「ガガーリンってどんな人?」
「ガガーリンの死因って何?」
「ガガーリンの功績や名言について知りたい!」
本記事をご覧のあなたはこのように思っているのではないでしょうか?
ガガーリンとは、ソビエト連邦出身の軍人であり、人類で初めて有人宇宙飛行を成功させた宇宙飛行士です。彼の名言「地球は青かった」は聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。彼は労働者階級出身の英雄として、ロシアでは現在でも国民たちから尊敬されています。
しかし、彼はジェット戦闘機の訓練中に事故にあってしまい、34歳の若さで亡くなってしまいました。実は、彼の死因には不明な点が多々あり、真相について様々な憶測が展開されています。
そこで、今回はガガーリンの生涯について詳しく紹介していきます。また、彼の名言や功績、逸話についても併せて解説していきますので、ぜひ参考にしてください。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ガガーリンとはどんな人物か?
名前 | ユーリイ・A・ガガーリン |
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露名 | 「Yurii Alekseevich Gagarin」 |
誕生日 | 1934年3月9日 |
生地 | 旧ソ連 クルシノ村 |
没日 | 1968年3月27日 |
没地 | ヴラジーミル州キルジャチ |
配偶者 | ヴァレンチナ・ゴリチェヴァ |
埋葬場所 | モスクワ「赤の広場」のクレムリンの壁 |
軍歴 | 1955年~1968年 |
最終階級 | 大佐 |
功績 | ボストーク1号 |
ガガーリンの生涯をハイライト
まずはガガーリンの生涯を簡単に解説しましょう。
1934年、ガガーリンはソビエト連邦のモスクワ西部に位置するクルシノ村で生まれます。彼は第二次世界大戦の苦しい環境を生き抜いた後、飛行機の魅力に憑りつかれてパイロットを志し、空軍士官学校を卒業して空軍に入りました。
その後、1959年頃にソ連の宇宙開発が本格化すると、優秀だったガガーリンは宇宙飛行士の候補生として招集され、厳しいテストと訓練を受けることになります。その結果、ガガーリンは最終選考を突破して正飛行士に任命されました。
そして、1961年にガガーリンは人類初の有人宇宙飛行を成功させます。当初、ソ連政府は彼が生還できるとは考えていませんでした。しかし、ガガーリンは高度7000mの地点から座席ごと射出された後、無事にパラシュートでソ連領内に生還しました。
世界的に注目を集めたガガーリンは、当時のソ連の指導者であったフルシチョフ書記長にも気に入られる存在となり、政府と良好な関係を築いていきます。その後、彼はソ連による宇宙開発の広告塔として世界中の国々を訪問して回りました。
1968年3月27日、ジェット戦闘機の訓練をしていたガガーリンは墜落事故を起こしてしまい、34歳の若さで死去してしまいました。しかし、彼の死には謎が多く残されており、事故ではなく何者かによる陰謀だったのではないかとも噂されていますが、未だに真相は不明です。
ロシアでは偉人として尊敬されている
ソビエト連邦の宇宙飛行士として活躍したガガーリンは、現在のロシアでも東側諸国の宇宙開発を代表する偉人として尊敬されています。1980年には、モスクワにチタン製の巨大なガガーリン像が建てられました。
また、彼が偉業を成し遂げた日付である4月12日は、ロシアでは宇宙飛行士の日として祝日に指定されています。他にも、ロシア国内には彼の名前にちなんだ地名や建物が多くあります。
そして、2021年にはガガーリンによる有人宇宙飛行の成功から60周年を迎えました。これを記念して、ロシア各地では記念行事が開催され、日本でもロシアの宇宙関係者と共同で子供向けの宇宙イベントがオンライン形式で開催されました。
小さい頃からまじめで勉強熱心だった
少年時代のガガーリンの評価は、まじめで勉強熱心で優等生だったようです。また、数学サークルに入り、物理の実験もしていました。
