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高浜虚子とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や俳句、代表作品も紹介】

高浜虚子(たかはまきょし)は、明治から昭和にかけて活躍した俳人です。同郷の俳人である正岡子規の弟子となり、俳句を習いました。子規が亡くなった後は、とくに雑誌「ホトトギス」の発行を引継ぎ、尽力しました。

日本俳句界の巨星、高浜虚子

目の前の風景をそのまま写しとる俳句が得意で、自然を題材にした作品をおおく残しています。また、水原秋桜子山口誓子、阿波野青畝、高野素十など、たくさんの俳人を育てたことでも知られています。

虚子は、はじめは親友の河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)と共に、正岡子規の弟子となって俳句を学びました。子規の死後は、俳句を碧梧桐に委ね、虚子は一旦俳句から離れました。ところが、碧梧桐はしだいに「有季定型」といった伝統的な俳句の道から外れてゆきます。

これをみた虚子は、碧梧桐と対決すべく俳句の世界に戻ります。次の俳句は、その頃の虚子が詠んだ句です。

春風や闘志抱きて丘に立つ

霜降れば霜を楯とす法の城

虚子は、古くからの仲間であった碧梧桐と闘うことで、伝統的な俳句を守ろうとしたのでした。

私が俳句に興味を持ちはじめた頃、とくに高浜虚子の「客観写生」「花鳥諷詠」という考え方にとてもつよい共感を覚えました。そんな私が、お伝えしたいのは、高浜虚子の魅力とともに、昨今ブームにもなっている俳句の楽しさです。最後まで読んでいただけたら嬉しいです!

高浜虚子とはどんな人物か?

名前高浜虚子
本名高浜清
誕生日1874年2月22日
生地愛媛県温泉郡長町新町
(現在の松山市湊町)
没日1959年4月8日
没地自宅
(神奈川県鎌倉市由比ヶ浜)
配偶者高浜糸子
(旧姓:大畠)
埋葬場所寿福寺
(神奈川県鎌倉市扇ヶ谷)

高浜虚子の生涯をハイライト

高浜虚子は、1874年愛媛県松山町長町に、父・池内政忠、母・栁の四男として生まれました。1885年、伊予尋常中学校で一歳年上の河東碧梧桐と同級となり、その後、同郷の俳人・正岡子規と出会います。1891年には帰省した子規と面会し「虚子」の号を授けられました。

1892年~1894年にかけて虚子は碧梧桐とともに京都第三高等中学校~先代第二高等学校と学びますが、ともに文学の道を志し、子規を頼って状況しています。その後、子規の門弟として徐々に頭角を現します。

1898年頃の子規宅に集う俳人たち。虚子は子規により世間に送り出されたのでした。

1898年には、前年に柳原極堂が松山において刊行した「ホトトギス」を引きとり、子規の後見のもと東京での発行人となりました。1907年の子規病没後、虚子は軸足を小説に移し始めます。一方、子規のもう一つの主要な仕事であった新聞・日本の俳句欄は、盟友・碧梧桐が継承することとなりました。碧梧桐もまた、子規の死後に従来の俳句の伝統をやぶるような破調の俳句「新傾向俳句」を主唱するようになります。

これを見た虚子は、俳壇に復帰すると以後は伝統俳句を守る「守旧派」を宣言し、「ホトトギス」をもって全国的な影響力を持つようになりました。以後、1959年に85歳で亡くなるまで、虚子は俳句を詠みつづけました。その数はなんと20万句あまりと言われています。

高浜虚子の故郷は?

高浜虚子の故郷は、今では愛媛県と呼ばれますが、江戸時代つまり虚子の生まれる7、8年ほど前は「松山藩」とよばれ、久松松平家の殿様が治める土地でした。

松山藩4代藩主の松平定直(1660〜1720年)は俳句好きとして有名で、芭蕉の弟子の其角や嵐雪に学んだと言われています。後年、松山は正岡子規、高浜虚子らを輩出して有名になりますが、その種は江戸時代の殿様によって撒かれていたと言えます。

虚子の生まれ故郷・松山のシンボル、松山城

高浜虚子の性格は?

