ヨシフ・スターリンは、ソビエト連邦(現在でいうロシア)の書記長をつとめ、ヒトラーと並ぶ20世紀の独裁者といわれた人物です。「書記長 」とは、ソ連の最高指導者であり、国全体をまとめる仕事のこと。
元ソビエト連邦大統領であるレーニンとともにロシア革命に参加し政権の一員に、その後権力を掌握しました。強力なリーダーシップにより、ソ連の重工業を重点的に発展させ、工業化を推し進めるとともに、軍事力を強化してソ連を大国へと押し上げました。
ヒトラー率いるナチスドイツとの戦いでは、ソ連のリーダーとして戦争を勝利へと導きました。
その一方、国民の生活は顧みず、国内では物資の欠乏から多くの餓死者を出しました。権力の座に着く過程では、強引にライバルたちを排除し権力者になります。
自分の敵と見なした人々を処刑したり収容所送りにしたりと、非道な独裁者という言葉にふさわしいエピソードも多い人物です。
ヒトラーよりはちょっとマイナーで、さらには冷酷な悪い人といったイメージの多いスターリン。本当はいったいどんな人だったのか、歴史、特に第2次世界大戦前後の世界史が大好きな筆者が彼の人物像を紐解いていきたいと思います。
この記事を書いた人
スターリンとはどんな人物か?
名前 | ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン |
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ロシア語表記 | Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин |
誕生日 | グルジアのゴリ市 |
生地 | 1878年12月18日 |
没日 | 1953年3月5日 |
没地 | モスクワ クレムリンの別荘 |
配偶者 | 最初の妻 エカテリーナ・スワニーゼ、2番目の妻 ナジェージダ・アリルーエワ |
埋葬場所 | モスクワ クレムリン |
スターリンの生涯をハイライト
スターリンは1874年にロシア帝国領グルジア(現在のジョージア)で生まれました。父は靴工場を経営していましたが、経営が悪化。酒浸りの毎日を送る父を見かねた母はスターリンを連れて家を出て、各地を転々とします。
それでも、息子に教育を受けさせたかった母はゴリの街の司祭に頼み、付属の神学校でスターリンを学ばせました。その後、スターリンはグルジアの首都トビリシの神学校で学びます。しかし、校風が合わず退学してしまいました。
退学後、スターリンはロシア帝国打倒を目指す革命家になりますが、ロシア帝国の警察当局から危険人物と認定され逮捕、シベリアに流刑されてしまいます。流刑から帰ったスターリンはレーニン率いるボリシェヴィキの一員として活動しました。
徐々に頭角を現したスターリンはボリシェヴィキ内での地位を確固たるものとし、書記長に就任しました。1923年にレーニンが死去するとスターリンはトロツキーをはじめとするライバルたちを次々と粛清し独裁権を握ります。
1941年、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻すると、スターリンは配下の赤軍に祖国の死守を命じ徹底抗戦させました。この結果、多くの犠牲を払いながらもドイツとの戦争に勝利し、第二次世界大戦の戦勝国となります。
その後、西側諸国と対立する冷戦時代となりますが、スターリンの独裁は続きました。1953年、スターリンは脳内出血によって死去します。73歳でした。
ゴリという街に生まれたスターリン
スターリンは当時のロシア帝国南部にあるコーカサスと呼ばれている地方、現在はジョージア(グルジア)という国に属しているゴリという街に生まれました。グルジアはモスクワから遠く離れた中央アジアにある辺境地域で、実はスターリンはヨーロッパ系ではなくアジア系の血を引く人間でした。
1941年に日ソ中立条約を結ぶため、松岡洋右がモスクワを訪れた時、スターリンは松岡に対して「我々はアジア人だ」と言ったといいます。これには日本に対するリップサービスが含まれていたとしても、彼がグルジア人という自分の出自に強い誇りをもっていたことは事実のようです。
スターリンは子供の頃からグルジアの自然や人々を讃える詩を新聞に投稿していましたし、彼の初めてのペンネームである「コーバ」は、グルジア人作家の書いた冒険小説に出てくる主人公の名前でした。
そして、ラブレンチー・ベリヤやアナスタス・ミコヤンなど、後にスターリンの側近となった人物の中にもコーカサス出身者が多くいたのは偶然ではないでしょう。
