袈裟山千光寺の伝承と仏像
岐阜県高山市にある袈裟山千光寺(けさざんせんこうじ)は、両面宿儺が開山したといわれており両面宿儺像が4体祀られている寺院です。仁徳天皇65年(伝337年)に開山したといわれており、両面宿儺が袈裟山の山頂で仏典と袈裟を掘り出したという伝説が残っています。
そして約400年後の平安時代に、弘法大師の十大弟子の一人である真如法親王(平城天皇の皇子)が袈裟山を参り、仏典と袈裟が祀られていたために「袈裟山千光寺」と名づけられました。
また1685年頃、仏師・円空が旅の途中に千光寺に一年近く滞在し、有名な両面宿儺像などを彫りました。それらの作品は現在、寺院内にある「円空仏寺宝館」に展示してあります。
金竜山曉堂寺の伝承と仏像
岐阜県関市にある曹洞宗の金竜山曉堂寺(きんりゅうざんぎょうどうじ)にも、両面宿儺の伝承が残っています。この寺院の言い伝えによると、仁徳天皇の御代に飛騨の国八賀の里に住む両面宿儺(両面僧都)がこの地にやって来たそうです。そして宿儺は夢枕に立った金龍のお告げにより、五穀豊穣・国土の安穏・民の和楽を祈願しつつ聖観世音菩薩像を彫り上げたと伝えられています。
この観音様は秘伝で、市の重要文化財にも指定されており、日龍峯寺の仏像と同じ木で彫られたものだそうです。そして境内の脇には、両面宿儺の舎人である和可の髪が埋葬されたといわれており、「若塚」と呼ばれ今も残っています。
大日山日龍峯寺の伝承と仏像
岐阜県関市にある大日山日龍峯寺にも、両面宿儺の伝説が残っています。内容は、
「仁徳天皇の時代(五世紀前半)、飛騨の国に両面宿儺(りょうめんすくな)という豪族がいた。
大日山日龍峯寺公式ホームページ
両面宿儺は当地の豪族として権勢を誇っていた。この異人天皇の叡聞に達し都に上り、御対面した。
その帰り、美濃加茂野ケ原で休憩していると、どこからともなく鳩二羽が不思議なさえずりをなして、高沢の峰に飛び去った。
異人不思議に思い里人に尋ねると、『高沢の山脈に池あり、神龍住みて近郷の村人に危害を及ぼす』と聞き、はるかの峰に登り大悲の陀羅尼を唱え神龍を退散させこの峰に寺を開創したという。
寺伝によると、両面宿儺は飛騨の豪族であり、都に上り天皇に謁見。その帰りに龍神が悪さをしていると聞き、仏の力を使って龍神を退散させたと伝わっているのです。関市には両面宿儺の活躍により、龍の血が流れた場所を「血野」、龍の尾が立ったところを「大立」といった地名が残っているそうです。
この時、龍が流した血をヒルが吸ったために全部死んでしまい、今もこの地域にヒルはいないといわれています。そして境内にある千本桧(せんぼんひのき)は両面宿儺が山に登る時に使用した杖を刺したものいわれており、現在は巨木となっているのです。
両面宿儺は実在したのか?
このように飛騨地方で多くの伝承を残している両面宿儺ですが、本当に実在したのでしょうか?結論から言うと、「実在した」と考えられています。ここでは実在した両面宿儺がどういった人物だったと考えられているかを紹介します。
地方豪族の首領だった説が有力
一番有力な説は、「飛騨地方の豪族だった」というものです。両面宿儺は飛騨の有力豪族だったのですが、大和政権に敗れ「異形の者」として日本書紀に記されたのではないかといわれています。
日本書紀は、720年に天武天皇の命で編纂した歴史書です。編纂された史書は、天皇を中心とした中央集権を権威付けさせるのが目的としています。そのために、飛騨の豪族・両面宿儺を「住民に悪さをする悪者」として討伐したという内容を書いたと考えられているのです。
何故大和朝廷が飛騨を攻めたのかははっきりわかっていませんが、恐らく飛騨の技術や資源が狙われたのではないかという説が有力です。飛騨は両面宿儺の時代の200年後ではありますが、大和の都づくりに飛騨の匠が派遣されていたといいます。そのため宿儺の時代も、腕の良い大工がいたのだろうと想定されているのです。
また、馬が沢山いたからそれが欲しかったのではないかという説や、鉱山の金属が狙いだったのではないかとも考えられています。飛騨にある古墳には、馬具が多く出土しており当時馬が非常に多かったと考えられています。さらに古墳時代に使用されている鏡の鉛は、飛騨の「神岡鉱山」の鉛が使われていた可能性が高まっているそうです。
近年ではかつて中国製だと考えられていた鏡も、神岡鉱山の鉛で作られていたことが成分から分かってきています。
丹=辰砂=赤色硫化水銀
丹生川=赤色硫化水銀が採れた川
水銀毒に侵された妊婦から生まれた結合双生児=両面宿儺
=赤色の体に炎の衣を纏い、二面二臂で七枚の舌を持つ火神アグニ
びっくりΣ( ºωº )!!