一途で頑固に自分を貫く…高浜虚子の性格はそんな風に感じられます。

例えば、中学在学中のこと。文学を志す虚子は、東京の子規に「森鴎外ないし幸田露伴の弟子になれるよう取り次いでほしい」と言っています。子規は冷静にこれを制止しますが、結局は中学をやめ上京してしまいます。

また、子規の死後、俳句についてのさまざまな考え方が現れるようになります。その都度、虚子は子規の唱えた「写生」という考え方にこだわり、自ら「守旧派」と宣言しています。

信じた道をひたすら突き進むという虚子の性格は、若き日のまま終生変わることはなかったと言えます。

虚子は、自ら敷いたレールを走り続けた

虚子と河東碧梧桐は親友にしてライバルの関係

若き日の河東碧梧桐、虚子の唯一無二の親友にしてライバルだった

14歳のころから人生をともに歩んだ虚子と河東碧梧桐。京都時代には下宿に「虚桐庵」と名づけてしまったり、仙台からともに学業を捨てて子規のもとに身を寄せたりと常に行動を共にする仲でした。俳句だけでなく、お互いに興味を持っていた謡や漢詩まで一緒に取り組むほど。

2人の仲が大きく変化するのは、師である正岡子規の死後です。俳句観を違えた2人は交流の機会が減り、会っても俳句の話はしなかったのだとか。それでも俳句以外の場面例えば謡は一緒にやるなど絶交してしまうわけではありませんでした。1937年に碧梧桐が亡くなる直前も虚子は知らせを受け枕頭に駆けつけています。

高浜虚子の死因は?

高浜虚子の死因は脳溢血とされています。虚子85歳の昭和34年4月1日。来客の多かったこの日の夜8時過ぎ、疲労を覚えた虚子ははやめに床に就いたそうです。

その後しばらくして脳出血を起こし、危篤に陥ります。周囲の必死の看護もむなしく、1週間後の4月8日午後4時頃に息を引き取りました。明治、大正、昭和と3つの時代を駆け抜けた文豪らしく、その死顔は安らかな寝顔のようであったとのことです。

虚子は安らかな最期をむかえ、旅立った

高浜虚子の名言は?

俳句は自然(花鳥)を詠い、また、自然(花鳥)を透して生活を詠い人生を詠い、また、自然(花鳥)に依って志を詠う文芸である。

俳句への道

私等は死を前にして生活しつつある。死を逃避するのではない。逃避しようとしても逃避出来るものではない。唯営々として生活しつつある。その生活を包むものに花鳥風月がある。花鳥風月を透して私等の生活を諷うのが俳句である。

俳句への道

春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂(いい)であります。

虚子句集

高浜虚子の有名な俳句は?代表作を紹介

俳句で有名な高浜虚子。なんと死ぬまでの間に20万句を詠んだと言われています。新卒から定年までのサラリーマンの勤続年数を大まかに40年と考え比較すると、年に5千句、月に416句、日に13句ほどを詠まねばなりません。まさに驚異的な作句数といえます。

その膨大な虚子の句の中で、筆者おすすめの21句をご紹介します(各句の並びは季節のみ分けてありほかは順不同としました。また一部()内にルビを振っています)。

春の俳句

明るい光を感じる春の句

うなり落つ蜂や大地を怒(いかり)這ふ

翅をバタつかせながら地面を跳ねている蜂は怒り狂うかのよう。

雲静かに影落し過ぎし椄木(つぎき)かな

接ぎ木した植栽と上空の雲の対比に、悠久の時の流れを感じる。

濡縁にいづくとも無き落花かな

どこからとんできたのか、濡れ縁に桜の花が散っている驚き。

土佐日記懐にあり散る桜

紀貫之『土佐日記』を懐に、桜舞う道を歩いてゆく快さ。

ぱつと火になりたる蜘蛛や草を焼く

草を焼いていると、どこからか現れた蜘蛛がそのまま燃え尽きてしまった寂しさ。

夏の俳句

広がりある空間を感じる夏の句

大夕立(おおゆだち)来るらし由布のかきくもり

夕立がくる匂いがする、由布岳はすでに厚い雲に覆われている。

松風に騒ぎとぶなり水馬(みずすまし)

