ガガーリンの生涯年表
1934年 – 0歳「ガガーリン旧ソ連クルシノ村で生まれる」
ガガーリン誕生
1934年3月9日に農家の三男として生まれました。生まれた場所はスモレンスク州グジャーツクという都市からほど近いクルシノ村です。クジャーツクは、のちにガガーリンの功績をたたえ、ガガーリンに改名されました。
家族構成は、父と母そして兄が二人に、姉が一人の家庭でした。幼いころのガガーリンは、姉が面倒をみることもあったようです。ガガーリンの父親は、腕利きの大工であり、母親はインテリの読書家でした。ガガーリン一家は決して裕福ではないのですが、貧しくもない農民だったようです。
「一家は農民」という点は、宇宙飛行士に選抜する過程で重要な経歴でした。農民家庭で労働階級出身でという肩書は、国民から親しみやすい経歴だったからです。
ガガーリンと宇宙開発競争
少年時代のガガーリンの評価は、まじめで成績優秀と少年時代からエリートだったようです。しかし、1939年に第二次世界大戦が勃発し、2年後にはドイツがソ連の侵略を開始します。独ソ戦序盤のソ連軍は、ドイツ軍の奇襲攻撃に大苦戦し、ガガーリンの住む地域近くまでドイツ軍が迫ります。
そして、2人の兄がドイツ軍に捕らえられ、強制労働に従事させられます。ガガーリンも戦争の激化とともに、学業を中断し疎開を余儀なくされました。
そんな時代、学校の先生の一人がソ連空軍に従軍します。この出来事は、のちにガガーリンがパイロットを夢見るきっかけの一つとなりました。
1945年9月2日ソ連国内だけで2500万人以上の死者を出し、凄惨を極めた第二次世界大戦が終結します。戦勝国であるソ連とアメリカは、第二次世界大戦終結後に対立を深め、東西冷戦の時代に突入します。ソ連とアメリカは、軍事利用が可能で超大国の象徴の一つとなる宇宙開発を活発化させました。
1950年代から両国は莫大な国家予算を使い、国家の意地とプライドをかけた宇宙開発競争を始まるのでした。
1951年 – 17歳「中等工業技術専門学校に入学し工業を学ぶ」
学業再開とパイロットを夢見る
終戦後、ドイツ軍に捕らえられていた2人の兄は無事帰還します。一家に平穏がおとずれると1951年に、ガガーリンは中断していた学業を再開し、中等工業技術専門学校に入学しました。
工業学校では在学中エアクラブに入り、そこでガガーリンは軽飛行機を操縦して飛行を楽しみます。このエアクラブがきっかけとなり、ガガーリンは本気でパイロットを目指すようになりました。
1957年 – 23歳「卒業、結婚、そしてパイロットに」
夢であったパイロットになる
工業学校卒業後には、パイロットの夢を実現させるため、オレンブルクの空軍士官学校に入学します。
オレンブルクの空軍士官学校在学中に、ヴァレンチナ・ゴリチェヴァと結婚をし、同年に空軍士官学校を卒業します。卒業後にソ連空軍のムルマンスクの基地に配属され、ついに夢であったパイロットになりました。
1957年 – 23歳「人工衛星スプートニク1号」
アメリカを震撼させた史上初の人工衛星スプートニク1号
ガガーリンがパイロットの夢を実現させた同年の1957年10月4日、とあるビックニュースが全世界を駆け巡ります。それは、ソ連が史上初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功したことでした。宇宙開発は自国が一番と、豪語していたアメリカ押しのけてソ連がリードしたのです。
このニュースに、ライバルだったアメリカは強い衝撃をうけ、ソ連に先を越された屈辱を味わいます。アメリカはソ連に対抗するため、わずか2か月後に人工衛星「ヴァンガードTV3」の打ち上げを試みますが失敗。またしてもアメリカは屈辱を味わい、国民からも失望されてしまいます。
スプートニク1号の打ち上げ成功は、ソ連全土が沸き上がり、宇宙開発がさらに活発化していきます。一方、二度の屈辱をうけたアメリカでしたが、同時に宇宙開発のプライドに火がつきました。
こうして、ソ連、アメリカによる宇宙開発競争がますます激化していくことになるのです。ガガーリンも祖国の偉業を目の当たりにし、大きな勇気をもらい宇宙飛行士を目指すきっかけの一つになったと思われます。
