【年表付】ゴッホとはどんな人?壮絶な生涯や代表作品、絵の特徴、見方も紹介

ゴッホの絵の特徴は4つ

鮮やかな黄色と青色を多く使う

「夜のカフェテラス」


代表的な「ひまわり」(1888年)をはじめ「夜のカフェテラス」(1888年)や「ローヌ川の星月夜」(1888年)などゴッホの絵には黄色と青色を使った作品が多くあります。黄色と青色を多く使った理由として考えられているのは、

  • 目の病気で色彩の感覚が普通とは違ったから。
  • 貧乏であるために使える色が限られていたから。
  • 単純に黄色が好きで反対色である青色も色を強調するために自然と使うようになったから。

などの説があります。

絵具をたくさん重ねて厚塗りに

ゴッホの絵は絵の具を塗っているというよりは乗せているという表現が正しいくらい厚塗りです。何度も絵の具を重ねているのでボリューム感が出ていますし、勢いや立体感が感じられる作品となっています。

浮世絵の影響を受けた日本風な作品も

ゴッホ「花魁」

日本の浮世絵に魅了されていたゴッホは、模写はもちろん自身の作品に浮世絵を取り入れることもありました。日本に関する本を読んだり、浮世絵を集めたりととても関心を持っていたそうです。ゴッホが浮世絵に関心を持ったように、現代の私たちもゴッホの作品に興味を抱いて作品を鑑賞しているというのはなんだか面白いですね。

筆触によって力強いうねりや渦を表現

星月夜

「星月夜」(1889年)や自画像(1889年)といった晩年に描かれた作品には、絵がうねっていたり背景が渦巻いていたりするものがあります。これはゴッホの特徴的な描き方であるとともに、精神の不安定さが表れているとされます。

当時のゴッホの精神の不安定さが作品のうねり具合、渦巻き具合によって分かるのです。この知識を入れたうえで改めて作品を見ると、絵の見方が変わって楽しいでしょう。

活動した10年間での作風の移り変わり

最初期の作品「キャベツと木靴のある静物」

ゴッホの絵の見方で最も重要なのは、作品が作られた時期です。絵を学び始めた時期や浮世絵にはまった時期、さらには晩年の精神が不安定な時期など画家としてはたった10年ほどしか活動していないのにも関わらず、制作時期によって大きく技法や印象が変わっているのは作品を鑑賞するうえで面白さが感じられるところです。

ゴッホの作品を大きく4つの時期に分けると、次のようになります。

  • 1880年~1885年頃…とても暗く貧しい人たちにスポットライトを当て描かれた作品ばかり
  • 1885年~1888年頃…パリへ引っ越すとこれまでとは全く違う明るく鮮やかな色彩に
  • 1888年~1889年頃…補色(互いの色が引き立ちあう色合い)を学び、様々な角度から考え作られた作品に
  • 1889年~1890年…うねりや渦巻いている背景が多くなりゴッホの集大成が出来上がる

時期によって幸せな時間だったと考えられる作品があったり、反対に苦悩した時間だったのだろうと考えられる作品があり、絵画を通してゴッホの人生や感性を感じられると思います。

ゴッホの功績

功績1「絵画の伝統を乗り越え、作品に自分を表現した」

「黄色い家」

ゴッホが西洋美術史上に現れるまでの絵画は、宗教画であったり貴族の肖像画であったり、風景画であったりしました。そこには表現上の工夫は見られますが、画家自身のものの見方や感情を全面に押し出すことはありませんでした。ゴッホが登場する直前に隆盛を極めた「印象派」も、光の見え方が画家の目にどう映っているかを再現した絵画です。

そのような西洋美術の世界に、ゴッホは自らの抱える情熱や不安、感動を表現した絵画を打ち出しました。当初は見向きもされませんでしたし、ゴッホの評価は亡くなるまであまり高くありませんでしたが、今では「芸術といえば個性の表現」と考える人も多くいます。ゴッホはそれまでの絵画の伝統を覆し、新しい芸術観を打ち立てたのです。

功績2「西洋美術史上最も影響力のある画家の1人」

ゴッホに影響を受けた
アンリ・マティスの「ダンス」

先に述べたように、ゴッホの出現は西洋美術史上の大きなターニングポイントでした。このことから、ゴッホは「西洋美術史上最も影響力のある画家の1人」と言われています。ゴッホの芸術は、20世紀初頭にフランスで生まれたフォーヴィズムやドイツを中心に発展した表現主義に大きな影響を与えました。

ムンク「叫び」

マティスやヴラマンクらが打ち出した「フォーヴィズム」は、シンプルなかたちを大胆な筆触と鮮やかな色彩で描き出した流派です。また、ムンクやカンディンスキーらの「表現主義」は、作者自身の強い主観を通して描く対象を大きく変形させたり捻じ曲げたりしました。どちらの流派の作品もゴッホの作品と照らし合わせてみると「この部分を引き継いだんだな」という箇所が見つかるはずです。

功績3「10年間でおよそ2100点の作品を制作」

ゴッホの習作

ゴッホは、画家を志してから亡くなるまでのわずか10年間におよそ2100点もの作品を残しています。油絵、水彩画、スケッチを合わせて2100点というと相当な数です。制作した期間は短くても、濃密な時間を過ごしたことが分かります。

主要とされる油絵だけでもおよそ860点あります。水彩画やスケッチは、油絵のための習作として描かれたもののようです。画家が作品を構想する過程が分かるので、ゴッホの作品集などを見るときはぜひ水彩画や習作にも目を向けてみてください。