みずすまし=あめんぼう達が忙しく右往左往している、それも命のすがた。

金亀子(こがねむし)擲つ闇の深さかな

コガネムシを夏の夜の闇に放る。そのなんと深いことだろう。

夏草に黄色き魚を釣り上げし

川で魚を釣り上げた、その黄色い命が夏草の上で力いっぱい生きている。

虹立ちて雨逃げて行く広野かな

虹が立つと、雨雲は広野の空を逃げてゆくかのよう。

秋の俳句

悠久の時間を感じる秋の句

遠山に日の当りたる枯野かな

曇り空広がる枯野に立つと、遠くの山には陽光がさし神々しさに息をのむ。

秋天の下(もと)に野菊の花弁欠く

澄みわたる秋空のもと、野菊の花びらの欠けたところが気になっている。

われの星燃えてをるなり星月夜

俺の星が盛んに煌めき燃えている、月のない満点の星空のこと。

相慕ふ村の灯二つ虫の声

虫のなく夜、村には互いを慕うかのように灯りが灯っている。

桐一葉日当りながら落ちにけり

桐の葉が一枚、秋の日差しを受けながら悠然と落ちていったなぁ。

冬の俳句

しんと張り詰めた静寂を感じる冬の句

大空に伸び傾ける冬木かな

冬の乾いた空に、春が待ち遠しいのか、冬木の枝が伸びていることだよ。

流れ行く大根の葉の早さかな

大根の葉が冬の冷たい川面を流れてゆく、その早いこと。

凍蝶(いてちょう)の己が魂追うて飛ぶ

冬の空を蝶が舞っている。まるで自分自身の魂を追いかけてるかのよう。

白雲と冬木と終(つい)にかかはらず

空を往く雲を眺めていたが、とうとう冬木と重なることなく過ぎ去ってしまった。

雑炊に非力ながらも笑ひけり

雑炊ができあがると、力を失ったはずの体からも笑いがこみ上げてくる。

新年の俳句

去年今年貫く棒の如きもの

過ぎ去った去年とおとずれた新しい年。しかし変わらない棒の如く貫く信念がある。

高浜虚子の功績

功績1「俳句の伝統を守り抜いた」

東京・根岸の子規庵

俳句は短歌と並んで短い詩系です。季語や定型(575)といったルールもあり、このルールに従いながらも絶えず反発をくりかえしてその歴史を紡いできました。とりわけ、子規以後にその動きが活発となります。1つは河東碧梧桐らによる「新傾向俳句運動」、もう1つは水原秋桜子山口誓子らによる「新興俳句運動」です。

こうした俳句の革新をもとめる動きに対し、高浜虚子のとった態度は「守旧」、つまり伝統俳句を守る立場でした。虚子の「ホトトギス」はその総本山として存在感を強めます。虚子が頑なに俳句の伝統を守ることが、却って俳句界全体の活性化に繋がったといえます。

功績2「多くの俳人を育てた」

柔和な雰囲気の中にも眼光するどい往時の虚子

虚子の功績には、「ホトトギス」を通じて非常にたくさんの俳人を輩出したことも挙げられます。昭和3年、俳人の山口青邨はホトトギスの講演会において「東に秋素の二Sあり! 西に青誓の二Sあり!」と発言し、俳壇の耳目を集めました。水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝、山口誓子のそれぞれをひと文字ずつとって「ホトトギスの四S」と呼ばれました。

