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美人ピアニスト!クララ・シューマンの生涯を代表作品や名言と共に紹介

クララ・シューマンは、ロマン派の作曲家、ロベルト・シューマンの妻であり、自身もピアニスト、作曲家として名を残しています。

19世紀という時代に、女性でありながら、演奏者として生計を立てられたことからも、彼女の才能が、どれだけクオリティーが高いかわかります。半面、「家庭を支える」と言う、どの女性もやっていた生活は余儀なくされ、その中でも、彼女は決して自分の才能を捨てず、演奏し、家計を支えることまでやり遂げるのです。

クララ・シューマン

そして、19世紀の女性であるクララの人生には、切り離すことの出来ない3人の男性が存在しています。

一人は、ピアノ教師の父、フリードリヒ・ヴィーク。クララを「モーツアルトのような神童」を育てるという野望を持ち、ピアノの英才教育を授け、最初の庇護者となります。

次に、夫となった作曲家、ロベルト・シューマン。半ば、ヴィークからクララを奪うように結婚しましたが、のちに狂気に陥り早逝します。そして、20代から、クララが亡くな時まで、書簡のやりとりをした作曲家のヨハネス・ブラームス。彼は最後まで友愛を貫き、クララが76歳で没した翌年、ブラームス63歳で没しています。

時代と男たちに翻弄されながらも、芸術家、教師、母であろうとした類まれな女性の生涯を紹介していきましょう。

クララ・シューマンの来歴は?

名前クララ・ヨゼフィーネ・シューマン
誕生日1819年9月13日
生地ザクセン王国ライプツィヒ
没日1896年5月20日
没地フランクフルト・アム・マイン
配偶者ロベルト・シューマン
埋葬場所Alter Friedhof (ドイツ・ボン)

父の執着から始まったピアニストと言う道

クララを「第2のモーツァルト」にしようとした父

クララの父フリードリヒ・ヴィークはピアノ教師でした。

クララを「第二のモーツアルト」にしようと試みたフリードリヒは、他の子供の育児を放棄し、彼女に音楽的英才教育を施します。

その甲斐あって、1828年、9歳の時、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会で、モーツァルト・ピアノ協奏曲のソリストを務めてピアニストとしてデビューします。 12歳の頃には彼女はヨーロッパ中をツアーして回るようになり、多くの音楽好き著名人や皇帝、音楽家などからも高評価を受けます。

当時のライプツィヒ、ザクセン王国のみならず、現在のドイツ全域に天才少女としてその名を知られるようになり、以後、19世紀において最も高名なピアニストとなるのでした。

しかし、父のクララへの執着は激しく、彼女の日記の内容を管理したり、後にロベルト・シューマンとの結婚を破談にするため奔走し、結局クララが裁判を起こさなければならないほどでした。

また、クララだけに彼の愛着はあり、他の子供達には見向きもしないどころか、ストレスを全て向け、虐待していたと言われており、クララは殴られている兄弟たちの阿鼻叫喚を聴き流し、或いは聴かないふりをして、練習に没頭していたと言います。

ヨハネス・ブラームスとの40年にも渡る友情

ヨハネス・ブラームス

クララ・シューマンを語る上で、絶対に外せないのが、作曲家ブラームスとの友情です。

最初の出会いは、1853年、ブラームス20歳の時。鬼才のヴァイオリニスト、ヨアヒムの紹介所を手に、ロバート・シューマンを訪ねてきました。シューマンは、作曲家であると同時に、評論家としても才能を発揮しており、こうした若い音楽家が紹介され、彼の前で演奏などをしていたのです。

当時のブラームスはすらりと痩せていて、非常に薄い亜麻色のふさふさとした髪が肩くらいまで伸びていて、清純と静けさの溢れた表情をしており、はにかんだような態度は、特に彼を好もしく思わせたと言われています。

ブラームスが演奏のため、ピアノの前に座ると、ロベルトはクララを呼び、「この青年は、今まで聞いたこともない音楽を作曲する」と、紹介しました。

この瞬間、彼らの生涯を通じて、燃え続けた友情の火が灯されたのです。

ロベルトの死後も、ブラームスとクララは友情を育み続け、クララが死すまで、書簡を交わし続けました。出会った時20歳だったブラームスはクララが76歳で没した時、62歳になっていました。

長い人生の間、何度となくクララを助け、ロベルトが亡くなった後は、庇護者のように彼女と子供たちの生活まで面倒をみていましたが、二人が一緒に暮らすことはありませんでした。結局、クララが亡くなった次の年、ブラームスも後を追うように亡くなっています。

「クララ」と言う、名前の由来は?

