高浜虚子とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や俳句、代表作品も紹介】

高浜虚子(たかはまきょし)は、明治から昭和にかけて活躍した俳人です。同郷の俳人である正岡子規の弟子となり、俳句を習いました。子規が亡くなった後は、とくに雑誌「ホトトギス」の発行を引継ぎ、尽力しました。

日本俳句界の巨星、高浜虚子

目の前の風景をそのまま写しとる俳句が得意で、自然を題材にした作品をおおく残しています。また、水原秋桜子、山口誓子、阿波野青畝、高野素十など、たくさんの俳人を育てたことでも知られています。

虚子は、はじめは親友の河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)と共に、正岡子規の弟子となって俳句を学びました。子規の死後は、俳句を碧梧桐に委ね、虚子は一旦俳句から離れました。ところが、碧梧桐はしだいに「有季定型」といった伝統的な俳句の道から外れてゆきます。

これをみた虚子は、碧梧桐と対決すべく俳句の世界に戻ります。次の俳句は、その頃の虚子が詠んだ句です。

春風や闘志抱きて丘に立つ

霜降れば霜を楯とす法の城

虚子は、古くからの仲間であった碧梧桐と闘うことで、伝統的な俳句を守ろうとしたのでした。

私が俳句に興味を持ちはじめた頃、とくに高浜虚子の「客観写生」「花鳥諷詠」という考え方にとてもつよい共感を覚えました。そんな私が、お伝えしたいのは、高浜虚子の魅力とともに、昨今ブームにもなっている俳句の楽しさです。最後まで読んでいただけたら嬉しいです!

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

高浜虚子とはどんな人物か?

名前高浜虚子
本名高浜清
誕生日1874年2月22日
生地愛媛県温泉郡長町新町
(現在の松山市湊町)
没日1959年4月8日
没地自宅
(神奈川県鎌倉市由比ヶ浜)
配偶者高浜糸子
(旧姓:大畠)
埋葬場所寿福寺
(神奈川県鎌倉市扇ヶ谷)

高浜虚子の生涯をハイライト

高浜虚子は、1874年愛媛県松山町長町に、父・池内政忠、母・栁の四男として生まれました。1885年、伊予尋常中学校で一歳年上の河東碧梧桐と同級となり、その後、同郷の俳人・正岡子規と出会います。1891年には帰省した子規と面会し「虚子」の号を授けられました。

1892年~1894年にかけて虚子は碧梧桐とともに京都第三高等中学校~先代第二高等学校と学びますが、ともに文学の道を志し、子規を頼って状況しています。その後、子規の門弟として徐々に頭角を現します。

1898年頃の子規宅に集う俳人たち。虚子は子規により世間に送り出されたのでした。

1898年には、前年に柳原極堂が松山において刊行した「ホトトギス」を引きとり、子規の後見のもと東京での発行人となりました。1907年の子規病没後、虚子は軸足を小説に移し始めます。一方、子規のもう一つの主要な仕事であった新聞・日本の俳句欄は、盟友・碧梧桐が継承することとなりました。碧梧桐もまた、子規の死後に従来の俳句の伝統をやぶるような破調の俳句「新傾向俳句」を主唱するようになります。

これを見た虚子は、俳壇に復帰すると以後は伝統俳句を守る「守旧派」を宣言し、「ホトトギス」をもって全国的な影響力を持つようになりました。以後、1959年に85歳で亡くなるまで、虚子は俳句を詠みつづけました。その数はなんと20万句あまりと言われています。

高浜虚子の故郷は?

高浜虚子の故郷は、今では愛媛県と呼ばれますが、江戸時代つまり虚子の生まれる7、8年ほど前は「松山藩」とよばれ、久松松平家の殿様が治める土地でした。

松山藩4代藩主の松平定直(1660〜1720年)は俳句好きとして有名で、芭蕉の弟子の其角や嵐雪に学んだと言われています。後年、松山は正岡子規、高浜虚子らを輩出して有名になりますが、その種は江戸時代の殿様によって撒かれていたと言えます。

虚子の生まれ故郷・松山のシンボル、松山城

高浜虚子の性格は?

