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独裁者「ヨシフ・スターリン」ってどんな人?名言や死因、批判まとめ【年表付】

ヨシフ・スターリンはソビエト連邦(現在でいうロシア)の書記長をつとめた人物です。「書記長 」とはソ連で一番偉い最高指導者であり、「国全体をまとめる仕事」です。また、ヒトラーと並ぶ20世紀の独裁者といわれています。元ソビエト連邦大統領であるレーニンとともにロシア革命に参加して政権の一員になり、その後権力を掌握しました。

強力なリーダーシップにより、ソ連の重工業を重点的に発展させ、工業化を推し進めるとともに軍事力を強化してソ連を大国へと押し上げました。ヒトラー率いるナチスドイツとの戦いでは、ソ連のリーダーとして戦争を勝利へと導きました。

ヨシフ・スターリン

その一方、国民の生活は顧みず、国内では物資の欠乏から多くの餓死者を出しました。権力の座に着く過程では強引にライバルたちを排除していき、権力者になってからも自分の敵と見なした数多くの人々を処刑したり収容所送りにしたりと非道な独裁者という言葉にふさわしいエピソードも多い人物です。

ヒトラーよりはちょっとマイナーで、さらには冷酷な悪い人といったイメージの多いスターリン。本当はいったいどんな人だったのか、歴史、特に第2次世界大戦前後の世界史が大好きな筆者が彼の人物像を紐解いていきたいと思います。

目次

スターリンの来歴は?

名前ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン
ロシア語表記Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин
誕生日グルジアのゴリ市
生地1878年12月18日
没日1953年3月5日
没地モスクワ クレムリンの別荘
配偶者最初の妻 エカテリーナ・スワニーゼ、2番目の妻 ナジェージダ・アリルーエワ
埋葬場所モスクワ クレムリン

スターリンの生まれは?

ゴリにあるスターリン博物館

スターリンは当時のロシア帝国南部にあるコーカサスと呼ばれている地方、現在はジョージア(グルジア)という国に属しているゴリという街に生まれました。グルジアはモスクワから遠く離れた中央アジアにある辺境地域で、実はスターリンはヨーロッパ系ではなくアジア系の血を引く人間でした。

1941年に日ソ中立条約を結ぶため、松岡洋右がモスクワを訪れた時、スターリンは松岡に対して「我々はアジア人だ」と言ったといいます。これには日本に対するリップサービスが含まれていたとしても、彼がグルジア人という自分の出自に強い誇りをもっていたことは事実のようです。

スターリンは子供の頃からグルジアの自然や人々を讃える詩を新聞に投稿していましたし、彼の初めてのペンネームである「コーバ」は、グルジア人作家の書いた冒険小説に出てくる主人公の名前でした。

そして、ラブレンチー・ベリヤやアナスタス・ミコヤンなど、後にスターリンの側近となった人物の中にもコーカサス出身者が多くいたのは偶然ではないでしょう。

ちなみにスターリンの誕生日については2つの説があり、長らくソ連共産党の公式文書から1879年12月21日に生まれたとされてきましたが、現在は、スターリンが神学校を卒業した際の証明書などにも記載されている1878年12月18日とするのが一般的です。

スターリンの人物像は?

スターリンの人物像

ロシアでは少数民族であるグルジア人であり、貧困層の出身であったことから、人一倍コンプレックスが強く、その反動として自己顕示欲、権力欲が旺盛で、子供の頃から目的のためには手段を選ばず、自分の敵と見なした人間に対しては容赦なく、権力者となってからは相手を殺すことすら厭わない冷酷な性格というのが一般的に語られるスターリン像です。

そこには冷酷で自分の思い通りにならないことは許せないという独裁者のイメージそのままの人間が描かれています。

特に、ソ連の統治者になってからどんどん周囲の人間を信用しない傾向が強くなっていきました。自分のまわりの人間は敵であるという考えにとらわれ、部下たちの部屋を秘密警察によって盗聴させたりしています。ただ、これは晩年の話で、末期のスターリンは認知症を患っていたともいわれ、判断力がかなり衰えていました。

スターリンがこうした人間になった原因として、彼の生い立ちが上げられます。スターリンは子供の頃、父親から暴力を振るわれていたため、心の奥に父に対する恨みと復讐心を堆積させていき、暴力的で狡賢い性格になっていったといわれます。

一方、スターリンは子供のころから非常に頭が良く、勉強もできました。他人よりも優れていたいという思いが強く、成長するにつれてどんどん抜け目ない行動のできる人間になっていきます。スターリンは他人と話をするときはいつも微笑を浮かべ、相手に不快な思いをさせることはありませんでした。スターリンがソ連という国家の中で生き延び、出世していくことができたのも、ひとえにこの頭の回転の早さがあったからこそです。

こうしてみると、スターリンは決して冷酷で暴力的なだけの人物とはいえない理知的な面ももちあわせていたことがわかります。ただ単に粗暴なだけの人間がソ連という巨大な国家の統治者としてやっていけたはずもありません。スターリンの負の部分が大きく取り上げられてきた理由として、スターリンはソ連国内でも批判の多い人物のため、その人物像や性格について「恐怖の独裁者」としていくらか誇張されてきた部分もあったと思われます。

スターリンの名前の由来は?