「クララ」は「光り輝く人」という意味

クララの実母は、マリアンネ・トロムリッツ。

彼女もまた音楽一家の家系に生まれ、自らも声楽家、ピアニストとして、音楽活動を行っていました。

さらにこの時代の女性の重要な役割である、家事や育児も取り仕切っていましたが、夫であるフリードリヒ・ヴィークが、あまりにもピアニストとしての活動を、彼女に強く要求するため、それに耐えきれなくなって家を出たと言われています。恐らく良い生活水準を得るために、マリアンネの演奏活動を煽ったのでしょう。

結局離婚が成立し、クララのもとには新しい母がやってくることになりました。

ヴィークはマリアンネで果たせなかったことを、クララで成し遂げようとしていました。 娘が生まれたら一流のピアニストに育て上げるということを、かなり早いうちから夢見ていたようです。

この「クララ」という名前は、「光り輝く人」という意味で、彼女がピアニストとして活躍するのにふさわしいとして、名付けられたのだと言われています。

クララ・シューマンの名言

私はいつも神に向かって、私がこれまで切り抜けてきた、そして私をまだ待ち受けている恐ろしい心の動揺を克服する強さを与えてくれるよう、祈っています。私の本当の親友であるピアノは、きっと私の助けになってくれるはずです。

あらゆるものが一つに織りあげられ、一緒に呼吸しているのは、なんと見事なんでしょう!

もし女でなかったら、私はとっくの昔にピアノ弾きの生活を切り上げていたでしょう。でも、少しだけ慰めはあります。私は女性とならば確実に対抗していけます。

クララ・シューマンの作品一覧

ピアノ独奏曲

  • Op1:ピアノのための四つのポロネーズ
  • Op2:ピアノのための、ワルツ形式によるカプリス集
  • Op3:ピアノのためのロマンスと変容
  • Op4:ピアノのためのロマン的ワルツ集
  • Op5:4つの性格的小品
  • Op6:ピアノのためのトッカティーナ、バラード、ノクテュルヌ、ポロネーズ、二つのマズルカからなる音楽の夜会
  • Op7:管弦楽の伴奏付きピアノ協奏曲第一番
  • Op8:ベッリーニの「海賊の歌」にもとづくピアノのための演奏会用変奏曲
  • Op9:ヴィーンの思い出(即興曲)
  • Op10:ピアノのためのスケルツォ
  • Op11:ピアノのための3つのロマンス
  • Op14:ピアノのためのスケルツォ2番
  • Op15:ピアノのための4つの幻影
  • Op16:ピアノのための3つのプレリュードとフーガ
  • Op20:ロベルト・シューマンの主題によるピアノのための変奏曲

歌曲

  • Op12:リュッケルトの「恋の春」からの12の詩。ロベルトとクララ作曲による声とピアノのための作品
  • Op13:ピアノ伴奏による6つの歌曲
  • 声とピアノのためのワルツ。ヨハン・ペーター・リーザーの詩による
  • 「海辺にて」ロバート・バーンズの詩による
  • Op23:ヘルマン・ロレット「ユクンデ」から6つの歌曲
  • ハイネの詩による「民衆歌」
  • エマニュエル・ガイベルの詩による3つの混声合唱曲

器楽曲

  • Op17:ピアノ・ヴァイオリン・チェロのための三重奏曲
  • Op22:ピアノとヴァイオリンのための3つのロマンツェ
  • 管弦楽のためのスケルツォ(楽譜喪失)

カデンツァ

  • ベートーヴェンのピアノ協奏曲ト長調作品58へのカデンツァ
  • ベートーヴェンのピアノ競争曲ハ短調作品37へのカデンツァ
  • モーツアルトのピアノ協奏曲ニ短調(k.466)へのカデンツァ

