美人ピアニスト!クララ・シューマンの生涯を代表作品や名言と共に紹介

クララ・シューマンにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「クララの生涯を世に送り出した伝記作家、原田光子」

原田光子著『友情の書簡』

クララの人生を知ろうと思ったら、やはりこの二冊は外せません。二人のやり取りした手紙を記した「友情の書簡」、クララ自身の人生に焦点を当てた、「真実なる女性 クララ・シューマン」。

二冊とも、執筆から60年以上を経て、今なお版を重ねている書籍です。この両方を執筆したのは、原田光子さん。この方の人生において、クララとの繋がりは不可欠だったようです。

まず、自身もピアニストを目指しており、結婚して離婚。 逝去された年齢は原田さんの方が36歳とお若いのですが、なんと、クララ・シューマンが亡くなった日と同じ、5月20日に逝去されているのです。しかも、クララは76歳。一桁の数字の一致さえ、偶然とは思えませんね。

「光子」と言うお名前に光と言う漢字が使われいますが、クララの名前も「光輝く人」と言う意味があります。まるで、運命の出会いのような二人ですが、光子さんの執筆活動はわずか5年程度の短いものでした。早逝した彼女が出版した書籍は、なんと7冊のみ。この内、二冊がクララの人生でした。

クララの伝記と、クララとブラームスの往復書簡集を残した功績は大きく、ともすれば、夫ロベルト・シューマンの陰になり、特に日本人である私たちには馴染みのない一生を、それこそ「光」輝かせ、現代にまでその道を譲らない、素晴らしい伝記作家なのです。

都市伝説・武勇伝2「二人の愛は友愛だったのか、重なる連弾の4手」

ヘルマ・サンダース=ブラームス

クララ・シューマンとヨハネス・ブラームスとの関係は、当時も今現在も、様々な憶測が飛び交っています。

例えば、ブラームスの末裔であるヘルマ・サンダース=ブラームスが監督した映画「クララ・シューマン 愛の協奏曲」などは、はっきりと三角関係としてこのかかわりを描いています。

実際にはブラームスとクララが不倫関係であった証拠はありませんが、ブラームスが若い時にクララにしたためた愛の手紙は、クララ自身が「世に出せない内容」として、破り捨てているものもあります。

このように、二人がどんな関係だったのかをはっきりと示すものはありませんが、その愛情が、かなり「濃かった」と言うことを示すものはあります。

それは、ブラームスが編曲した「連弾曲」です。「連弾」と言うのは、一台のピアノに二人の弾き手が座り、四本の手によって演奏する形式です。

ブラームスは、自身の交響曲1番から4番までを連弾に編曲していますが、これはクララと二人で演奏するために書かれたと言われており、実際にその曲を演奏してみると、なんと、二人の演奏者の指が重なる部分があるのです。

つまり、一人が鍵盤を抑えている指の下に、もう一人の指が重なるようにして音を出すのです。

二人が身体を寄せ、指を重ねて、ブラームスの「愛の言葉」である交響曲を弾きながら何を感じていたのか。想像の域は超えませんが、そこに「情愛」は、あって当たり前だったかもしれません。

クララ・シューマンの略歴年表

1819-1824年
クララ誕生。父母の離婚からピアノを始めるまで

1819年、クララはピアノ教師であるフリードリヒ・ヴィークとソプラノ歌手であったマリアンネの間に生まれました。しかし、その後父母は離婚。一時、母親の元で育てられることになります。

クララは5歳になるとフリードリヒに引き取られ、家族の経済的支柱となるようにと、フリードリヒは、クララにピアノを教え始めます。

1828年-1830年
ゲヴァントハウスでのプロデビューとロベルト・シューマンとの出会い

9歳になった時、クララはゲヴァントハウスにて、演奏会を開きました。

最初の演奏会は、フリードリヒの弟子との共演でしたが、この時の評判がよく、11歳になった折、本格的にソロデビューを果たします。当時はソロでコンサートをすることは珍しく、クララを神童として世に出したかったフリードリヒの想いの強さがわかります。

この頃、将来の夫であるロベルト・シューマンが正式にフリードリヒの弟子になり、将来の夫との出会いを果たします。

1835-1840年
ロベルトとの恋の始まり。そして結婚

13歳になった時、ロベルトと彼の母親を見舞った時、母親から「いつかロベルトと結婚してくださいね」と言われたクララは、その言葉通り、16歳の誕生日の後、彼と交際を始めます。

しかし、クララに執着していた父親に反対され、交際を禁止されますが、結局二人は結婚します。そのためには、父フリードリヒに対して、訴訟を起こさなければならないほどでした。苦労の末、二人は1840年、めでたく夫婦となるのでした。