「スターリン」はペンネーム

スターリンの本名は、ヨシフ・ヴィッサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリといいます。私たちのよく知っているスターリンという名前は、ロシア語で「鋼鉄の人」を意味するペンネームで、彼が活動家時代に論文などを発表するときに使っていたものです。

スターリンは最初、小説の登場人物の名前からとった「コーバ」をペンネームにしていて、スターリンと言う名前を使いだしたのは1913年ごろのことです。一時期はコーバとスターリンと組み合わせた「K.S.」というペンネームも使っていました。

スターリンの死因は?

スターリンの側近、ラブレンチー・ベリヤ

スターリンが亡くなったのは1953年3月5日夜9時50分ごろのこと。享年74歳でした。3月1日、側近たちとの夕食を済ませ、クレムリンの西クンツェヴォにある別荘の自室に戻ったあと、スターリンは脳卒中の発作で倒れました。スターリンは普段から自分が呼ばない限りは建物に入ってはならないと警備職員に伝えていたため、発見が遅れ、知らせを受けてかけつけた側近たちもすぐに医者を呼ばなかったために手当てはさらに遅れました。

スターリンは4日間の危篤状態のあとに死亡しましたが、初期対応の遅れ方が不自然であることや目撃者によって細部の証言が異なっているといった理由から、彼の死については暗殺ではないかという説があります。犯人として最も疑われているのは側近の1人でスターリンの元で粛清を手がけていたラブレンチー・ベリヤです。倒れているスターリンを介抱しようとした警備職員に対して、ベリヤが「同志スターリンは熟睡されているのだ」と怒鳴りつけてそれを妨げたという証言もあります。

ベリヤの単独犯説のほか、スターリンによる粛清を恐れた側近たちが共謀して暗殺を計画し、実行犯といしてベリヤを使ったという説もあります。暗殺の方法についても、毒殺説から、実際に脳卒中で昏睡状態にあったところに死を確実にするために毒を投与したという説など様々です。目撃者の証言も一致しないことから、真相の究明は難しいと思われますが、一般的にはスターリンの死は脳溢血による自然死とされています。

「スターリン批判」って何?

スターリン批判を行ったニキータ・フルシチョフ

スターリンの死後、その後継者たちはスターリン時代の行き過ぎた政策を軌道修正し、経済的な負担が大きかったアメリカとの冷戦も緩和させる方向に舵を切りました。

そんななか、後継者のなかで台頭していたフルシチョフが演説の中で行ったのがスターリン批判です。フルシチョフは、スターリンの粗暴な性格や、彼が行った大粛清、独ソ戦初期におけるソ連軍大敗への責任、そしてスターリン時代のスターリン自身に対する個人崇拝を上げて批判し、今後のソ連ではこういうことは繰り返さないようにしなければならないと述べました。

スターリンの生きていた時代には決してできなかっただろうこの演説はたちまちソ連内外から注目を浴びました。スターリン批判をきっかけに、共産主義圏におかれていた東欧諸国ではスターリン体制からの脱却を掲げて民主化運動が起こり、アメリカやヨーロッパ諸国でもおおむね好意的に受け入れられました。

一方、ソ連国内ではスターリンがいたからこそ第二次大戦でのソ連の勝利があったと考える人が少なからずおり、フルシチョフに反発する人も多くいました。

現代のロシアにおいても、スターリンの評価は肯定的なものと否定的なものの二つに割れています。

スターリンの名言は?

一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字でしかない。

愛とか友情などというものはすぐに壊れるが恐怖は長続きする。

現実と理論が一致しなければ現実を変えよ 。

スターリンにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「スターリンはロスチャイルドの隠し子?」

ロスチャイルド家の邸宅

ロスチャイルド家は、ヨーロッパの名門財閥の1つで、金融の分野をメインに欧州全土で大きな影響力をもっていました。実は、スターリンは仕事でロシアを訪れていたロスチャイルド家の人間が現地の女性と関係をもったときにできた子供で、ロスチャイルド家の血を引く人間であるという話があります。

スターリンの父親とされているのは、ロスチャイルド家の庶流の1人であるエドマンド・ロスチャイルドで、この話題がイギリスの新聞社によって報じられたこともありました。

都市伝説・武勇伝2「蔵書数20000冊の読書家スターリン」

読書家だったスターリン

粗暴な性格だったといわれるスターリンですが、けっしてそれだけの人間ではありませんでした。彼はたいへんな読書家で、子供のころから読書を趣味にしていました。

スターリンの蔵書の数は20000冊を越えていたと言います。分野も文学から経済、歴史、哲学、社会学、工業など多岐に渡り、レーニンのように尊敬する人物の本は繰り返し読んでいましたし、なかにはヒトラーの「我が闘争」のようにライバルの本も所有していました。

