石田三成とはどんな人?生涯・年表まとめ【お茶の逸話や性格、子孫まで紹介】

1596年 – 37歳「佐和山で善政を敷く」

13ヵ条、9ヵ条の掟書を出す

現在の佐和山の様子

三成は天正18年(1590年)に佐和山城へ入城し、19万4000石の大名となりました。そして、領内で13ヵ条のお触れを出します。以下は現代語訳された、13ヵ条の文です。

第一条、(詰夫は)高一〇〇〇石に一人の割合と決定する。人足については、規定を越えて負担してはならない。詰夫の外に夫遣いが必要な際には、どのくらいの人足を出しなさいと、この印判(この箇条の末尾に据えてあるもの)のある文書で指示を出す。規定を越えて印判状で徴発した夫役については、毎年十二月二十日に積算して奉行人に報告すれば、負担人夫分に対応する飯米を支給する。 第二条、代官とか下代の地下の触れ歩きに雇われる場合は、その在所、あるいは隣村までとする。それも耕作に支障のない場合に限り、不必要なことに多くの雇いだしがあるようなときは、応じてはならない。 第三条、田畠の作職は、先年の検地のとき、検地帳に登録された者に属す。人からその作職を取り上げることがあってはならないし、また、かつて以前に自分が作職をもっていた土地だと言って、人の作職を奪う事も許さない。 第四条、給人方の百姓が蔵入地の田地を入作したときには、一石について一升の夫米を出させ、また、蔵入地の百姓が給人方の田地を出作したときには、一石について二升の夫米を納める。この夫米は詰夫の雑用にあてるが、もし入作が多くて夫米が余ったときは、村の収入にする。なお田畠を作りながら夫役を勤めることができない者は、出作なみに夫米を出させる。 第五条、出作している者が、勝手にあきたといって、田地をあけることは曲事である。また当村に入作している者が、田地をあけるといっても、勝手にあけさせてはならない。 第六条、来秋からは、今度遣わす(三成の花押を据えた)枡を用いて収支や支給を行うので、古い枡を使用してはならない。先年の検地の際、用いられた枡に大小の出入りがあったため、各所の枡を集めて、ちょうど中間のものを(公定)の枡とした。今回こうして改めて遣わすこととする。 第七条、関東平定戦(小田原の陣)以後、在々の百姓が村を離れて奉公人になった者があれば、その在所を聞きだし、代官を通じて三成に報告するように。これは御法度であるから、ただちに連れ戻させる。石田家中への奉公は構わないが、他の家中にはおくことは許さない。 第八条、いかなる理由があるにせよ、他村から逃亡してきた百姓を召し抱えれば、その宿主のことは勿論、地下中を処罰する。あらかじめその趣旨を承知して、他所の村の百姓を抱えることのないように。 第九条、糠や藁などにいたるまで(三成の)所要によって、代官より上納を命じた場合には、もし少量であっても年貢との相殺を行うように。もし代官が算用に応じない場合には、目安をもって申し上げるように。 第十条、当村が給人知行地になった場合には、給人知行地に発令している「法度書」が有効になり、ここでの(蔵入地用の)規定は無効になる。 第十一条、何事によらず、百姓が迷惑することがあれば、容赦なく目安をもって訴える出るべし。ただし筋目のないことを訴えた出たときは、その身を罪科に処する。したがってよく調べたうえで訴え出るようにすべきである。 第十二条、年貢上納については、一石について二升の口米と定める。少々多め(「あげ」)に計量し、二重俵を用いて搬入するように。五里以内のところは百姓の負担で運搬し、五里以上のところは農民に販米を支給して運搬させる。この外に複雑な規定は設けない。 第十三条、年貢として収取したのちに村方に残す米(免)については。秋の初めに、稲を刈らない以前に、田領で検分して決定する。もし村方と代官に見込違いの田があるときは、その村の田地について、上・中・下の三段階ごとに収量を試験して年貢率を決定する。なお、それでも意見の合わないときは、稲を刈ってこれを三分し、その二分を代官に、一分を村方の得分とする。したがって、代官に見せずに(勝手に)田を刈り取った場合には、村方の徳分を認めない。

例えば、9条では糠や藁などを上納するときに、代官が不正を働こうとしたら、きちんとした理由を持って三成に言うようにという意味があります。

13条では、その村の田畑を上中下の3段に分けて、その中でどれくらい収穫できるかを予測させます。それに意見が食い違うことがあれば、稲を刈り取ってから3等分して、3分の2は代官に渡し、残りの稲は農民の取り分としましょうという意味です。

