関羽の功績
功績1「”万人敵”とよばれるほどの武勇を誇った」
正史『三国志』の著者である陳寿は関羽と張飛が「萬(万)人之敵」とよばれたと記録されています。もともと、「万人敵」とよばれたのは西楚の覇王として知られる項羽でした。以後、卓越した武勇を持つ武人に対し「万人敵」と呼ぶようになります。
敵とすれば彼の武勇は恐るべきものだったでしょう。曹操軍の幕僚である程昱や郭嘉も関羽のことを「万人敵」として警戒しました。黄巾の乱や五関突破、樊城の戦いの武勇などを思えば、「万人敵」は彼にふさわしいあだ名だったのではないでしょうか。
功績2「蜀漢建国を補佐した」
関羽は劉備が勢力を拡大する上で、もっとも貢献した重臣の一人です。まず、劉備が弱小勢力だったころ、関羽は常に劉備のそばにいてボディガード的な役割を果たしていました。関羽と張飛がまるで金剛力士像のようにそばにいれば、劉備に反感を持つ人がいたとしても容易に手出しできません。
また、劉備が曹操の攻撃を受け大敗した長坂の戦いでは援軍を率いて駆け付け、劉備の危機を救います。さらに、荊州では重要拠点の守備にとどまらず、曹操軍の守る樊城を陥落寸前まで追い詰めました。劉備が蜀を制圧できたのは、背後を関羽が守っている安心感があったからです。彼の存在なくして劉備の蜀漢建国は有り得なかったでしょう。
功績3「重要拠点の荊州を守った」
劉備は西の劉璋を攻めるとき、最重要拠点である荊州の守備を関羽に託しました。荊州は中国全土を結ぶ交通の重要地点であり、諸葛亮がたてた天下三分の計でも必要不可欠な場所です。それだけに、この地を守るにはかなりの力量が必要でした。
というのも、荊州は曹操だけではなく同盟者である孫権も狙っていたからです。関羽は孫権軍の武将呂蒙と親交を結び、関係を良好に保とうとしました。しかし、孫権は関羽と自分の子との縁談を関羽が断ったことをきっかけに、荊州占領を計画します。
218年に関羽が樊城攻撃のために荊州を留守にすると、孫権軍の呂蒙は関羽軍の背後を衝きます。そのため、関羽は敗れ荊州は失われてしまいました。もし、関羽が孫権との修好に心を砕いていたら、三国志は違った展開になったかもしれませんね。
関羽の名言
「私は曹公(=曹操)が私を待遇する気持ちの厚いのは良く知っている。しかし私は劉将軍(=劉備)に厚恩を受け、共に死すことを誓った身で背く事はできない。私は曹公の為に功績を立て恩義に報いて後、曹公の下を去ろう」
「天下が乱れるのは天下の乱れにあらず 官の乱れが原因だというが その通りかもしれぬ」
「味方でないとすれば敵としか考えられませぬ」
関羽にまつわる逸話
逸話1「手術中に平然と談笑」
関羽には、麻酔なしで手術を受けたという伝説が残っています。
荊州をめぐる魏との戦いのさなか、毒矢が関羽の右ひじに命中します。傷を調べてみると、毒が骨まで到達してしまいました。
さすがの関羽も一時撤退し、稀代の名医である華佗の手術を受けることになります。その手術内容は、毒が達した骨を削り取るというもの。激痛が想定されるゆえ、華佗は、手術中は柱に腕を固定し、顔を布で覆うことを申し出ます。
しかし、関羽は「そんな必要はない」と笑い飛ばし、さらに手術中も酒を飲みながら馬良と囲碁をしていたそうです。豪快すぎます。
ただ、このエピソードは三国志演義のものです。正史にも同様のエピソードはありますが、この時華佗は既に亡くなっているので、もし本当の話なら別の医者が手術したことになりますね。
逸話2「関羽の呪い」
219年に、関羽は呉との戦いで命を落とします。しかし関羽の死後、彼の死に関わった人が次々と命を落としてしまいます。
その最たるものが、呉の大都督だった呂蒙です。
関羽が処刑されてしまった後、呉では祝勝会が開かれました。この席で呂蒙は、最大の勝利の貢献者として盃を受け取ります。しかし、何かに取り憑かれたかのように、突然その盃をたたきつけてしまいます。
さらに、主君・孫権の胸ぐらをつかむと「私が誰か分かるか…」、「私は関羽だ!」と絶叫。そのまま全身から血を噴き出して絶命してしまいました。壮絶な最後ですね・・・。