スターリンは第二次大戦中、毎日数千枚の報告書に目を通し、さらに日に数度の会議や決裁を行うなどその事務処理能力の高さには周囲も舌を巻くほどでした。これも持ち前の頭の良さに加えて普段から多量の読書をこなし、それによって様々な知識を貪欲に吸収していたからではないでしょうか。

スターリンの略歴年表

1878年
スターリン誕生
12月18日、ロシア帝国のグルジア・ゴリで靴職人である父ヴィッサリオン・ジュガシヴィリと母ケテワン・ゲラーゼの間に3人目の息子として生まれました。本名はヨシフ・ヴィッサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリで、幼少期の愛称はソソでした。
1894年
神学校に入学
成績優秀でチフリス神学校へと進んだスターリンは、課業の合間を縫って地元の労働運動などに参加するようになります。神学校からはスターリンの素行不良のため退学処分を言い渡されます。
1917年年
ロシア革命勃発
第一次大戦による民衆の不満が爆発し、革命により帝政ロシアは崩壊します。スターリンは武装蜂起に参加し、レーニン政権が樹立しました。
1924年
レーニン死去
スターリンはこのとき、党の書記長を務めていました。レーニンの死後、スターリンはトロツキーをはじめとするライバルたちを排除し、レーニンの後継者として党の権力を独占していきます。
1928年
五か年計画開始
スターリンは五か年計画によって、重工業への投資と軍事力の強化を推し進めましたが、その反面、物資や食糧が不足し多くの餓死者が出ました。さらに、スターリンはライバルや政敵を逮捕して処刑したり、抵抗する多くの人間を収容所送りにしました。
1941年
独ソ戦の開始
6月22日、ドイツ軍の奇襲攻撃により約4年にわたる独ソ戦がはじまりました。ソ連軍は最初大きな打撃を受けますが、以前からの軍事力強化が実を結び、やがて戦局を打開して、最終的に勝利します。
1953年
スターリン死去
3月1日、スターリンは別荘で脳卒中のために倒れ、四日間の危篤状態の後に死亡しました。

スターリンの具体年表

1878年 -0歳「出生」

現在のグルジア

スターリン誕生

スターリンは1878年12月18日、ロシア帝国のグルジア・ゴリで靴職人である父ヴィッサリオン・ジュガシヴィリと母ケテワン・ゲラーゼの間に3人目の息子として生まれました。子供のころはソソという愛称で呼ばれ、母のことはケケという愛称で呼んでいました。

スターリンが生まれたころのグルジアは貧しく治安の悪い地域で、スターリンの父もアルコール依存症だったため、酒を飲んで妻や子供に暴力を振るうこともしょっちゅうでした。父に対する鬱屈した感情はスターリンの性格形成にも影響を与えたといわれます。

一方、兄二人は幼くして亡くなっていたこともあって、母ケケはスターリンに深い愛情を注ぎ、彼には最高の教育を受けさせてやりたいと考え、給仕婦をしながら学費を工面してスターリンを学校に通わせていました。スターリンもはやくからそうした母の期待に応えたいと考えるようになり、学校ではミス1つおかさない完璧な生徒としてふるまうようになります。

幼少期のスターリンは、グルジアの自然やそこで暮らす人々を讃える詩を詠んでは投降し、新聞に投降して発表していました。彼が地元の教会学校を卒業したときの成績表はほぼオール5という完璧なもので、スターリンは聖職者を育成するゴリの神学校へと入学します。貧しい職人の子供として、これは異例の出来事でした。

スターリンとケケは、スターリンが活動家となってからも定期的に手紙をやり取りする関係で、このときスターリンは母が読みやすいようにとロシア語ではなくグルジア語を使っていました。

1894年 -16 歳「神学校に入学」

神学校に入学したものの…

神学校入学から退学まで

1894年9月、スターリンは教会から推薦を受けてゴリにある、聖職者を育成するためのチフリス神学校に入学します。しかし、当時のコーカサスは労働運動や社会運動が盛り上がっており、荒れた空気は学校内にも流れてきていて、落ち着いて勉強ができる環境ではありませんでした。

生徒たちは朝から晩までカリキュラムによって生徒を管理しようとする学校やグルジア人を見下すロシア人聖職者の教師に対して大きな反発を抱いていました。スターリンも教師への反抗とそれによる懲罰房行きを繰り返し、1899年5月にはとうとう神学校を退学になってしまいます。

1903年 -25 歳「シベリア流刑」

イルクーツク

本格的に活動家の道へ

スターリンがはじめて社旗主義運動に参加したのはまだ神学校の生徒だった時期でした。地元の労働運動に加わるようになり、1898年にグルジアの社会民主主義運動組織に入り、活動家として労働者サークルやストライキなどに顔をだすようになり、学校をやめたあともメーデーのデモなどに参加していました。