村掟には、領民に課せられる立場や、義務、権利などを明確にし、代官の不正を徹底的に排除する意図が組み込まれています。

9ヵ条も上記と似たような内容で、石田家中への知行地に出されています。
この掟が領内に立てられたとき、農民にも読めるようにと文字にはすべてフリガナが振ってあったそうです。

秀吉政権内では嫌われていた三成でしたが、こういった善政を敷いていたこともあり、領民には強く慕われていました。

1598年 -39歳「秀吉がいなくなり、三成は」

在鮮軍を撤退させる

朝鮮からの撤退は素早かった

秀吉は自分が死ぬまで、朝鮮進軍を止めませんでした。しかし、慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなったことで、朝鮮へ侵攻する意味が消えます。そのため、三成は10月に朝鮮に渡り、およそ2か月という短い期間で在鮮軍を日本に撤退させます。

いまだ緊張状態だった朝鮮で、このように迅速な撤退ができたのは、三成の手腕あってのものでしょう。おそらく、秀吉の死後、すぐに在鮮軍を撤退させられるように以前から考えていたと推測されます。

四奉行で起請文を作成

秀吉の死後、もっとも危惧することは、徳川家康が天下統一することでした。その時はまだ、家康は五大老として豊臣の配下に下っています。

五大老とは、在鮮している諸将への指令や、知行の宛行状への連署など、豊臣政権の閣老としての役割を担っていました。五大老のメンバーは以下の通りです。

  • 徳川家康
  • 前田利家
  • 宇喜多秀家
  • 上杉景勝
  • 毛利輝元

三成は、浅野長政を除き、4人の奉行宛の起請文を作成しています。起請文は「五大老の中に五奉行と意見の合わない者が出た場合、秀頼のために協力してなんとかしよう」というような内容の文です。

これから動き始めてくるだろう家康を危惧し、三成は改めて奉行内で秀頼への忠義を誓いあい結束を固めたのでしょう。

1599年 – 40歳「家康が動き出す、そして五奉行引退」

家康が御掟を破り、三成は問責する

ルール違反をした家康・すでに未来は決まっていた?

秀次の切腹後、大名の間で「御掟」という起請文が作成されました。その中には、上様(この時で言えば秀頼のこと)の許可なく、婚姻を結んではいけないというものがあります。

この掟は、大名間で徒党を組んだり、謀反を起こさせないために作られました。その掟を家康は破り、どんどん武将たちと婚姻を結んで血縁関係を結ぼうとしたのです。

これに、三成たち五奉行や四大老は激怒し、家康はきつい問責を受けます。最後は家康が起請文を提出することで解決しましたが、この時から家康の天下統一への準備が本格化していきます。

武断派による大阪屋敷襲撃事件

慶長4年(1599年)に前田利家が亡くなってすぐに、三成の大阪屋敷が七将に襲撃されます。しかし、三成は秀頼の家臣である桑山治右衛門から報せを受けて、すでに屋敷から逃げていました。

そして、出羽久保田藩(秋田県)の藩主
佐竹義宣(さたけ よしのぶ)の助力で、伏見城まで逃れます。その後、七将と三成の睨み合いが続きますが、家康の仲介で事態は収束します。

事件は終わりを迎えましたが、三成は五奉行の地位を退き、佐和山へと追いやられてしまいました。この事件は、家康が裏で手を引いていたとも言われており、事実なら彼にとっても三成の存在は脅威だったということでしょう。

1600年 – 41歳「関ヶ原の戦いへ、そして敗戦」

関ヶ原の戦いへ

関ヶ原の戦いの跡が現在も残されている

佐和山に追いやられても、三成はかつて秀吉に仕えていた各武将や諸大名に書状を送り、戦への準備を進めていました。

そして、上杉景勝(うえすぎかげかつ)を討つために会津へ進軍した家康に向けて、三成は「内府ちがいの条々」と呼ばれる13にも及ぶ罪状を家康へ送ります。こうして、三成が率いる西軍と家康が率いる東軍の戦が始まりました。

そして9月15日、両陣営は関ヶ原(岐阜県)で対峙します。戦いはわずか8時間ほどで決着がつき、西軍が敗れました。

その後、三成は9月21日に家康の追っ手に捕まり、10月1日に斬首されます。佐和山城では、9月18日に攻撃を受けた正継と正澄がその場で切腹しました。

三成は総大将ではなかった

関ケ原の戦いで使われたと言われる石田家の家紋

これは勘違いされやすいことですが、三成は西軍の総大将ではありません。本当の総大将は五大老の毛利輝元です。しかし、輝元は大阪城には入城したものの、そこから動くことがなかったために、仕方なく三成が総大将として軍を指揮しました。

これまで三成が大将を務めたのは、小田原征伐の時だけです。にも関わらず、関ヶ原という大きな戦の総大将となり、戦下手の三成が軍を十分に動かせたのかは微妙なところでしょう。

小田原征伐も、結局は秀吉の作戦を三成が代わりに行っただけなので、この関ヶ原の戦いがある意味三成の初陣とも言えます。

負けた原因は?