ちなみにスターリンの誕生日については2つの説があり、長らくソ連共産党の公式文書から1879年12月21日に生まれたとされてきましたが、現在は、スターリンが神学校を卒業した際の証明書などにも記載されている1878年12月18日とするのが一般的です。
自己顕示欲が強く冷酷な気性の持ち主
スターリンは自己顕示欲・権力欲が強く、冷酷な気性の持ち主でした。ロシアの少数民族グルジア人であり、貧困層の出身でだったスターリンは、幼い頃から人一倍コンプレックスが強く、自己顕示欲、権力欲が旺盛だったそうです。
目的のためには手段を選ばず、自分が敵と見なした相手には容赦をしませんでした。権力者となってからは、相手を殺すのすら厭わない冷酷な気性の持ち主というのが一般的に語られるスターリン像です。
そこには冷酷で自分の思い通りにならないことは許せないという独裁者のイメージそのままの人間が描かれています。幼少期に父親から暴力を受けていたことから父に対する恨みと復讐心を堆積させ、暴力的で狡賢い性格になっていったといわれてます。
スターリンという名はペンネーム
スターリンの本名は、ヨシフ・ヴィッサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリといいます。私たちのよく知っているスターリンという名前は、ロシア語で「鋼鉄の人」を意味するペンネームで、彼が活動家時代に論文などを発表するときに使っていたものです。
スターリンは最初、小説の登場人物の名前からとった「コーバ」をペンネームにしていて、スターリンと言う名前を使いだしたのは1913年ごろのことです。一時期はコーバとスターリンと組み合わせた「K.S.」というペンネームも使っていました。
スターリンの名がついた街があった
ヴォルガ川西岸にあるヴォルゴグラードは、かつてスターリングラードと呼ばれていました。ヴォルガ川交易の拠点の一つで、かつては女王の街を意味する「ツァリーツィン」の名がつけられていたそうです。
しかし、ロシア革命後、帝政ロシアにまつわる名称はいたるところで変更されます。首都ペトログラードはピョートル大帝の街という意味だったので、レーニンの街を意味するレニングラードになりました。このツァリーツィンも同じ理由でスターリングラードと改名します。
第二次世界大戦中、スターリングラードはドイツ・ソ連両軍による争奪戦の舞台となり街全体が廃墟となるほど荒廃。その後、スターリングラードは工業都市として復興しましたが、スターリンの死後、その名をヴォルゴグラードに変更され今に至ります。
スターリンの息子たちは不幸だった
スターリンの息子たちは不幸な生涯を送りました。スターリンにはヤコフ(ヤーコフ)とワシーリーという二人の息子がおり、ヤコフは1907年に生まれます。しかし、幼いころに母親を亡くししまうのです。スターリンはレーニンとともに革命運動に身を投じていたため、ヤコフは親類に預けられました。
少年期をグルジアで過ごしたヤコフは、成長して父のいるモスクワに向かいます。しかし、父スターリンはヤコフの登場を歓迎せず「出来損ない」と評してはばかりませんでした。独ソ戦がはじまった1941年、ヤコフはドイツ軍の捕虜となります。
ドイツ側はスターリンのこと知って要人との人質交換を申し出ましたがスターリンは拒否しました。結局、ヤコフは捕虜収容所で亡くなってしまいます。
一方、もう一人の息子であるワシーリーは1921年に生まれました。要領がよかったことから軍人として順調に出世を重ね1946年に空軍少将となっています。といっても、能力というよりはスターリンの子であることで出世したといってよいでしょう。
しかし、1952年に父スターリンが死去。後ろ盾を失ったワシーリーは1953年に国家反逆罪の容疑で逮捕されます。1960年に釈放されましたが、アルコール中毒で健康を害し、1962年に亡くなりました。
スターリンの死因は「脳卒中」
スターリンが亡くなったのは1953年3月5日夜9時50分ごろのこと。享年74歳でした。3月1日、側近たちとの夕食を済ませ、クレムリンの西クンツェヴォにある別荘の自室に戻ったあと、スターリンは脳卒中の発作で倒れました。
スターリンは、普段から自分が呼ばない限りは建物に入ってはならないと警備職員に伝えていました。そのため発見は遅れ、知らせを受けかけつけた側近たちもすぐに医者を呼ばなかったため、容態がさらに悪化したのです。
スターリンは4日間の危篤状態のあとに死亡しましたが、初期対応の遅れ方が不自然であることや目撃者によって細部の証言が異なっているといった理由から、彼の死については暗殺ではないかという説があります。
