フローレンス・ナイチンゲールにまつわる逸話
逸話1「素手で木箱を叩き割る”クリミアの天使”」
ナイチンゲールが一般的な「天使」でイメージされるような人物ではないことは、ここまで読んでくださっている皆さんは理解してくれているかと思います。彼女のそのような性格を示すエピソードには、このような面白いものもあります。
それは、彼女がクリミアで従軍しているときのこと。医療物資が欠乏しているなか、倉庫で医療物資の在庫が詰まった木箱を見つけたナイチンゲールは、その使用の許可を軍医長官のジョン・ホールに求めます。
しかし、官僚主義で公務員的なジョンは、この箱は委員会の許可なしでは開けられない」と要求を突っぱねてしまいました。「では、次の委員会はいつ?」と尋ねるナイチンゲールに、ジョンは「3週間後です」と答えます。当然、怪我をした兵士たちが、治療なしで3週間も待っていられるわけがありません。
しかし、ナイチンゲールは引き下がりませんでした。ジョンの言葉を受けた次の瞬間、彼女は木箱を素手で叩き割り、唖然とするジョンにこう告げたのです。
「開いたじゃないの。では、物資を使わせていただきますからね」と。
逸話2「ナイチンゲール、初めての医療行為」
ナイチンゲールが看護師という職業を志したのはそれほど若い時ではなく、20代後半から30代前半ごろだったといわれています。しかし、彼女が後に看護師として多くの人を救うことになる片鱗は、やはり幼い頃から見えていたようです。
幼いナイチンゲールは、散歩中にあるものを見つけました。それは足が折れ、苦しそうにうめく子犬です。道を行く大人たちの誰もが見て見ぬふりを決め込むなか、幼い彼女ただ一人だけが子犬に歩み寄り、そしてたまたま近くを通りすがった牧師に「あんた、手伝いなさい」と声高に命令しました。
牧師を従えた幼いナイチンゲールは、テキパキと子犬のケガの手当てをし、折れた足には添え木をしてやり、その犬がきちんと歩けていることを確認してから、ようやく牧師を解放してやったと伝わっています。
幼いながらも的確な判断力や治療の腕、誰もが見て見ぬふりをした子犬に手を差し伸べる優しさ、物怖じせずに誰かに物を言う胆力など、後の「クリミアの天使」であり「小陸軍省」でもある、フローレンス・ナイチンゲールの片鱗が垣間見えるエピソードです。
フローレンス・ナイチンゲールの早見年表
フローレンス・ナイチンゲールは、イギリスの裕福な地主の家系の次女として生まれました。幼い頃から英才教育を施された彼女は、恋愛小説や絵画よりも、数学書や医学書を好むような、少々変わった子供であったようです。
ナイチンゲールはこの年までに社交界デビューを果たし、社交界の花として多くの男性から求婚を受けたようです。しかし彼女は”花”としての扱いを好んでおらず、17歳の時に「神のお告げを聞いた」と言い出して、貧民救済のための仕事という道を志すようになります。
友人に誘われて行ったローマ旅行で、保養所を営むハーバート夫妻と知り合うことになります。彼らとの交流は長く続き、特に妻のエリザベスは、ナイチンゲールが看護師として働く病院を斡旋するなど、彼女のことを気にかけていたようです。
姉の看病を名目にドイツに渡ったナイチンゲールは、カイゼルスベルト学園で看護教育を受け、ここで自分の道を看護師と定めました。
カイゼルスベルト学園を出て帰国したナイチンゲールは、前述のエリザベスの紹介でロンドンの病院に就職。ただし無給だったため、生活費は理解者である父が出し、就職に反対する母と姉とは不仲になってしまったようです。
戦時大臣から勅命を受け、ナイチンゲールは38名の看護師たちを率いてクリミア戦争に従軍。そこで地獄のような負傷兵たちの惨状を見た彼女は、ヴィクトリア女王すら巻き込んで野戦病院の衛生改革を断行します。これにより戦地での負傷兵死亡率は激減。彼女は「クリミアの天使」の通称で、国民的英雄となりました。
クリミア戦争が終結し、帰国したナイチンゲールは即座にイギリス国内における看護・衛生改革に着手。多くの統計資料を様々な委員会に提出し、自身の改革の必要性を訴えました。この時に生み出されたのが、現在の我々も使っている「レーダーチャート」というグラフです。
昼夜を問わない患者への献身を行ってきたナイチンゲールでしたが、彼女の体はここで限界を迎えます。この年に過労によって倒れて以降、彼女は断続的に床に臥すようになり、次第に看護の現場で働くことが困難になっていったようです。この事件以降、彼女の活動は本の執筆や、手紙による交渉や指示に移っていきます。
「ナイチンゲール基金」によって集められた収益が目標額に達し、看護教育を行う専門機関である、ナイチンゲール看護学校が設立されました。この設立を皮切りに、イギリス国内では看護学校が急増。ナイチンゲールの改革が、目に見える形で実を結んだ年だと言えるでしょう。
予てよりナイチンゲールが提唱していた「ナイチンゲール病棟」という病棟建築方式が、聖トーマス病院で採用。大きな効果を上げたその建築方式は、後に全世界的に広まっていくことになります。
