高浜虚子とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や俳句、代表作品も紹介】

秋の俳句

悠久の時間を感じる秋の句

遠山に日の当りたる枯野かな

曇り空広がる枯野に立つと、遠くの山には陽光がさし神々しさに息をのむ。

秋天の下(もと)に野菊の花弁欠く

澄みわたる秋空のもと、野菊の花びらの欠けたところが気になっている。

われの星燃えてをるなり星月夜

俺の星が盛んに煌めき燃えている、月のない満点の星空のこと。

相慕ふ村の灯二つ虫の声

虫のなく夜、村には互いを慕うかのように灯りが灯っている。

桐一葉日当りながら落ちにけり

桐の葉が一枚、秋の日差しを受けながら悠然と落ちていったなぁ。

冬の俳句

しんと張り詰めた静寂を感じる冬の句

大空に伸び傾ける冬木かな

冬の乾いた空に、春が待ち遠しいのか、冬木の枝が伸びていることだよ。

流れ行く大根の葉の早さかな

大根の葉が冬の冷たい川面を流れてゆく、その早いこと。

凍蝶(いてちょう)の己が魂追うて飛ぶ

冬の空を蝶が舞っている。まるで自分自身の魂を追いかけてるかのよう。

白雲と冬木と終(つい)にかかはらず

空を往く雲を眺めていたが、とうとう冬木と重なることなく過ぎ去ってしまった。

雑炊に非力ながらも笑ひけり

雑炊ができあがると、力を失ったはずの体からも笑いがこみ上げてくる。

新年の俳句

去年今年貫く棒の如きもの

過ぎ去った去年とおとずれた新しい年。しかし変わらない棒の如く貫く信念がある。

高浜虚子の功績

功績1「俳句の伝統を守り抜いた」

東京・根岸の子規庵

俳句は短歌と並んで短い詩系です。季語や定型(575)といったルールもあり、このルールに従いながらも絶えず反発をくりかえしてその歴史を紡いできました。とりわけ、子規以後にその動きが活発となります。1つは河東碧梧桐らによる「新傾向俳句運動」、もう1つは水原秋桜子山口誓子らによる「新興俳句運動」です。

こうした俳句の革新をもとめる動きに対し、高浜虚子のとった態度は「守旧」、つまり伝統俳句を守る立場でした。虚子の「ホトトギス」はその総本山として存在感を強めます。虚子が頑なに俳句の伝統を守ることが、却って俳句界全体の活性化に繋がったといえます。

功績2「多くの俳人を育てた」

柔和な雰囲気の中にも眼光するどい往時の虚子

虚子の功績には、「ホトトギス」を通じて非常にたくさんの俳人を輩出したことも挙げられます。昭和3年、俳人の山口青邨はホトトギスの講演会において「東に秋素の二Sあり! 西に青誓の二Sあり!」と発言し、俳壇の耳目を集めました。水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝、山口誓子のそれぞれをひと文字ずつとって「ホトトギスの四S」と呼ばれました。

そのほかにも飯田蛇笏、中村草田男ら有名俳人を多く育てた高浜虚子。「選は創作なり」という言葉を残したことからも、後進の育成に力を入れていたことがわかります。種田山頭火など一部の無季・自由律の俳人を除いて、多くの俳人は「ホトトギス」にゆかりを持っているともいわれています。

功績3「意外?『吾輩は猫である』を命名 」

『吾輩は猫である』単行本化された時の装丁

夏目漱石の不朽の名作『吾輩は猫である』。この作品は、当初、高浜虚子の「ホトトギス」にて連載し好評を博しています。じつはこの作品タイトルを名づけたのが高浜虚子だったとの説があります。虚子自身が書き残したところによると、「気がまぎれるだろう」と漱石に文章をかくことを進めたところ、書き上げられた作品だったようです。

はじめ『猫伝』と名づけようとしていた漱石。そこへ虚子が「書き出しの『吾輩は猫である』をそのままタイトルにしたらどうか」と提案します。漱石が了解したので虚子がタイトルを描きなおし活版所に廻した、とあります。もし虚子が直していなかったら、いまも『猫伝』と呼ばれる作品だったかもしれません?

