スターリンはどんな人?生涯・年表まとめ【死因や名言も紹介】

スターリンにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「スターリンはロスチャイルドの隠し子?」

ロスチャイルド家の邸宅

ロスチャイルド家は、ヨーロッパの名門財閥の1つで、金融の分野をメインに欧州全土で大きな影響力をもっていました。実は、スターリンは仕事でロシアを訪れていたロスチャイルド家の人間が現地の女性と関係をもったときにできた子供で、ロスチャイルド家の血を引く人間であるという話があります。

スターリンの父親とされているのは、ロスチャイルド家の庶流の1人であるエドマンド・ロスチャイルドで、この話題がイギリスの新聞社によって報じられたこともありました。

都市伝説・武勇伝2「蔵書数20000冊の読書家スターリン」

読書家だったスターリン

粗暴な性格だったといわれるスターリンですが、けっしてそれだけの人間ではありませんでした。彼はたいへんな読書家で、子供のころから読書を趣味にしていました。

スターリンの蔵書の数は20000冊を越えていたと言います。分野も文学から経済、歴史、哲学、社会学、工業など多岐に渡り、レーニンのように尊敬する人物の本は繰り返し読んでいましたし、なかにはヒトラーの「我が闘争」のようにライバルの本も所有していました。

スターリンは第二次大戦中、毎日数千枚の報告書に目を通し、さらに日に数度の会議や決裁を行うなどその事務処理能力の高さには周囲も舌を巻くほどでした。これも持ち前の頭の良さに加えて普段から多量の読書をこなし、それによって様々な知識を貪欲に吸収していたからではないでしょうか。

スターリンの簡単年表

1878年
スターリン誕生

12月18日、ロシア帝国のグルジア・ゴリで靴職人である父ヴィッサリオン・ジュガシヴィリと母ケテワン・ゲラーゼの間に3人目の息子として生まれました。本名はヨシフ・ヴィッサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリで、幼少期の愛称はソソでした。

1894年
神学校に入学

成績優秀でチフリス神学校へと進んだスターリンは、課業の合間を縫って地元の労働運動などに参加するようになります。神学校からはスターリンの素行不良のため退学処分を言い渡されます。

1917年年
ロシア革命勃発

第一次大戦による民衆の不満が爆発し、革命により帝政ロシアは崩壊します。スターリンは武装蜂起に参加し、レーニン政権が樹立しました。

1924年
レーニン死去

スターリンはこのとき、党の書記長を務めていました。レーニンの死後、スターリンはトロツキーをはじめとするライバルたちを排除し、レーニンの後継者として党の権力を独占していきます。

1928年
五か年計画開始

スターリンは五か年計画によって、重工業への投資と軍事力の強化を推し進めましたが、その反面、物資や食糧が不足し多くの餓死者が出ました。さらに、スターリンはライバルや政敵を逮捕して処刑したり、抵抗する多くの人間を収容所送りにしました。

1941年
独ソ戦の開始

6月22日、ドイツ軍の奇襲攻撃により約4年にわたる独ソ戦がはじまりました。ソ連軍は最初大きな打撃を受けますが、以前からの軍事力強化が実を結び、やがて戦局を打開して、最終的に勝利します。

1953年
スターリン死去

3月1日、スターリンは別荘で脳卒中のために倒れ、四日間の危篤状態の後に死亡しました。

スターリンの生涯年表

1878年 -0歳「出生」

現在のグルジア

スターリン誕生

スターリンは1878年12月18日、ロシア帝国のグルジア・ゴリで靴職人である父ヴィッサリオン・ジュガシヴィリと母ケテワン・ゲラーゼの間に3人目の息子として生まれました。子供のころはソソという愛称で呼ばれ、母のことはケケという愛称で呼んでいました。

スターリンが生まれたころのグルジアは貧しく治安の悪い地域で、スターリンの父もアルコール依存症だったため、酒を飲んで妻や子供に暴力を振るうこともしょっちゅうでした。父に対する鬱屈した感情はスターリンの性格形成にも影響を与えたといわれます。

一方、兄二人は幼くして亡くなっていたこともあって、母ケケはスターリンに深い愛情を注ぎ、彼には最高の教育を受けさせてやりたいと考え、給仕婦をしながら学費を工面してスターリンを学校に通わせていました。スターリンもはやくからそうした母の期待に応えたいと考えるようになり、学校ではミス1つおかさない完璧な生徒としてふるまうようになります。

幼少期のスターリンは、グルジアの自然やそこで暮らす人々を讃える詩を詠んでは投降し、新聞に投降して発表していました。彼が地元の教会学校を卒業したときの成績表はほぼオール5という完璧なもので、スターリンは聖職者を育成するゴリの神学校へと入学します。貧しい職人の子供として、これは異例の出来事でした。

スターリンとケケは、スターリンが活動家となってからも定期的に手紙をやり取りする関係で、このときスターリンは母が読みやすいようにとロシア語ではなくグルジア語を使っていました。