そのほかにも飯田蛇笏、中村草田男ら有名俳人を多く育てた高浜虚子。「選は創作なり」という言葉を残したことからも、後進の育成に力を入れていたことがわかります。種田山頭火など一部の無季・自由律の俳人を除いて、多くの俳人は「ホトトギス」にゆかりを持っているともいわれています。

功績3「意外?『吾輩は猫である』を命名 」

『吾輩は猫である』単行本化された時の装丁

夏目漱石の不朽の名作『吾輩は猫である』。この作品は、当初、高浜虚子の「ホトトギス」にて連載し好評を博しています。じつはこの作品タイトルを名づけたのが高浜虚子だったとの説があります。虚子自身が書き残したところによると、「気がまぎれるだろう」と漱石に文章をかくことを進めたところ、書き上げられた作品だったようです。

はじめ『猫伝』と名づけようとしていた漱石。そこへ虚子が「書き出しの『吾輩は猫である』をそのままタイトルにしたらどうか」と提案します。漱石が了解したので虚子がタイトルを描きなおし活版所に廻した、とあります。もし虚子が直していなかったら、いまも『猫伝』と呼ばれる作品だったかもしれません?

高浜虚子にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「師・正岡子規の後継指名を拒否!〜道灌山事件」

1895(明治28)年、正岡子規は高浜虚子を根岸の道灌山に誘い、後継者となってほしいと告げます。子規は自身の余命をはかり、残す仕事の重さと後継者たるものの器とを測り、虚子こそ…との思いだったわけです。ところが、あろうことか虚子はこの要請を拒否してしまいます。

これがいわゆる「道灌山事件」です。この拒絶について、明確な理由は分かっていません。子規の求める学問を虚子が嫌ったため、或いは俳句に関わる意見の相違があったためと考えられています。虚子が「後継となること」を、正岡家(子規の妹・律)の婿養子となることと解釈したのではないかと考える説もあるようです。

道灌山にある浄光寺

都市伝説・武勇伝2「親友の恋人を略奪!?」

高浜虚子といえば、必ず並び称されるのが親友・河東碧梧桐です。同じ中学で学び、正岡子規の弟子となり、病身の子規を看病するなどほとんど一心同体のようでした。ところが、じつは高浜虚子の妻・大畠糸子は、河東碧梧桐の恋人(婚約者とも)だったという説があります。

しかも碧梧桐が入院中にその「略奪」が起こったようで、碧梧桐が退院してみると糸子の態度が余所余所しい、というものです。糸子は虚子との間に二男六女をもうけました。碧梧桐にしてみれば、さぞ心中複雑だったことでしょう。虚子は…どんな思いだったのでしょうか。

盟友であり、ライバルでもあった河東碧梧桐

都市伝説・武勇伝3 「虚子晩年の純愛と小説『虹』」

俳人として名高い高浜虚子ですが、本来の志望は小説にあったと言われています。実際、俳句を休止して散文や小説を書いていた時期もあります。その中で小説「虹」から純愛のエピソードをご紹介します。

虚子に愛弟子・森田愛子という女性がいました。福井県三国の人で結核を患い、療養を続けていました。虚子70歳の小諸時代のことであり、24歳の愛子には恋人がいましたので、純愛といっても師弟愛を指すと考えられます。

虚子が三国に愛子を見舞った帰りのこと。虚子をおくる汽車の車窓に虹を見た愛子は、
「今度あの様な虹を渡って鎌倉(虚子の元)へ行こう」と呟きます。

小諸に帰り、空に虹を見た虚子は、愛子に宛て次の句を送ります。

虹立ちて忽ち君のある如し

虹消えて忽ち君の無き如し

これに応えようと、死の直前の愛子は虚子に宛て返句を送ります。

ニジキエテ スデニナケレド アルゴトシ

この返句からほどなく愛子の命は燃え尽きます。

愛子の死後も虚子は句を送りました。

虹消えて音楽は尚続きをり

虹消えて小説は尚続きをり

虚子は虹を見るたびに、若くして散った愛弟子を思い返したと言われています。

虹のイメージ

高浜虚子の略歴年表

1874年
誕生

高浜虚子(本名:高浜清)は、1874年に愛媛県温泉郡長町新町(現在の松山市湊町)に生を受けました。もと松山藩の剣術監であった池内政忠の四男として生まれた虚子は、母の影響で古典文学に触れる機会があったと言われています。松山城のすぐ近くで幼少時代を過ごしました。