この頃彼が執筆した論文のなかにはロシアの帝政を批判する記述もあったため、保安当局からも目を付けられるようになり、とうとう1902年4月に潜伏していたバツーミで逮捕されてしまいます。スターリンは3年におよぶシベリア流刑を言い渡され、11月末に流刑地のイルクーツク県へと辿り着きました。

神学校中退という学歴に加え、若くして前科者になってしまったスターリンにとって、社会復帰してまともな職につくという展望など描けるはずもありません。スターリンには、このまま活動家としての道を突き進むという選択肢しか残されていなかったのです。

1904年 – 26歳「日露戦争開戦」

ウラジーミル・レーニン

日露戦争

1904年、アジアで勢力を伸ばしつつあった新興国日本との間で日露戦争が勃発します。当時は世界的な経済不況のなかにあり、ロシアは東アジアに進出することで不景気から脱出を目論んでいました。しかし、そこに立ちはだかったのが日本でした。ロシアにとっても戦争できるほどの余裕はなく、両国ともぎりぎりまで交渉によって解決を目指しますが、結局、1904年2月には戦争に突入します。

そして、戦局はロシアに不利な状況で進みました。多くのロシア人にとって、モスクワから遥か遠くの旅順や大連のために戦って死ぬなどばかばかしいことに感じられました。士気は上がらず、厭戦気分が蔓延して、前線での振りが国内に伝わると、政府への不満が噴出するようになります。

1905年1月には、首都ペテルブルグで民衆たちのデモを軍が武力で鎮圧するという「血の日曜日事件」が起こり、社会はますます混乱します。最終的に、1905年9月、ロシアは日本とのあいだでポーツマス条約を締結し、戦争を終結させました。しかし、社会の混乱がおさまることはなく、ロシア政府は専制君主制の維持を諦め、立憲国家への改革を行うようになります。

レーニンとの出会い

そのころ、流刑から還ったスターリンは職もなく、しばらくのあいだ仲間から助けを借りて生活していました。1905年12月、スターリンはフィンランドのタンペレで開かれたボルシェビキ協議会で革命家ウラジミール・レーニンと初めて出会いました。

当時、スターリンやレーニンが所属していたロシア社会民主労働党ではボルシェビキとメンシェビキという二つのグループが対立していました。メンシェビキは比較的穏健派で、社会主義革命においてはブルジョワジーが中心的な役割を果たすして、ロシア政府による改革を評価していました。これに対して、ボルシェビキを率いるレーニンの考えは、古い体制に改革をする能力などあるはずもなく、労働者と農民による革命が必要だというものでした。

スターリンもレーニン一派に属していましたが、レーニンに対しても正面から意見することを恐れませんでした。このときは、農民たちが政府の改革に対して大きな反抗を見せることはなかったので、レーニンの臨むような革命は起こらず、ロシア社会にはこれからしばらく比較的穏やかな時を過ごしました。

1906年 -28 歳「最初の妻エカチェリーナと結婚」

最初の妻との結婚

最初の結婚と長男ヤコフの誕生

1906年7月、スターリンは最初の妻であるエカチェリーナ・スヴァニッセとの結婚式を上げました。二人は小さな新居での生活をはじめ、翌年には長男のヤコフも生まれますが、同じ年にエカチェリーナは病気でこの世を去ってしまいます。エカチェリーナは信心深い女性で、毎晩スターリンが活動家など辞めてくれるように神様にお祈りをしていたといわれますが、スターリンが彼女の願いに応えることはありませんでした。結局、二人の結婚生活は1年ほどの期間しかなく、スターリンは悲しみに沈んだということです。

また、スターリンは、この頃から「コーバ」のペンネームを使うようになっています。

1908年 -30 歳「再び流刑」

何度も逮捕された

二度目の逮捕から流刑へ

スターリンの妻が亡くなったのと同じ1907年、チフリスで現金輸送車の襲撃事件が起こりました。これは、革命活動家たちのあいだで「収奪」と呼ばれる強盗や金品強要による活動資金集めの一環とみられました。チフリスだけでもこうした事件によって3000人以上の死傷者が出ており、スターリン自身もこうした非合法活動に手を染めては組織のために資金を集めていたといいます。チフリス現金輸送車襲撃事件でも10人以上が死亡し、多数の負傷者も出ました。

そして、どこからともなくこの事件の犯人はスターリンであるという噂が広まったのです。スターリンは再び逮捕され、二度目の流刑処分を言い渡されます。この後、ロシア革命が勃発するまで、スターリンは何度も流刑先から脱走し、逮捕されてはまた流刑に遭い、また脱走するということを繰り返します。