1894年 -16 歳「神学校に入学」

神学校に入学したものの…

神学校入学から退学まで

1894年9月、スターリンは教会から推薦を受けてゴリにある、聖職者を育成するためのチフリス神学校に入学します。しかし、当時のコーカサスは労働運動や社会運動が盛り上がっており、荒れた空気は学校内にも流れてきていて、落ち着いて勉強ができる環境ではありませんでした。

生徒たちは朝から晩までカリキュラムによって生徒を管理しようとする学校やグルジア人を見下すロシア人聖職者の教師に対して大きな反発を抱いていました。スターリンも教師への反抗とそれによる懲罰房行きを繰り返し、1899年5月にはとうとう神学校を退学になってしまいます。

1903年 -25 歳「シベリア流刑」

イルクーツク

本格的に活動家の道へ

スターリンがはじめて社旗主義運動に参加したのはまだ神学校の生徒だった時期でした。地元の労働運動に加わるようになり、1898年にグルジアの社会民主主義運動組織に入り、活動家として労働者サークルやストライキなどに顔をだすようになり、学校をやめたあともメーデーのデモなどに参加していました。

この頃彼が執筆した論文のなかにはロシアの帝政を批判する記述もあったため、保安当局からも目を付けられるようになり、とうとう1902年4月に潜伏していたバツーミで逮捕されてしまいます。スターリンは3年におよぶシベリア流刑を言い渡され、11月末に流刑地のイルクーツク県へと辿り着きました。

神学校中退という学歴に加え、若くして前科者になってしまったスターリンにとって、社会復帰してまともな職につくという展望など描けるはずもありません。スターリンには、このまま活動家としての道を突き進むという選択肢しか残されていなかったのです。

1904年 – 26歳「日露戦争開戦」

ウラジーミル・レーニン

日露戦争

1904年、アジアで勢力を伸ばしつつあった新興国日本との間で日露戦争が勃発します。当時は世界的な経済不況のなかにあり、ロシアは東アジアに進出することで不景気から脱出を目論んでいました。しかし、そこに立ちはだかったのが日本でした。ロシアにとっても戦争できるほどの余裕はなく、両国ともぎりぎりまで交渉によって解決を目指しますが、結局、1904年2月には戦争に突入します。

そして、戦局はロシアに不利な状況で進みました。多くのロシア人にとって、モスクワから遥か遠くの旅順や大連のために戦って死ぬなどばかばかしいことに感じられました。士気は上がらず、厭戦気分が蔓延して、前線での振りが国内に伝わると、政府への不満が噴出するようになります。

1905年1月には、首都ペテルブルグで民衆たちのデモを軍が武力で鎮圧するという「血の日曜日事件」が起こり、社会はますます混乱します。最終的に、1905年9月、ロシアは日本とのあいだでポーツマス条約を締結し、戦争を終結させました。しかし、社会の混乱がおさまることはなく、ロシア政府は専制君主制の維持を諦め、立憲国家への改革を行うようになります。

レーニンとの出会い

そのころ、流刑から還ったスターリンは職もなく、しばらくのあいだ仲間から助けを借りて生活していました。1905年12月、スターリンはフィンランドのタンペレで開かれたボルシェビキ協議会で革命家ウラジミール・レーニンと初めて出会いました。

当時、スターリンやレーニンが所属していたロシア社会民主労働党ではボルシェビキとメンシェビキという二つのグループが対立していました。メンシェビキは比較的穏健派で、社会主義革命においてはブルジョワジーが中心的な役割を果たすして、ロシア政府による改革を評価していました。これに対して、ボルシェビキを率いるレーニンの考えは、古い体制に改革をする能力などあるはずもなく、労働者と農民による革命が必要だというものでした。

スターリンもレーニン一派に属していましたが、レーニンに対しても正面から意見することを恐れませんでした。このときは、農民たちが政府の改革に対して大きな反抗を見せることはなかったので、レーニンの臨むような革命は起こらず、ロシア社会にはこれからしばらく比較的穏やかな時を過ごしました。

1906年 -28 歳「最初の妻エカチェリーナと結婚」

最初の妻との結婚

最初の結婚と長男ヤコフの誕生

1906年7月、スターリンは最初の妻であるエカチェリーナ・スヴァニッセとの結婚式を上げました。二人は小さな新居での生活をはじめ、翌年には長男のヤコフも生まれますが、同じ年にエカチェリーナは病気でこの世を去ってしまいます。エカチェリーナは信心深い女性で、毎晩スターリンが活動家など辞めてくれるように神様にお祈りをしていたといわれますが、スターリンが彼女の願いに応えることはありませんでした。結局、二人の結婚生活は1年ほどの期間しかなく、スターリンは悲しみに沈んだということです。

また、スターリンは、この頃から「コーバ」のペンネームを使うようになっています。

1908年 -30 歳「再び流刑」

何度も逮捕された

二度目の逮捕から流刑へ

スターリンの妻が亡くなったのと同じ1907年、チフリスで現金輸送車の襲撃事件が起こりました。これは、革命活動家たちのあいだで「収奪」と呼ばれる強盗や金品強要による活動資金集めの一環とみられました。チフリスだけでもこうした事件によって3000人以上の死傷者が出ており、スターリン自身もこうした非合法活動に手を染めては組織のために資金を集めていたといいます。チフリス現金輸送車襲撃事件でも10人以上が死亡し、多数の負傷者も出ました。

