【年表付】ゴッホとはどんな人?壮絶な生涯や代表作品、絵の特徴、見方も紹介

ゴッホの具体年表

1853年 – 0歳「ゴッホ誕生」

生誕の地ズンデルにあるゴッホの生家

フィンセント・ファン・ゴッホが生まれた家とは

牧師である父のテオドルス・ファン・ゴッホ一世と母のアンナ・コルネリア・カルベントゥスは、1番初めに生まれた子供を死産で亡くしています。そしてその次に生まれたのが後に有名な画家となるフィンセント・ファン・ゴッホです。フィンセントという名前は祖父や叔父、さらには1番初めに生まれた子供と同じ名前で「勝利者」という意味をもちます。

ゴッホは幼い頃からかんしゃく持ちであったため、両親や妹たちと喧嘩が絶えず問題児として扱われていました。けれどもそのなかでも、祖父や叔父はゴッホを可愛がってくれゴッホも2人を慕っていたといいます。

そしてゴッホには5人の兄弟がいますが、なかでも3番目の子供であり父と同じ名前のテオドルスと仲良しでした。テオドルスはフィンセント・ファン・ゴッホの一生を語るうえで後にとても重要な人物になります。

ゴッホの家系はすごい人たちばかり

ゴッホによる母・アンナの肖像

ゴッホ一族は大臣や外交官になった人もいるオランダでは名門の家でした。そして祖父は牧師、祖父の子供の5人のうち1人は海軍の将官となり3人は画商、ゴッホの父であるテオドルス・ファン・ゴッホ一世は祖父と同じ牧師となりました。

かなり裕福な家庭で育ったため、ゴッホは学校に通わなくても家庭教師をつけることで母国語であるオランダ語のほか、英語やフランス語なども習得しています。そして何より、叔父らが画商であるという家系が後の有名画家ゴッホを作り上げる基礎となったのでしょう。

1869年 – 16歳「画商であるグーピル商会のハーグ支店で働き始める」

若き日のゴッホ

美術に興味を持ち始めたきっかけ

学校を辞めたゴッホは、叔父の助けもあり16歳でグーピル商会で働き始めます。ゴッホの勤務態度は非常に良く、上司はゴッホの両親に勤勉であることを評価し書き送っています。そして画商として働くなかで勤務先の近くにあったマウリッツハイス美術館などに足を運び、そこで様々な絵画に触れることで美術に興味を持ち始めました。

失恋・キリスト教への関心から勤務態度は悪化

グーピル商会で働き始めて4年が経ったころ、ゴッホはロンドンに転勤になりました。そしてロンドンでの下宿先の女の子にゴッホは恋に落ちたのです。しかし告白したものの振られてしまい、ゴッホはひどく落ち込みます。

そのころからキリスト教に関する本を読み始め、ゴッホはお金のことを1番に考える会社の経営方針に疑問を持ち始め、徐々に会社と合わないと感じるようになります。そしてゴッホの勤務態度は悪くなっていき無断欠勤もするようになり、最後にはグーピル商会から解雇されてしまいました。このことを知った両親は大変驚き、失望しました。

1876年 – 23歳「聖職者を志すが挫折し断念」

いくつもの仕事をしたが続かなかった

なかなか続く仕事が見つからないゴッホ

グーピル社からの解雇後、ゴッホは無給で教師になり少年たちにフランス語や算術などを教えました。しかし少年たちは皆貧しく、授業料も払えないほどの子どもたちでゴッホはそんな子たちからお金を徴収することができず、再び仕事をクビになりました。

その後ゴッホは貧しい人々を救いたいと思うようになり牧師の手伝いを始めました。しかし今度は働きすぎで体を壊してしまい実家に戻ることになったのです。

困った両親は親戚に相談し、働き先をなんとか見つけゴッホは書店で働くことになりました。ただゴッホは時間があればずっと聖書を読み、様々な言語に翻訳をするなど全く本を売ることはしませんでした。そして最終的には牧師になることを諦めることができず、わずか3ヵ月で書店を辞めてしまいます。

牧師や伝道師を夢見るも挫折し断念

牧師を夢見たが挫折

牧師になりたいという夢を持ったゴッホは両親を説得し、学校に入学するため受験勉強を始めます。受験勉強の期間は、海軍造船所長官だったヤン叔父のもとに身を寄せ、家庭教師をつけながら生活し勉強に励みました。しかし試験はかなり難しく、なおかつ受験科目が多いことで挫折、結果14ヵ月間ゴッホは勉強をしましたが学校に入ることは叶いませんでした。