1917年 -39 歳「ロシア革命勃発」

ロシア革命

ロシア革命とレーニン政権の誕生

第一次世界大戦と二月革命

1914年に起きた第一次世界大戦では、日露戦争のときよりも国民は積極的に戦争に協力的でしたが、ロシアの劣勢と食糧不足が顕著になるにつれ、またも厭戦気分が広がっていきました。1917年2月22日、首都ペトログラードで起きたデモは瞬く間に市内全域に広がり、これを取り締まる側の軍隊からもデモに参加する部隊が現れ、最後には革命となりました。この動きはモスクワなどロシアの他の都市にも広がっていき、ニコライ2世は退位し、帝政ロシアは終わりを告げました。

十月革命

首都ペトログラードでははケレンスキーを首班とする臨時政府が発足しますが、政府が戦争を継続する姿勢を表明すると、民衆の不満は再び爆発し、「すべての権力をソビエトに」の掛け声があちこちで巻き起こります。ソビエトとは「会議」という意味の普通名詞で、1905年にも結成されていて、革命運動の拠点という意味合いで用いられるようになっていました。このときも、労働者や農民、兵士などで結成されたソビエトが民衆のあいだで支持を広げていました。

レーニンは、民衆の間でソビエト支持が高まっている今こそ、武装蜂起によって政権を奪うチャンスと考えました。結果的にこの行動は成功して、レーニンが首班となりボルシェビキが主導する革命政権が誕生し、1918年3月には党組織の名称もロシア共産党へとあらためられました。

ロシア革命とスターリン

レフ・トロツキー

二月革命によって流刑から解放されて首都に戻っていたスターリンは、このとき党の機関誌「プラウダ」の編集に携わっていました。しかし、十月革命でスターリンは大きな活躍を見せることはありませんでした。

レーニンが武装蜂起を唱えた時、トロツキーはそれを支持し、ジノヴィネフやカーメネフといったほかの幹部は時期尚早だと反対しました。そしてスターリンはというと、蜂起に賛成を示しながらも、ジノヴィネフとカーメネフを庇うというどっちつかずな態度をとりました。

この結果、武装蜂起の指揮はトロツキーがとることになります。この出来事は長いあいだスターリンのなかでも悔しい出来事として残っていたらしく、後には回想録のなかからこの時の記述を削除させるほどでした。

ロシア内戦

レーニン政権ができた後も、国内には旧ロシア帝国軍人たちの指揮する白軍と呼ばれる反革命勢力があり、国外では革命に介入しようとする外国勢力もあって、このあとのロシアは混沌として内戦へと突入していきます。戦いを続けるためには兵士や食糧その他の物資が必要で、レーニン政権はこれらを国民から調達しようとしたため、革命に賛同してくれるはずだった農民たちからも次第に支持を失っていきました

1919年 -41 歳「ナデェージュダと二度目の結婚」

2度目の結婚と次男誕生

二度目の結婚と次男ワーシリーの誕生

スターリンの二度目の結婚相手であるナジェージダ・アリルーエワは、スターリンと同じコーカサスのバクーの生まれですが、歳は20歳以上離れていました。まるで父と娘ほどの年齢差ですが、ナジェージュダが革命運動に憧れをもっていたこともあり、二人は結婚へと至ります。スターリンは、ナジェージダとの間に息子ワーシリーと娘のスヴェトラーナをもうけています。

1922年 -44 歳「共産党中央委員会書記長に就任」

徐々に権力を拡大した

共産党の重要ポストに就任し権力を握る

1922年4月、スターリンは新しく作られた党の機関で、人事や総務を担当する書記局のトップである書記長に任命されました。このとき、共産党には党の政策を決定する政治局、組織を管理する組織局、この二つの活動を補助する書記局という三つの最高機関があり、すでに政治局員と組織局員でもあったスターリンは3つの機関すべてに影響力を及ぼせるようになります。スターリン自身も他の党員たちと比べて党のポストがもつ重要性を認識していて、組織が大きくなるとともにこうした機関の重要性も増していき、特に人事権を握っていたスターリンはそれを利用して自分の派閥を作るようになり、次第に大きな権力をもつようになっていきます。

ソビエト連邦の誕生

1922年12月には、ロシア連邦、ウクライナ、ベラルーシ、ザカフカス連邦の4つが合わさって、正式にソビエト連邦が成立しました。

1924年 -46 歳「レーニン死去」

レーニン廟

スターリンの権力掌握

1924年1月24日、レーニンが亡くなると、一番の後継者候補として名前が上がったのがトロツキーでした。しかし、スターリンはすでにジノヴィエフやカーメネフらとともに、レーニンの遺書を公開させないように手を回していました。遺書には「スターリンは粗暴すぎるため、スターリンを後継者にしてはならないといったことが書かれていたのです。スターリンはレーニンの葬儀を執り行うという最高の名誉を手にすることができました。

レーニンの死によって党内では権力闘争が活発化しますが、この戦いに勝利したのはスターリンでした。最大のライバルだったトロツキーはジノヴィエフやカーメネフと結託したスターリンによって党内で孤立させられ、さらに、トロツキーが勢いを失ったと見ると、レーニンの武装蜂起の時に反対票を投じたことを上げ、ジノヴィエフやカーメネフといった他の幹部も孤立させます。そして、彼らの党内での役職や地位を剥奪して、自らの独裁的な権力を固めていきました。