ただ、これは三国志演義での話です。史実では、呂蒙は病死でした。元々病弱だったようで、荊州争奪戦の後、病に伏せてそのまま亡くなってしまったそうです。
このほかにも、関羽を裏切った者たちはみな悲惨な最後を遂げたり、首を受け取った魏の曹操も、関羽の悪夢に悩まされた話も残っていますね。豪傑を死に追いやった代償は重かったのかもしれません。
逸話3「”美髭公”とよばれた」
関羽には「美髭公(びぜんこう)」という尊称があります。その理由は、彼が美しい髯をしていたからです。その美しい髯を見た後漢の献帝が彼のことを「美髭公」と褒めたことから、このあだ名がつきました。
関羽が自分の髯を大事にしていると知った曹操は、彼の機嫌を取るため錦でできた髭を包むための袋をプレゼントします。関羽は曹操からもらったプレゼントのほとんどを返したそうですが、この錦の髭袋はとても気に入ったようでその後も常用しました。
関羽の簡単年表
黄巾の乱のさなか、意気投合した劉備・関羽・張飛は、桃園で義兄弟の契りを交わします。義兄弟の順番を決め、死ぬときは同じ日に死ぬという誓いを立てました。
黄巾の乱の後に実権を握った董卓に対して、袁紹を盟主とした反董卓軍が挙兵。劉備・関羽・張飛もこの戦いに参加します。
汜水関の戦いでは、関羽は董卓軍の猛将・華雄を一撃で仕留め、董卓軍を総崩れに追い込みます。
また、虎牢関の戦いでも、董卓軍にいた最強の武将・呂布と対決。張飛・劉備と共に戦い、呂布を退却させました。
新興勢力 曹操と名門 袁紹の直接対決です。関羽は曹操軍の将軍として、官渡の戦いの前哨戦に参加しています。白馬の戦いで袁紹軍の猛将・顔良を討ち取り、延津の戦いでは文醜を一撃で倒します。袁紹軍の双璧ともいえる大将を討ち取った関羽は、曹操軍の勝利に大いに貢献したのです。こののち曹操軍を離脱、劉備との再会を果たします。
「臥竜」と呼ばれた諸葛亮が劉備の軍師となります。ただ、関羽と張飛は、諸葛亮が配下に加わることには反対だったそう。
三国志最大の決戦・赤壁の戦いで、曹操は、周瑜を中心とした呉軍に大敗を喫します。敗走した曹操は、華容道で追撃に来た関羽と遭遇してします。曹操が命乞いをすると、かつての恩義が忘れられなかった関羽は曹操を見逃してしまいます。激怒する(ふりをした)諸葛亮を劉備がなだめ、関羽は許されます。
赤壁の戦いの後、蜀軍は荊州の攻略に着手します。関羽は長沙の攻略に向かい、老将黄忠と激しい一騎打ちを繰り広げました。
荊州、益州(蜀)を攻略した劉備は、曹操との総力戦に勝利し、漢中を手に入れます。劉備は、諸葛亮に説得されて漢中王に即位しました。関羽も五虎大将の称号を得ています。
荊州をめぐる戦いで、魏と密約を結んでいた呉軍に攻められ、関羽は捕らえられます。
降伏を拒否した関羽は、そのまま処刑されてしまいました。その首は曹操のもとへ送られました。
関羽の生涯年表
184年「出生から「桃園の誓い」まで」
いかにして、三兄弟は出会ったのか ~黄巾の乱~
関羽の正確な生年は分かっていません。ただ、『関候祖墓碑記』には、160年生まれと記録があります。義兄の劉備は161年生まれですから、実際は関羽の方が年上だったのかもしれません。
関羽は河東郡の出身でしたが、郷里で乱暴な役人を殺して、流浪の身となります。そこで、黄巾の乱を討伐するための義勇軍に志願するために、幽州の涿県にやってきました。この幽州の涿県のこそが、3人の英雄が出会う場所です。
桃園の誓いの話の前に、黄巾の乱の話をしておきましょう。
時は後漢王朝末期。宦官の悪政によって国は乱れ、民衆も苦しい生活を強いられていました。
すると、張角が率いる宗教団体「太平道」が台頭します。疫病が流行すると、張角はお札や聖水を用いて人々を治療していきます。こうして信徒を増やした張角は、後漢王朝を倒し自ら皇帝になるべく挙兵、「黄巾の乱」が勃発しました。「黄巾」とは、反乱軍が頭を黄色い布で覆って戦っていたことに由来しています。張角に従って蜂起した信者は40万から50万人いたといわれています。