クララ・シューマンにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「クララの生涯を世に送り出した伝記作家、原田光子」

原田光子著『友情の書簡』

クララの人生を知ろうと思ったら、やはりこの二冊は外せません。二人のやり取りした手紙を記した「友情の書簡」、クララ自身の人生に焦点を当てた、「真実なる女性 クララ・シューマン」。

二冊とも、執筆から60年以上を経て、今なお版を重ねている書籍です。この両方を執筆したのは、原田光子さん。この方の人生において、クララとの繋がりは不可欠だったようです。

まず、自身もピアニストを目指しており、結婚して離婚。 逝去された年齢は原田さんの方が36歳とお若いのですが、なんと、クララ・シューマンが亡くなった日と同じ、5月20日に逝去されているのです。しかも、クララは76歳。一桁の数字の一致さえ、偶然とは思えませんね。

「光子」と言うお名前に光と言う漢字が使われいますが、クララの名前も「光輝く人」と言う意味があります。まるで、運命の出会いのような二人ですが、光子さんの執筆活動はわずか5年程度の短いものでした。早逝した彼女が出版した書籍は、なんと7冊のみ。この内、二冊がクララの人生でした。

クララの伝記と、クララとブラームスの往復書簡集を残した功績は大きく、ともすれば、夫ロベルト・シューマンの陰になり、特に日本人である私たちには馴染みのない一生を、それこそ「光」輝かせ、現代にまでその道を譲らない、素晴らしい伝記作家なのです。

都市伝説・武勇伝2「二人の愛は友愛だったのか、重なる連弾の4手」

ヘルマ・サンダース=ブラームス

クララ・シューマンとヨハネス・ブラームスとの関係は、当時も今現在も、様々な憶測が飛び交っています。

例えば、ブラームスの末裔であるヘルマ・サンダース=ブラームスが監督した映画「クララ・シューマン 愛の協奏曲」などは、はっきりと三角関係としてこのかかわりを描いています。

実際にはブラームスとクララが不倫関係であった証拠はありませんが、ブラームスが若い時にクララにしたためた愛の手紙は、クララ自身が「世に出せない内容」として、破り捨てているものもあります。

このように、二人がどんな関係だったのかをはっきりと示すものはありませんが、その愛情が、かなり「濃かった」と言うことを示すものはあります。

それは、ブラームスが編曲した「連弾曲」です。「連弾」と言うのは、一台のピアノに二人の弾き手が座り、四本の手によって演奏する形式です。

ブラームスは、自身の交響曲1番から4番までを連弾に編曲していますが、これはクララと二人で演奏するために書かれたと言われており、実際にその曲を演奏してみると、なんと、二人の演奏者の指が重なる部分があるのです。

つまり、一人が鍵盤を抑えている指の下に、もう一人の指が重なるようにして音を出すのです。

二人が身体を寄せ、指を重ねて、ブラームスの「愛の言葉」である交響曲を弾きながら何を感じていたのか。想像の域は超えませんが、そこに「情愛」は、あって当たり前だったかもしれません。

クララ・シューマンの略歴年表

1819-1824年
クララ誕生。父母の離婚からピアノを始めるまで
1819年、クララはピアノ教師であるフリードリヒ・ヴィークとソプラノ歌手であったマリアンネの間に生まれました。しかし、その後父母は離婚。一時、母親の元で育てられることになります。

クララは5歳になるとフリードリヒに引き取られ、家族の経済的支柱となるようにと、フリードリヒは、クララにピアノを教え始めます。

1828年-1830年
ゲヴァントハウスでのプロデビューとロベルト・シューマンとの出会い

9歳になった時、クララはゲヴァントハウスにて、演奏会を開きました。

最初の演奏会は、フリードリヒの弟子との共演でしたが、この時の評判がよく、11歳になった折、本格的にソロデビューを果たします。当時はソロでコンサートをすることは珍しく、クララを神童として世に出したかったフリードリヒの想いの強さがわかります。

この頃、将来の夫であるロベルト・シューマンが正式にフリードリヒの弟子になり、将来の夫との出会いを果たします。

1835-1840年
ロベルトとの恋の始まり。そして結婚

13歳になった時、ロベルトと彼の母親を見舞った時、母親から「いつかロベルトと結婚してくださいね」と言われたクララは、その言葉通り、16歳の誕生日の後、彼と交際を始めます。