1928年 -50 歳「第一次五か年計画スタート」

重工業を強化した

強国ソ連を目指し、重工業を強化

五か年計画は、ソ連の工業力を強化し、他国に負けない強い軍事力をもった国家へと改造するための計画でした。革命のとき、外国から干渉を受けた記憶もあり、スターリンはソ連を強い国家に生まれ変わらせなければならないと考えていました。

しかし、重工業ばかりに投資したせいで、ほかの分野での生産が手薄になり、スプーンや食器、帽子にやかんといった日用品が不足するようになり、人々はこれを手に入れるために行列に並ばなけれなならなくなりました。

さらに、同時に行われた農業の集団化によって農民はコルホーズという集団農場へと移され、育てた穀物は当時最大の外貨獲得手段として国が容赦なく徴収したため、コルホーズからは脱走者が相次ぎました。国内でも慢性的に食糧が不足して人々は飢餓に喘ぎました。1932年にウクライナで起きたホロドモールと呼ばれる飢餓などはウクライナ民族の絶滅を計画して故意に起こされたという説もあるほどです。この時期の飢餓では400万~600万人の餓死者が出たともいわています。

大きな犠牲を出しながらも、スターリンの重工業育成政策により、1932年にはソ連は戦車、航空機の生産数でともに世界第1位になりました。外国からの侵略を受けたときのために、工場はウラル山脈の東側にも建設されました。

1932年 -54 歳「妻ナデェージュダの自殺」

2番目の妻・ナジェージュダ

1932年、ナジェージュダは自殺によってこの世を去りました。はっきりとした原因はわかっていませんが、自殺の直前にはスターリンと口論になっていたといわれています。この時期は国内でのひどい飢餓状態から、党内でもスターリンに対する批判が出ていたときで、革命運動に興味を抱いていた彼女にとってはショックな出来事だったのではないでしょうか。

1934年 -56 歳「キーロフ政治局長暗殺事件」

セルゲイ・キーロフ

大粛清のはじまり

1934年12月レニングラードの党本部にニコラ―エフという党内の不満分子が入り込み、レニングラード政治局長のキーロフを暗殺したという事件は広く党内に衝撃を与えました。これをみたスターリンは、この事件を利用して今後党内で自分の敵となりそうな危険な分子を今のうちに排除しておこうと考えました。キーロフ暗殺事件をきっかけにスターリンが粛清を進めたため、この事件の黒幕はスターリンだったのではないかという説もありますが、現在では、スターリンは無関係でニコラ―エフ単独犯説が有力とされています。

1936年8月にはジノヴィエフ、カメーネフら13名がスターリンの暗殺を企てたとして銃殺刑になっています。トロツキーも1940年にスターリンが送り込んだ刺客によってメキシコで暗殺されています。さらに、粛清は軍にまでおよび、1937年には敵であるドイツと通じていたという理由で、トハチェフスキー元帥ら8名の軍首脳が死刑になり、1939年までには30000人を越える将校が処刑や収容所送りにされました。

スターリンは、グルジア出身のラブレンチー・ベリヤを内務人民委員に任命すると、粛清の執行に当たらせました。スターリン体制の元で収容所人口は急速に膨張し、ついには120万人を越えるようになりました。

1937年 -59 歳「母ケケ死去」

現在のトビリシ(旧チフリス)

1937年5月13日、スターリンの母であるケケが亡くなりました。彼女はチフリス(当時はトビリシと名前が変わっていました)に住んでいたので、葬儀はそこで行われ、ソ連の最高指導者の母として立派な式が執り行われました。しかし、多忙であったスターリンは母の葬儀に参列することはできませんでした。

1938年 -60 歳「ノモンハン事件」

ノモンハン事件

二度にわたる日本との衝突

1937年と38年には、それぞれ「張鼓峰事件」と「ノモンハン事件」という二度に渡る日本との国境線をめぐる武力衝突が起こります。この戦いでソ連軍は予想以上に苦戦し、大きな損害を出すことになります。ノモンハン事件は、独ソ戦で活躍したジューコフ将軍に、自分にとって最も苦しい戦いだったといわしめるほどでした。

しかし、どちらの戦いも国境についてはソ連の主張がおおむね通り、この二度の戦いによって結果的に日本軍に北進を諦めさせたことはソ連にとって大きな利益をもたらしました。スターリンは西のドイツと東の日本がソ連にとっての脅威と考えており、これによって東西から挟み撃ちにされるという最悪のシナリオを排除することができたのです。

1939年 -61 歳「第二次世界大戦勃発」

アドルフ・ヒトラー

世界を驚かせた独ソ不可侵条約

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことで第二次世界大戦が勃発しました。スターリンは、直前の8月23日、ヒトラー率いるナチス・ドイツとの間で独ソ不可侵条約(モロトフ・リッペントロップ協定)を締結していました。この条約は世界中に衝撃を与えました。