ゴッホとゴーギャンの関係

ゴーギャンとゴッホの自画像

体調を崩しがちだったゴッホはアルルへ引っ越してくると画家との共同生活を考えます。何人かの画家に手紙を送り、その誘いに乗ったのがゴーギャンでした。ゴッホとゴーギャンは性格も違えば作品に対する考え方も違うため、結局わずか2ヵ月ほどで共同生活は解消しています。

しかし互いが全く違う感性をもっていたからこそ2人は深く絵画について語り合い、ゴッホは数々の名作を生み出せたのでしょう。共同生活がわずか2ヵ月でありながらゴッホの制作した絵画が35点以上であることからも、濃密な時間だったことが分かります。

ゴッホにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「ゴッホの絵は生前一枚しか売れなかった!しかし他の説も…?」

ゴッホは生涯で2100枚以上の作品を残したとされていますが、実は生前に売れた作品はわずか1点だったという話があります。その作品が「赤い葡萄畑」(1888年)という絵画です。

「赤い葡萄畑」はゴッホの友人であった詩人のウジェーヌ・ポックの姉、アンナ・ポックが400フラン(現在の11万円ほど)で購入しました。これが唯一生前売れた作品とされているのですが、現在は新たな説がさらに2つ出てきています。

「赤い葡萄畑」

1つ目は実は他にも数枚売っていた説。2つ目はゴッホの弟・テオが兄の才能を感じ取り、生活を援助する代わりに作品を全て提供してもらっていた説です。

テオは画商だったため、画家が亡くなった後に作品価値が上がることを見越して、あえてゴッホが生きている間にはゴッホが描いた作品を売らなかったのではないかというのです。しかし結果的にゴッホが亡くなってすぐにテオも病死してしまったため作品のほとんどが残ったままになったとされています。

さまざまな説がありますがどの説にせよ、ゴッホが描いた多くの作品が失われることなく現在も鑑賞できるのはとても大きなことです。

都市伝説・武勇伝2「精神が病んだゴッホは自分で耳を切り落とした」

ゴッホ「耳に包帯をした自画像」

ゴッホは若い時から精神的に安定していない人でした。そして1888年、当時ゴッホはゴーギャンという画家と共同生活をしていたのですが次第に性格の違いや価値観の違いから関係が悪化し、精神が不安定になったゴッホは自らの左耳を切り落としたといわれています。

その後ゴッホは切り落とした耳を女性にプレゼントしています。そのプレゼントを見た女性が警察に通報し、ゴッホの家を訪れるとベッドに横たわったゴッホを発見し病院に搬送されたそうです。ゴッホ自身はこの事件について記憶がなかったといわれていますが、事件後に描かれた自画像は左耳が包帯で巻かれており、それ以降の作品では左耳が見えない角度からの自画像を描いています。

ゴッホの早見年表

1853年
ゴッホ誕生

1853年3月30日、ゴッホはオランダで長男として生まれました。ゴッホの名前であるフィンセントは祖父や叔父と同じで「勝利者」という意味です。
1869年
画商であるグーピル商会のハーグ支店で働く

16歳の時、ゴッホは叔父の手助けもありグーピル商会で働き始めました。上司からの評価も高く順調だったはずが徐々に仕事に嫌気がさし無断で会社を休むなどを理由におよそ7年勤務したグーピル商会から解雇されています。
1876年
聖職者を志すが挫折

グーピル商会解雇後、教師や牧師の手伝いをしていたゴッホですがどれも長続きはしませんでした。そんなゴッホが志したのが聖職者でした。しかし、余りにも多い受験科目に挫折をし聖職者になることはありませんでした。
1880年
本格的に絵を書き始める

ゴッホの弟テオからの生活費の援助が始まり本格的に絵を書き始めました。またこの頃「アンティーク作品からの素描」というアカデミーのコースに登録していた記録があります。
1885年
ゴッホ最初の本格的な作品完成

それまで数年間にわたり描き続けていた作品「じゃがいもを食べる人々」が完成しました。ゴッホ自身は満足の出来上がりでしたが周りからの評価は悪く、この作品がきっかけで友人と絶交もしています。
1887年
日本版画を集め作品に反映

パリで日本の絵画が流行したことでゴッホも日本美術に興味を持ちます。それまで自分が描いていた作品とは全く違う色彩や大胆な構図に魅了され、次第に多数の浮世絵を集め始めゴッホの作品に影響を与えました。
1888年
ゴーギャンと出会い共同生活を送る

ゴッホは画家たちと共同生活をすることで互いに作品の創作意欲を高めたく、ゴーギャンという画家に共同生活することを持ちかけます。この年の10月からゴーギャンと共同生活を始めますがゴーギャンが来るまでの間にゴッホは「ひまわり」など後に有名となる絵画を描いています。
1889年
怪我・病気・精神を病むなどし入退院を繰り返す

1888年には耳を自ら切り落とし、1889年には病気になり発作が何度も起こりさらには幻覚が見えるなどこの頃のゴッホは心身ともに疲れ切っており病院への入退院を繰り返していました。

1890年
ゴッホ37歳の若さで死去

晩年には病気などで入退院を繰り返しながらも絵を描いていたゴッホですが1890年、37歳という若さで亡くなってしまいます。ゴッホの死については体に弾丸が入っており銃を使った自殺、誤射してしまった子供をかばい通報せず死んでしまったなどの説があります。
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