そして次にゴッホがなりたいと思ったのが伝道師です。伝道師になるため学校に入り再度勉強をしますが、かんしゃく持ちのゴッホは先生や仲間たちに乱暴な言葉を使うなどし伝道師と認められず退学をします。その後個人的に伝道師として活動し始め、才能を評価した貧しい土地の伝道師委員会から仮採用されより精力的に活動しました。

ただ人々の評価は得られず6ヵ月ほど過ぎた頃、伝道師の仮採用は終了しゴッホは牧師としても伝道師としても道が無くなってしまいました。

1880年 – 27歳「ついに画家になることを決める」

ゴッホ最初期の水彩画

仕事をしないゴッホは周りから軽蔑された

仕事を転々とし、牧師にも伝道師にもなれなかったゴッホは両親からの仕送りでなんとか生活している状態でしたがそんな彼を兄弟たちも批判しました。この頃のゴッホは夢も希望も無くなり、人生について苦悩していたのです。

そんな苦悩の中、風景や人々の絵を描いていたゴッホはやがて本格的に画家になることを決めます。絵を描くだけでは生活ができないため弟のテオに生活費の援助をしてもらうようになり、ゴッホは画業だけに集中しました。

アカデミーのコースに通い絵を勉強し始める

絵を勉強しようとゴッホは画家と交流を持ちアドバイスを受けます。そして画家に勧められ、アカデミーの「アンティーク作品からの素描」というコースに通い勉強しました。遠近法や解剖学を学び、このころは風景画や人物画を力強く描いていました。

またゴッホは多くの作品を作るなかでモデルとして雇った女性に恋に落ちることもありました。しかし結婚には至らず、そのうえモデルと恋愛をすることを良く思わない画家たちと疎遠になってしまうこともありました。

1885年 – 32歳「突然の父の死と最初の本格的作品の完成」

ニューネンでゴッホ一家が暮らした家

父の死で家を追い出されたゴッホ

1883年に体を壊したゴッホは父が赴任していたオランダのニューネンに行き両親と共に生活していました。しかし1885年3月26日、父のテオドルス・ファン・ゴッホ一世が突然亡くなったのです。

ゴッホは数日仕事もままならず、忘れることはないとしていました。けれども妹・アンナから「父を苦しめたのはゴッホであり、このままでは母も死んでしまう」とされ家を追い出されてしまいます。

「じゃがいもを食べる人々」を完成させるもモデルが妊娠?

ゴッホ「じゃがいもを食べる人々」

数年にわたり描いてきたとされ、ゴッホ最初の本格的作品とも言われる「じゃがいもを食べる人々」がこの年に完成しました。ゴッホ自身は大満足の出来ではあったものの、弟のテオをはじめ友人であったラッパルトなどからは批判され、ラッパルトとは絶交するまでに至っています。

さらにこの作品のモデルとなった女性が妊娠したことでゴッホが妊娠させたのではないかという疑いがかかりました。そのためカトリック教会から村民に対しゴッホのモデルにならないよう命令が下り、ゴッホはモデルを探すこともできなくなってこの町から出ていくことを決めました。

1887年 – 34歳「ゴッホの作品に変化が訪れた時期」

弟テオとの同居で作品に変化が現れた

ベルギー・モンスにあるゴッホの家

ニューネンを出たゴッホはベルギーに引っ越し、しばらくの間絵を描いていました。しかしお金は無く、貧しい生活が続いたためテオのもとへ足を運び、一緒に暮らし始めたとされています。

この同居の期間にゴッホは印象派・新印象派といった当時パリで流行していた表現に触れ、自身の絵も暗い色彩から明るく華やかな色彩へ変化していきました。またこの年には、同じ画家であったベルナールやアンクタンらと絵の展覧会を開き自身らを「小並木通りの画家」と称していました。けれども当時のパリでは見向きもされなかったそうです。

日本の浮世絵がパリに現れ魅了された

「タンギー爺さん」

エドモン・ド・ゴンクールの書いた小説で日本美術に魅了されたゴッホは、多くの浮世絵を購入します。この時代はパリをはじめ、世界中で日本の美術「ジャポニズム」が流行した頃で、ゴッホも浮世絵に魅了された1人でした。この頃のゴッホの作品は浮世絵を取り入れており、たとえば1887年の「タンギー爺さん」では背景に浮世絵が描かれています。