スプートニク1号の開発者の1人「セルゲイ・コロリョフ」はスプートニク1号の打ち上げ成功により、国から高く評価され、今後の宇宙開発者の筆頭として腕を振るいます。そしてコロリョフはその後、ガガーリンの運命をかえる人物となるのでした。
1960年 – 26歳「ガガーリン宇宙飛行士を目指す」
宇宙飛行士への道
1960年9月スプートニク5号を打ち上げます。宇宙船内には犬とネズミ、数種類の植物も搭載している状態で宇宙空間へ行き、翌日には全ての動植物が生存した状態で地球に帰還します。スプートニク5号は、有人宇宙飛行の試験的な役割も果たしていて、いよいよ有人宇宙飛行が現実味をおびてきます。
ソ連は有人宇宙飛行に向けて宇宙飛行士を募集し、ガガーリンも志願します。数多くの候補生の中からガガーリンは最後の20人の候補生の一人に選ばれ、そこから数多くの訓練をうけます。しかし訓練は身体的にも精神的にも過酷なものが多く、大きな試練となりました。
その一部をまとめます。
- 飛行機へ乗り無重力状態での飛行
- 遠心力発生装置で10Gに耐える訓練
- 高高度からのパラシュート降下
- 無音室での精神力強化
- 天文学、地球物理学、宇宙医学などの難関筆記テスト
中でも最も過酷な訓練は、「無音室」だったと多くの候補生は語ります。無音室での訓練は、狭い部屋に閉じ込められて、何もない空間で何日間もひたすらその中で生活する訓練でした。いつ出れるかも伝えられず、ひたすら無音室の中で過ごさなければなりません。
これは精神力を鍛える訓練で、当時の宇宙船内が非常に狭く、閉鎖的な環境であることからこの訓練が行われました。ガガーリンもこの過酷な訓練に必死に耐えました。
1960年 – 26歳「セルゲイ・コリョロフとの出会い」
ソ連が有人宇宙飛行計画を進める中、ライバルのアメリカも有人宇宙飛行の、マーキュリー計画を着々と進めていきます。ソ連は密かにアメリカが、1961年の4月に有人宇宙船を発射するという情報を得ます。アメリカに先を越されてはならない、そんな思いからソ連は焦りが見え始めてきました。
そんな中、ガガーリンを含めた候補生の前にとある大物が姿を現します。それは、ボストーク1号開発の筆頭のセルゲイ・コロリョフでした。コリョロフは、史上初の人工衛星スプートニク1号の開発にも深く関わっていて、宇宙開発者の中ではトップに君臨する人物でした。コリョロフは候補生の前で、自ら設計開発したボストーク1号の説明の場を設けます。
候補生たちはみな、コリョロフを前にして緊張する空気の中、ガガーリンはその説明の場でコリョロフにボストーク1号の構造や打ち上げに関する詳細、計画などを積極的に質問します。候補生の中でひときわ熱心に、質問をなげかけ興味を示すガガーリンにコリョロフは感心しました。
開発者の筆頭であるコロリョフに気に入られたことで、宇宙飛行士候補者争いに優位に経ったのです。
1961年 – 27歳「宇宙飛行士ガガーリン」
ボストーク1号とガガーリン
1961年4月10日ボストーク1号打ち上げの2日前、ガガーリンが史上初の宇宙飛行士に選ばれます。宇宙飛行士ガガーリンの誕生です。厳しい訓練に耐え、多くの開発者やコリョロフの心をつかんだガガーリンは、前人未到宇宙へと旅立つことになりました。
しかし、発射直前にもかかわらずガガーリンが搭乗する「ボストーク1号」は致命的な欠陥がありました。その一つに帰還カプセルないの断熱材が十分に搭載できなかったことです。
大気圏再突入するとき帰還カプセルは数千度の高温となるため、厚い断熱材をカプセルに搭載しなければいけません。しかし十分に搭載すると、重量がかさんでしまうため断熱材が十分に搭載できなかったのです。
さらに、帰還カプセルには着陸用にパラシュートが用意されていましたが、着地したときに、十分に衝撃を和らげることができない可能性があったのです。どちらも生命に直結する欠点でしたが、改良することはできませんでした。
このとき、すでにアメリカがマーキュリー計画の打ち上げを発表した月となっていたので、改良に時間をかけると、アメリカに先を越されてしまう可能性があったのです。
コリョロフはガガーリンが宇宙飛行士に選ばれたとき、このボストーク1号が持つ欠陥を伝えます。それは、ボストーク1号に搭乗すれば、二度と生きては帰れない可能性があるという通告でしたが、ガガーリンはボストーク1号の搭乗を決意します。
