高浜虚子とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や俳句、代表作品も紹介】

1892年 – 18歳「京都第三高等中学校入学」

虚桐庵時代

1892年、伊予尋常中学校を卒業した虚子は、京都第三高等中学校に入学し、京都市吉田町に下宿しました。やがて碧梧桐も加わり、下宿は「虚桐庵」と呼ばれました。

この頃の虚子は文学に傾倒しており、俳句という小さな文芸よりも、将来は小説家となることを考えていました。文通をしていた東京の子規には、森鴎外や幸田露伴の弟子になれるよう斡旋してほしい旨を書き送っています。これに対し、子規は「学問をやめてしまって、どう身を立てるつもりか」と諭したといわれています。

1894年に京都三高の学科改変が行われたため、虚子と碧梧桐は仙台の第二高等中学校に編入学をしています。しかし、文学への思い冷めやらず、ふたりは仙台二高を辞め、東京へと向かいました。

虚子・碧梧桐のふたりが足繁く通うことになる、東京・根岸の子規庵

1895年 – 21歳「道灌山事件おこる」

子規の後継者となることを辞退した虚子

1895年、正岡子規は新聞日本の記者として日清戦争に従軍します。その帰路の船中にて喀血した子規は神戸、須磨を経由した後、故郷松山で保養します。なお、神戸へは虚子、碧梧桐ともに駆けつけ病床の子規を見舞っています。

子規が小康を得て帰京したのは12月。ほどなく虚子を道灌山へ誘い、後継者となってほしいと意思を伝えました。この申し出に対し、虚子は辞退します。これが世にいう「道灌山事件」です。

1897年 – 23歳「「ほとゝぎす」創刊と結婚」

「ホトトギス」創刊

1897年、柳原極堂が松山において「ホトトギス」(※ )を創刊し、子規、内藤鳴雪とともに虚子と碧梧桐もこれに協力しました。
※ 当初の表記は「ほとゝぎす」とひらがな表記でしたが、本稿では便宜上「ホトトギス」と表記します。
同年、虚子は大畠糸子と結婚します。

翌1898年、「ホトトギス」発行所は東京(神田錦町)に移転され、俳句・和歌・写生文などの散文を加えた文芸誌というつくりになりました。また、この東京移転を機に、虚子が編集主宰を務めることになりました。

1902年 – 28歳「子規の死」

子規逝くや

1902年9月19日、正岡子規が病没します。子規庵に泊まり込んでいた虚子は、師である子規の死にふれて次の俳句を詠んでいます。

子規逝くや十七日の月明に

子規の遺した大きな仕事のうち、新聞「日本」の俳句欄は碧梧桐に継承されます。残る「ホトトギス」は虚子が継承しました。子規という大きな中心点を欠いた結果、その後の俳句界は「日本派」「ホトトギス派」に分かれることになったと言われています。

そうした中にあって、虚子は、子規の死を境に俳句と距離を置くようになりました。写生文、小説と虚子は新しい世界を模索するかのように、これらを「ホトトギス」に掲載してゆきました。

晩年の正岡子規

1905年 – 31歳「「吾輩は猫である」連載はじまる」

「ホトトギス」の多彩な執筆陣

1905年は「ホトトギス」が活況を呈します。その人気を支えたのは、なんといっても夏目漱石の「吾輩は猫である」の連載でしたが、他にも伊藤左千夫、寺田寅彦などが執筆陣として名を連ねていました。

1908年 – 34歳「国民新聞社入社と「ホトトギス」経営難に」

国民新聞に入社

1908年、虚子は国民新聞社に入社して、文芸部長となります。
一方「ホトトギス」は漱石の連載が終わると売上を落としていきます。経営難解消の一策として俳句雑詠欄を復活しますが、一年ほどで途切れてしまいます。

1910年 – 36歳「国民新聞社退社と鎌倉転居」

国民新聞社を退社

1910年、虚子は国民新聞社を退社します。「ホトトギス」の立て直しを図るためでした。発行所も移転(芝区南佐久間町)しています。

鎌倉への転居

同年、虚子は住まいを鎌倉・由比ヶ浜に移しています。

由比ガ浜の夕日を臨み、故郷・松山の海を思い出したかもしれない。

1928年 – 54歳「花鳥諷詠を唱える」

虚子の俳句に対する根本理念

1928年、虚子は俳句の講演会で、俳句の根本理念として「花鳥諷詠」を唱えました。虚子曰く「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂(いい)であります」(「虚子句集」)というように、人間をも自然の一部とし、そうした自然を詠うのが俳句であると定義づけています。

俳人の育成・輩出

この頃、盛んだったホトトギスの機能の一つが俳人の育成と輩出でした。昭和初年でみても、所謂4S(水原秋桜子、阿波野青畝、山口誓子、高野素十)がホトトギス輩出の俳句作家として知られています。

1931年 – 57歳「秋櫻子の離反」

新傾向俳句運動

1931年、ホトトギス4Sの一人である水原秋桜子は「自然の真と文芸上の真」を発表し、虚子の元を去りました。結社「馬酔木」を独立させ、そこには加藤楸邨、石田波郷、山口誓子なども加わっています。