三成が負けた原因は、西軍の秀吉への忠義の薄らぎと、三成の人望のなさでしょう。三成は、内政への才能はありましたが、人付き合いが苦手な頑固者でした。

領内での善政から優しい人間ではあったのでしょうが、きつい言い方をして人を不快にさせてしまうことも多々あり、豊臣政権内でも仲の良い者はほとんどいません。

関ヶ原の戦いでは小早川秀秋、脇坂安治などの裏切りによって、西軍は敗れてしまいます。さらに、七将も家康側に最初から付いていました。七将が家康側なのは大きな痛手だったでしょう。

三成がもっと人のことを慮れる性格であれば、このような裏切りなどが起こらず、家康の付け入れられることも、関ヶ原の戦いで敗れることもなかったでしょう。

関ヶ原の戦いの後の逃走劇

法華寺三珠院跡が残る古橋は、三成の母の故郷だった

関ヶ原の戦いに敗れた三成は、伊吹山の麓を越えて古橋村に逃れます。そして、幼少の頃にお世話になった三珠院に匿われますが、それも村人に見つかってしまいます。

家康から三成捕縛の命令が出された際に、各村に「三成を匿った者はその村全員を処罰する」というお触れが出ていました。そのせいで、三珠院に居づらくなった三成は、旧知の友人で百姓の与次郎に助けを求め、大蛇(おろち)の岩窟という場所に匿われます。

しかし、それもまた村人が嗅ぎつけたために、事の次第を与次郎から聞いた三成は抵抗することなく9月21日に追っ手の田中吉政に捕まりました。

10月1日、三成は小西行長と安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と一緒に、六条河原(京都府)で斬首されます。そして、三条河原で首を晒されたのち、墓を作られることなく京都大徳寺の三玄院で葬られました。

石田三成の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

関ケ原(上)


関ヶ原までの経緯を、石田三成と徳川家康を中心に書かれた作品です。

戦の状況や2人の心理戦などが上手く書かれており、まるでそこにいるかのような臨場感を味わえます。

近江が生んだ知将 石田三成


初めて三成についての本を読みたいという人向けの本です。三成を悪や善とは分けずに、公平に評価・考察した内容になっています。

石田三成伝


玄人向けの本です。多くの三成に関する資料を元に、俯瞰的に見た人物像が描かれています。

研究材料としても使えるほど、事細かに三成について書かれています。

秀吉の右腕「石田三成」をもっと知れるおすすめ本6選

おすすめ動画

『義』に生きた男、石田三成

石田三成の一生を詳しく解説しています。堺奉公で何を行ったのか、秀吉に対する三成の思いなどが語られており、本を読むのが苦手な人におすすめです。

拝啓 石田三成様<滋賀県から石田三成公へのメッセージ>

三成が亡くなってから、およそ400年以上の時を経て、滋賀県から三成へのメッセージを綴った動画です。心温まるメッセージがのせられています。

おすすめ映画

関ヶ原


上記で紹介した司馬遼太郎が原作、岡田准一主演の映画です。

司馬遼太郎の語り口をそのままナレーションとして使っており、岡田准一が演じる石田三成とマッチしています。

のぼうの城


石田三成が初めて前線に出た小田原征伐の話が描かれています。

三成を上地雄輔が演じ、主演の成田長親を野村萬斎という豪華俳優陣が演じています。どのように水攻めにしようとしたのかが、この作品で分かります。

おすすめドラマ

天地人


石田三成と親交のあった直江兼続の話です。

残念ながら、石田三成が主役のドラマというのはありませんが、嫌われ者の三成が兼続とどのような仲だったのかが分かります。

江姫たちの戦国


織田信長の妹、市の娘である三女の江が主人公の話です。秀吉が天下統一した後、三成が最後まで秀吉に尽くした姿が見どころです。

関連外部リンク

石田三成についてのまとめ

徳川家康は、石田三成の首を斬った後も墓を作ることを許しませんでした。それだけ、三成の存在は厄介で疎ましかったのでしょう。

それほど有能な三成を見つけた、豊臣秀吉の審美眼は確かなものだったのでしょうね。

彼のおかげで、秀吉は何度も助けられました。しかし、その代わりに三成は豊臣政権の闇を一手に引き受け、周囲との確執が生まれて行ったのでしょう。

この記事で、石田三成の魅力を1つでもわかっていただけたら幸いです。

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