1888年、虚子は伊予尋常中学校に入学し、河東碧梧桐と出会いました。

1891年
子規との出会い
1891年、中学3年に進級した虚子は、碧梧桐を通じて同郷の先輩である正岡子規を知り、当時東京帝国大学の学生だった子規と文通を開始します。同じ年には子規から俳号「虚子」を与えられるなど、虚子にとって一生涯の出会いとなりました。

1892年、中学を卒業して虚子は京都第三高等中学校に入学し、翌年には碧梧桐も合流しています。1894年、京都三高の学科改変を受け、碧梧桐とともに仙台の第二高等中学校に転入学しました。しかし、ほどなく中退し東京・根岸の子規のもとへと向かい、名実ともに子規門下となります。

1895年
道灌山事件
1984年、病身をおして日清戦争の従軍記者となった子規は、帰路の船中にて大喀血をします。この時に自身の命数を測った子規は、虚子を後継者として据えようと決意しました。しかし、道灌山の茶店でそのことを伝えられた虚子は、これを拒否しています(道灌山事件)。

1898年

1898年、虚子は子規から雑誌「ホトトギス」の編集業務を任されるようになりました。この前年には、虚子は河東碧梧桐の元恋人であった大畠糸子と結婚をしています。

1902年、正岡子規が病没すると「ホトトギス」を虚子が、新聞「日本」の俳句欄を碧梧桐がそれぞれ継承することになりました。また、この頃から虚子と碧梧桐の間で俳句に対する見解の相違が表面化します。その後の虚子は俳句と距離を置き、小説を志向するようになっていきました。

1910年

1910年、虚子は鎌倉市に転居しています。この転居の理由には、虚子の家族の病や子規没後の生活を一新させることなど様々な事柄が重なっていたようです。ひとつには、転居先の由比ヶ浜に故郷の松山を想起させる環境があったということもありそうに感じられます。

1913年、虚子は俳壇に復帰しています。このとき詠んだ俳句が有名な「春風や闘志いだきて丘に立つ」「霜降れば霜を楯とす法の城」という句です。

子規の死後、碧梧桐の俳句は伝統的な俳句観をうち壊すかのように無季(季語なし)・自由律(5・7・5のリズムによらない)俳句へと傾斜していきました。いわゆる「新傾向俳句運動」とよばれるもので、碧梧桐はこの牽引者となったのでした。

これに対して、虚子の目指した俳句のすがたとは、子規の提唱した「客観写生」を基礎とし、俳句の伝統的な5・7・5の定型と季語を守ろうというものでした。上の句の「闘志」とはこうした闘いをさし、とりわけ碧梧桐との雌雄を決する覚悟を詠んだものといわれています。

1937年

1937年に虚子は芸術院会員となり、1940年には日本俳句作家協会会長(のち日本文学報国会俳句部会長)に就任します。

また、この年、かつての盟友・河東碧梧桐が病没しました。1933年に俳壇を引退し、最期は腸チフスと敗血症を合併しての病死でした。その死を悼んで、虚子は次の俳句を詠んでいます。

たとふれば独楽のはぢける如くなり

1944年、虚子は鎌倉を離れ長野県小諸市に疎開をします。1947年までの4年間を小諸で過ごしました。滞在中のようすを「小諸雑記」に、詠んだ俳句は「小諸百句」にまとめました。

