1835-1840年 – 16-20歳「ロベルトとフリードリヒの間。愛と結婚」
16歳の誕生日のときめきと初めての接吻
1835年の初秋、クララは人生で最も華やかな誕生日を迎えます。そこには父の友人グループが集まり、その中にはロベルト・シューマンもいました。
13歳より再びシューマンとの親交を持っていたクララは、その年頃にはまだ少女と兄のような幼い愛情であったものが、この16歳の誕生日を境に、大人の女性としてロベルトを見つめるようになります。
ロベルトも、それ以前、エルネスティーネと言う女性と婚約をしていましたが、クララの誕生日以降、全てのエネルギーをクララとの恋愛にむけます。クララもまた幸福の絶頂でありました。彼女は後にロベルトにこう書き送っています。
「あなたが初めて私に接吻してくれた時、わたしは気が遠くなりそうでした。すべてが茫然として、返っていくあなたの足元を照らす灯りを持っているのが精一杯でした。」
フリードリヒの憤怒を超えて結婚
愛が燃え上がったころ、ロベルトはフリードリヒが彼らの結婚を許してくれるだろうと、簡単に考えていました。
彼はロベルトの作品を誉め、友人としてまた、彼の書評を収めた「雑誌」の有力な協力者だったことから、自分を選ぶであろうと自負さえしていました。
しかし、そう簡単には物事は収まりませんでした。フリードリヒはロベルトの才能は認めていましたが、クララを奪われることに関しては別でした。
二人の関係を知ったフリードリヒの怒りの矛先はクララに向かいます。彼はもし、クララがロベルトに会うというなら、彼を撃ち殺すと脅し、彼女をロベルトのいるライプツィヒから離すために無理やり演奏旅行を行い、ロベルトには、フリードリヒの家族とのあらゆる繋がりを絶つことを告げる侮辱的な手紙を送ったのです。
結局1年半もの間、クララとロベルトは引き離された状態となりました。この問題を複雑化したのは、まだこの頃二人とも、フリードリヒを必要としていたことでした。クララは言うに及ばず、師であったフリードリヒを失うことに、ロベルトは衝撃を受けています。父より引き離され長い演奏旅行に奔走させられるクララは、しかし、確実に自分自身の足で歩き出すことになります。
1837年8月13日、ロベルトからの結婚の意志を再確認する手紙が届き、8月15日、クララはこれに承諾の返事をし、以降、この中間の8月14日が二人の結婚記念日となりました。ロベルトはフリードリヒに結婚の承諾を求める手紙を出しましが、当然のことながら認められません。
1839年6月16日。クララはロベルトから届いた訴状に署名し、父フリードリヒに対し訴訟を起こしました。翌1840年8月12日。クララ20歳の時、裁判の判決が下り、ようやく二人の結婚は認められたのでした。
1853-1873年34 -54 歳「ヨハネス・ブラームスとロベルトの死」
14歳年下の天才作曲家とクララとの友情
紆余曲折を経て始まったロベルトとの結婚生活は、クララが未だ経験したことのないほどの喜びを伴っていました。愛という感情的な依存、肉体的魅力がありながら、音楽的、創造的な部分でお互いに必要し、満たしあっていたからです。
お互い口下手であるという共通点から、夫婦日記なるものを書いているほどですが、話すよりも「書いた方が意思疎通がたやすい」と言うクララの寡黙は、後のヨハネス・ブラームスとの書簡のやりとりが語っています。
1853年9月30日、ヴァイオリンの巨匠ヨアヒムの紹介状を手に、青年作曲家ブラームスがロベルト・シューマンの家を訪れた時、クララは34歳になっていました。
若干20歳で在りながら、自分の将来に自信を持っている才能豊かなブラームスに、先ずロベルトが感激し、彼の弾いたピアノをクララに聴かせたいと呼び、「この方は、今までにない音楽を書かれる」と紹介しています。
彼がシューマン一家を訪れた時、この家族は生涯の中で一番困難な時期とぶつかっていました。ロベルトはデュッセルドルフの都市音楽監督の職を解かれようとしており、精神疾患も進行していたのです。そんな時に夫妻の前に現れたヨハネス・ブラームスは、明るい太陽のような存在になったのです。
ブラームスもまた、ロベルトを師と仰ぎ、彼が死すまで夫妻を助けます。特にクララには一目惚れのような感情を抱き、ロベルトに出す感謝の手紙に添えられた「奥様にも感謝いたします」と言う添え書きが、いつの間にかクララ本人への手紙に変わり、それはクララが死すまで続きました。