それまでスターリンはヒトラーを一番の敵であり脅威と見なしており、ソ連国内でもドイツこそが最も侵略的な国家だといわれていたのです。しかし、イギリスやフランスがヒトラーの隣国への侵略行為に対して融和政策をとるのをみたスターリンは、これはドイツを焚き付けてソ連と戦わせる気に違いないと考え、逆にドイツと手を結ぶことにしたのです。独ソ不可侵条約にはポーランドの分割とバルト三国をソ連の勢力下とする秘密協定があり、ポーランドは東西からドイツとソ連に攻められることになりました。

冬戦争

望んでいた第二次大戦での中立を手に入れたスターリンは、バルト三国を併合し、さらには北欧の小国フィンランドへと侵略の手を伸ばします。1939年から始まったこの戦いは冬戦争と呼ばれます。しかし、フィンランド軍は雪深く厳しい気候と地の利を活かして巧みにソ連軍を撃退し、粛清によって多くの人材を失っていたソ連軍は大敗を喫しました。ソ連は国際的な非難を浴びて国際連盟からも追放され、この戦争でソ連軍は弱体化していると考えたヒトラーによって、後に独ソ戦を引き起こす引き金になりました。

1941年 -63 歳「独ソ戦勃発」

3000万人もの犠牲者を出した独ソ戦

運命の年、スターリンの悪夢と大祖国戦争

1941年6月22日、独ソ不可侵条約を破ったドイツ軍の300万にもおよぶ軍勢がソ連領内に雪崩をうって侵攻を開始し、独ソ戦と呼ばれる戦いがはじまりました。この攻撃は完全な不意打ちで、スターリンはそれまでに前線から何度もドイツ軍が国境付近に集結しているという報告を受けていたにも関わらず、軍に防衛体制をとらせようとはしませんでした。そして、相手を挑発するようないかなる行為も禁ずるという命令を出していました。

なぜスターリンが多くの危機を知らせる情報を無視したのかについては、独ソ戦最大の謎とされています。ともかく、奇襲によってドイツ軍は快進撃を続け、奇襲攻撃を受けたソ連軍は総崩れとなり、ソ連領の広大な地域がドイツの占領下に置かれました。

スターリンは緒戦の大敗にショックを受け、一時は指揮を放棄して別荘に引きこもってしまうほどでした。そのため、国民に向けてラジオで開戦を通達したのは外相のモロトフでした。翌日、部下たちが別荘に自分を訪ねてきたとき、スターリンは、彼らが自分を逮捕してこの敗北の責任をとらせるつもりだと考えました。しかし、モロトフは戦時最高指導部「国家防衛委員会」の創設と、スターリンにその議長を務めてほしい旨を告げました。

部下たちも今ここでスターリンがいなくなれば、ソ連は本当に崩壊してしまうことがわかっていました。戦争を戦い抜くためにはスターリンのような強力なリーダーが必要だったのです。スターリンは胸を撫で下ろすと、モロトフの申し出を快諾しました。

外相のモロトフ

立ち直ったスターリンの行動は早く、西部方面軍のパブロフら前線から敗北した指揮官を呼びつけると、責任をとらせて処刑にするといういつもの手段を使い、さらに国民には祖国を守るため一丸となって侵略者と戦うように呼びかけました。この戦争はかつてナポレオンがロシアに侵攻したときの戦争を指す「祖国戦争」から「大祖国戦争」という名前がつけられました。

ソ連の人々も祖国を守るために立ち上がり、1942年のモスクワ戦では見事に首都目前に迫ったドイツ軍を撃退することに成功します。このとき、スターリンは逃げずにモスクワにとどまりました。アメリカやイギリスの情報機関は、独ソ戦を国力の差から最終的にはソ連が勝つと予測していましたが、ナポレオンのときのように一時的にモスクワが占領されるのは避けられないと考えていました。

翌年の1943年には、独ソ戦の天王山といえるスターリングラードの戦いが起こりました。ヒトラーは、独裁者スターリンの名を冠するこの街の占領にこだわり、大戦力を投入しましたが、逆にソ連軍によって包囲され大量のドイツ将兵が捕虜になる結果となりました。この戦いを境に、次第に戦局の針はソ連有利に傾いていきます。

スターリンは連合軍の一員としてアメリカ、イギリスとも連携を強め、1943年にはイランでテヘラン会談に参加します。このときにはすでにスターリンは戦後の国際関係を見据えていました。スターリンはソ連だけがドイツとの戦いで消耗するのを避けるため、英米に対して「第二戦線」を開くことを要求し、これが実現したのがノルマンディ上陸作戦でした。