1954年には、文化勲章を受章しています。

1959年

1959年4月8日、虚子は脳溢血のため鎌倉・由比ヶ浜の自宅にて逝去しました。享年85歳。生涯20万句を詠んだといわれるほどに多くの俳句を詠みました。その生涯は日本俳句史上の巨星として、現在の俳句界にも大きな影響を与えています。

高浜虚子の具体年表

1874年 – 0歳「愛媛県に生まれる」

高浜虚子、生誕

1874年、高浜虚子(本名:池内清)は愛媛県松山市に生を受けました。もと松山藩士で剣術監、祐筆などをつとめた池内政忠の五男でした。

高浜姓を継ぐ

9歳のころ、祖母方の家系である高浜姓を継ぎ、この時から高浜清となりました。

1888年 – 14歳「伊予尋常中学校入学と運命の出会い」

河東碧梧桐との出会い

伊予尋常中学校に入学した虚子は、一歳年上の河東碧梧桐と同級になります。無二の親友であり、後に宿命のライバルとなる碧梧桐との出会いは、まさに運命の出会いでした。

正岡子規、そして俳句との出会い

虚子は、河東碧梧桐の紹介により正岡子規と文通を開始しています。当時、子規は東京帝国大学の学生でした。帰省中の子規と会い、俳句の指導を受けるようになります。「虚子」という俳号を与えてくれたのも子規でした。師との出会い、俳句との出会いもまた運命の出会いでした。

若き日の正岡子規、のちに虚子の師となる

1892年 – 18歳「京都第三高等中学校入学」

虚桐庵時代

1892年、伊予尋常中学校を卒業した虚子は、京都第三高等中学校に入学し、京都市吉田町に下宿しました。やがて碧梧桐も加わり、下宿は「虚桐庵」と呼ばれました。

この頃の虚子は文学に傾倒しており、俳句という小さな文芸よりも、将来は小説家となることを考えていました。文通をしていた東京の子規には、森鴎外や幸田露伴の弟子になれるよう斡旋してほしい旨を書き送っています。これに対し、子規は「学問をやめてしまって、どう身を立てるつもりか」と諭したといわれています。

1894年に京都三高の学科改変が行われたため、虚子と碧梧桐は仙台の第二高等中学校に編入学をしています。しかし、文学への思い冷めやらず、ふたりは仙台二高を辞め、東京へと向かいました。

虚子・碧梧桐のふたりが足繁く通うことになる、東京・根岸の子規庵

1895年 – 21歳「道灌山事件おこる」

子規の後継者となることを辞退した虚子

1895年、正岡子規は新聞日本の記者として日清戦争に従軍します。その帰路の船中にて喀血した子規は神戸、須磨を経由した後、故郷松山で保養します。なお、神戸へは虚子、碧梧桐ともに駆けつけ病床の子規を見舞っています。

子規が小康を得て帰京したのは12月。ほどなく虚子を道灌山へ誘い、後継者となってほしいと意思を伝えました。この申し出に対し、虚子は辞退します。これが世にいう「道灌山事件」です。

1897年 – 23歳「「ほとゝぎす」創刊と結婚」

「ホトトギス」創刊

1897年、柳原極堂が松山において「ホトトギス」(※ )を創刊し、子規、内藤鳴雪とともに虚子と碧梧桐もこれに協力しました。
※ 当初の表記は「ほとゝぎす」とひらがな表記でしたが、本稿では便宜上「ホトトギス」と表記します。
同年、虚子は大畠糸子と結婚します。

翌1898年、「ホトトギス」発行所は東京(神田錦町)に移転され、俳句・和歌・写生文などの散文を加えた文芸誌というつくりになりました。また、この東京移転を機に、虚子が編集主宰を務めることになりました。