1961年 – 27歳「ガガーリンいざ宇宙へ!」
前人未到の宇宙へ
1961年4月12日ついにボストーク1号が打ち上げられます。宇宙空間に到達し、飛行中も宇宙空間の詳細を地上の管制官と交信をします。
その一つに「”Небо очень и очень темное , а Земля голубоватая . “」という言葉があります。直訳すると、「空は非常に暗かった。一方、地球は青みがかっていた」となり、これがのちの「地球は青かった」という名言になったといわれています。
打ち上げから約一時間後に、ボストーク1号打ち上げ成功のニュースが流れます。そして家族にさえ秘密にされていた、ボストーク1号の搭乗員のガガーリンの名も伝えられ、世界中でガガーリンの名が知られることになります。
ガガーリンの宇宙飛行はここまで大きなトラブルもなく、順調に進み108分間の飛行を終えると帰還のため大気圏への再突入し地表を目指します。
しかし、ここで不測の事態がおきてしまいます。大気圏再突入の際、帰還カプセルとエンジンの切り離しに失敗してしまい、大気圏内でカプセルが高温になる事態がおきたのです。カプセル内部も高温になってしまい、このときガガーリンは死を覚悟したといわれます。
しかし、高温によってカプセルとエンジンをつなぐワイヤーが切れ、奇跡的にエンジンが切り離されます。これによってカプセルの温度も下がり、絶体絶命の窮地を脱したガガーリンは無事地球に帰還します。
こうしてガガーリンは、人類史上初の有人宇宙飛行を達成したのです。
1961年 – 27歳「世界の英雄ガガーリン」
ガガーリンとソ連の偉業
ガガーリンが有人宇宙飛行を成功させると、そのニュースは全世界で報道されました。ガガーリンの名は全世界へ知れ渡ることになり、国内外から大いに祝福され人類の英雄となります。そしてガガーリンの成果は、今後の宇宙開発において重要な役割を果たし、宇宙開発史にその名を刻みました。
ソ連も史上初の人工衛星の打ち上げに成功した後、史上初の有人宇宙飛行にも成功させました。宇宙開発競争において、またしてもアメリカをリードしたのです。有人宇宙飛行までも先を越されてしまったアメリカは、今度は月面に人類を立たせる計画をたてます。
これがのちの「アポロ計画」となるのでした。
1962年 – 28歳「ソ連親善大使として来日」
「地球は青かった」のガガーリンが日本に来る
全世界の英雄となったガガーリンは、世界中を訪問し1962年5月21日には夫婦と共に来日します。当時ソ連は日本にとっては仮想敵国であり、反ソ連感情を抱く国民も多かったのですが、このときばかりは歓迎ムード一色に染まります。
ガガーリンは東京、大阪、京都、札幌を訪れ、各地でパレードを行いました。「地球は青かった」のガガーリンを一目見ようと、多くのギャラリーを集めます。
日本では当時の池田隼人首相と面会をしたり、日本料理を箸を使って食事をしたりと、ハードスケジュールながら日本を堪能しました。そして5月29日に8日の滞在を終えて帰国の途につきます。
1968年 – 34歳「その後のガガーリン」
再び夢見た宇宙と突然の死
初の有人飛行成功後、ガガーリンは再度宇宙へ行くことを夢見ます。しかし、英雄を危険な目に合わせるわけには行かない、との理由でその希望は叶いませんでした。
ガガーリンは宇宙飛行士の訓練指揮官として、方針の指導にあたります。ガガーリンは再度宇宙にはいけませんでしたが、ソ連の宇宙開発に大きく貢献したのです。
そして1968年3月27日に首都モスクワから約100㎞程離れた場所で、訓練中の1機のジェット機が墜落し搭乗員2名が死亡します。死亡した搭乗員の1人がガガーリンでした。ガガーリン死亡のニュースは世界中に報道され、若すぎるその死を悔やまれました。享年34歳でした。
ガガーリンの関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
ガガーリン —-世界初の宇宙飛行士、伝説の裏側で
この書籍は、ガガーリンの友人や知人へのインタビューを通じて語られる話であり、宇宙から帰還した後のストーリーや、謎多き死の詳細について書かれています。
ガガーリンの華々しい功績の裏に隠された真実とはいったい何なのか?ガガーリンの知られざるサイドストーリーがこの本を読めば明らかに!