そして、どこからともなくこの事件の犯人はスターリンであるという噂が広まったのです。スターリンは再び逮捕され、二度目の流刑処分を言い渡されます。この後、ロシア革命が勃発するまで、スターリンは何度も流刑先から脱走し、逮捕されてはまた流刑に遭い、また脱走するということを繰り返します。

1917年 -39 歳「ロシア革命勃発」

ロシア革命

ロシア革命とレーニン政権の誕生

第一次世界大戦と二月革命

1914年に起きた第一次世界大戦では、日露戦争のときよりも国民は積極的に戦争に協力的でしたが、ロシアの劣勢と食糧不足が顕著になるにつれ、またも厭戦気分が広がっていきました。1917年2月22日、首都ペトログラードで起きたデモは瞬く間に市内全域に広がり、これを取り締まる側の軍隊からもデモに参加する部隊が現れ、最後には革命となりました。この動きはモスクワなどロシアの他の都市にも広がっていき、ニコライ2世は退位し、帝政ロシアは終わりを告げました。

十月革命

首都ペトログラードでははケレンスキーを首班とする臨時政府が発足しますが、政府が戦争を継続する姿勢を表明すると、民衆の不満は再び爆発し、「すべての権力をソビエトに」の掛け声があちこちで巻き起こります。ソビエトとは「会議」という意味の普通名詞で、1905年にも結成されていて、革命運動の拠点という意味合いで用いられるようになっていました。このときも、労働者や農民、兵士などで結成されたソビエトが民衆のあいだで支持を広げていました。

レーニンは、民衆の間でソビエト支持が高まっている今こそ、武装蜂起によって政権を奪うチャンスと考えました。結果的にこの行動は成功して、レーニンが首班となりボルシェビキが主導する革命政権が誕生し、1918年3月には党組織の名称もロシア共産党へとあらためられました。

ロシア革命とスターリン

レフ・トロツキー

二月革命によって流刑から解放されて首都に戻っていたスターリンは、このとき党の機関誌「プラウダ」の編集に携わっていました。しかし、十月革命でスターリンは大きな活躍を見せることはありませんでした。

レーニンが武装蜂起を唱えた時、トロツキーはそれを支持し、ジノヴィネフやカーメネフといったほかの幹部は時期尚早だと反対しました。そしてスターリンはというと、蜂起に賛成を示しながらも、ジノヴィネフとカーメネフを庇うというどっちつかずな態度をとりました。

この結果、武装蜂起の指揮はトロツキーがとることになります。この出来事は長いあいだスターリンのなかでも悔しい出来事として残っていたらしく、後には回想録のなかからこの時の記述を削除させるほどでした。

ロシア内戦

レーニン政権ができた後も、国内には旧ロシア帝国軍人たちの指揮する白軍と呼ばれる反革命勢力があり、国外では革命に介入しようとする外国勢力もあって、このあとのロシアは混沌として内戦へと突入していきます。戦いを続けるためには兵士や食糧その他の物資が必要で、レーニン政権はこれらを国民から調達しようとしたため、革命に賛同してくれるはずだった農民たちからも次第に支持を失っていきました

1919年 -41 歳「ナデェージュダと二度目の結婚」

2度目の結婚と次男誕生

二度目の結婚と次男ワーシリーの誕生

スターリンの二度目の結婚相手であるナジェージダ・アリルーエワは、スターリンと同じコーカサスのバクーの生まれですが、歳は20歳以上離れていました。まるで父と娘ほどの年齢差ですが、ナジェージュダが革命運動に憧れをもっていたこともあり、二人は結婚へと至ります。スターリンは、ナジェージダとの間に息子ワーシリーと娘のスヴェトラーナをもうけています。

1922年 -44 歳「共産党中央委員会書記長に就任」

徐々に権力を拡大した

共産党の重要ポストに就任し権力を握る

1922年4月、スターリンは新しく作られた党の機関で、人事や総務を担当する書記局のトップである書記長に任命されました。このとき、共産党には党の政策を決定する政治局、組織を管理する組織局、この二つの活動を補助する書記局という三つの最高機関があり、すでに政治局員と組織局員でもあったスターリンは3つの機関すべてに影響力を及ぼせるようになります。スターリン自身も他の党員たちと比べて党のポストがもつ重要性を認識していて、組織が大きくなるとともにこうした機関の重要性も増していき、特に人事権を握っていたスターリンはそれを利用して自分の派閥を作るようになり、次第に大きな権力をもつようになっていきます。

ソビエト連邦の誕生

1922年12月には、ロシア連邦、ウクライナ、ベラルーシ、ザカフカス連邦の4つが合わさって、正式にソビエト連邦が成立しました。

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6 COMMENTS

匿名

もし、スターリンのことが好きならばあなたの頭はおかしいよ。
せめてヒトラーだ。

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