しかし、クララに執着していた父親に反対され、交際を禁止されますが、結局二人は結婚します。そのためには、父フリードリヒに対して、訴訟を起こさなければならないほどでした。苦労の末、二人は1840年、めでたく夫婦となるのでした。

1853-1873年
ヨハネス・ブラームスとの出会い。そしてロベルトの死

クララ34歳の時、ブラームスがシューマン家を訪れます。この時、ブラームスはまだ20歳の若者でした。この時から、ブラームスとクララの友愛が始まります。

精神的不調であったロベルトは、翌年に自殺未遂。エンデニッヒの精神病院へ入院を余儀なくされ、2年後、この世を去ります。36歳にして未亡人となるのでした。

1877-1896年
ロベルトの全作品の編纂を始める。そして晩年

50代の後半から、クララはロベルト・シューマンの残した作品の編纂を始めました。

その間、ブラームスとの親交は続き、子供たちの結婚や死を経て、70歳になったころ、聴覚が衰えてきます。これを機に音楽院の教授職を辞職。

76歳でブラームスへ最後に送った手紙が絶筆となりました。クララが死去した1年後、ヨハネス・ブラームスもまたこの世を去ることになります。

クララ・シューマンの具体年表

1819-1824年 – 0-5歳「クララの誕生。実母との別れとピアノ」

ピアノ店と楽譜店を経営していた父・フリードリヒ

マリアンネとフリードリヒ

クララの人生を語るうえで、実母であるマリアンネと父フリードリヒ・ヴィークのことを語らないわけにはいきません。

特にフリードリヒは事実上、クララをピアニストに育て上げ、彼女の音楽的才能をいち早く目覚めさせた人物でもありました。

ライプツィヒから45キロほど離れた小都市、プイレッチュの傾きかけた商家の末子として生まれたフリードリヒは、大学を終えると裕福な家庭の私的な家庭教師を始めます。

そして、いつの間にか作曲理論とピアノの技術を習得し、30歳の頃にはライプツィヒでピアノ教師、そしてピアノ店と楽譜店を経営。ここから起業家としての道を歩み始めることになります。

1816年、彼は当時19歳のマリアンネ・トゥリムリッツと結婚します。

この才能あるソプラノ歌手は、フリードリヒの名声をも上向きにしました。実際、彼女が演奏会を行うたびに、彼の評判も上がっていったのです。しかし、結婚生活は7年間で終わりを告げます。

7年で結婚生活にピリオド

彼女は5人の子供を産み、フリードリヒの監督の下で練習に励み、歌とピアノの分野で専門的演奏活動を行い、フリードリヒがピアノを教える手助けをし、商売を手伝い、彼の友達や仕事仲間をもてなしました。

もしフリードリヒと別れれば子供を失うことになるとわかっていても、彼女は逃走するしかなかったのです。

マリアンネは、やがてピアノ教師でフリードリヒの仲間でもあった、アードルフ・バルギールと恋に落ち、彼の元へ走ります。その後バルギールは卒中を患い逝去。残されたマリアンネはピアノ教師として子供を育てます。

後にクララの夫となる、ロベルト・シューマンがこの時期マリアンネを援助していますが、クララと結婚した後、やはりシューマンも病で没しており、母娘ともに夫に先立たれています。

クララとマリアンネの関係は、フリードリヒとクララが絶縁状態になった1839年にようやく復活。この関係修復にもシューマンが一役買っています。クララは生涯、マリアンネに助力を求め、温かく良い関係をきづいてい行きます。

言葉を失くしたクララとピアノ

クララの生涯の最初の5年間について、ほとんど知られていません。両親が別居したのは、恐らく3歳を過ぎてからと推測出来るのは、ヴィーク家に散歩の習慣があり、これに3歳の時からクララも加わったからです。

また、クララが7歳の時に父親が彼女のために書き始めた日記(当時、父親が子供の日記を書いていた)には、クララが4歳を超えるまで話さなかったり、言葉を良く理解できなかったことも記録されており、クララは耳が聴こえないのではないかと疑いをもたれていました。