1902年 – 28歳「子規の死」

子規逝くや

1902年9月19日、正岡子規が病没します。子規庵に泊まり込んでいた虚子は、師である子規の死にふれて次の俳句を詠んでいます。

子規逝くや十七日の月明に

子規の遺した大きな仕事のうち、新聞「日本」の俳句欄は碧梧桐に継承されます。残る「ホトトギス」は虚子が継承しました。子規という大きな中心点を欠いた結果、その後の俳句界は「日本派」「ホトトギス派」に分かれることになったと言われています。

そうした中にあって、虚子は、子規の死を境に俳句と距離を置くようになりました。写生文、小説と虚子は新しい世界を模索するかのように、これらを「ホトトギス」に掲載してゆきました。

晩年の正岡子規

1905年 – 31歳「「吾輩は猫である」連載はじまる」

「ホトトギス」の多彩な執筆陣

1905年は「ホトトギス」が活況を呈します。その人気を支えたのは、なんといっても夏目漱石の「吾輩は猫である」の連載でしたが、他にも伊藤左千夫、寺田寅彦などが執筆陣として名を連ねていました。

1908年 – 34歳「国民新聞社入社と「ホトトギス」経営難に」

国民新聞に入社

1908年、虚子は国民新聞社に入社して、文芸部長となります。
一方「ホトトギス」は漱石の連載が終わると売上を落としていきます。経営難解消の一策として俳句雑詠欄を復活しますが、一年ほどで途切れてしまいます。

1910年 – 36歳「国民新聞社退社と鎌倉転居」

国民新聞社を退社

1910年、虚子は国民新聞社を退社します。「ホトトギス」の立て直しを図るためでした。発行所も移転(芝区南佐久間町)しています。

鎌倉への転居

同年、虚子は住まいを鎌倉・由比ヶ浜に移しています。

由比ガ浜の夕日を臨み、故郷・松山の海を思い出したかもしれない。

1928年 – 54歳「花鳥諷詠を唱える」

虚子の俳句に対する根本理念

1928年、虚子は俳句の講演会で、俳句の根本理念として「花鳥諷詠」を唱えました。虚子曰く「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂(いい)であります」(「虚子句集」)というように、人間をも自然の一部とし、そうした自然を詠うのが俳句であると定義づけています。

俳人の育成・輩出

この頃、盛んだったホトトギスの機能の一つが俳人の育成と輩出でした。昭和初年でみても、所謂4S(水原秋桜子、阿波野青畝、山口誓子、高野素十)がホトトギス輩出の俳句作家として知られています。

1931年 – 57歳「秋櫻子の離反」

新傾向俳句運動

1931年、ホトトギス4Sの一人である水原秋桜子は「自然の真と文芸上の真」を発表し、虚子の元を去りました。結社「馬酔木」を独立させ、そこには加藤楸邨、石田波郷、山口誓子なども加わっています。

1936年 – 62歳「世界へむけた俳句の敷衍」

欧州を中心に各国を遊説

1936年、虚子は欧州へと旅立ちます。上海、シンガポール、カイロなどを経てフランス、ベルギー、ドイツ、イギリスなどをまわり、俳句に関する講演を行いました。「渡仏日記」に旅の様子をまとめています。

1937年 – 63歳「碧梧桐の死」

たとふれば独楽のはぢける如くなり

1937年、虚子の無二の親友にしてライバルだった河東碧梧桐が病没します。1933年には俳壇から引退をしていましたが、虚子に与えた衝撃は大きく、その死を悼んで見出しの俳句を詠んでいます。

独楽のように、和気藹々とし、時に激しく衝突もした虚子と碧梧桐

1940年 – 66歳「日本俳句作家協会を設立」

会長に就任

1940年、日本俳句作家協会を設立し会長に就任しています。のち日本文学報国会俳句部会へと組織改編があり、引き続き部会長をつとめました。

1944年 – 70歳「疎開」

信州・小諸へ

1944年、大平洋戦争の敗戦色が濃くなる中、虚子は五女の高木春子一家とともに信州(長野県)の小諸へと疎開しています。小諸での生活は、1947年までの3年間に及んでおり、この間に「小諸雑記」「小諸百句」などを著しました。