このほか、歌川広重の「名所江戸百景」(1887年)「亀戸梅屋舗」(1887年)や渓斎英泉の「雲龍打掛の花魁」(1887年)などの作品を模写した絵画も発見されており、ゴッホがいかに日本の浮世絵に魅せられていたか分かります。

1888年 – 35歳「ゴッホの名作の数々が生まれた時期」

ゴーギャンとの同居が名作を生んだ

ゴッホ「アルルの寝室」

テオと同居していたゴッホですが、またしても人間関係が悪くなりパリを出ていきます。次に訪れたのは南フランスのアルルという場所です。

ゴッホにとって、アルルは景色がきれいで創作意欲が湧き出てくるような土地でした。しかし1人では金銭的に大変なうえ、絵画について刺激し合う仲間が欲しいと思ったゴッホはゴーギャンという画家に共同生活をしないかと誘います。

ゴーギャンがアルルに到着するまでに、ゴッホは数々の名作を生み出しました。ゴーギャンに自分の自信作を見てほしかったからだとされています。

  • ひまわり(1888年)
  • 夜のカフェ(1888年)
  • 夜のカフェテラス(1888年)
  • アルルの寝室(1888年)

など後にゴッホの代表作として名を挙げられる作品を多数作り上げました。

順調だった生活は徐々に崩れ、ついに自らの耳を切り落とした

ゴッホ「赤い葡萄畑」

ゴーギャンとの共同生活が始まり、互いに刺激し合いながら順調に作品をゴッホは作っていきます。この時に描いた「赤い葡萄畑」(1888年)はゴッホの生前唯一売れた作品とされ有名です。

しかし順調な生活も束の間、1ヵ月も経つとゴーギャンとの関係は緊張を帯びてきます。色彩や手法などの意見が合わず、互いの作品に対して不満が出てきてしまったのです。

そして1888年12月23日、ゴッホは精神が不安定になり自らの左耳を切り落としました。さらに切り落とした耳を女性に渡しています。その後女性からの通報で警察がゴッホの家に行くと、血まみれでベッドに横たわるゴッホを見つけ、そのまま病院へ搬送されたそうです。

この事件がきっかけでゴーギャンとの生活は終わりを告げ、ゴーギャンはパリへ帰ってしまいました。

1889年 – 36歳「入退院を繰り返し絵を描くことも禁止に」

退院と入院を繰り返す日々

ゴッホ「ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女」

耳を切り落としたことで入院していたゴッホは、退院すると自画像を描いたり怪我で中断していた「ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女」(1889年)などを完成させるなど再び画家として活動します。順調に回復していると思われていたものの、今度は「自分は毒を盛られている」など幻覚症状が現れ始め、再度入院をすることになりました。

数週間後、無事退院することはできましたがゴッホが1人で生活することは厳しい状態でした。さらに近隣住民から不安の声が出たためゴッホの居場所は無く、別の精神病院への入院を余儀なくされたそうです。

絵を描けない不満をテオにぶつけるが返事は無く…

これまでのゴッホは作品を作り始めると食事もほとんど取らず、ひたすら作品にのめり込んでいました。その様子を見た医師は栄養不足や体への負担を考え、ゴッホに絵を描くことを禁止します。絵を描くことが何よりも幸せだったゴッホにとって、絵を描けない期間は苦痛で仕方なく、その思いをテオにも手紙で語っています。

しかし、一方のテオは婚約者との新居の準備や結婚式の準備で忙しく、ゴッホにほとんど手紙の返信をしませんでした。唯一ともいえる話し相手がいなくなってしまったことは、ゴッホの精神状態にとってかなり大きなものだったと考えられます。

1890年 – 37歳「わずか37歳にして旅立ったゴッホ」

病院での創作許可とテオへのプレゼント

ゴッホ「カラスのいる麦畑」

病院でしばらく生活をし、体調が安定していたゴッホに医者から作品を作ってもよいと許可が下ります。再び絵を描き始めたゴッホですが、その間もてんかんとみられる発作などで何度も治療していました。そんな辛く大変な生活のなか、テオから2つの嬉しい報告がありました。

1つはテオに子供ができたこと、もう1つはゴッホの作品「赤い葡萄畑」が売れたことです。ゴッホはテオに子供ができたことを喜び、「花咲くアーモンドの木の枝」(1890年)という作品をテオに送っています。またこの頃からようやくゴッホの絵が評価され始めいくつかの美術展で作品が展示されるなどしています。