一途で頑固に自分を貫く…高浜虚子の性格はそんな風に感じられます。

例えば、中学在学中のこと。文学を志す虚子は、東京の子規に「森鴎外ないし幸田露伴の弟子になれるよう取り次いでほしい」と言っています。子規は冷静にこれを制止しますが、結局は中学をやめ上京してしまいます。

また、子規の死後、俳句についてのさまざまな考え方が現れるようになります。その都度、虚子は子規の唱えた「写生」という考え方にこだわり、自ら「守旧派」と宣言しています。

信じた道をひたすら突き進むという虚子の性格は、若き日のまま終生変わることはなかったと言えます。

虚子は、自ら敷いたレールを走り続けた

虚子と河東碧梧桐は親友にしてライバルの関係

若き日の河東碧梧桐、虚子の唯一無二の親友にしてライバルだった

14歳のころから人生をともに歩んだ虚子と河東碧梧桐。京都時代には下宿に「虚桐庵」と名づけてしまったり、仙台からともに学業を捨てて子規のもとに身を寄せたりと常に行動を共にする仲でした。俳句だけでなく、お互いに興味を持っていた謡や漢詩まで一緒に取り組むほど。

2人の仲が大きく変化するのは、師である正岡子規の死後です。俳句観を違えた2人は交流の機会が減り、会っても俳句の話はしなかったのだとか。それでも俳句以外の場面例えば謡は一緒にやるなど絶交してしまうわけではありませんでした。1937年に碧梧桐が亡くなる直前も虚子は知らせを受け枕頭に駆けつけています。

高浜虚子の死因は?

高浜虚子の死因は脳溢血とされています。虚子85歳の昭和34年4月1日。来客の多かったこの日の夜8時過ぎ、疲労を覚えた虚子ははやめに床に就いたそうです。

その後しばらくして脳出血を起こし、危篤に陥ります。周囲の必死の看護もむなしく、1週間後の4月8日午後4時頃に息を引き取りました。明治、大正、昭和と3つの時代を駆け抜けた文豪らしく、その死顔は安らかな寝顔のようであったとのことです。

虚子は安らかな最期をむかえ、旅立った

高浜虚子の名言は?

俳句は自然(花鳥)を詠い、また、自然(花鳥)を透して生活を詠い人生を詠い、また、自然(花鳥)に依って志を詠う文芸である。

俳句への道

私等は死を前にして生活しつつある。死を逃避するのではない。逃避しようとしても逃避出来るものではない。唯営々として生活しつつある。その生活を包むものに花鳥風月がある。花鳥風月を透して私等の生活を諷うのが俳句である。

俳句への道

春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂(いい)であります。

虚子句集

高浜虚子の有名な俳句は?代表作を紹介

俳句で有名な高浜虚子。なんと死ぬまでの間に20万句を詠んだと言われています。新卒から定年までのサラリーマンの勤続年数を大まかに40年と考え比較すると、年に5千句、月に416句、日に13句ほどを詠まねばなりません。まさに驚異的な作句数といえます。

その膨大な虚子の句の中で、筆者おすすめの21句をご紹介します(各句の並びは季節のみ分けてありほかは順不同としました。また一部()内にルビを振っています)。

春の俳句

明るい光を感じる春の句

うなり落つ蜂や大地を怒(いかり)這ふ

翅をバタつかせながら地面を跳ねている蜂は怒り狂うかのよう。

雲静かに影落し過ぎし椄木(つぎき)かな

接ぎ木した植栽と上空の雲の対比に、悠久の時の流れを感じる。

濡縁にいづくとも無き落花かな

どこからとんできたのか、濡れ縁に桜の花が散っている驚き。

土佐日記懐にあり散る桜

紀貫之『土佐日記』を懐に、桜舞う道を歩いてゆく快さ。

ぱつと火になりたる蜘蛛や草を焼く

草を焼いていると、どこからか現れた蜘蛛がそのまま燃え尽きてしまった寂しさ。

夏の俳句

広がりある空間を感じる夏の句

大夕立(おおゆだち)来るらし由布のかきくもり

夕立がくる匂いがする、由布岳はすでに厚い雲に覆われている。

松風に騒ぎとぶなり水馬(みずすまし)

みずすまし=あめんぼう達が忙しく右往左往している、それも命のすがた。

金亀子(こがねむし)擲つ闇の深さかな

コガネムシを夏の夜の闇に放る。そのなんと深いことだろう。

夏草に黄色き魚を釣り上げし

川で魚を釣り上げた、その黄色い命が夏草の上で力いっぱい生きている。

虹立ちて雨逃げて行く広野かな

虹が立つと、雨雲は広野の空を逃げてゆくかのよう。

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