犯人として最も疑われているのは側近の1人でスターリンの元で粛清を手がけていたラブレンチー・ベリヤです。倒れているスターリンを介抱しようとした警備職員に対して、ベリヤが「同志スターリンは熟睡されているのだ」と怒鳴りつけてそれを妨げたという証言もあります。
ベリヤの単独犯説のほか、スターリンによる粛清を恐れた側近たちが共謀して暗殺を計画し、実行犯といしてベリヤを使ったという説もあります。暗殺の方法についても、毒殺説から、実際に脳卒中で昏睡状態にあったところに死を確実にするために毒を投与したという説など様々です。
目撃者の証言も一致しないことから、真相の究明は難しいと思われますが、一般的にはスターリンの死は脳溢血による自然死とされています。
死後に起こった「スターリン批判」
スターリンは死後にて批判されることとなりました。後継者たちはスターリン時代の行き過ぎた政策を軌道修正し、経済的な負担が大きかったアメリカとの冷戦も緩和させる方向に舵を切ったのです。
そんななか、後継者のなかで台頭していたフルシチョフが演説の中で行ったのがスターリン批判です。フルシチョフは、スターリンの粗暴な性格や、彼が行った大粛清、独ソ戦初期におけるソ連軍大敗への責任、そしてスターリン時代のスターリン自身に対する個人崇拝を上げて批判し、今後のソ連ではこういうことは繰り返さないようにしなければならないと述べました。
スターリンの生きていた時代には決してできなかっただろうこの演説は、たちまちソ連内外から注目を浴びました。スターリン批判をきっかけに、共産主義圏におかれていた東欧諸国ではスターリン体制からの脱却を掲げて民主化運動が起こり、アメリカやヨーロッパ諸国でもおおむね好意的に受け入れられました。
一方、ソ連国内ではスターリンがいたからこそ第二次大戦でのソ連の勝利があったと考える人が少なからずおり、フルシチョフに反発する人も多くいました。
現代のロシアにおいても、スターリンの評価は肯定的なものと否定的なものの二つに割れています。
スターリンの功績
功績1「第二次世界大戦でドイツに勝利した」
スターリンはソ連の指導者としてドイツと戦い、苦戦の末勝利しました。第二次世界大戦がはじまった1939年当初は、独ソ不可侵条約を結んでいたためドイツとの戦にはなり得ませんでしたが、1941年にドイツが一方的に独ソ不可侵条約を破棄し、独ソ戦が始まります。
予期せぬドイツの攻撃によりソ連軍は各地で敗走しました。ソ連軍はレニングラード、モスクワ、スターリングラードを防衛ラインとしてドイツに反撃します。また、スターリンは歴戦の将軍ジューコフをモスクワ防衛軍司令官に任命しモスクワを守り抜きました。
独ソ戦の転換点となったのは1942年のスターリングラード攻防戦です。ドイツ軍は、武器製造の重要拠点だったスターリングラードを総攻撃してきました。これに対し、スターリンはスターリングラードの死守を命令。多くの犠牲を出した末、守り切ります。この戦いが転換点となり、以後、独ソ戦はソ連優位に展開。最終的にソ連がドイツに勝利しました。
功績2「ソ連の重化学工業を発展させた」
トロツキー派を一掃し権力を握ったスターリンは、1929年から第一次五か年計画を実施します。この計画は重工業の成長と農業の集団化を主な目的としていました。もっとも重要な事業はドニエプル川流域の大開発です。
この開発はドニエプル川流域に大規模なダムをつくり、工業用水や水力発電で生み出される電力の確保を可能としました。こうした開発のおかげで、ソ連の重化学工業は飛躍的に発展。その一方、生活必需品をはじめとする軽工業は後回しにされました。
スターリンの名言
投票するものは何も決定できない。投票を集計するものが全てを決定する
スターリンの選挙に対する考え方を表した一言。
今もこれまでも、無敵の軍隊が存在しないのは歴史が証明している。
独ソ戦の最中にスターリンがおこなった国民を鼓舞するラジオ演説
相違なくして力強く活発な動きは不可能だと考えている。「真の一致」は、墓地でのみ可能である。
1912年に機関紙『プラウダ』に掲載されたスターリンの記事より
愛とか友情などというものはすぐに壊れるが恐怖は長続きする。
スターリンの冷酷な気性を象徴とする一言ですね。
現実と理論が一致しなければ現実を変えよ 。
目的のためには手段を選ばないというスターリンの思考を物語る言葉。
家族よりも仕事を優先した男…?
ヒトラーより許せない。
好き
すき
なにが
もし、スターリンのことが好きならばあなたの頭はおかしいよ。
せめてヒトラーだ。