スターリンはどんな人?生涯・年表まとめ【死因や名言も紹介】

1924年 -46 歳「レーニン死去」

レーニン廟

スターリンの権力掌握

1924年1月24日、レーニンが亡くなると、一番の後継者候補として名前が上がったのがトロツキーでした。しかし、スターリンはすでにジノヴィエフやカーメネフらとともに、レーニンの遺書を公開させないように手を回していました。遺書には「スターリンは粗暴すぎるため、スターリンを後継者にしてはならないといったことが書かれていたのです。スターリンはレーニンの葬儀を執り行うという最高の名誉を手にすることができました。

レーニンの死によって党内では権力闘争が活発化しますが、この戦いに勝利したのはスターリンでした。最大のライバルだったトロツキーはジノヴィエフやカーメネフと結託したスターリンによって党内で孤立させられ、さらに、トロツキーが勢いを失ったと見ると、レーニンの武装蜂起の時に反対票を投じたことを上げ、ジノヴィエフやカーメネフといった他の幹部も孤立させます。そして、彼らの党内での役職や地位を剥奪して、自らの独裁的な権力を固めていきました。

1928年 -50 歳「第一次五か年計画スタート」

第一次五か年計画

強国ソ連を目指し、重工業を強化

五か年計画は、ソ連の工業力を強化し、他国に負けない強い軍事力をもった国家へと改造するための計画でした。革命のとき、外国から干渉を受けた記憶もあり、スターリンはソ連を強い国家に生まれ変わらせなければならないと考えていました。

しかし、重工業ばかりに投資したせいで、ほかの分野での生産が手薄になり、スプーンや食器、帽子にやかんといった日用品が不足するようになり、人々はこれを手に入れるために行列に並ばなけれなならなくなりました。

さらに、同時に行われた農業の集団化によって農民はコルホーズという集団農場へと移され、育てた穀物は当時最大の外貨獲得手段として国が容赦なく徴収したため、コルホーズからは脱走者が相次ぎました。国内でも慢性的に食糧が不足して人々は飢餓に喘ぎました。1932年にウクライナで起きたホロドモールと呼ばれる飢餓などはウクライナ民族の絶滅を計画して故意に起こされたという説もあるほどです。この時期の飢餓では400万~600万人の餓死者が出たともいわています。

大きな犠牲を出しながらも、スターリンの重工業育成政策により、1932年にはソ連は戦車、航空機の生産数でともに世界第1位になりました。外国からの侵略を受けたときのために、工場はウラル山脈の東側にも建設されました。

1932年 -54 歳「妻ナデェージュダの自殺」

2番目の妻は自殺

1932年、ナジェージュダは自殺によってこの世を去りました。はっきりとした原因はわかっていませんが、自殺の直前にはスターリンと口論になっていたといわれています。この時期は国内でのひどい飢餓状態から、党内でもスターリンに対する批判が出ていたときで、革命運動に興味を抱いていた彼女にとってはショックな出来事だったのではないでしょうか。

1934年 -56 歳「キーロフ政治局長暗殺事件」

セルゲイ・キーロフ

大粛清のはじまり

1934年12月レニングラードの党本部にニコラ―エフという党内の不満分子が入り込み、レニングラード政治局長のキーロフを暗殺したという事件は広く党内に衝撃を与えました。これをみたスターリンは、この事件を利用して今後党内で自分の敵となりそうな危険な分子を今のうちに排除しておこうと考えました。キーロフ暗殺事件をきっかけにスターリンが粛清を進めたため、この事件の黒幕はスターリンだったのではないかという説もありますが、現在では、スターリンは無関係でニコラ―エフ単独犯説が有力とされています。

1936年8月にはジノヴィエフ、カメーネフら13名がスターリンの暗殺を企てたとして銃殺刑になっています。トロツキーも1940年にスターリンが送り込んだ刺客によってメキシコで暗殺されています。さらに、粛清は軍にまでおよび、1937年には敵であるドイツと通じていたという理由で、トハチェフスキー元帥ら8名の軍首脳が死刑になり、1939年までには30000人を越える将校が処刑や収容所送りにされました。

