良好な関係への道を探れるように思います。

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