中学生時代もまじめで優秀、そして職業学校でもまじめで優秀。職業学校ではパイロットを目指した時期であり、学校の工学と趣味の航空学を同時に勉強していながら、学校の試験をなんなくパスしていつも余裕があったとのこと。もちろん航空学の成績もとても優秀でした。
そして、念願の夢であったパイロットになっても、訓練の成績はやはり優秀とのこと。このように、ガガーリンは子供のころからずっと優等生だったことがわかります。しかし、宇宙飛行士の選抜する際の筆記テストでは、ガガーリンよりも優秀な成績を残す候補生がいました。
それは候補生の中でもっとも成績優秀だった、ガガーリンのライバルであるゲルマン・チトフです。
ガガーリンにはライバルがいた
20人の中から宇宙飛行士を選ぶ際に、様々な過酷な訓練を行います。しかし1人だけ余裕で訓練をクリアしていき、筆記テストもトップクラスの候補生がいました。
それはのちにガガーリンの次に、宇宙へ行くことになるゲルマン・チトフです。チトフはどんな訓練でも余裕でクリアしていくので、宇宙飛行士の最有力候補でした。そして、候補生がガガーリンとチトフの2人に絞られたときも、訓練の成績からチトフが選ばれると思っていた人も多かったようです。
しかし、最終的に選ばれたのはガガーリンでした。決め手となったのは、開発者たちに気に入られたことが評価の一つといわれています。
ゲルマン・チトフも「ガガーリンは労働者、科学者、農民、だれとでもうちとける人」と評しています。惜しくも選ばれなかったゲルマン・チトフでしたが、のちにボストーク2号の搭乗員となり、初めて宇宙船を操縦し、宇宙で食事をするなどの功績をのこしました。
謎に包まれている死の真相とは
ガガーリンの死の原因は長らく謎に包まれていました。なぜなら当時のソ連が、ガガーリンの死についての詳細を一切公表しなかったからです。
そのため、政治的理由で国家から意図的に抹殺された陰謀説が一時期噂されました。さらに単なる飲酒運転が事故の原因などと、ガガーリンの名誉を傷つける噂まで広がってしまいます。
2011年4月ロシアはついに、当時のソ連政府調査委員会の報告書を公表します。事故の原因は、「気象観測用気球か鳥との衝突を避けようとして操縦を誤り事故に繋がった」とされています。
しかし、当時事故調査委員会に参加していた関係者の1人が、この発表は政府の捏造であると否定しました。実際は戦闘機同士が接触しての事故であり、ガガーリンが乗る戦闘機に衝突した戦闘機のパイロットの名を公にできないので、事実と異なる結論を発表したといわれています。
しかしその意見も根拠がなく、ガガーリンの死の真相は今だ謎に包まれています。
ガガーリンの功績
功績1「人類初の有人宇宙飛行を行った」
ガガーリンの最も偉大な功績として、人類初の有人宇宙飛行を行ったことが挙げられます。彼の成功をきっかけに、人類は本格的な宇宙時代へ突入していくことになります。
彼を乗せた宇宙船は、地球周回軌道に乗った後に大気圏外を1周しました。その後、大気圏に再突入した際にガガーリンは座席ごと脱出し、パラシュートで降下して無事に地上へ帰還しました。
彼の活躍により、当時アメリカとの間で行われていた宇宙開発競争において、ソビエト連邦は大きくリードすることになりました。一方で、アメリカはガガーリンが偉業を成し遂げた翌年に有人宇宙飛行を成功させています。
功績2「厳しい選考テストに合格した」
ガガーリンは、厳しい選考テストに合格して人類初の宇宙飛行士となりました。彼を含めた20人の候補生は、主にフィジカル面とメンタル面の耐久力をテストされながら過酷な訓練を受けていたようです。
1960年、空軍に所属していたガガーリンはソビエト連邦の本格的な宇宙開発の開始に伴って宇宙飛行士候補として招集されました。そして、厳しい訓練の中で好成績を残して見事に最終選考を突破し、正飛行士になったのです。
実は、当時の宇宙船は非常に小さく、大柄な体格の人物では乗り込むことすらできませんでした。そのため、彼が採用された理由の1つとして、身長が158㎝と低めであったことも関係していました。