これまで日本では数多くの凶悪事件が起きていますが、それらの事件を起こした犯人はどのような生い立ちだったのでしょうか?あまり知る機会は無い方もしれませんが、今後凶悪犯が現れないようにするには、犯人たちの人生を知ることも必要です。
この記事では、凶悪事件の犯人15名の生い立ちを紹介していきます。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
栗田源蔵 | おせんころがし事件:1952年
1952年に犯人の栗田源蔵が、おせんころがしと呼ばれる断崖絶壁で母子3人を崖から投げ落とし石で撲殺した事件です。その他5名殺害したことも判明し、死刑が確定、1959年に刑が執行されています。
栗田の父親は川漁師であり12人兄弟の3男でした。しかし父の体が弱く、母が家計を支えており生活は貧しかったといいます。栗田は幼少期「夜尿症」に悩んでおり、小学校でも虐められて3年生で中退。その後奉公に出されるも、「小便臭い」と嫌われ奉公先を転々としたそうです。
1945年には徴兵されるも、「夜尿症」が原因で除隊。終戦後は北海道に渡り炭鉱夫として働き、荒くれ者となり犯罪を重ねるようになります。その頃には「はやぶさの源」とあだ名され、不良グループのリーダーになっていました。そして闇市ブローカー業に手を染め、殺人も犯すようになっていったそうです。
川俣軍司 | 深川通り魔殺人事件:1981年
1981年に川俣軍司が、東京都江東区の商店街で発生した無差別殺人事件を起こしました。乳児1名、幼児1名を含む4名の死者を出し、2名の負傷者を出しています。その後中華料理店に立てこもり、人質を取りました。結局人質が隙をついて逃げ出したために、警察により確保されています。
川俣は、父がしじみ採りを営むものの経営は悪く、母はお乳が出ず粉ミルクも買えないので重湯で育てたそうです。学生時代は大人しく、中学は園芸部に所属し「ニタリスト」とあだ名されていました。常にニタニタ笑っていたからだそうです。中学を卒業後は家を心配し進学せずに板前を目指し上京。寿司屋に住み込みで働くも、人間関係などで辞めています。
19歳で実家に戻り自動車免許を取得。トラック運転手になりますが、長続きせず東京の土建会社に就職。この頃から数回傷害事件を起こし、刑務所を出入りしているようです。そして家業のシジミ採りを手伝うことになるも、気に入らないと暴れるために両親は逃げ出してしまいます。この頃に薬物を使用し始めました。そして弟とも喧嘩した後に、薬物に溺れていき事件を引き起こしています。
宮崎勤 | 東京・埼玉連続幼児誘拐事件:1988~1989年
宮崎勤は東京・埼玉で4名の幼女を誘拐し、殺害後に遺体を乱暴した犯人で、2018年に死刑が執行されています。
宮崎は、東京の裕福な家に生まれています。宮崎は「両側先天性橈尺骨癒合症」という難病でした。この難病のために、幼少期はお遊戯が出来ずに「辛かった」と語っています。幼少時代の宮崎の面倒は、祖父とベビーシッターが見ていました。中学は陸上部と将棋部に所属。
高校は手の障害を気にして、片道2時間かかる学校に通っていたといいます。高校・短大時代は全く目立たず、短大では川崎麻世さんが一緒だったそうですが、「さっぱり記憶に残っていない」と話しています。
短大卒業後はコネで就職するも勤務態度は悪く、1986年からは家業を手伝っています。この頃からアニメの同人誌を発行したりビデオサークルに入ると同時に、親や妹への家庭内暴力が増えていったそうです。そして1988年に長年世話してくれた祖父が他界します。祖父の他界から3か月後に事件が起こっています。
関光彦 | 市川一家4人殺人事件:1992年
関光彦は1992年に、市川一家4人殺人事件という強姦・殺人・強盗事件です。強姦した被害者の両親・祖母・妹の4名を殺害しています。逮捕後死刑が確定、2017年に死刑が執行されています。
関光彦は、祖父が鰻屋を営み母を支援していたため、とても裕福な家だったといわれています。関の幼少期は父・母・弟と高級マンションに住んでいました。しかし父は祖父に任された店舗の業績を悪化させてしまい、借金の返済を祖父が肩代わりしてくれたものの、母は祖父から絶縁されてしまっています。そして両親が離婚し、安いアパートに引っ越したようです。
学校では貧しかったために虐められていました。しかし中学時代は野球部に所属し、エースで4番という活躍も見せていました。しかし不良グループとかかわるようになり、家庭でも暴力的になっていきます。高校は暴力沙汰で自主退学し、その後は職を転々としたものの長く続かず祖父の店を手伝っていました。しかし鰻屋もほぼ無断欠勤で辞めていたので、事件まで無職状態だったといいます。