今では、虚子の旧宅「虚子庵」と、その隣接地に設けられた高浜虚子記念館いずれも一般公開をされています。

1954年 – 80歳「叙勲」

俳人として初の勲章を受章

1954年、虚子は俳人として初めて文化勲章を授与されました。受章に際して、次の句を詠んでいます。

我のみの菊日和とはゆめ思はじ

子規、碧梧桐、漱石、その他多くの俳人や関係者の一人一人を思い返していたことが伺える句です。

1959年 – 85歳「虚子、逝く」

85年の俳句人生に終止符

1959年4月8日、虚子は自宅にて死去しました。墓地は神奈川県鎌倉市の寿福寺にあり、戒名は「虚子庵高吟椿寿居士」とあります。その辞世の句は

春の山屍(かばね)を埋めて空しかり

下五「空しかり」は「むなしかり」「くうしかり」とふた通りの読み方ができますが、後者の方が虚子の生き様に添っているように思われます。

虚子は鎌倉市の寿福寺に眠る

高浜虚子の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

俳句はかく解しかく味わう

日本史上最も俳句に精通した一人である高浜虚子が書く俳句の入門書。例句をどのように解釈すればよいのかという基本を繰り返すことで、少しずつ俳句が「読める」ようになります。

虚子五句集(上)(下)

上巻は、「500句」(昭和12年)、「550句」(昭和18年)、「600句」(昭和22年)を収録しています。下巻は、「650句」(昭和30年)、「750句」(昭和39年)のほか慶弔贈答句を収録しています。

俳句に慣れてくると、好きな句とそうでもない句(意味のわからない句)に大別できるようになります。○とか×など印をつけながら読むと大変有効だと思います。

新歳時記 増訂版(革装)

俳句の経験年数に関わらず、俳句を始めつづけていく上で必須になるのが「歳時記」です。ひと言でいえば「季語の分類集」なのですが、図鑑や百科事典と違うのは例句があるところです。

初学の頃は例句を真似て、慣れてきたら例句にない句をめざしてと段階に応じた利用ができる点もやはり便利です。また同じ歳時記でも定評のあるものとして、虚子による歳時記はおすすめできます。

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真空管ラジオで聴く【歴史的音源】 高浜虚子 本人肉声 俳句朗読

高浜虚子本人の肉声で読み上げられる俳句を聞くことができます。発音が明瞭で淡々と読まれています。抑揚があまりないので、飽きないか心配でしたが、耳から入ってくる俳句を感じ取るにはむしろこの方が適しているのでしょう。

【TBSスパークル】1959年4月8日 俳壇の巨匠 高浜虚子死す(昭和34年)

生前に取材していた虚子の様子を編集した動画です。晩年の虚子の元気な姿を見ることができます。歌声(唄い)も聴くことができます。

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坂の上の雲

主人公の一人である正岡子規は、高浜虚子の俳句の師匠です。子規が登場する場面で、若き日の高浜虚子(演者:森脇史登)や河東碧梧桐(演者:大藏教義)も登場します。脇役だけにそれほど出番はないものの、明治の俳句界の空気を感じることができる点でも稀少な作品だと感じます。

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高浜虚子についてのまとめ

今回は、高浜虚子について、その人生を年表にそって追いつつ、さまざまなエピソードにもできるだけ触れるかたちでご紹介しました。

虚子は、これほどの巨匠でありつつ、入門書をおおく手がけ世界に俳句を紹介するなど、俳句の門戸を広げるための活動に尽力しました。

子規は(虚子しかいない)と信じて後継指名をしたわけですが、子規の慧眼どおり、虚子は子規の残した仕事を勤め上げたと言えます。

この記事をきっかけに、一人でも多くの方が「俳句の面白さ」に触れて興味を持っていただけたら嬉しいです!最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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