二人に肉体関係があったという記述はなく、あくまでプラトニックに愛情を伝えあっていたと言われています。しかし、ブラームスが「Du(親しい人を呼ぶ時に使われるドイツ語)と呼んでください」と懇願し、それに対し、クララが「ヨハネスが懇願したので私は拒絶できなかった。私は彼を息子のごとく心から愛している」と日記に書き記しています。
しかし、全く手紙だけでお互いの交流がなされていたのではなく、ロベルト亡き後も、ブラームスはシューマン一家を支え、子供たちにも愛情を注ぎました。クララの演奏会だけで、7人もの子供を育てるのは経済的にも難しく、ブラームスは何度も援助を申し出ていますが、これはきっぱりクララが断っています。
年上の才能ある女性への思慕から、大人の男女としての愛情の言葉のやりとり、そして、14歳年下のブラームスが作曲家として大成した後、保護者としてクララに関わろうとした時のクララの狼狽とプライドとの戦い、それらを経て、本当の友情を育てていった42年間の親交でした。
ロベルト・シューマンの死。未亡人としての決意
1854年2月、それまでも度々精神の不安による体調不良を起こしていたロベルトが、ライン川へ身を投じ、自殺未遂を図ります。病状は進んでゆき、翌3月にはエンデニヒの精神病院へ入院。7人の幼児を抱えたクララは、ピアノ演奏によって一家の経費とロバートの療養費を支える決心をします。
しかし、1856年7月、ロベルト・シューマンは、7人の幼児と最愛の妻を残して47歳の生涯を終えます。クララ36歳の時のことでした。ロベルトの入院中、クララは面会を禁止されており、彼と会ったのは、死後二日前と言われています。
以降、彼女はブラームスの献身的な協力の元、ピアニストとして一家を支えていきます。
1843年には和解していた父フリードリヒも1873年に死去。クララは54歳になっていました。
1877-1896年57 -76 歳「クララの晩年と最期の手紙」
ロベルトの全作品を編纂。
ロベルト亡き後、クララは一家の長として、ピアニストの仕事に打ち込んでいきます。
しかし、長年の演奏活動中、しばしば深刻的な肉体的苦痛も味わっています、特にリューマチによる指の痛みは深刻で、その痛みには阿片が処方されるほどでした。水治療、電気刺激、マッサージ、様々な治療法を試しましたが、結局ピアノ以外に手を使うことは、全て娘たちに任せなければいけませんでした。
なぜなら、ピアノは彼女にしか弾けないからです。演奏活動は続き、生涯最後の10年間は手の関節炎に加えて難聴も加わり、体力の衰えと戦い続けたのです。
ロベルトの死後7人いた子供たちも、1872年に娘のユリエが結婚後死亡。1879年には末っ子のフェリクスが、長年の病のあと、24歳で亡くなり、1891年には三男のフェルディナントが数年の療養生活のと亡くなっています。
1877年、クララは夫ロベルト・シューマンの残した全作品の編纂作業を始め、翌78年にはフランクフルトにて、音楽院の教授職に付き、やっと落ち着いた暮らしをすることになります。
そして1881年、5年かけてクララ編集による「ロベルト・シューマン 作品全集」、そして85年には「ロベルト・シューマン 若き日の手紙」が出版されました。
クララ・シューマンの偉大な業績の一つは、ヨーロッパの演奏会の聴衆の注目をロベルト・シューマンの作品にむけたことであります。
彼女の使命感に燃えた演奏活動が無かったら、彼の音楽が演奏さえ受け入れられるのに、もっと年月を要したことは明らかでしょう。
最期のクララ
59歳で教授職に着いた時、それまでの25年間の放浪生活から解放され、クララは家を構えます。難聴はひどくなるばかりで、身体のあちこちが痛み、もはや演奏活動は無理だと判断したのでしょう。1890年、70歳になるころには「音楽が断片的に聴こえる」と嘆いています。
1891年、クララが72歳の時、最後の公開演奏会が開かれました。ここで彼女は音楽院の同僚とブラームスによる【ハイドンの主題による変奏曲】を演奏しました。そして教授職を引退。
その後は卒中で倒れる76歳まで、ピアノを教え、即興演奏をし、楽譜を編纂し、編集し、音楽を楽しみます。
