石田三成とはどんな人?生涯・年表まとめ【お茶の逸話や性格、子孫まで紹介】

石田三成の年表を簡単にまとめると?

1560年
近江で生まれる

石田三成は永禄3年(1560年)、石田村の土豪・石田正継の二男としてこの世に生をうけました。兄のほかに、妹が2人います。
1572年
豊臣秀吉の配下になる

三成が15歳の頃に、父の正継の奨めで当時長浜城主だった豊臣秀吉に仕官します。上記の都市伝説は逸話の粋を出ておらず、本当にあったのかは分かっていません。
1585年
五奉行の一人になる

秀吉が関白へ就任したのとともに、三成も五奉行の1人として
治部少輔という地位につきます。五奉行は秀吉直属の配下が賜る地位です。
1590年
小田原征伐に参陣

秀吉に小田原征伐で忍城を攻め落とすよう言われた三成でしたが、この戦で自身の戦下手が露呈しました。
1592年
朝鮮に渡船

総奉行として、秀吉の代わりに朝鮮に渡ります。明との和平交渉に尽力しますが、この時から加藤清正などの武断派と対立していきます。
1598年
秀頼のために起請文を作成

秀吉の死後、三成は「五大老の中から意見を違う者が現れたら、秀頼のために尽力してこれにあたる」という起請文を作成しました。
1599年
五奉行引退

三成は前田利家が病死した後に、七将によって大阪の屋敷で襲撃を受けます。その後、家康の計らいで和睦しますが、五奉行は引退となり、佐和山城に帰城します。

1600年
関ヶ原の戦いへ

関ヶ原(岐阜県)で三成が率いる西軍と、家康が率いる東軍が対決します。戦はその日に決着が付き、仲間の裏切りによって東軍に敗れた三成は戦から逃走します。その後、追っ手に捕まり斬首されました。

石田三成の年表を具体的にまとめると?

1560年 – 0歳「三成誕生…その後、寺に預けられる」

石田村で生まれる

現在屋敷跡には、石田会館が建てられている

永禄3年(1560年)近江坂田郡石田村で、土豪の石田正継の二男として誕生します。ほかにも兄妹が4人おり、三成は2番目に生まれました。家族構成は以下の通りです。

  • 父:石田正継
  • 母:瑞岳院
  • 長男:石田正澄
  • 二男:石田三成
  • 長女:福原長堯室
  • 次女:熊谷直盛室

残念ながら、妹の名前は判明していません。分かっているのは、福原長堯と熊谷直盛の正室であったことだけです。

正継は当時の武将には珍しく、文芸にも力を入れていました。そのため、息子の正澄や三成にも文字を教えたりなどしています。

三成についての史実は秀吉に会ってからの物が多く、三珠院という寺に預けられたこと以外、どのような幼少期を過ごしていたかは不明です。おそらく、三珠院に預けられたのは、才があっても二男ということで家督が継げない三成の将来を憂いた正継の心遣いでしょう。

1572年 – 15歳「豊臣秀吉の配下になる」

父の正継と兄の正澄と共に秀吉に仕官する

JR長浜駅前の像は秀吉と三成の出会いを表している

15歳まで寺で預けられた後、父の正継と兄の正澄と共に当時長浜城主だった豊臣秀吉に仕官します。そして、だんだんと秀吉の右腕として才能を見出していきます。

前述で紹介した、三杯の茶については逸話の粋を出ないので、本当にあった場合は豊臣秀吉に気に入られて小姓になったのでしょう。

現実的に考えると、家族と共に仕官したという説が濃厚ですが、石田三成を題材にした小説では三杯の茶の話が載っている作品が複数あります。

1585年 – 26歳「五奉行の一人になる」

治部少輔に叙任される

若い三成は実務を担う重要人物だった

秀吉の関白就任に伴い、三成は五奉行の1人として従五位下治部少輔に叙任されます。五奉行が行うのは主に蔵米の出納での連署、治安の維持、大名の監察という豊臣政権の実務を担っていました。いわば彼らは、豊臣政権の中枢と言っても過言ではないでしょう。

五奉行と言われている人達は以下の通りです。

  • 浅野長政
  • 前田玄以
  • 石田三成
  • 増田長盛
  • 長束正家

筆頭は浅野長政であり、三成は位で言えば3番目から4番目と言われています。五奉行は秀吉の最も信頼の厚い者たちで構成されていました。なかでも三成は、秀吉の最も信頼する家臣であったと言われています。