1853-1873年
ヨハネス・ブラームスとの出会い。そしてロベルトの死

クララ34歳の時、ブラームスがシューマン家を訪れます。この時、ブラームスはまだ20歳の若者でした。この時から、ブラームスとクララの友愛が始まります。

精神的不調であったロベルトは、翌年に自殺未遂。エンデニッヒの精神病院へ入院を余儀なくされ、2年後、この世を去ります。36歳にして未亡人となるのでした。

1877-1896年
ロベルトの全作品の編纂を始める。そして晩年

50代の後半から、クララはロベルト・シューマンの残した作品の編纂を始めました。

その間、ブラームスとの親交は続き、子供たちの結婚や死を経て、70歳になったころ、聴覚が衰えてきます。これを機に音楽院の教授職を辞職。

76歳でブラームスへ最後に送った手紙が絶筆となりました。クララが死去した1年後、ヨハネス・ブラームスもまたこの世を去ることになります。

クララ・シューマンの具体年表

1819-1824年 – 0-5歳「クララの誕生。実母との別れとピアノ」

ピアノ店と楽譜店を経営していた父・フリードリヒ

マリアンネとフリードリヒ

クララの人生を語るうえで、実母であるマリアンネと父フリードリヒ・ヴィークのことを語らないわけにはいきません。

特にフリードリヒは事実上、クララをピアニストに育て上げ、彼女の音楽的才能をいち早く目覚めさせた人物でもありました。

ライプツィヒから45キロほど離れた小都市、プイレッチュの傾きかけた商家の末子として生まれたフリードリヒは、大学を終えると裕福な家庭の私的な家庭教師を始めます。

そして、いつの間にか作曲理論とピアノの技術を習得し、30歳の頃にはライプツィヒでピアノ教師、そしてピアノ店と楽譜店を経営。ここから起業家としての道を歩み始めることになります。

1816年、彼は当時19歳のマリアンネ・トゥリムリッツと結婚します。

この才能あるソプラノ歌手は、フリードリヒの名声をも上向きにしました。実際、彼女が演奏会を行うたびに、彼の評判も上がっていったのです。しかし、結婚生活は7年間で終わりを告げます。

7年で結婚生活にピリオド

彼女は5人の子供を産み、フリードリヒの監督の下で練習に励み、歌とピアノの分野で専門的演奏活動を行い、フリードリヒがピアノを教える手助けをし、商売を手伝い、彼の友達や仕事仲間をもてなしました。

もしフリードリヒと別れれば子供を失うことになるとわかっていても、彼女は逃走するしかなかったのです。

マリアンネは、やがてピアノ教師でフリードリヒの仲間でもあった、アードルフ・バルギールと恋に落ち、彼の元へ走ります。その後バルギールは卒中を患い逝去。残されたマリアンネはピアノ教師として子供を育てます。

後にクララの夫となる、ロベルト・シューマンがこの時期マリアンネを援助していますが、クララと結婚した後、やはりシューマンも病で没しており、母娘ともに夫に先立たれています。

クララとマリアンネの関係は、フリードリヒとクララが絶縁状態になった1839年にようやく復活。この関係修復にもシューマンが一役買っています。クララは生涯、マリアンネに助力を求め、温かく良い関係をきづいてい行きます。

言葉を失くしたクララとピアノ

クララの生涯の最初の5年間について、ほとんど知られていません。両親が別居したのは、恐らく3歳を過ぎてからと推測出来るのは、ヴィーク家に散歩の習慣があり、これに3歳の時からクララも加わったからです。

また、クララが7歳の時に父親が彼女のために書き始めた日記(当時、父親が子供の日記を書いていた)には、クララが4歳を超えるまで話さなかったり、言葉を良く理解できなかったことも記録されており、クララは耳が聴こえないのではないかと疑いをもたれていました。

しかし、フリードリヒがいくつかの小曲を耳を通じて教え始めると、彼女はスムーズに学び始めています。恐らく精神的なストレスから言葉が遅くなったのでしょう。

クララは5歳になる前に、別居した母の元で暮らし、その後フリードリヒの元に帰り、ピアノを本格的に学び始めます。

1828年-1830年 – 9-11歳「初めての演奏会そして未来の夫との出会い」

ライプツィヒのコンサートホール・ゲヴァントハウス

ライプツィヒのゲヴァントハウスで神童はソロデビューを果たす

1828年10月20日、フリードリヒが創りあげた「ピアノの名人」クララ・ヴィークは9歳にしてゲヴァントハウスへ初登場します。

この演奏会は家庭で行われた詩的なもので、クララもソロではなく、フリードリヒの弟子であったライヒヨルトとの二重奏を演奏しています。にも関わらず、クララとフリードリヒは「一般音楽新聞」の演奏会評で取り上げられました。

『音楽的才能に恵まれたクララという9歳になる少女が、モーゼの行進曲によるカルクブレンナーの変奏曲を、満場の惜しみない喝さいの内に演奏するのを聴くのは特別の愉しみであった。我々は経験豊かな父親の指導のもとで訓練されたこの少女に、大きな期待を抱いてもよいであろう』

この評により、フリードリヒのピアノ教師としての評判が立ち、経済的見返りと彼の望む評を獲得しました。

続くドレスデンでの演奏旅行で、クララは熱狂的な支持を受けます。貴婦人たちは互いに競って、10歳の少女に指輪や首飾りなどを与え、ほめそやすのです。そして、11歳の時、本格的独奏会を再びゲヴァントハウスで行い、これが事実上のソロデビューとなりました。1830年11月8日のことです。

ロベルト・シューマンとの幼い日々

ロベルト・シューマン

1830年の秋、クララを待っていたのは、ライプツィヒに戻っていたロベルト・シューマンでした。

彼はザクセンの町ツヴィッカウで文化人であった父アウグスト・シューマンの末子として生まれました。

彼は早くから音楽的才能を表し、両親はその地方の音楽教師であるヨハン・ゴットフリート・クンチェに息子にゆだねます。しかし、16歳の時父が亡くなり、母と後見人のゴットロープ・ルーデルにより、一時は法律学の道へ進みますが、大学入学のために来たライプツィヒで、再び音楽へ没頭します。

ロベルトが親しくしていた家庭の一つに医者のエルンスト・アウグスト・カールス博士一家があり、おそらくそこでピアノを弾きに来たクララとフリードリヒに出会ったとされています。

クララの卓越した音楽性と技術に感銘を受けて、ロベルト・シューマンはフリードリヒにピアノ教授を請い、彼の元で音楽の勉強を始めたのでした。ここに、運命の歯車はぴったりと重なったのです。

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