1936年 – 62歳「世界へむけた俳句の敷衍」

欧州を中心に各国を遊説

1936年、虚子は欧州へと旅立ちます。上海、シンガポール、カイロなどを経てフランス、ベルギー、ドイツ、イギリスなどをまわり、俳句に関する講演を行いました。「渡仏日記」に旅の様子をまとめています。

1937年 – 63歳「碧梧桐の死」

たとふれば独楽のはぢける如くなり

1937年、虚子の無二の親友にしてライバルだった河東碧梧桐が病没します。1933年には俳壇から引退をしていましたが、虚子に与えた衝撃は大きく、その死を悼んで見出しの俳句を詠んでいます。

独楽のように、和気藹々とし、時に激しく衝突もした虚子と碧梧桐

1940年 – 66歳「日本俳句作家協会を設立」

会長に就任

1940年、日本俳句作家協会を設立し会長に就任しています。のち日本文学報国会俳句部会へと組織改編があり、引き続き部会長をつとめました。

1944年 – 70歳「疎開」

信州・小諸へ

1944年、大平洋戦争の敗戦色が濃くなる中、虚子は五女の高木春子一家とともに信州(長野県)の小諸へと疎開しています。小諸での生活は、1947年までの3年間に及んでおり、この間に「小諸雑記」「小諸百句」などを著しました。

今では、虚子の旧宅「虚子庵」と、その隣接地に設けられた高浜虚子記念館いずれも一般公開をされています。

1954年 – 80歳「叙勲」

俳人として初の勲章を受章

1954年、虚子は俳人として初めて文化勲章を授与されました。受章に際して、次の句を詠んでいます。

我のみの菊日和とはゆめ思はじ

子規、碧梧桐、漱石、その他多くの俳人や関係者の一人一人を思い返していたことが伺える句です。

1959年 – 85歳「虚子、逝く」

85年の俳句人生に終止符

1959年4月8日、虚子は自宅にて死去しました。墓地は神奈川県鎌倉市の寿福寺にあり、戒名は「虚子庵高吟椿寿居士」とあります。その辞世の句は

春の山屍(かばね)を埋めて空しかり

下五「空しかり」は「むなしかり」「くうしかり」とふた通りの読み方ができますが、後者の方が虚子の生き様に添っているように思われます。

虚子は鎌倉市の寿福寺に眠る

高浜虚子の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

俳句はかく解しかく味わう

日本史上最も俳句に精通した一人である高浜虚子が書く俳句の入門書。例句をどのように解釈すればよいのかという基本を繰り返すことで、少しずつ俳句が「読める」ようになります。

虚子五句集(上)(下)

上巻は、「500句」(昭和12年)、「550句」(昭和18年)、「600句」(昭和22年)を収録しています。下巻は、「650句」(昭和30年)、「750句」(昭和39年)のほか慶弔贈答句を収録しています。

俳句に慣れてくると、好きな句とそうでもない句(意味のわからない句)に大別できるようになります。○とか×など印をつけながら読むと大変有効だと思います。

新歳時記 増訂版(革装)

俳句の経験年数に関わらず、俳句を始めつづけていく上で必須になるのが「歳時記」です。ひと言でいえば「季語の分類集」なのですが、図鑑や百科事典と違うのは例句があるところです。

初学の頃は例句を真似て、慣れてきたら例句にない句をめざしてと段階に応じた利用ができる点もやはり便利です。また同じ歳時記でも定評のあるものとして、虚子による歳時記はおすすめできます。

おすすめの動画

真空管ラジオで聴く【歴史的音源】 高浜虚子 本人肉声 俳句朗読

高浜虚子本人の肉声で読み上げられる俳句を聞くことができます。発音が明瞭で淡々と読まれています。抑揚があまりないので、飽きないか心配でしたが、耳から入ってくる俳句を感じ取るにはむしろこの方が適しているのでしょう。

【TBSスパークル】1959年4月8日 俳壇の巨匠 高浜虚子死す(昭和34年)

生前に取材していた虚子の様子を編集した動画です。晩年の虚子の元気な姿を見ることができます。歌声(唄い)も聴くことができます。

おすすめドラマ

坂の上の雲

主人公の一人である正岡子規は、高浜虚子の俳句の師匠です。子規が登場する場面で、若き日の高浜虚子(演者:森脇史登)や河東碧梧桐(演者:大藏教義)も登場します。脇役だけにそれほど出番はないものの、明治の俳句界の空気を感じることができる点でも稀少な作品だと感じます。

関連外部リンク

高浜虚子についてのまとめ

今回は、高浜虚子について、その人生を年表にそって追いつつ、さまざまなエピソードにもできるだけ触れるかたちでご紹介しました。

虚子は、これほどの巨匠でありつつ、入門書をおおく手がけ世界に俳句を紹介するなど、俳句の門戸を広げるための活動に尽力しました。

子規は(虚子しかいない)と信じて後継指名をしたわけですが、子規の慧眼どおり、虚子は子規の残した仕事を勤め上げたと言えます。

この記事をきっかけに、一人でも多くの方が「俳句の面白さ」に触れて興味を持っていただけたら嬉しいです!最後までお読みいただき、ありがとうございました。

1 2 3

2 COMMENTS

コメントを残す