スターリンは、グルジア出身のラブレンチー・ベリヤを内務人民委員に任命すると、粛清の執行に当たらせました。スターリン体制の元で収容所人口は急速に膨張し、ついには120万人を越えるようになりました。

1937年 -59 歳「母ケケ死去」

現在のトビリシ(旧チフリス)

1937年5月13日、スターリンの母であるケケが亡くなりました。彼女はチフリス(当時はトビリシと名前が変わっていました)に住んでいたので、葬儀はそこで行われ、ソ連の最高指導者の母として立派な式が執り行われました。しかし、多忙であったスターリンは母の葬儀に参列することはできませんでした。

1938年 -60 歳「ノモンハン事件」

ノモンハン事件

二度にわたる日本との衝突

1937年と38年には、それぞれ「張鼓峰事件」と「ノモンハン事件」という二度に渡る日本との国境線をめぐる武力衝突が起こります。この戦いでソ連軍は予想以上に苦戦し、大きな損害を出すことになります。ノモンハン事件は、独ソ戦で活躍したジューコフ将軍に、自分にとって最も苦しい戦いだったといわしめるほどでした。

しかし、どちらの戦いも国境についてはソ連の主張がおおむね通り、この二度の戦いによって結果的に日本軍に北進を諦めさせたことはソ連にとって大きな利益をもたらしました。スターリンは西のドイツと東の日本がソ連にとっての脅威と考えており、これによって東西から挟み撃ちにされるという最悪のシナリオを排除することができたのです。

1939年 -61 歳「第二次世界大戦勃発」

アドルフ・ヒトラー

世界を驚かせた独ソ不可侵条約

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことで第二次世界大戦が勃発しました。スターリンは、直前の8月23日、ヒトラー率いるナチス・ドイツとの間で独ソ不可侵条約(モロトフ・リッペントロップ協定)を締結していました。この条約は世界中に衝撃を与えました。

それまでスターリンはヒトラーを一番の敵であり脅威と見なしており、ソ連国内でもドイツこそが最も侵略的な国家だといわれていたのです。しかし、イギリスやフランスがヒトラーの隣国への侵略行為に対して融和政策をとるのをみたスターリンは、これはドイツを焚き付けてソ連と戦わせる気に違いないと考え、逆にドイツと手を結ぶことにしたのです。独ソ不可侵条約にはポーランドの分割とバルト三国をソ連の勢力下とする秘密協定があり、ポーランドは東西からドイツとソ連に攻められることになりました。

冬戦争

望んでいた第二次大戦での中立を手に入れたスターリンは、バルト三国を併合し、さらには北欧の小国フィンランドへと侵略の手を伸ばします。1939年から始まったこの戦いは冬戦争と呼ばれます。しかし、フィンランド軍は雪深く厳しい気候と地の利を活かして巧みにソ連軍を撃退し、粛清によって多くの人材を失っていたソ連軍は大敗を喫しました。ソ連は国際的な非難を浴びて国際連盟からも追放され、この戦争でソ連軍は弱体化していると考えたヒトラーによって、後に独ソ戦を引き起こす引き金になりました。

1941年 -63 歳「独ソ戦勃発」

3000万人もの犠牲者を出した独ソ戦

運命の年、スターリンの悪夢と大祖国戦争

1941年6月22日、独ソ不可侵条約を破ったドイツ軍の300万にもおよぶ軍勢がソ連領内に雪崩をうって侵攻を開始し、独ソ戦と呼ばれる戦いがはじまりました。この攻撃は完全な不意打ちで、スターリンはそれまでに前線から何度もドイツ軍が国境付近に集結しているという報告を受けていたにも関わらず、軍に防衛体制をとらせようとはしませんでした。そして、相手を挑発するようないかなる行為も禁ずるという命令を出していました。

なぜスターリンが多くの危機を知らせる情報を無視したのかについては、独ソ戦最大の謎とされています。ともかく、奇襲によってドイツ軍は快進撃を続け、奇襲攻撃を受けたソ連軍は総崩れとなり、ソ連領の広大な地域がドイツの占領下に置かれました。