1590年 – 31歳「小田原征伐に参陣」

小田原征伐に参陣するも失敗

再建された忍城・御三階櫓は行田のシンボルだ

三成は、秀吉に小田原征伐で忍城を攻め落とすように言われます。豊臣政権になる前から、三成は秀吉に付き従い戦に参戦してきましたが、すべて兵糧の調達や偵察などの裏方ばかりでした。

この小田原征伐で、三成は指揮官としての初の出陣となるわけです。三成は周囲に多くの水が流れているのを利用して水攻めを行います。

しかし、これは失敗し本城の小田原城が開城をしたのを機に、忍城も開城します。そして、三成は「戦下手」の烙印を押されました。

なぜ水攻めをしたのか

忍城は沼地の中に建っている城でした。そのため、三成はその地形を利用し、城の周りに28kmにも及ぶ堤防を敷き、利根川の水を引き入れることで忍城を沈めようとします。

しかし、その堤防はわずか1週間足らずの突貫工事で作った物でした。そのせいで、大雨で堤防が決壊してしまい、味方陣営の方が冠水してしまいます。

これを聞いた秀吉が、援軍として浅野長政と真田昌幸を送り、三成は総攻撃を仕掛けますが、水攻めの失敗で地面がぬかるんでいたことと、もともと守りに徹した城であったために攻撃は失敗に終りました。

じつは、水攻めは三成が考案したのではなく秀吉が指示をしたと言われています。さらに、三成は水攻めには反対だったようです。それを踏まえると、三成の戦下手は大変不本意な評価と言えるでしょう。

1592年 – 33歳「朝鮮へ総奉行として渡船する」

明との和平交渉につとめる

中央の巨船が2度の朝鮮出兵で活躍した軍船・日本丸

三成は日本が朝鮮出兵した途中から、総奉行として朝鮮に渡船します。当初、朝鮮侵攻は順調でした。しかし、朝鮮の水軍により日本の船が堕とされてしまい補給が途絶えます。

さらに、朝鮮の同盟国である明も参戦してきたために、戦況はだんだんと不利な状況へと陥りました。そこに三成と、大谷吉継、増田長盛が朝鮮に来ます。

朝鮮に渡った三成は、朝鮮よりも脅威であった明との和平交渉に外交を担当していた武将小西行長(こにしゆきなが)と共に尽力しました。しかし、この和平交渉は慶長元年(1596年)に破談となり、秀吉は再び朝鮮出兵を行います。

始めから秀吉の朝鮮出兵は無茶なもので、三成は反対していました。しかし、秀吉の暴挙を抑えられるはずもなく、朝鮮出兵が開始されたのです。

せっかく明との和平交渉が上手くいきそうだったのに破談となり、再び朝鮮へ出兵することになったのですから、三成の苦労は相当なものだったでしょう。

武断派との対立

加藤清正像・三成と不仲だった証拠は残っていないが…

三成は朝鮮に出兵した各武将についてや、戦の動向についてなどを秀吉に報告する義務がありました。朝鮮出兵で一番武功を争っていたのは、小西行長と加藤清正です。

清正は、朝鮮で勝手な行動が多々見受けられました。それを三成は、包み隠さず秀吉に報告します。報告を聞いた秀吉は怒り、清正は伏見へ蟄居を命じられました。

このことから、清正は三成に憎しみを向けるようになり、さらに彼を含む武断派と三成の対立が顕著になります。

武断派とは、秀吉の家臣の中で七将と言われている武将たちのことです。武断派のメンバーは以下の通りです。

  • 福島正則
  • 加藤清正
  • 池田輝政
  • 細川忠興
  • 浅野幸長
  • 加藤嘉明
  • 黒田長政

清正と福島正則とは幼少の頃からの知り合いですが、その頃から不仲でした。武を重んじる彼らと内政を担当する三成では、相容れなかったのでしょう。そのため、今回の朝鮮出兵でさらに浮き彫りになってしまったのです。

1595年 – 36歳「豊臣秀次を謀反の疑いで問い詰める」

秀吉の命令で豊臣秀次を詰問する

秀次の最期は悲しいものだった

秀吉は息子の豊臣秀頼が誕生してから、甥の秀次が謀反を企てているのではないかと疑いだします。そんな事実はありませんでしたが、三成は秀次の調査を言い渡されました。

そして、秀次に記請文を書かせることでその場は事なきを得ましたが、再び謀反の嫌疑が秀次に掛けられます。その後、秀次は切腹となり、彼の妻や妾なども処刑されました。

江戸時代に書かれた資料では、この秀次切腹についての一連の流れは、すべて三成が手引きしたものとされていました。

しかし、むしろ三成は秀次の切腹を阻止しようとしていたようで、彼が処断されないように尽力したのでしょうが、秀吉には逆らえずこのような結果に終ってしまいます。

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