30代後半で床に伏せることとなり、その後も精力的に文筆や手紙で活動してきたナイチンゲールでしたが、この年には完全に光を失ってしまいました。これによりナイチンゲールは表舞台から身を引くことになりましたが、彼女を慕う教え子や弟子たちは、ひっきりなしに彼女の自宅を訪れていたそうです。
クリミア戦争時代の兵士たちへの献身や、その後の医療看護、衛生分野への改革の功績を讃えられ、イギリス政府から「メリット勲章」の叙勲を受けることになります。メリット勲章は、叙勲者の死去を除いては、24名しか叙勲を受けられない名誉ある勲章であり、ナイチンゲールは女性として初めて、その叙勲を受けた人物となりました。
この年の8月13日に、ナイチンゲールはバーンレーンの自宅で、静かに息を引き取りました。享年は90歳。イギリス政府は国葬を行うことを打診しましたが、ナイチンゲールが有名人扱いを嫌がっていたこともあり、遺族がそれを断っています。そのこともあってか、ナイチンゲールの墓には、彼女の本名ではなくイニシャルだけが刻まれています。
フローレンス・ナイチンゲールの具体年表
1820年 – 0歳「フィレンツェにて誕生」
「クリミアの天使」の誕生
1820年5月12日、2年にわたる新婚旅行中だったナイチンゲール夫妻のもとに、第2子が誕生しました。生まれたその女の子は、生地となったトスカーナ大公国の都市・フィレンツェを英語読みし「フローレンス」と名付けられます。
幼い頃のフローレンスは頭の良い子供でしたが、その反面病弱でもあり、何度か生死の境をさまようような経験をしたこともあったようです。
幼少のナイチンゲール
ナイチンゲール家は、貴族でこそありませんでしたが、多くの使用人を抱える地主「ジェントリ」という階級であり、フローレンスもその財力によって、何の不自由もなく育てられました。
彼女と1歳年上の姉には、幼い頃から英才教育が施され、フローレンスは幼いながらに英語・フランス語・ギリシャ語・イタリア語などを話しました。それだけにとどまらず、哲学や歴史の基礎であるラテン語、ギリシア哲学や数学などの当時の富裕層の一般教養から、天文学、経済学、歴史などの高度な知識、さらに美術、音楽、絵画、詩や小説などの文学などの芸術分野にまで、高い能力を発揮していたそうです。
それらの学問分野のなかでも、フローレンスは特に数学に興味を抱いていたらしく、姉にプレゼントされたライラックを見て「ライラックの法則」について語り出し、姉と両親を唖然とさせたというエピソードも残っています。確かに子供らしくないエピソードですが、後に統計学の先駆者となる人物だと考えると、その片鱗を感じる話でもあるでしょう。
フローレンスは当初、興味を抱いていた数学の道に進みたいと考え、反対する両親とたびたび衝突をしていたそうです。しかし彼女の進むべき道は、ある活動と関わったことで強烈に定められることとなります。
慈善活動との関わり
フローレンスの運命は、父親に連れられて行った慈善活動によって変化することとなりました。
当時のイギリスは飢饉が起こっており、ナイチンゲール家のような富裕層や貴族層はともかく、その下で暮らす農民たちは、少ない物資をどうにかやりくりして生活するしかない状況でした。しかし、それだけではとても家計はまかないきれず、農民たちは飢えや貧しさによって、ばたばたと死んでいったと記録されています。
そんな農民たちの生活風景は、幼いフローレンスの脳に鮮烈に焼きついたのでしょう。彼女はこの訪問以後、「弱い立場の人々を救済し、人々に奉仕する仕事に就く」という方向に、自分の生きる道を定めていきます。
1837年 – 17歳「「神のお告げ」を聞く」
「神のお告げ」により、貧民救済の道へ
この年までにフローレンスは社交界にデビューし、社交界の花として多くの男性に言い寄られることとなります。それは彼女の父親であるウィリアムの狙い通りで、彼はフローレンスに「普通の貴族の男性と結婚し、普通に幸せな暮らしを送ってほしい」と考えていました。
しかしフローレンスは、父のそんな思いとは裏腹に、社交界の花扱いを好んではいなかったようです。17歳のある日「神からのお告げを聞いた」と言い出したフローレンスは、突如として社交界への参加をボイコットします。一説では婚約破棄まで行ったといわれています。
彼女がどのような「お告げ」を聞いたのかは本人にしか分かりませんが、このあたりからフローレンスは「弱い立場の人々を助け、人々に奉仕する仕事をする」と心を決めたようです。
1847年 – 27歳「ローマ旅行にて「リズ」と知り合う」
ローマ旅行にて、運命が開かれる
自分の道を貧民救済の方向に定めたナイチンゲールでしたが、その後10年ほどの間は、細かい道行が決まらなかったことや、決意に反対する母と姉との不仲もあり、悶々とした日々を送っていたようです。
そんな彼女の運命は、友人である旅行家・ブレスブリッジ夫妻と共にローマ旅行に行ったことで、大きく開かれることとなります。