スターリンは緒戦の大敗にショックを受け、一時は指揮を放棄して別荘に引きこもってしまうほどでした。そのため、国民に向けてラジオで開戦を通達したのは外相のモロトフでした。翌日、部下たちが別荘に自分を訪ねてきたとき、スターリンは、彼らが自分を逮捕してこの敗北の責任をとらせるつもりだと考えました。しかし、モロトフは戦時最高指導部「国家防衛委員会」の創設と、スターリンにその議長を務めてほしい旨を告げました。

部下たちも今ここでスターリンがいなくなれば、ソ連は本当に崩壊してしまうことがわかっていました。戦争を戦い抜くためにはスターリンのような強力なリーダーが必要だったのです。スターリンは胸を撫で下ろすと、モロトフの申し出を快諾しました。

外相のモロトフ

立ち直ったスターリンの行動は早く、西部方面軍のパブロフら前線から敗北した指揮官を呼びつけると、責任をとらせて処刑にするといういつもの手段を使い、さらに国民には祖国を守るため一丸となって侵略者と戦うように呼びかけました。この戦争はかつてナポレオンがロシアに侵攻したときの戦争を指す「祖国戦争」から「大祖国戦争」という名前がつけられました。

ソ連の人々も祖国を守るために立ち上がり、1942年のモスクワ戦では見事に首都目前に迫ったドイツ軍を撃退することに成功します。このとき、スターリンは逃げずにモスクワにとどまりました。アメリカやイギリスの情報機関は、独ソ戦を国力の差から最終的にはソ連が勝つと予測していましたが、ナポレオンのときのように一時的にモスクワが占領されるのは避けられないと考えていました。

翌年の1943年には、独ソ戦の天王山といえるスターリングラードの戦いが起こりました。ヒトラーは、独裁者スターリンの名を冠するこの街の占領にこだわり、大戦力を投入しましたが、逆にソ連軍によって包囲され大量のドイツ将兵が捕虜になる結果となりました。この戦いを境に、次第に戦局の針はソ連有利に傾いていきます。

スターリンは連合軍の一員としてアメリカ、イギリスとも連携を強め、1943年にはイランでテヘラン会談に参加します。このときにはすでにスターリンは戦後の国際関係を見据えていました。スターリンはソ連だけがドイツとの戦いで消耗するのを避けるため、英米に対して「第二戦線」を開くことを要求し、これが実現したのがノルマンディ上陸作戦でした。

1945年5月にベルリンが占領されてドイツが降伏し、8月には日本も降伏、第二次世界大戦が終わりを告げます。スターリンが戦前に多くの犠牲を伴って推し進めた重工業の強化と軍事力の増強は、少なくともソ連を戦争を戦い抜くことのできる国家にしていました。しかし、第二次大戦におけるソ連全体の犠牲者は2000万人以上といわれ、あまりにも大きすぎる損害でした。

長男ヤコフの死

長男の死

スターリンの最初の妻エカチェリーナとのあいだにできた子供である長男ヤコフは、ヤコフ・ジュガシヴィリ中尉として軍にいましたが、緒戦の敗北期にドイツ軍の捕虜になっていました。病床の母より革命活動のほうを選び、生まれたばかりの自分を実家に預けたままにしていた父に対してヤコフは複雑な感情を抱いており、二人の仲はあまり良くなかったともいわれます。このときも父のスターリン姓ではなく、母親のジュガシヴィリ姓を名乗っていました。

それでもドイツ軍はヤコフがスターリンの子供であることをすぐに突き止め、彼の名前を使って投降を呼びかけるビラを作るなどプロパガンダに利用しました。しかし、スターリンは自分の息子でも特別扱いするような人物ではありませんでした。部下から息子が捕虜になったことを告げられたスターリンは「ヤコフはどんな死でも祖国への裏切りより望んでいる」と答えたといいます。

ドイツ軍がスターリングラードで捕虜になったパウルス元帥とヤコフの交換を提示してきたときも、「中尉と元帥を交換するバカがどこにいるのかね」とこれを拒絶しています。ヤコフは1943年8月に捕虜収容所で死亡しており、逃亡を図って射殺されたともいわれます。スターリンの2人目の息子であるワーシリーも1941年から空軍のパイロットとして前線に送られています。