しかし、フリードリヒがいくつかの小曲を耳を通じて教え始めると、彼女はスムーズに学び始めています。恐らく精神的なストレスから言葉が遅くなったのでしょう。

クララは5歳になる前に、別居した母の元で暮らし、その後フリードリヒの元に帰り、ピアノを本格的に学び始めます。

1828年-1830年 – 9-11歳「初めての演奏会そして未来の夫との出会い」

ライプツィヒのコンサートホール・ゲヴァントハウス

ライプツィヒのゲヴァントハウスで神童はソロデビューを果たす

1828年10月20日、フリードリヒが創りあげた「ピアノの名人」クララ・ヴィークは9歳にしてゲヴァントハウスへ初登場します。

この演奏会は家庭で行われた詩的なもので、クララもソロではなく、フリードリヒの弟子であったライヒヨルトとの二重奏を演奏しています。にも関わらず、クララとフリードリヒは「一般音楽新聞」の演奏会評で取り上げられました。

『音楽的才能に恵まれたクララという9歳になる少女が、モーゼの行進曲によるカルクブレンナーの変奏曲を、満場の惜しみない喝さいの内に演奏するのを聴くのは特別の愉しみであった。我々は経験豊かな父親の指導のもとで訓練されたこの少女に、大きな期待を抱いてもよいであろう』

この評により、フリードリヒのピアノ教師としての評判が立ち、経済的見返りと彼の望む評を獲得しました。

続くドレスデンでの演奏旅行で、クララは熱狂的な支持を受けます。貴婦人たちは互いに競って、10歳の少女に指輪や首飾りなどを与え、ほめそやすのです。そして、11歳の時、本格的独奏会を再びゲヴァントハウスで行い、これが事実上のソロデビューとなりました。1830年11月8日のことです。

ロベルト・シューマンとの幼い日々

ロベルト・シューマン

1830年の秋、クララを待っていたのは、ライプツィヒに戻っていたロベルト・シューマンでした。

彼はザクセンの町ツヴィッカウで文化人であった父アウグスト・シューマンの末子として生まれました。

彼は早くから音楽的才能を表し、両親はその地方の音楽教師であるヨハン・ゴットフリート・クンチェに息子にゆだねます。しかし、16歳の時父が亡くなり、母と後見人のゴットロープ・ルーデルにより、一時は法律学の道へ進みますが、大学入学のために来たライプツィヒで、再び音楽へ没頭します。

ロベルトが親しくしていた家庭の一つに医者のエルンスト・アウグスト・カールス博士一家があり、おそらくそこでピアノを弾きに来たクララとフリードリヒに出会ったとされています。

クララの卓越した音楽性と技術に感銘を受けて、ロベルト・シューマンはフリードリヒにピアノ教授を請い、彼の元で音楽の勉強を始めたのでした。ここに、運命の歯車はぴったりと重なったのです。

1835-1840年 – 16-20歳「ロベルトとフリードリヒの間。愛と結婚」

父の反対を乗り越えて結婚

16歳の誕生日のときめきと初めての接吻

1835年の初秋、クララは人生で最も華やかな誕生日を迎えます。そこには父の友人グループが集まり、その中にはロベルト・シューマンもいました。

13歳より再びシューマンとの親交を持っていたクララは、その年頃にはまだ少女と兄のような幼い愛情であったものが、この16歳の誕生日を境に、大人の女性としてロベルトを見つめるようになります。

ロベルトも、それ以前、エルネスティーネと言う女性と婚約をしていましたが、クララの誕生日以降、全てのエネルギーをクララとの恋愛にむけます。クララもまた幸福の絶頂でありました。彼女は後にロベルトにこう書き送っています。

