欧米で広まったのは16世紀頃
このような背景からヨーロッパ文化圏で一度タトゥーは廃れていきましたが、大航海時代に再びタトゥーが注目を浴びるようになります。大航海時代に太平洋諸島でポリネシア人が入れ墨しているのを見て、船乗りがファッションとして真似るようになっていきました。
1769年に出版されたジェームズ・クックのタヒチを訪れた航海史によると、現地人の入れ墨を指さして「tatau」と呼んだと記載されています。
それから見世物小屋やサーカスなどのエンターティナーで入れ墨が流行ったそうです。そのほか犯罪者やアウトローな人たちが好んでするようになり、現在は大衆文化の発達によりファッションとして多く広まることとなりました。
刺青(入れ墨)の歴史
縄文時代にはされていた
日本では紀元前1500年の縄文時代の土偶には刺青と考えられる模様が記されており、早くから文化があったと考えられています。続く弥生時代にも、3世紀の倭人を記した「魏志倭人伝」によると、男性は顔や体に刺青が施されていたそうです。また同書によると、海に潜る時のおまじないとして描いていたものが装いに転じて、階級や地域によって模様の違いがあったと記されています。
その後も4世紀頃の古墳には刺青をした埴輪が発見されていますが、6〜7世紀を超える頃には儒教の伝来により刺青は廃れていきました。その後は遣唐使など海上を移動するものがまじないと個体識別のために記していたりしたものの、日常生活ではほとんど刺青を見かけなくなっていったようです。戦国時代には、雑兵が指に名前と住所を刺青していたという話もあり、識別のための刺青が主でした。
江戸時代で刺青がブームに
17世紀の江戸時代に入ると、徐々に刺青の記述が見られるようになってきます。人口が増えてくるようになると犯罪防止の目的で、1720年に徳川吉宗が中国で使用されていた「墨刑」を採用しました。そして罰としての「入れ墨」、ファッションとしての「彫り物」と呼んで区別するようになっていきます。
江戸時代中期には、現在に続く華美な刺青が確立されていきました。18世紀後半には、江戸火消しや鳶職が「粋」を見せるために好んで刺青を入れるようになってきます。江戸時代末期には墨以外に朱色など色が入れられるようになり、竜や桜などの図柄が好まれるようになっていきました。そして武家の間でも流行していき、「武家彫り」など身分によっての違いが投影されていきます。
明治で刺青禁止令が出る
明治維新以降になると外国人の目を気にするようになり、1872年に入墨刑を廃止し、同11月に装飾としての刺青行為を禁止する法律が出されました。それに伴い刺青は厳しく取り締まったために、彫り師も住居を転々とすることとなります。
ただし日本の彫り物技術は海外に伝わっていき、1891年にロシア皇帝ニコライ2世やギリシャのゲオルギオス王子が来日時に入れたという逸話も残っているのです。
近年はヤクザのイメージに
1948年にGHQの占領政策の一環として、刺青は再度合法となりました。しかし欧米から日本の刺青文化に対して評価を受けるも、明治時代からの禁止のイメージを払拭できずに「刺青=ヤクザ」というイメージが定着していったといえます。
しかしその判明「タトゥー」として日本に西洋の刺青文化が入り込み、「ファッション」としてワンポイントで施したりする人も増えています。しかし世間が刺青に寛容になったとはお世辞にも言い難く、採用拒否や公共浴場の入浴拒否などがあり、行動の制限が起こっているのが現状です。
タトゥーと刺青の違いに関するまとめ
いかがでしたでしょうか?タトゥーと刺青の違いについて紹介しましたが、刺青とはとても奥の深い文化であり、世界各地で使用されていることに驚いた次第です。何となく西洋のものをタトゥー、和風を刺青と筆者は思っていましたが、違いがはっきりと分かり知識が深まりました。この記事を読んだ方も、同じように疑問を解決できたならば嬉しく感じます。最後までお読みいただきありがとうございました。