倒れた年の5月、ブラームスの誕生日のお祝いの手紙が絶筆になりました。
「心からのお喜びを。心からあなたの クララ・シューマン
今はこれより書けません。でも、近く、あなたの...」
死の床で、彼女は孫のフェルディナントに自分のためにピアノを弾いてくれるように頼みました。ロベルト・シューマン作曲の間奏曲(Op4)からの一曲と、嬰ヘ長調のロマンス(Op28)が彼女の聴いた最後の音楽となったのです。
クララはロベルトが眠る墓に埋葬されました。享年76歳。失意のブラームスはクララの死を悼み「四つの厳粛な歌」を作曲します。これは彼が20歳でクララと出会ってから、彼女に聴かせられなかった初めての新曲となりました。
そして、友愛によって結ばれていたヨハネス・ブラームスは、クララの葬式で引いた風邪が元で、翌年1897年4月にこの世を去ることになります。享年63歳でした。
関連作品
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「クララ・シューマン ヨハネスブラームス 友情の書簡」 B・リッツマン編 原田光子 編訳
ヨハネス・ブラームスが20歳、クララ・シューマンが34歳。衝撃の出会いから、クララが亡くなるまで、二人の間で交わされた書簡集です。特に、青年の激しい恋から、シューマン亡き後のクララと家族への庇護者としての愛情、そして、友愛に至る、ブラームスの変化が感慨深い名著です。
「真実なる女性 クララ・シューマン 」 原田光子 著
クララ・シューマンの研究者として著名な原田光子さんによる、クララ・シューマンの伝記。非凡な許婚者との恋、音楽的・精神的に豊かにされた夫シューマンの没後、40年にわたる年月を彼女はピアノとともに過ごしたクララ。
メンデルスゾーンやショパン、シューマン、ブラームスら、翼ある人々とロマン派の時代を織りなした、クララ・シューマンによる「女の愛と生涯」を綴った名著です。
「クララ・シューマン (やさしく読めるビジュアル伝記)」
19世紀の女性ピアニストとして活躍したクララ・シューマンの伝記は数多くあり、この本は子供向けに書かれたもの。カラーイラストも多く、とても読みやすい小説となっています。8歳ぐらいから13歳ぐらい向きでしょう。
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「クララ・シューマン 愛の協奏曲」
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自らがブラームス家の末裔である、監督のヘルマ・サンダース・ブラームスの描く、天才芸術家たちの秘められた三角関係を美しい旋律にのせて描く究極の愛の物語です。
「哀愁のトロイメライ ~クララ・シューマン物語」
大ヒット映画「クララ・シューマン 愛の協奏曲」で多くの女性たちの共感を呼んだ実在の天才ピアニスト、クララ・シューマンを絶頂期のナスターシャ・キンスキーが演じます。
「トロイメライ」はじめ、全編に夫であるロベルト・シューマンの音楽が盛り込まれ、その演奏者としても、現代バイオリン界の第一人者ギドン・クレメールをはじめとする名手達が集結!本格的音楽映画となっています。
関連外部リンク
クララ・シューマンについてのまとめ
クララ・シューマンは生涯を通して「女司祭」と呼ばれていました。それは、彼女の音楽への献身だけに限らず、独自の生真面目さもあったと言われています。
しかし、才能ある女性が生きるには、19世紀と言う時代はまだまだ厳しい時代でもありました。女性にとっての「個」は男性あってのものであったからです。
ピアニストであり作曲家でもあった彼女は、同時に、父の宝であらねばならなかったし、夫と7人もの子供たちを支える賢母であらねばならなかったし、14歳年下の友人の思慕にも応えねばなりませんでした。
そうした事柄が、その時代の当たり前の献身だったとしても、彼女自身を支えていた音楽は誰にも侵されることの無い聖域であり、それを護りとおせる才能が彼女に与えられていたことは幸いでした。
だからこそ、夫の名前と、あるいはブラームスの名前と対にあるのではなく、「クララ・シューマン」と言う名前を持った一人の芸術家として、「女司祭」は仰ぎ見られてしかるべきだと思うのです。