「あなたが初めて私に接吻してくれた時、わたしは気が遠くなりそうでした。すべてが茫然として、返っていくあなたの足元を照らす灯りを持っているのが精一杯でした。」

フリードリヒの憤怒を超えて結婚

父の激しい反対を受けた

愛が燃え上がったころ、ロベルトはフリードリヒが彼らの結婚を許してくれるだろうと、簡単に考えていました。

彼はロベルトの作品を誉め、友人としてまた、彼の書評を収めた「雑誌」の有力な協力者だったことから、自分を選ぶであろうと自負さえしていました。

しかし、そう簡単には物事は収まりませんでした。フリードリヒはロベルトの才能は認めていましたが、クララを奪われることに関しては別でした。

二人の関係を知ったフリードリヒの怒りの矛先はクララに向かいます。彼はもし、クララがロベルトに会うというなら、彼を撃ち殺すと脅し、彼女をロベルトのいるライプツィヒから離すために無理やり演奏旅行を行い、ロベルトには、フリードリヒの家族とのあらゆる繋がりを絶つことを告げる侮辱的な手紙を送ったのです。

結局1年半もの間、クララとロベルトは引き離された状態となりました。この問題を複雑化したのは、まだこの頃二人とも、フリードリヒを必要としていたことでした。クララは言うに及ばず、師であったフリードリヒを失うことに、ロベルトは衝撃を受けています。父より引き離され長い演奏旅行に奔走させられるクララは、しかし、確実に自分自身の足で歩き出すことになります。

1837年8月13日、ロベルトからの結婚の意志を再確認する手紙が届き、8月15日、クララはこれに承諾の返事をし、以降、この中間の8月14日が二人の結婚記念日となりました。ロベルトはフリードリヒに結婚の承諾を求める手紙を出しましが、当然のことながら認められません。

1839年6月16日。クララはロベルトから届いた訴状に署名し、父フリードリヒに対し訴訟を起こしました。翌1840年8月12日。クララ20歳の時、裁判の判決が下り、ようやく二人の結婚は認められたのでした。

1853-1873年34 -54 歳「ヨハネス・ブラームスとロベルトの死」

シューマン夫妻

14歳年下の天才作曲家とクララとの友情

紆余曲折を経て始まったロベルトとの結婚生活は、クララが未だ経験したことのないほどの喜びを伴っていました。愛という感情的な依存、肉体的魅力がありながら、音楽的、創造的な部分でお互いに必要し、満たしあっていたからです。

お互い口下手であるという共通点から、夫婦日記なるものを書いているほどですが、話すよりも「書いた方が意思疎通がたやすい」と言うクララの寡黙は、後のヨハネス・ブラームスとの書簡のやりとりが語っています。

1853年9月30日、ヴァイオリンの巨匠ヨアヒムの紹介状を手に、青年作曲家ブラームスがロベルト・シューマンの家を訪れた時、クララは34歳になっていました。

若干20歳で在りながら、自分の将来に自信を持っている才能豊かなブラームスに、先ずロベルトが感激し、彼の弾いたピアノをクララに聴かせたいと呼び、「この方は、今までにない音楽を書かれる」と紹介しています。

彼がシューマン一家を訪れた時、この家族は生涯の中で一番困難な時期とぶつかっていました。ロベルトはデュッセルドルフの都市音楽監督の職を解かれようとしており、精神疾患も進行していたのです。そんな時に夫妻の前に現れたヨハネス・ブラームスは、明るい太陽のような存在になったのです。

ブラームスもまた、ロベルトを師と仰ぎ、彼が死すまで夫妻を助けます。特にクララには一目惚れのような感情を抱き、ロベルトに出す感謝の手紙に添えられた「奥様にも感謝いたします」と言う添え書きが、いつの間にかクララ本人への手紙に変わり、それはクララが死すまで続きました。

クララからブラームスへの手紙

二人に肉体関係があったという記述はなく、あくまでプラトニックに愛情を伝えあっていたと言われています。しかし、ブラームスが「Du(親しい人を呼ぶ時に使われるドイツ語)と呼んでください」と懇願し、それに対し、クララが「ヨハネスが懇願したので私は拒絶できなかった。私は彼を息子のごとく心から愛している」と日記に書き記しています。

しかし、全く手紙だけでお互いの交流がなされていたのではなく、ロベルト亡き後も、ブラームスはシューマン一家を支え、子供たちにも愛情を注ぎました。クララの演奏会だけで、7人もの子供を育てるのは経済的にも難しく、ブラームスは何度も援助を申し出ていますが、これはきっぱりクララが断っています。