しかし、反乱が広がると、太平道とは全く関係のない者たちが黄巾を名乗り、乱暴狼藉を働くようになります。彼らは、略奪・強姦・殺人、あらゆる犯罪に走り、国の治安を大いに乱しました。
官軍は反乱を鎮圧しようとしますが、膨大な人数の反乱軍の勢いは強く、なかなか鎮圧できません。そこで、各地に立札が立てられ、黄巾賊を討伐する義勇軍を募集したのです。
桃園の誓い
西暦184年、黄巾軍を討伐する義勇軍を募るために、幽州・涿県にも立札が置かれました。その立札を見て、深いため息をついた男が劉備(字:玄徳)でした。
漢王室の血を引きながら、乱れる国のために何もできない自分を嘆いていたのです。当時、劉備はとても貧しく、ワラジやムシロを売って暮らしていました。
そんな劉備に「大の男がため息なんかついてどうした?」と声をかけたのが張飛です。張飛は、豚肉を売って暮らす商人でしたが武勇にも優れた男でした。自らの財産を使って義勇軍に名乗りをあげようと、立札を見ていたのです。
劉備は張飛に「私は弱い民を救うために黄巾の賊を倒したい。しかし、貧しい自分にはどうすることもできないのだ」と語りかけます。劉備の志に感じ入った張飛は「お前なかなかやるじゃないか…!それなら、俺の財産を使って一旗上げようじゃないか!」と意気投合。
近くの飲み屋で酒を飲み始めると、店の前を身長2m越え、髭の長さは50㎝にも達しようかという大男がいました。その男こそが関羽です。関羽は義勇軍に参加しようとしていたこともあり、劉備・張飛は意気投合。3人で語り合いながら酒を酌み交わしたのでした。
翌朝、張飛の裏庭に3人は集まります。満開の花の下で、「漢王朝のために忠義を尽くし、死ぬときは同じ時に死のう!」と、3人は義兄弟の契りを神々に誓います。兄弟の順番を決め、長兄が劉備、次兄が関羽、三弟が張飛となりました。これが、「桃園の誓い」です。
正史にはこの『桃園の誓い』の話はなく、三国志演義の創作といわれます。しかし、『蜀志』張飛伝には、張飛は年長者の関羽を兄のように慕ったと記されてたり、劉備は関羽と張飛を兄弟のようにかわいがっていたとも言われています。
いずれにせよ、劉備・関羽・張飛は固いきずなで結ばれ、乱世を戦っていたことは間違いなさそうですね。
200年「関羽千里行」
関羽、曹操の軍門に下る
劉備の右腕として目覚ましい活躍を見せていた関羽。しかし、宿敵である曹操の下で戦ったことがありました。
時は、西暦200年。曹操は献帝を支配し、政治の実権を握っていました。しかし、車騎将軍の董承を中心に、曹操を暗殺する計画が持ち上がります。計画を受けて、献帝はひそかに曹操暗殺の詔を出しました。しかし、董承の奴隷の密告によって、曹操の暗殺計画が失敗、董承を始めとする関係者は粛清されました。
さらに、計画に加わっていた劉備は曹操の逆鱗に触れます。追討に来た曹操軍に劉備軍は大敗、三兄弟は散り散りになってしまいます。下邳城を守っていた関羽も曹操軍に包囲されます。圧倒的な兵力の差で、戦っても勝ち目はありません。関羽、絶体絶命・・・。
しかし、曹操には関羽を殺すつもりはありません。汜水関の戦い以来、曹操は関羽の武勇・人徳をたいそう気に入っていました。「殺すのは惜しい、自分の家臣にしたい」と考えた曹操は、関羽に投降を勧めます。
ところが関羽は、投降をかたくなに拒否します。困った曹操は、曹操軍の将軍で友人でもあった張遼を使者として送り込みます。曹操の参謀・程昱(ていいく)から助言を受けていた張遼は、関羽にこう諭します。
「関羽、お前の気持ちもよくわかる。でも、ここでお前が死んだら桃園の誓いはどうなる?同じ時に死ぬと誓ったのだろう?もし、お前が死んで劉備殿が生きていたら誓いを破ることになるだろう。」
「それに、下邳城に残された劉備殿の妻子はどうなる?お前が生きているうちは、無事でいられるだろうが、死んだあとはどうする?命の保証はないぞ。貞操も奪われるかもしれん」
「ここはつらいだろうが、丞相(曹操)の下で働いて、劉備殿の消息をつかめばよいのではないか?何も今死ぬことはないだろう?」 (なお、劉備は曹操との戦いの後、袁紹の下に落ち延びています。しかし、関羽はそのことを知らず、行方を案じています(曹操や程昱をはじめ参謀たちは、劉備の行方に気づいていたかもしれませんね)