高浜虚子にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「師・正岡子規の後継指名を拒否!〜道灌山事件」

1895(明治28)年、正岡子規は高浜虚子を根岸の道灌山に誘い、後継者となってほしいと告げます。子規は自身の余命をはかり、残す仕事の重さと後継者たるものの器とを測り、虚子こそ…との思いだったわけです。ところが、あろうことか虚子はこの要請を拒否してしまいます。

これがいわゆる「道灌山事件」です。この拒絶について、明確な理由は分かっていません。子規の求める学問を虚子が嫌ったため、或いは俳句に関わる意見の相違があったためと考えられています。虚子が「後継となること」を、正岡家(子規の妹・律)の婿養子となることと解釈したのではないかと考える説もあるようです。

道灌山にある浄光寺

都市伝説・武勇伝2「親友の恋人を略奪!?」

高浜虚子といえば、必ず並び称されるのが親友・河東碧梧桐です。同じ中学で学び、正岡子規の弟子となり、病身の子規を看病するなどほとんど一心同体のようでした。ところが、じつは高浜虚子の妻・大畠糸子は、河東碧梧桐の恋人(婚約者とも)だったという説があります。

しかも碧梧桐が入院中にその「略奪」が起こったようで、碧梧桐が退院してみると糸子の態度が余所余所しい、というものです。糸子は虚子との間に二男六女をもうけました。碧梧桐にしてみれば、さぞ心中複雑だったことでしょう。虚子は…どんな思いだったのでしょうか。

盟友であり、ライバルでもあった河東碧梧桐

都市伝説・武勇伝3 「虚子晩年の純愛と小説『虹』」

俳人として名高い高浜虚子ですが、本来の志望は小説にあったと言われています。実際、俳句を休止して散文や小説を書いていた時期もあります。その中で小説「虹」から純愛のエピソードをご紹介します。

虚子に愛弟子・森田愛子という女性がいました。福井県三国の人で結核を患い、療養を続けていました。虚子70歳の小諸時代のことであり、24歳の愛子には恋人がいましたので、純愛といっても師弟愛を指すと考えられます。

虚子が三国に愛子を見舞った帰りのこと。虚子をおくる汽車の車窓に虹を見た愛子は、
「今度あの様な虹を渡って鎌倉(虚子の元)へ行こう」と呟きます。

小諸に帰り、空に虹を見た虚子は、愛子に宛て次の句を送ります。

虹立ちて忽ち君のある如し

虹消えて忽ち君の無き如し

これに応えようと、死の直前の愛子は虚子に宛て返句を送ります。

ニジキエテ スデニナケレド アルゴトシ

この返句からほどなく愛子の命は燃え尽きます。

愛子の死後も虚子は句を送りました。

虹消えて音楽は尚続きをり

虹消えて小説は尚続きをり

虚子は虹を見るたびに、若くして散った愛弟子を思い返したと言われています。

虹のイメージ

高浜虚子の略歴年表

1874年
誕生

高浜虚子(本名:高浜清)は、1874年に愛媛県温泉郡長町新町(現在の松山市湊町)に生を受けました。もと松山藩の剣術監であった池内政忠の四男として生まれた虚子は、母の影響で古典文学に触れる機会があったと言われています。松山城のすぐ近くで幼少時代を過ごしました。

1888年、虚子は伊予尋常中学校に入学し、河東碧梧桐と出会いました。

1891年
子規との出会い

1891年、中学3年に進級した虚子は、碧梧桐を通じて同郷の先輩である正岡子規を知り、当時東京帝国大学の学生だった子規と文通を開始します。同じ年には子規から俳号「虚子」を与えられるなど、虚子にとって一生涯の出会いとなりました。

1892年、中学を卒業して虚子は京都第三高等中学校に入学し、翌年には碧梧桐も合流しています。1894年、京都三高の学科改変を受け、碧梧桐とともに仙台の第二高等中学校に転入学しました。しかし、ほどなく中退し東京・根岸の子規のもとへと向かい、名実ともに子規門下となります。

