今日まで多くの殺人事件が起きていますが、中には凶悪な「連続殺人犯」がいます。連続殺人犯には、何か月にも渡って連続して殺害を犯した人物も多くおり、非常に危険な凶悪犯といえます。
この記事では日本で起きた連続殺人事件を、起こした殺人の回数順で10選紹介します。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
10位:大阪教育大附属池田小児童殺傷事件 – 宅間守
2001年に大阪教育大附属池田小学校で、児童8名が殺害され児童13名と教員2名が重軽傷を負った事件です。事件回数は1回ですが小学生が多く犠牲となり、多くの人が悲しみを感じた事件となりました。
事件は当時無職で37歳の宅間守が、附属池田小に向かい自動車通用門から学校に進入。「学校なら逃げ足の遅い小学生が沢山いると思った」「小学生なら沢山殺せると思った」という理由から、小学校の1,2年生にターゲットを絞ったといいます。そして1,2年生のクラスを見つけると出刃包丁を持ち教室に進入。逃げる生徒たちを追いかけ、ためらわずに児童を切りつけています。
15分後に副校長や教師たちに取り押さえられますが、その時に宅間は平然と、
「あーしんど」
と言ったそうです。法廷でも宅間に全く反省は見られない中、2003年に死刑が確定。最後まで遺族や被害者への謝罪は無く、確定の1年後という異例の速さで刑が執行されました。
9位:相模原障害者施設殺傷事件 – 植松聖
2016年に相模原にある障害者施設に進入し、入所者19名を殺害し、職員を含む26名に重軽傷を負わせた事件です。事件回数は1回ですが、夜間の施設に進入し差別的な発想からの大量殺人は、当事件が起こった時は第二次世界大戦後発生した殺人事件の中では最も多い事件となりました。
植松は自分が以前勤めていた施設に進入し、入所者に「しゃべれるか、しゃべれないか」と入居者に声をかけ、返事が無ければ殺害していったといいます。この時比較的軽度の入所者が、職員を縛っていた結束バンドをハサミで切って解放し、また異変を察知した職員が閉じこもって出てこなかったために、通報を恐れ襲撃を中断し逃走しました。
事件後植松は警察署に出頭。取り調べに対し「間違いありません」と言った上に差別的な理論を説いていたそうです。そして2020年に死刑が確定し、現在も思想を改めることなく東京拘置所に収監されています。
8位:大阪姉妹殺人事件 – 山地悠紀夫
犯人の山地悠紀夫は2000年に母を殺害(山口母親殺害事件)、そして2005年に大阪市浪速区に住む27歳と19歳の姉妹を殺害した「大阪姉妹殺害事件」の2件連続で殺人事件を起こしました。
2000年は母親を金属バットで殺害するも、未成年だったために少年院に入り2004年に出ています。しかし私生活でうまくいかず路上生活する中で、2件目の大阪姉妹殺害事件を起こしました。山地は仕事から帰宅した被害者をナイフで刺し強姦、同じ手口で妹が帰ってきてもナイフで刺し姉の隣で強姦しています。
その後二人にとどめを刺した後は、金品を奪って放火し逃走。後に逮捕されますが殺害の動機は、
「母親を殺した時の感覚が忘れられず、人の血が見たくなった」
「ふらっと買い物に行くように、ふらっと人を殺しに行ったのです」
と供述しています。裁判中山地は「自分は生まれて来ない方が良かった」といい、控訴を取り下げ死刑が確定。2009年に大阪拘置所で刑が執行されました。
7位:東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件 – 宮崎勤
1988〜1989年にかけて、4歳から7歳の少女4名が殺害された事件です。事件回数は4回で被害者はいずれも少女であり、殺害後にわいせつ行為を行いその様子を動画に撮影していたといいます。また、「今田勇子」という名前で犯行声明を朝日新聞社に送り、世間を驚かせました。
事件はわいせつ行為を犯していると父親の通報により逮捕されてから、事件の犯人であることも発覚。供述通りに誘拐事件の遺体が発見されています。そして宮崎の自宅を家宅捜索すると、大量のビデオテープとともに殺害した幼女の性器にいたずらしている映像も発見されました。宮崎の存在が、「オタク」を世間に有名にするきっかけとなっています。
宮崎は被害者の手を食べたなどと供述し精神鑑定されますが、責任能力ありと死刑が発覚。2008年に刑が執行されています。最後の言葉は、
「あのビデオまだ途中だったのにな…」
だったそうです。
6位:西口彰連続殺人事件 – 西口彰
1963〜1964年の77日間の間に起きた連続殺人事件で、5名が殺害されました。最初に福岡の京都郡で1名・田川郡で1名殺害、その後静岡で2名(旅館経営者親子)を殺害、東京で1名を殺害し、連続回数は4回の殺人事件を起こしています。
西口は当時急速に発展した道路整備を利用し、自動車で全国を逃走。逮捕されるまで弁護士や大学教授などと語り、金品を強奪していました。逃走劇に終止符が打たれたのは、熊本県玉名市在住の教戒師宅に弁護士と偽り西口が訪問。その時に当時11歳の娘さんが、指名手配犯のポスターに似ていることを指摘し、逮捕に繋がりました。
1966年に死刑が確定。裁判の判決文では「悪魔の申し子」と呼ばれ、当時の担当刑事も「これは、人間じゃないな…」と漏らすほどだったといいます。1970年に死刑が執行されました。