張遼の説得に心を動かされた関羽は、3つの条件を受け入れるなら降伏すると申し出ます。
- 自分は曹操にではなく、漢の皇帝に降伏すること
- 劉備の妻子を罪人扱いせず、手厚く守ること
- 劉備の消息がつかめたら、すぐに劉備の下へ戻ること
曹操は3の条件には難色を示しますが、まずは関羽を自軍に取り込むことが先決と考え、すべての条件に同意しました。
こうして、関羽は曹操の軍門に下ることになったのです。
劉備の消息が判明!しかし・・・
曹操の軍門に下った関羽。前述の通り、曹操軍の助っ人として白馬・延津の戦いで大活躍します。
その後、関羽は孫乾(そんけん)と再会し、劉備が袁紹の下に身を寄せていることを知りました。劉備の消息をつかんだ関羽は、曹操の下を離れること決意します。
別れの挨拶をするために曹操の下を訪れましたが、曹操は避客牌(ひかくはい)を立て、決して会おうとしませんでした。これは、関羽を少しでも引き留めておきたいと思った曹操の悪あがきだったのです。
実は、関羽をどうしても自分の臣下にしたい曹操は、彼をこれ以上ないほど手厚く遇していました。連日、絹織物などの豪華な贈り物を与え、さらに官位まで与えて、名誉を保持させます。ちなみに、彼の愛馬「赤兎馬」も曹操から贈られたものでした。このような待遇に、関羽も大変感謝したそうですね。ただ、関羽はこれらの贈り物には一切手を付けず、曹操に全て返却したそうです(唯一、赤兎馬は持ち帰ったそうです)。
曹操に別れの挨拶ができなかった関羽は、曹操へ手紙をしたため、許都を後にしました。曹操の家臣たちは、関羽を追いかけるように進言します。なぜなら、関羽が合流しようとしている劉備は、袁紹の下にいます。曹操のライバルである袁紹の下に、関羽まで加われば、曹操軍にとっては非常に厄介です。しかし、曹操は関羽の忠義心に感じ入り、ただ見送ることにしたのです。乱世の奸雄・曹操のふるまいとは思えませんね。関羽が非凡な将軍であったことの証左ともいえるでしょう。
こうして、曹操の下を離れた関羽。しかし、試練は続きます。
大急ぎで曹操の下を離れた関羽は、関所の通行手形を持っていませんでした。手形がなければ、関所を通ることはできません。天敵・袁紹の河北を目指すとなればなおさらです。
ここから関羽は、五つの関所を強硬突破していくのです。
①東嶺関(とうれいかん)
通行を止めようとした孔秀(こうしゅう)を斬って、先へ進みます。
②洛陽(らくよう)
攻撃をうけて矢傷を負いますが、韓福(かんふく)を斬り、通行。
③沂水関(きすいかん)
伏兵に気づいた関羽は、関所を守っていた卞喜(べんき)を斬り捨てて、通行します。
④滎陽(けいよう)
宿泊中に火攻めに遭いそうになるも間一髪で回避。王植(おうしょく)を切り捨てて突破に成功。
⑤黄河(こうが)
夏侯惇の部下だった秦琪(しんき)を斬って通行。
こうして、5つの関所を破った関羽。しかし、夏侯惇が最後に立ちはだかります。曹操軍きっての猛将で、曹操からの信頼も大変に厚かった男です。夏侯惇は、関所を強引に破った上に、将軍を次々と斬り捨てた関羽のふるまいに激怒、曹操に無断で戦いを挑みます。関羽もこれに応戦しました。
すると、張遼が曹操の手紙を携えて、戦いを止めに入ります。曹操は、関羽が関所を突破するのに苦労していると知って、彼を無事に通行させるために張遼を派遣したのです。夏侯惇も渋々矛を収めました。
こうして、曹操の下を離れた関羽は、まずは張飛と再会。そののち、袁紹の下を脱出した劉備とも再会したのです。
実は、「関羽千里行」(かんうせんりこう)のエピソードは、正史にはありません。関羽の忠義を誇張するための創作とされています。しかし、離れ離れになった義兄弟が互いに違う君主の下に身を寄せ、再会すると再び同志として勢力拡大に動いたことは間違いなさそうですね。
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