1895年
道灌山事件

1984年、病身をおして日清戦争の従軍記者となった子規は、帰路の船中にて大喀血をします。この時に自身の命数を測った子規は、虚子を後継者として据えようと決意しました。しかし、道灌山の茶店でそのことを伝えられた虚子は、これを拒否しています(道灌山事件)。

1898年

1898年、虚子は子規から雑誌「ホトトギス」の編集業務を任されるようになりました。この前年には、虚子は河東碧梧桐の元恋人であった大畠糸子と結婚をしています。

1902年、正岡子規が病没すると「ホトトギス」を虚子が、新聞「日本」の俳句欄を碧梧桐がそれぞれ継承することになりました。また、この頃から虚子と碧梧桐の間で俳句に対する見解の相違が表面化します。その後の虚子は俳句と距離を置き、小説を志向するようになっていきました。

1910年

1910年、虚子は鎌倉市に転居しています。この転居の理由には、虚子の家族の病や子規没後の生活を一新させることなど様々な事柄が重なっていたようです。ひとつには、転居先の由比ヶ浜に故郷の松山を想起させる環境があったということもありそうに感じられます。

1913年、虚子は俳壇に復帰しています。このとき詠んだ俳句が有名な「春風や闘志いだきて丘に立つ」「霜降れば霜を楯とす法の城」という句です。

子規の死後、碧梧桐の俳句は伝統的な俳句観をうち壊すかのように無季(季語なし)・自由律(5・7・5のリズムによらない)俳句へと傾斜していきました。いわゆる「新傾向俳句運動」とよばれるもので、碧梧桐はこの牽引者となったのでした。

これに対して、虚子の目指した俳句のすがたとは、子規の提唱した「客観写生」を基礎とし、俳句の伝統的な5・7・5の定型と季語を守ろうというものでした。上の句の「闘志」とはこうした闘いをさし、とりわけ碧梧桐との雌雄を決する覚悟を詠んだものといわれています。

1937年

1937年に虚子は芸術院会員となり、1940年には日本俳句作家協会会長(のち日本文学報国会俳句部会長)に就任します。

また、この年、かつての盟友・河東碧梧桐が病没しました。1933年に俳壇を引退し、最期は腸チフスと敗血症を合併しての病死でした。その死を悼んで、虚子は次の俳句を詠んでいます。

たとふれば独楽のはぢける如くなり

1944年、虚子は鎌倉を離れ長野県小諸市に疎開をします。1947年までの4年間を小諸で過ごしました。滞在中のようすを「小諸雑記」に、詠んだ俳句は「小諸百句」にまとめました。

1954年には、文化勲章を受章しています。

1959年

1959年4月8日、虚子は脳溢血のため鎌倉・由比ヶ浜の自宅にて逝去しました。享年85歳。生涯20万句を詠んだといわれるほどに多くの俳句を詠みました。その生涯は日本俳句史上の巨星として、現在の俳句界にも大きな影響を与えています。

高浜虚子の具体年表

1874年 – 0歳「愛媛県に生まれる」

高浜虚子、生誕

1874年、高浜虚子(本名:池内清)は愛媛県松山市に生を受けました。もと松山藩士で剣術監、祐筆などをつとめた池内政忠の五男でした。

高浜姓を継ぐ

9歳のころ、祖母方の家系である高浜姓を継ぎ、この時から高浜清となりました。

1888年 – 14歳「伊予尋常中学校入学と運命の出会い」

河東碧梧桐との出会い

伊予尋常中学校に入学した虚子は、一歳年上の河東碧梧桐と同級になります。無二の親友であり、後に宿命のライバルとなる碧梧桐との出会いは、まさに運命の出会いでした。

正岡子規、そして俳句との出会い

虚子は、河東碧梧桐の紹介により正岡子規と文通を開始しています。当時、子規は東京帝国大学の学生でした。帰省中の子規と会い、俳句の指導を受けるようになります。「虚子」という俳号を与えてくれたのも子規でした。師との出会い、俳句との出会いもまた運命の出会いでした。

若き日の正岡子規、のちに虚子の師となる
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