えたひにんの苗字とは?由来や見分け方も紹介

由来③:川や沖など水際を示す漢字

水際に住むのは臭いが原因だった

獣皮を加工する時に異臭を放つため、えたは川の近くに住居を構えていました。そのため、河川を使った苗字を使用することもあったそうです。さらには、皮や革の苗字を川や河に置き換えるケースもありました。

由来④:方角を示す「東西南北」

方位が集落を場所を示す基準となっていた

川付近に住んでいたえたひにんには、東西南北の方角を示す漢字が使用されることもありました。理由として、えたひにんの集落が川を基準に方位で表せたからです。ちなみに、ひにんは罪人や飢饉でなった人が多いため、元の苗字を使っていました。

えたひにんを苗字で見分ける方法

苗字が変わっている可能性もあるため、見分けが難しい場合もある

えたひにんを苗字で見分ける主な方法は、次の2つです。

  • 皮や革は使われている(例:桶皮、革嶋など)
  • 川や河関係の漢字が使われている(例:川西、河口など)

しかし、1871年の身分解放令により、えたひにんだった人たちは苗字を変更していることもあります。

そのため、一概にえたひにんの苗字であることは判断できませんので、注意が必要です。ちなみに、身分解放令により苗字が変更されたことで、祖父母たちと異なっていることもあるそうです。

えたひにんが多いと言われていた地域

ここからは、えたひにんが多いとされている地域4つをご紹介します。下記の地域がえたひにんが多かったとされています。

  • 福島県
  • 広島県
  • 愛媛県
  • 京都府

福岡県

福岡県がえたひにんが最も多い地域と言われています。その集落の数は驚くことに600でした。なぜこんなにも多いのかというと、江戸時代に北海道が管轄地になったことでアイヌ民族が福岡へ送還。

アイヌ民族は元来、狩猟を中心とした文化を築いていました。そのため、福岡では皮加工の仕事に従事しました。そのこともあり、えたひにんの居住区が増加したと考えられています。

広島県

福岡県に次ぐえたひにんが多い地域として広島県があげられます。集落の数は400を超えていました。ここまで多い理由は、1889年に軍港が開かれたためでした。日本海軍のために使用する肉を捌くため、多くのえたが必要不可欠になります。

そのような背景から、えたの集落が増えていきました。

愛媛県

愛媛県もえたひにんが多い地域として知られています。集落の数は400近くあります。その中で100の集落が海沿いに面した場所にありました。その理由は、海賊対策にありました。中世より村上水軍といった海賊が横行していたので、警備を目的にえたひにんが使用されたとされています。

京都市

意外なことに京都にもえたひにんが多くいました。集落が200ほどあり、天皇との身分差を明らかなものにするため、卑しい身分のえたひにんがいたのではないかとされています。他に、人が多く集まる京都の警備にもあてられました。

貴族たちも革製品を使用していたことから、その加工のためにえたたちが多数必要になったと言われています。

えたひにんの苗字と言われる有名人

地域に付随して、ここからはえたひにんが住んでいた地域の出身や苗字を使用している有名人をご紹介します。本記事では、下記の有名人を解説します。

  • 米田庄太郎
  • 野中広務
  • 上原善広
  • 村崎太郎
  • 島田紳助
  • 加藤あい
  • 倖田來未
  • 川原亜矢子
  • 橋下徹

米田庄太郎

米田庄太郎
出典:京都大学大学文書館

米田庄太郎は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した社会学者です。奈良県の部落出身だった米田。18歳の頃にはニューヨークに渡り、社会学や統計学を学びました。その知識を活かし、日本では心理的社会学を導入します。

社会思想研究でも大きな功績を残すなど、日本における社会学の発展に貢献しました。米田の功績は、後に社会運動家として活躍する大杉栄や賀川豊彦に影響を与えました。

大杉栄
出典:Wikipedia

野中広務(のなか-ひろむ)

野仲広務
出典:Wikipedia

野中広務は日本の政治家です。野中自身、えたひにんがいた集落である部落出身と公言していました。生まれ育った境遇のため、社会的弱者には温かい視線を向けることもあったそうです。

国会議員になった時期は58歳と比較的遅く、野中は遅咲きでした。それでも内閣官房長官や自民党幹事長を務めた活躍から、叩き上げの政治家として知られています。

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2 COMMENTS

なふめゆみよ

ゆるれりれれりりれるりやむみみみむめみめひめはめはふひへにねにねにあい

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匿名

同和問題について
同和問題は、部落民の差別に関する問題ですね。昔親友が結婚しようとした際に、両親に反対され結婚を断念しました。それまでは深くは考えたことがなかったのですが、この問題について考えるきっかけとなりました。
いくつかの県や地域には、昔は被差別部落民の地域と呼ばれるものがありました。どこそこはそうだと周辺の人々が噂をしているのを聞いたことがあります。また会社には『部落地名総艦』があり、就職に際してそれで採用を判断していました。今は、これは撤廃されています。
部落が集中しているのは、炭鉱住宅地域は特にそうですし、荷役や皮製造などの特定産業の地域に集中することもあります。また、泥棒部落と呼ばれる特定した地域があります。これは貧しさからそう呼ばれたのでしょう。部落民の差別の発祥は、歴史的には1500年以前に遡りそうですが、特に紹介されたように江戸時代に「えたやひにん」と呼ぶ差別民を生み出したこと、そして近代化の中で埋もれていった人々を生み出したことが大きいでしょう。
終戦後から15年位までの運動会では「部落対抗リレー」などがあり、住宅がまばらだった時代でしたので、日本のどこでも地域ごとに集落が固まっていましたのでそれが可能でした。私はこの環境に育ったので、「部落」という言葉に違和感はありませんが、同和問題としての「部落」という言葉に特定の差別の意味が含まれるようになったのは残念です。
現在は、これらの部落地域の多くは再開発のなかで、ほぼ消えつつあります。非常に嬉しいことですが、元の地域にいたことによる被差別民だったということを強調し、逆に詐欺的な企みを通して不当の利益を得ようとするグループが多く存在しています。にせのグループも多いと聞いています。これらは、逆に平等という点から排除すべきと感じます。
ここには部落に住んでいた可能性がある方々の氏名が載せられていますが、これは例え本人がそれを称したとしても、絶対に載せるべきではないと思います。まだこれらの方々は生きておられます。不当な差別の新たな発生の温床となります。今もネットで多くの方々の名前が紹介されていますが、直ちに削除して欲しいものです。

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