年上の才能ある女性への思慕から、大人の男女としての愛情の言葉のやりとり、そして、14歳年下のブラームスが作曲家として大成した後、保護者としてクララに関わろうとした時のクララの狼狽とプライドとの戦い、それらを経て、本当の友情を育てていった42年間の親交でした。

ロベルト・シューマンの死。未亡人としての決意

1854年2月、それまでも度々精神の不安による体調不良を起こしていたロベルトが、ライン川へ身を投じ、自殺未遂を図ります。病状は進んでゆき、翌3月にはエンデニヒの精神病院へ入院。7人の幼児を抱えたクララは、ピアノ演奏によって一家の経費とロバートの療養費を支える決心をします。

しかし、1856年7月、ロベルト・シューマンは、7人の幼児と最愛の妻を残して47歳の生涯を終えます。クララ36歳の時のことでした。ロベルトの入院中、クララは面会を禁止されており、彼と会ったのは、死後二日前と言われています。

以降、彼女はブラームスの献身的な協力の元、ピアニストとして一家を支えていきます。
1843年には和解していた父フリードリヒも1873年に死去。クララは54歳になっていました。

1877-1896年57 -76 歳「クララの晩年と最期の手紙」

クララ最終の地・フランクフルト

ロベルトの全作品を編纂。

ロベルト亡き後、クララは一家の長として、ピアニストの仕事に打ち込んでいきます。

しかし、長年の演奏活動中、しばしば深刻的な肉体的苦痛も味わっています、特にリューマチによる指の痛みは深刻で、その痛みには阿片が処方されるほどでした。水治療、電気刺激、マッサージ、様々な治療法を試しましたが、結局ピアノ以外に手を使うことは、全て娘たちに任せなければいけませんでした。

なぜなら、ピアノは彼女にしか弾けないからです。演奏活動は続き、生涯最後の10年間は手の関節炎に加えて難聴も加わり、体力の衰えと戦い続けたのです。

ロベルトの死後7人いた子供たちも、1872年に娘のユリエが結婚後死亡。1879年には末っ子のフェリクスが、長年の病のあと、24歳で亡くなり、1891年には三男のフェルディナントが数年の療養生活のと亡くなっています。

1877年、クララは夫ロベルト・シューマンの残した全作品の編纂作業を始め、翌78年にはフランクフルトにて、音楽院の教授職に付き、やっと落ち着いた暮らしをすることになります。

そして1881年、5年かけてクララ編集による「ロベルト・シューマン 作品全集」、そして85年には「ロベルト・シューマン 若き日の手紙」が出版されました。

クララ・シューマンの偉大な業績の一つは、ヨーロッパの演奏会の聴衆の注目をロベルト・シューマンの作品にむけたことであります。

彼女の使命感に燃えた演奏活動が無かったら、彼の音楽が演奏さえ受け入れられるのに、もっと年月を要したことは明らかでしょう。

最期のクララ

シューマン夫妻の墓

59歳で教授職に着いた時、それまでの25年間の放浪生活から解放され、クララは家を構えます。難聴はひどくなるばかりで、身体のあちこちが痛み、もはや演奏活動は無理だと判断したのでしょう。1890年、70歳になるころには「音楽が断片的に聴こえる」と嘆いています。

1891年、クララが72歳の時、最後の公開演奏会が開かれました。ここで彼女は音楽院の同僚とブラームスによる【ハイドンの主題による変奏曲】を演奏しました。そして教授職を引退。

その後は卒中で倒れる76歳まで、ピアノを教え、即興演奏をし、楽譜を編纂し、編集し、音楽を楽しみます。

倒れた年の5月、ブラームスの誕生日のお祝いの手紙が絶筆になりました。

「心からのお喜びを。心からあなたの クララ・シューマン
今はこれより書けません。でも、近く、あなたの...」

死の床で、彼女は孫のフェルディナントに自分のためにピアノを弾いてくれるように頼みました。ロベルト・シューマン作曲の間奏曲(Op4)からの一曲と、嬰ヘ長調のロマンス(Op28)が彼女の聴いた最後の音楽となったのです。

