鉄の処女とはどんな拷問道具?使い方や名前の由来をわかりやすく解説

「鉄の処女ってどんな拷問道具だったの?」
「本当に鉄の処女って使われていたのかな…」

鉄の処女とは中世ヨーロッパで、刑罰や拷問に用いたとされる道具です。別名は「アイアンメイデン」といい、外見は女性を彩っているのが特徴です。その残虐性とインパクトから創作作品にも多く登場しており、中世の拷問後の代名詞的な道具となっています。

そんな鉄の処女ですが、どのような拷問道具だったのかでしょうか?実際に使用されたのかも併せて紹介していきます。

この記事を書いた人

フリーランスライター

高田 里美

フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。

鉄の処女とはどのような拷問道具?

中世ヨーロッパで使用された道具といわれている
出典:Wikipedia

鉄の処女とは、女性の形をした高さ2メートル程の中が空洞になっている人形です。前面は左右に開くようになっています。そして左右に開くドアの部分と背中の部分に釘が植え付けられており、人間を閉じ込めて怪我をさせる道具でした。中からは悲鳴が漏れないような工夫もされていたといいます。

鉄の処女の使用方法は?

鉄の処女の模造品
出典:Wikipedia

鉄の処女の内部に入れられると、扉を閉じられると背中と扉部分にある釘が多く刺さる仕組みとなっています。これに入ると棘が内部の人に刺さり、痛みを与えるものでした。

中では宙づり状態になり、苦痛が長引くような工夫がされているそうです。また、罪人が死亡した後は、前の扉を開けることなく遺体がそのまま下に落ちるような、「落とし扉構造」であったという噂を記述したものも残っています。

時間をかけて殺害する場合も

鉄の処女内の写真
出典:千秋の秘密箱

鉄の処女を使用した文献は少ないのですが、処刑に使われたという記述もあります。処刑する場合は棘による失血死となりますが、即死は難しく長時間苦しみぬいた上での殺害でした。

文献によると、手や足など急所ではないところを順に刺していったといいます。そして長い苦痛を与えた末に数日後に亡くなったようです。

鉄の処女の名前の由来は?

どうしてこの非情な拷問器具に「鉄の処女」という名前がつけられたのか?由来を解説します。

聖母マリアを模したため

聖母マリアは処女でありながら妊娠したという

一番有力な説は、「聖母マリア」を模して作ったためだという説です。鉄の処女の多くには「聖母マリア」をかたどった顔がついています。そして聖母マリアが男性との関係なしに受胎したという伝説から、「鉄の処女」と名づけられたと考えられています。

エリザベート・バートリーの伝説から取った

エリザベート・バートリー
出典:Wikipedia

鉄の処女は、ハンガリーの伯爵夫人である「エリザベート・バートリー」が作らせたものだという伝説があります。エリザベート・バートリーは、自らの若さを保つために処女の血を浴びていたというのです。そのために若い処女の生き血を求めて領民の娘を片っ端から誘拐し、生き血を絞り取って浴槽に溜めて入浴していたといいます。

そして処女の血を抜くために開発されたのが、「鉄の処女」だったというのです。余談ですがバートリーが処女の生き血にこだわるようになったのは、粗相をしたメイドを折檻し手についた血をぬぐうと肌が若返っていると感じたことが、生き血を浴びるようになったきっかけだったといわれています。

【殺人鬼】エリザベート・バートリとはどんな人?血の伯爵夫人の生涯年表まとめ

鉄の処女は本当に実在した?空想上の拷問具の再現という説も

中世の拷問具の中でも鉄の処女は存在感がある
出典:Wikipedia

中世の拷問具としてとても有名な「鉄の処女」ですが、実は実際使用されたものではなく、空想上の拷問具の再現なのではないかという説が有力です。その根拠を紹介します。

現存のものは後世の模造品ばかり

フランス革命の頃に貴族が購入したものだという
出典:Wikipedia

存在が疑問視される1つに、現在欧州全土で残っている実物品が全部19世紀半ばの再現品だということがあげられます。最も有名な「ニュルンベルクの処女」も、19世紀に作られたオリジナルは空襲で消失しており、伝説で語られている中世のものが存在しないのです。

現在世界中に転じている鉄の処女の原型は、オーストリアにある「ファイストリッツ城」とドイツの「ニュルンベルクの処女」から作られています。まずオーストリアの「ファイッストリッツ城」の鉄の処女は、城主のディートリヒ男爵がフランス革命時にニュヘンベルクから購入し修復改善したもので、「恥辱の樽」という刑具に後から棘をつけ、17世紀にヴェネツィアで流行したマリア像の頭部をつけたものです。

ニュルンベルクの鉄の処女が特に有名だった
出典:Wikipedia

そして「ニュルンベルクの処女」は、19世紀後半に銅板彫刻師がファイストリッツ城にあったものを手本に作らせたものの1つでしたが、1944年の空襲で消失してしまいました。

元は「恥辱の樽」という刑が濃厚

恥辱の樽の様子
出典:Wikipedia

鉄の処女の原型は、「恥辱の樽」という刑だったという説が濃厚です。恥辱の樽とは中世から近世にかけてあった刑罰で、樽の中から顔を出して晒し刑にする懲罰の一種でした。当時の刑罰資料によれば、樽から頭と足を出して市内の広場に立たせていたそうです。

そしてビーレフェルト大学のヴォルフガング・シルト教授は欧州各地の鉄の処女を検分し、全て「恥辱の樽」の内側に棘をつけて頭の上を覆うように改造したもので偽物だと断言しています。また、キリスト教徒である拷問執行者が、彼らの信仰対象である聖母マリアを拷問道具に使用することが元々ありえないという点でも疑問視されているようです。

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