1948年 -70 歳「冷戦のはじまり」

封鎖されたベルリン

新たな敵アメリカとの対立へ

戦後長らくスターリンが恐れていたのはアメリカではなく、ドイツや日本の復讐戦でした。アメリカも、スターリンをそれほど警戒していませんでした。両国の関係を冷戦へと導いたのはソ連による原爆開発でした。

ソ連の国力を過大に評価していたアメリカは、次第に自国のライバルとしてソ連を警戒するようになっていきます。大戦で大きな被害を受けていたソ連にとって、アメリカと対等に戦うのは実際には難しいものでしたが、スターリンは、共産化した東欧諸国を衛星国家にして、東側諸国としてアメリカを盟主とする西側諸国と睨み合いました。

1948年にはベルリン封鎖が起き、西ベルリンへの道が遮断されると、アメリカ、イギリス、フランスの三国は必要物資を空輸してこれに対抗しました。1950年には朝鮮戦争が起き、アメリカ軍も介入して泥沼の戦いになりました。スターリンは米ソの直接対決を恐れていたため、このときはほとんど援軍を送ろうとはしませんでした。

1953年 -74 歳「死去」

スターリンの墓

老いた独裁者の最期

朝鮮戦争のころから、スターリンの行動には不明なところや一貫性のないところが見られるようになります。死の前年には、これまでずっと自分に仕えてきた信頼の厚い秘書や警備職員を一斉に逮捕させるという出来事もありました。この時期のスターリンは誰も信じることができなくなっていたようで、明らかに統治能力を失っていたといえます。

そして、1953年3月5日夜9時50分、スターリンは脳卒中で倒れ、その4日後に死亡しました。享年74歳。このとき、発見と処置が遅れたことと、目撃した部下の証言に食い違いが見られることから、暗殺説も存在しています。

スターリンの死の知らせを受けて多くのソ連国民は涙を流しました。それは、彼の死によって一つの時代が終わりを告げ、大きな喪失感とともに大祖国戦争の頃の辛かった記憶などを思い出したからだといわれます。6日にモスクワの中心部で行われたスターリンの葬儀には多くの人々が詰めかけ、ソ連各地でもスターリンを悼む式典が行われ、ソ連全土が喪に服しました。

スターリンの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

図説 ソ連の歴史 (ふくろうの本/世界の歴史)

テーマについて豊富な写真とともに解説するふくろうの本シリーズの1冊。スターリンついて書かれた本ではありませんが、ページの多くがスターリン時代に割かれています。写真も多くて見やすく、ソ連という国の歴史について基礎的な知識をつけるためにオススメの1冊です。

スターリン – 「非道の独裁者」の実像

スターリンの生い立ちからソ連の統治者となり、アメリカと対立から死去するまでの生涯を解説した新書です。ソ連崩壊後の新資料などをもとに、従来とは違うスターリン像にも言及し、タイトル通りスターリンの実像を描き出す1冊です。

スターリン―赤い皇帝と廷臣たち

イギリス人作家サイモン・セバーグ ・モンテフィオーリによるスターリンの伝記。権力を掌握してから亡くなるまでのスターリンの半生を、様々な新資料や関係者の子孫へのインタビューをもとに描き出した上下巻1200ページを越える大作です。

スターリンをよく知れるおすすめ本8選【入門の自伝から上級まで】

おすすめの映画

スターリンの葬送狂騒曲

スターリンが急死したソ連で、残された側近たちの繰り広げる権力闘争を描いたブラックコメディ。もちろん史実に忠実な映画ではありませんが、独裁者のいなくなった独裁国家のいかにもありそうな様子が描かれています。それぞれの人物描写などはそれなりに史実を元に描かれているため、歴史を知っているとより楽しめるのではないでしょうか。

関連外部リンク

スターリンについてのまとめ

スターリンといえば、一般には冷酷な独裁者というイメージをもたれていますし、毀誉褒貶も激しく、現代のロシアでさえ明確な評価は定まっていない人物です。

粛清によって多くの犠牲者を出したのも事実ですが、ナチスドイツとの戦いにおいては、スターリンの進めてきた工業化と軍事力の強化にくわえ、彼の強力なキャラクターとリーダーシップが大きな役割を果たしたのではないでしょうか。

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6 COMMENTS

匿名

もし、スターリンのことが好きならばあなたの頭はおかしいよ。
せめてヒトラーだ。

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