クララはロベルトが眠る墓に埋葬されました。享年76歳。失意のブラームスはクララの死を悼み「四つの厳粛な歌」を作曲します。これは彼が20歳でクララと出会ってから、彼女に聴かせられなかった初めての新曲となりました。

そして、友愛によって結ばれていたヨハネス・ブラームスは、クララの葬式で引いた風邪が元で、翌年1897年4月にこの世を去ることになります。享年63歳でした。

関連作品

クララ・シューマンに関連するおすすめ書籍・本・漫画

「クララ・シューマン ヨハネスブラームス 友情の書簡」 B・リッツマン編 原田光子 編訳

ヨハネス・ブラームスが20歳、クララ・シューマンが34歳。衝撃の出会いから、クララが亡くなるまで、二人の間で交わされた書簡集です。特に、青年の激しい恋から、シューマン亡き後のクララと家族への庇護者としての愛情、そして、友愛に至る、ブラームスの変化が感慨深い名著です。

「真実なる女性 クララ・シューマン 」 原田光子 著

クララ・シューマンの研究者として著名な原田光子さんによる、クララ・シューマンの伝記。非凡な許婚者との恋、音楽的・精神的に豊かにされた夫シューマンの没後、40年にわたる年月を彼女はピアノとともに過ごしたクララ。

メンデルスゾーンやショパン、シューマン、ブラームスら、翼ある人々とロマン派の時代を織りなした、クララ・シューマンによる「女の愛と生涯」を綴った名著です。

「クララ・シューマン (やさしく読めるビジュアル伝記)」

19世紀の女性ピアニストとして活躍したクララ・シューマンの伝記は数多くあり、この本は子供向けに書かれたもの。カラーイラストも多く、とても読みやすい小説となっています。8歳ぐらいから13歳ぐらい向きでしょう。

クララ・シューマンに関連するおすすめおすすめ動画

「Sweet Dreams vol. 166 ~クララ・シューマンの名言~」

「Tomorrow Frame」と言う、著名人の名言を集めた動画。穏やかな雰囲気で、綺麗な一言が胸を打ちます。

クララ・シューマンに関するおすすめ映画

「クララ・シューマン 愛の協奏曲」

天才作曲家ロベルト・シューマンの妻クララは、ピアニストとしてヨーロッパツアーを回りながら、精神薄弱な夫を支え、7人の子供の母として多忙な日々を送っていました。そんな時、彼女の前に若き新進作曲家ヨハネス・ブラームスが現れ・・・。

自らがブラームス家の末裔である、監督のヘルマ・サンダース・ブラームスの描く、天才芸術家たちの秘められた三角関係を美しい旋律にのせて描く究極の愛の物語です。

「哀愁のトロイメライ ~クララ・シューマン物語」

大ヒット映画「クララ・シューマン 愛の協奏曲」で多くの女性たちの共感を呼んだ実在の天才ピアニスト、クララ・シューマンを絶頂期のナスターシャ・キンスキーが演じます。

「トロイメライ」はじめ、全編に夫であるロベルト・シューマンの音楽が盛り込まれ、その演奏者としても、現代バイオリン界の第一人者ギドン・クレメールをはじめとする名手達が集結!本格的音楽映画となっています。

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クララ・シューマンについてのまとめ

クララ・シューマンは生涯を通して「女司祭」と呼ばれていました。それは、彼女の音楽への献身だけに限らず、独自の生真面目さもあったと言われています。

しかし、才能ある女性が生きるには、19世紀と言う時代はまだまだ厳しい時代でもありました。女性にとっての「個」は男性あってのものであったからです。

ピアニストであり作曲家でもあった彼女は、同時に、父の宝であらねばならなかったし、夫と7人もの子供たちを支える賢母であらねばならなかったし、14歳年下の友人の思慕にも応えねばなりませんでした。

そうした事柄が、その時代の当たり前の献身だったとしても、彼女自身を支えていた音楽は誰にも侵されることの無い聖域であり、それを護りとおせる才能が彼女に与えられていたことは幸いでした。

だからこそ、夫の名前と、あるいはブラームスの名前と対にあるのではなく、「クララ・シューマン」と言う名前を持った一人の芸術家として、「女司祭」は仰ぎ見られてしかるべきだと思うのです。

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