米ソ宇宙開発競争
東西冷戦時代の1950年代後半ごろにかけて、アメリカとソ連が熾烈な宇宙開発競争が始まります。ソ連は史上初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功すると、今度はボストーク1号が、ガガーリンを乗せて史上初の有人宇宙飛行にも成功します。対抗するアメリカはアポロ計画を発表し、1969年7月21日史上初の月に人類が踏み入れます。
なぜここまで、両者は必死に宇宙開発をおこなったのか?それは宇宙開発において、切っても切れない軍事的な理由があったのです。
ロシア宇宙開発史: 気球からヴォストークまで
1961年4月12日ガガーリンを乗せたボストーク1号は、史上初の有人宇宙飛行に成功します。その成功の裏には多くの開発者の活躍がありました。
この書籍は、気球で空を飛ぶ過程から、ガガーリンが宇宙に行くまでのロシア、ソ連の宇宙開発について描かれています。
おすすめの動画
ようこそガガーリン「京都訪問記録」
この動画はガガーリンが宇宙飛行を成功させた後のサイドストーリーです。1962年5月21日にガガーリンはソ連親善大使として、日本を訪れます。5月25日には京都を訪れ、動画はその時の様子を解説しています。動画を観ると、敵対していたソ連と日本が一つとなった瞬間も観ることができます。
おすすめの映画
ガガーリン 世界を変えた108分
2013年ロシアで製作されたこの映画は、ガガーリンの少年時代のころから描かれ、宇宙飛行士になるまでの経緯、そして宇宙へ旅立つストーリーが描かれています。この映画一本で、ガガーリンの功績全てが知ることができます。
First Orbit
ガガーリンの宇宙飛行を映像で再現した映画「First Orbit」です。なんとYouTubeで無料公開されています。日本語字幕はないのですが、英語字幕はあるのでなんとなくみれます。
映画監督のクリストファー・ライリー氏は、
「ガガーリンが成し遂げたことには銀河的な意味がある。古くさい白黒映像とは違う形で残しておく必要がある」
と語っており、歴史の1ページを再現するべく、映画「First Orbit」を制作し全世界でオンライン公開しました。1960年代の記録素材と、イタリアのパオロ・ネスポリ宇宙飛行士が国際宇宙ステーション(ISS)から撮影した最近の映像を組み合わせて編集したものです。再撮影した映像は、ガガーリンの視界を再現しただけでなく、地球に当たる太陽光の角度まで当時と一致させたこだわりの作品です。
関連外部リンク
- ガガーリン、幼少期から家族まで、27歳の履歴書
- ガガーリン51 1962年の来日 その1
- 「地球は青かった」などとは言わず 『ガガーリン』
- ユーリイ・ガガーリン
- ガガーリンとは
- ユーリ・A・ガガーリン
- 笑顔で掴んだ前人未到の偉業…人類初の宇宙飛行士「ガガーリン」の真実
ガガーリンについてのまとめ
将来の夢は宇宙飛行士、その今でこそ誰もが憧れる夢を与えたのが、ガガーリンです。宇宙という未知の世界へ挑んだ英雄ですが、34歳でこの世を去ったのがあまりに惜しいですね。