体調が回復したり悪化したりを繰り返していたゴッホですが、病院を退院し1度テオのもとで生活していたそうです。しかしパリの騒音や気疲れから、すぐに別の町へ旅立つことになります。そこで会ったガシェ医師に体調を見てもらいつつ、

  • 荒れ模様の空の麦畑(1890年)
  • カラスのいる麦畑(1890年)

など大作を作り続けていました。

謎の死を遂げたゴッホ

謎を多く残すゴッホの死

1890年7月27日、ゴッホは下宿先の旅館からいつものように散歩に行きました。しかしいつもより帰りが遅く、旅館の主人は心配します。

やっと帰ってきたゴッホですが黙って2階に行ってしまい、主人はより違和感をもちます。2階に行きゴッホの部屋を訪れると、そこには血だらけで横たわっているゴッホがいたのです。

慌ててガシェ医師に連絡をし見てもらったものの体には弾丸が入っている状態、さらにその弾丸が取れるような状態ではなく手術も不可能とされ、絶対安静の処置が取られました。そしてガシェ医師から連絡を受けたテオは急いでゴッホの元へ駆けつけます。テオが着いたときにはまだ意識はあったものの、しばらくしてゴッホは息を引き取りました。

ゴッホの死については自殺という説が可能性としては高いとされていますが、弾丸の入り方が自殺にしては不自然であることから、少年たちが誤射してしまいそれがゴッホの体に命中してしまったという説も考えられています。どちらの説にせよ、天才画家ゴッホが37歳という若さで亡くなってしまったのは悲しいことです。

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もっと知りたいゴッホー生涯と作品

絵もたくさん載っており、オールカラーの本です。分かりやすくゴッホの生涯と作品の魅力が書かれているため入門者の方にはピッタリの作品となっています。

たゆたえども沈まず

ゴッホがなぜ日本人に愛されるのかを考えさせられる本になっています。彼の生涯はもちろん日本との繋がりや彼の生涯で絶対に無くてはならない人である弟テオとの関係性が良く知れる作品です。

ゴッホと<聖なるもの>

聖職者になりたかったゴッホと宗教の関係性を書いている本です。ゴッホの絵にはどんな想いが込められているのか、不遇な人生の中でなにが心の支えになったのか、ゴッホの人生の根本が分かる作品となっておりこれを読んでから作品を見るとまた面白いかもしれませんね。

【24年1月最新】ゴッホをよく知れるおすすめ本ランキングTOP7

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ゴッホの生涯を解説~なぜこんなにも愛される?不器用だが懸命に生きた世界の画家フィンセント・ファン・ゴッホ

ゴッホの生涯を分かりやすく細かく解説してくれている動画です。人間関係や病気に悩まされながらも、なぜゴッホは後世に残るような作品を作り出せたのか、そして現代の私たちはなぜゴッホに魅了されるのか…生涯を知ることで作品の見方が変わりますよ。

【印象派とゴッホ偉人伝】前編~絵画の革命「印象派」の歴史~

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『永遠の門 ゴッホの見た未来』

ゴッホが数々の名作を作った場所アルルでの生活から亡くなるまでを描いた伝記映画です。生まれてから亡くなるまでを描いているというよりは、なぜ名作がアルルでできあがったのか、ゴッホは人生の最期に何を思っていたのか、という人生の一部分を描いています。名作が生まれた当時のことを詳しく知りたい方におすすめです。

ゴッホ~最期の手紙~

この映画の魅力は、なんといっても映し出される映像全てがゴッホの描いた絵を現代の技術によって動く油絵にしているというところです。俳優たちがグリーンバックの前で演技をした映像をCG加工でゴッホの絵のタッチに溶け込ませていて、まるで本当にゴッホの絵が動いてるように見えます。

ゴッホの人生を知りながらも映画自体もアートとして見ることができるので、アート好きにはたまらない作品です。

ゴッホについてのまとめ

名作「ひまわり」はゴッホの代表作でもあり、世界的に有名な美術作品です。でもそんな名作を作ったゴッホの生涯はどこか寂しく、儚いものだったと今回ゴッホの生涯をまとめている際に感じました。

彼が絵に込めた想いはなんだったのか、生前全く売れなかった作品が現代では世界的作品となっていることを彼はどう思うのか、少し想像しながらゴッホの作品を見るとまた面白い発見があると思います。今回ゴッホの生涯をまとめたことで、画家フィンセント・ファン・ゴッホの生涯と作品にみなさんが少しでも興味を持って下されば嬉しいです。

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