1945年5月にベルリンが占領されてドイツが降伏し、8月には日本も降伏、第二次世界大戦が終わりを告げます。スターリンが戦前に多くの犠牲を伴って推し進めた重工業の強化と軍事力の増強は、少なくともソ連を戦争を戦い抜くことのできる国家にしていました。しかし、第二次大戦におけるソ連全体の犠牲者は2000万人以上といわれ、あまりにも大きすぎる損害でした。

長男ヤコフの死

長男の死

スターリンの最初の妻エカチェリーナとのあいだにできた子供である長男ヤコフは、ヤコフ・ジュガシヴィリ中尉として軍にいましたが、緒戦の敗北期にドイツ軍の捕虜になっていました。病床の母より革命活動のほうを選び、生まれたばかりの自分を実家に預けたままにしていた父に対してヤコフは複雑な感情を抱いており、二人の仲はあまり良くなかったともいわれます。このときも父のスターリン姓ではなく、母親のジュガシヴィリ姓を名乗っていました。

それでもドイツ軍はヤコフがスターリンの子供であることをすぐに突き止め、彼の名前を使って投降を呼びかけるビラを作るなどプロパガンダに利用しました。しかし、スターリンは自分の息子でも特別扱いするような人物ではありませんでした。部下から息子が捕虜になったことを告げられたスターリンは「ヤコフはどんな死でも祖国への裏切りより望んでいる」と答えたといいます。

ドイツ軍がスターリングラードで捕虜になったパウルス元帥とヤコフの交換を提示してきたときも、「中尉と元帥を交換するバカがどこにいるのかね」とこれを拒絶しています。ヤコフは1943年8月に捕虜収容所で死亡しており、逃亡を図って射殺されたともいわれます。スターリンの2人目の息子であるワーシリーも1941年から空軍のパイロットとして前線に送られています。

1948年 -70 歳「冷戦のはじまり」

封鎖されたベルリン

新たな敵アメリカとの対立へ

戦後長らくスターリンが恐れていたのはアメリカではなく、ドイツや日本の復讐戦でした。アメリカも、スターリンをそれほど警戒していませんでした。両国の関係を冷戦へと導いたのはソ連による原爆開発でした。

ソ連の国力を過大に評価していたアメリカは、次第に自国のライバルとしてソ連を警戒するようになっていきます。大戦で大きな被害を受けていたソ連にとって、アメリカと対等に戦うのは実際には難しいものでしたが、スターリンは、共産化した東欧諸国を衛星国家にして、東側諸国としてアメリカを盟主とする西側諸国と睨み合いました。

1948年にはベルリン封鎖が起き、西ベルリンへの道が遮断されると、アメリカ、イギリス、フランスの三国は必要物資を空輸してこれに対抗しました。1950年には朝鮮戦争が起き、アメリカ軍も介入して泥沼の戦いになりました。スターリンは米ソの直接対決を恐れていたため、このときはほとんど援軍を送ろうとはしませんでした。

1953年 -74 歳「死去」

スターリンの墓

老いた独裁者の最期

朝鮮戦争のころから、スターリンの行動には不明なところや一貫性のないところが見られるようになります。死の前年には、これまでずっと自分に仕えてきた信頼の厚い秘書や警備職員を一斉に逮捕させるという出来事もありました。この時期のスターリンは誰も信じることができなくなっていたようで、明らかに統治能力を失っていたといえます。

そして、1953年3月5日夜9時50分、スターリンは脳卒中で倒れ、その4日後に死亡しました。享年74歳。このとき、発見と処置が遅れたことと、目撃した部下の証言に食い違いが見られることから、暗殺説も存在しています。

スターリンの死の知らせを受けて多くのソ連国民は涙を流しました。それは、彼の死によって一つの時代が終わりを告げ、大きな喪失感とともに大祖国戦争の頃の辛かった記憶などを思い出したからだといわれます。6日にモスクワの中心部で行われたスターリンの葬儀には多くの人々が詰めかけ、ソ連各地でもスターリンを悼む式典が行われ、ソ連全土が喪に服しました。

スターリンの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

図説 ソ連の歴史 (ふくろうの本/世界の歴史)

テーマについて豊富な写真とともに解説するふくろうの本シリーズの1冊。スターリンついて書かれた本ではありませんが、ページの多くがスターリン時代に割かれています。写真も多くて見やすく、ソ連という国の歴史について基礎的な知識をつけるためにオススメの1冊です。

スターリン – 「非道の独裁者」の実像

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スターリン―赤い皇帝と廷臣たち

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スターリンの葬送狂騒曲

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関連外部リンク

スターリンについてのまとめ

スターリンといえば、一般には冷酷な独裁者というイメージをもたれていますし、毀誉褒貶も激しく、現代のロシアでさえ明確な評価は定まっていない人物です。

粛清によって多くの犠牲者を出したのも事実ですが、ナチスドイツとの戦いにおいては、スターリンの進めてきた工業化と軍事力の強化にくわえ、彼の強力なキャラクターとリーダーシップが大きな役割を果たしたのではないでしょうか。

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