日本航空墜落事故の機長の遺体は顎しか見つかっていない?真相を調査

日航機墜落事故の被害者のご遺体の様子は?

生存者の方は後部座席に座っていた人だった
出典:K-Journal

日航機墜123便落事故の被害者の遺体の様子ですが、飛行機の前部に乗っていた人の遺体の損傷が特に酷く、後部の方が炎上を免れ遺体の損傷が少なかったといわれています。

飛行機は墜落時に前部と後部で分離していますが、前部は高速で地面に激突し、爆発炎上してしまいました。それに対して後部は山の斜面を滑り降りていき、炎上しなかったために二次被害を免れています。そのため生存者4名も後部の座席に座っている方たちでした。

事故現場は酷い様子だった
出典:Wikipedia

現場に駆けつけたカメラマンの方々の証言によると、遺体は散らばっており、歩いていると航空機の残骸の上を歩きながら足元の遺体も踏んでしまうような状況だったといいます。遺体も墜落の衝撃で爆発炎上していたこともあり、男女の区別がつかない程焼け焦げている人や、遺体に別の人がめり込んでいるなど想像を絶する状態だったそうです。

高濱機長はどんな人物だった?

最後まで諦めずに闘い続けた高濱機長
出典:THE エギング鳥賊追い人

JAL123便の機長を務めた高濱雅己さんはどういった人物だったのか?経歴やご家族のこと、123便のボイスレコーダーに残されたやり取りなどを紹介していきます。

海上自衛隊出身のパイロットだった

高濱機長は海上自衛隊のパイロットだった
出典:Wikipedia

高濱機長は事故が起きた1985年に49歳であり、日本航空運航部門指導教官を務め、総フライト時間1万時間を超えるベテランパイロットでした。高濱機長は1955年に海上自衛隊に入社し、自衛隊でも熟練パイロットとして活躍し、最終的に教官まで務めています。

その後富士航空を経て1966年に日本航空に入社し、事故が起きた8月12日には副操縦席で副操縦士の指導をしていたそうです。

ボイスレコーダーで闘う様子が残されていた

ボイスレコーダーには何とか墜落を回避しようとする闘う姿が残されていた
出典:見えない翼がいつか羽ばたけますように…

事故の後に高濱さんのご家族は、多くの乗客遺族により、「判断が悪かった」と誹謗中傷を受けていたといいます。しかし回収されたボイスレコーダーが15年後に公開されたことにより、高濱機長たちの事故と闘う姿が分かり、高濱さんへの非難の声はなくなったということです。

ボイスレコーダーには「頑張れ」と他のクルーを励ます声や、「気合い入れろ!」「頭(機首)上げろ」と事故と闘う記録が刻銘に残されていました。そして墜落30秒前に、

「パワー・パワーフラップ」
「上げろ!」

というやり取りで途絶えてしまい、御巣鷹の尾根に激突し墜落しています。このボイスレコーダーは事故の風化を危惧した関係者が、匿名でマスコミにリークしたものだそうです。そして現在も遺族の方が会長を務める「日航123便墜落の真相を明らかにする会」でボイスレコーダーの全面開示を求め、裁判を起こしています。

現在も被害者遺族はボイスレコーダー開示の控訴の準備している

しかし2022年に東京地裁は「日本航空との損害賠償に対する裁判の和解は成立しており、日本航空に情報提供の義務があったとしても消滅している」と訴えを退けています。

娘さんはCAとして活躍している

娘の洋子さん
出典:可愛がり掃除のブログ

高濱機長の娘である高濱洋子さんは、現在日本航空の客室乗務員として活躍しています。事故当時高校3年生だったという洋子さんですが、「父が事故に遭い、とても無念であっただろう最期を思うと、その意志を空で受け継いでいきたいという思いでCAになりました」という思いから、父と同じ空の仕事を選んだそうです。洋子さんは父の写真を、初フライトの時からお守りとして身につけているといいます。

事故直後に洋子さんの自宅には、「519人も殺しておいて、のうのうと生きているな!」など沢山の電話がかかってきたそうです。その度に母の淑子さんは「申し訳ございません」と何度も謝っていたといいます。しかしボイスレコーダーが公開されてから、「本当に最後まで頑張ってくれたんだね」「ありがとう」という言葉をかけてもらえるようになったそうです。

事故当時の洋子さん
出典:可愛がり掃除のブログ

そして洋子さんは「父を誇りに思う」とインタビューに答えており、父の意志を受け継ぎ空のお仕事を続けているのです。

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