松岡洋右の子孫
松岡洋右は、第二次近衛文麿内閣で外務大臣を務め、日独伊三国同盟の締結を推進した人物です。A級戦犯として起訴されるものの、肺結核が進行して1946年6月27日に死去しました。仮に存命なら、広田弘毅の代わりに絞首刑になった可能性も高いとされます。
松岡洋右の長男・謙一郎は、サンテレフォト社長などの要職を歴任し、日本教育テレビ(現・テレビ朝日)の副社長になりました。三男・震三は、シベリア抑留を経て帰国し、住友金属工業ニューヨーク事務所所長等を歴任しています。
四男・志郎は東レ・デュポン常務等を歴任。長女・周子は元宮内庁長官・田島道治の長男の田島譲治と結婚し、息子の田島圭介氏は慶應大学の教授を務めています。
ちなみに松岡洋右の姪っ子の夫は、佐藤栄作です。佐藤栄作の兄は岸信介であり、その孫は安倍晋三氏に繋がります。松岡家の血筋や子孫を調べていくと、様々な人物に行き着くのです。
東郷茂徳の子孫
東郷茂徳は、東條英機内閣、鈴木貫太郎内閣で外務大臣を務めた人物です。和平派の人物ではあったものの、「真珠湾の騙し討ちの責任者」を問われ、A級戦犯として起訴されます。結果的に禁錮20年の判決が下り、1950年7月23日に病没しました。
東郷茂徳は、ドイツ人のエディータ(結婚後にエヂと改名)と結婚し、後に一人娘のいせが誕生。外交官の文彦を婿養子に取り、夫と共に欧米・アジア各国に駐在・訪問して社会活動を続けました。
そして文彦といせの夫婦には、双子が生まれました。兄の和彦は外務省条約局局長などを経てライデン大学やプリンストン大学、京都産業大学に勤務。そして弟の茂彦は朝日新聞社に入社後にジャーナリストとして活躍しています。
東郷茂徳の子孫は東郷茂徳と同じく外交関係で活躍している人が多いのです。
A級戦犯の子孫は戦後をどのように生きたのか
ここからは、A級戦犯の子孫が戦後をどのように生きたのかを、取材や証言者の声なども交えて紹介します。
イジメや差別に遭った
「子孫全員」ではありませんが、A級戦犯の子供達はイジメや差別に遭ったケースも多いようです。東條英機の長男・英隆は戦後直後はどこの会社も雇ってもらえず、当時小学生だった孫の英勝氏は小学校の担任を誰も引き受けずにクラスが決まりませんでした。
海軍軍人・永野修身の四女・美沙子氏も、自分の絵に「A級戦犯」と書かれた落書きが学校の玄関に張り出されたという壮絶な体験を語っています。また土肥原賢二の孫・佐伯裕子氏は歌人として活躍しており、父が受けた迫害の体験は詩の中に反映されています。
もちろん世間から同情を買ったA級戦犯もいて、彼らの中には子どもの代から社会的地位を築いた者もいました。ただ「戦争責任が大きいとされた者達の遺族」は戦後社会の中で、厳しい視線を注がれていた事は間違いありません。
苗字を名乗る事も躊躇ったことも
A級戦犯の子孫の中で、世間から厳しい目で見られ続けていたのは東條英機の子孫だった事は間違いないでしょう。東條英機の曽孫・東條英利氏は父や祖父が様々な差別を受ける中で、「東條」という名字を名乗る事を躊躇った事もあるそうです。
英利氏がコンプレックスを払拭したのは、大手カタログ通販会社の社員として4年間、香港に赴任した時でした。海外のビジネス界では自分のバックボーンを説明できないと、社会的に信用されません。英利氏は、自分の曽祖父が東條英機である事を打ち明けました。
すると香港の友人達は、「関係ない。俺達は友達だ」と1人の友人として英利氏の事を受け入れてくれたそうです。このような経験を繰り返した事で、英利氏は東條姓のコンプレックスを払拭したそうです。
英利氏に限らず、A級戦犯の苗字を名乗る事に対するコンプレックスを持っていた人は多かった事でしょう。
時代の流れと共に社会的地位を取り戻す
太平洋戦争から75年が経ち、世間の考え方は少しずつ変わってきています。A級戦犯の子孫に対する風向きも変わり、彼らは時代の流れと共に社会的地位を取り戻しているのです。
東條英機内閣発足を主導した事でA級戦犯になった、木戸幸一内大臣の曽孫は木戸寛孝氏。彼はNPO法人世界連邦21世紀フォーラムの理事を務めた他、国際刑事裁判所に日本が加入できるようにする為にロビー活動に奔走する等、第一線で活躍しています。
東條英利氏もそうですが、彼らはA級戦犯の子孫である事に向き合い、自分達が出来る事を探しています。敗戦を経て連合国に裁かれたA級戦犯達ですが、彼らも日本の為に尽くしてきた事も事実です。A級戦犯の意思は子孫にしっかりと受け継がれています。
A級戦犯の子孫に関するまとめ
今回はA級戦犯の子孫について紹介しました。A級戦犯は病没者や訴追免除者も含めると30人近くに登り、彼らの子孫は様々な分野で活躍しています。情報に乏しく解説が不十分だった、情報が追えなかった子孫も多いので、興味が有れば調べてみましょう。
敗戦後の日本は連合国の統治下に置かれ、脅威的な復興を遂げました。その影にはA級戦犯として起訴された者、迫害や差別に苦しんだ家族や子孫がいた事もまた事実です。戦争責任と贖罪の意識を考えるなら、太平洋戦争の余波はまだ続いているのかもしれません。
そんな事を考えながら、この記事を締めたいと思います。