ナイチンゲールは旅行中、ローマで保養所を営むシドニー・ハーバートと、エリザベス・ハーバートと知り合うことになりました。彼らはナイチンゲールの語る夢を応援し、特にエリザベスは何かとナイチンゲールの世話を焼いてくれたことが記録されています。
1851年 – 31歳「姉の看病を名目にドイツに渡る」
ドイツに渡る
ローマ旅行でのエリザベスとの出会いを経て、ナイチンゲールは1851年にドイツに渡ります。ドイツに渡るための口実には「精神を病んだ姉の看護」という理由を使ったようです。ナイチンゲールの姉が本当に精神を病んでいたのかはわかりませんが、もしかすると自分の進むべき道に反対し続けた姉への、少しばかりの仕返しの気持ちがあったのかもしれません。
カイゼルスヴェルト学園
ドイツに渡ったナイチンゲールは、カイゼルスヴェルト病院に併設された医療従事者の養成機関(通称:カイゼルスヴェルト学園)に入り、そこで看護の経験を積むことになります。このあたりになると、ナイチンゲールは明確に「貧しい人たちを救う仕事に就く=看護師になる」と、自分の道を定めていたようです。
1853年 – 33歳「ロンドンの病院に就職」
ロンドン・ハーリー街にて看護師となる
カイゼルスヴェルト学園で看護の経験を積んだナイチンゲールは、イギリスに帰国した後に、ロンドン・ハーリー街にあった病弱な貴婦人のための療養施設に就職します。この就職には友人であるエリザベス・ハーバートの斡旋があったとされていて、ナイチンゲールにとってどれだけエリザベスがよき理解者だったかがうかがえます。
ただし、後でご紹介するように当時の看護師の待遇は最底辺レベルに悪く、ナイチンゲールも無給で働いていたようです。現在では考えられないほどのブラックさですが、その理由については後のトピックで解説させていただきます。
当然ながら「一般的な感性」を持つ母と姉は、ナイチンゲールが看護師となることに大反対。しかしナイチンゲールは真っ向からその反対を受けても決して引き下がらず、彼女たちの不仲は決定的なものとなってしまいました。後に「小陸軍省」とまで呼ばれる彼女の強さが現れたエピソードではないでしょうか。
しかし父・ウィリアムは、彼女の進む道をよくは思わないながらも理解を示していたらしく、当時のナイチンゲールの生活費を全額まかなうなど、金銭面でのサポートをしてくれていたようです。
当時の「看護師」とは
ナイチンゲールが活躍した19世紀初頭から中盤において、「看護師」とは「卑しい職業の代名詞」という扱いを受けていました。
現在でこそ「白衣の天使」とも称され、豊富な専門知識や的確な治療のサポートによって、多くの人々を救う「働く女性の代表格」のような扱いを受ける「看護師」という職業。けれども、当時は現在の価値観とはほとんど真逆の扱いを受けていたのです。
当時の看護師は、未亡人やクビになったメイドが最終的に回される卑しい職業として扱われていて、その実態も現在のように看護を生業とする仕事というよりも、どちらかといえば売春婦などに近い状況だったようです。当然ながら看護についての専門知識もなく、彼女たちの仕事は性行為を通じて患者の苦痛を和らげることだったともいわれています。
そもそも当時の「病院」も、現在のような医療機関としての機能をまるで果たしておらず、病院は貧しい病人が苦しみながら最期を過ごすところとして忌み嫌われる場所だったのです。
そのような扱いの職業と職場である以上、看護師は裕福な階級の女性が就く仕事では絶対にありませんでした。それゆえにナイチンゲールの母と姉は、彼女の選択に大反対をしていたようです。
ナイチンゲールが残した業績だけを見ると、母と姉の反対に首を傾げたくなるかもしれません。しかし当時の看護の現場を知ると、むしろ母と姉は真っ当な感覚と家族愛を持っていたといえそうです。
1854年 – 34歳「クリミア戦争に従軍」
クリミア戦争が勃発
1854年、フランス・イギリスとロシアの間にクリミア戦争が勃発します。看護の現場を取り巻く現状に、強い危機感と焦りを感じていたナイチンゲールには、この戦争が転機となりました。
転機の始まりは、クリミア戦争に同行した『ロンドン・タイムス』の記者、ウィリアム・ハワード・ラッセルによる記事でした。彼の書いた記事によって、クリミア戦争の最前線における負傷兵がどれだけ悲惨な扱いを受けているのかが、イギリス国民全体に向けて知らされることとなったのです。
世論は沸騰し、事態を重く見た戦時大臣のシドニー・ハーバート、つまりエリザベス・ハーバートの夫は、ナイチンゲールにクリミア戦争への従軍を依頼します。彼女もクリミアの現状を知って、どうにかクリミアに渡れないかを考えていたらしく、即座にこれを承諾しました。
依頼を受けたナイチンゲールは、すぐさま準備と38名からなる看護師団を整え、クリミアへと出発します。目的地は、最前線から負傷兵が搬送されてくるスクタリの野戦病院でした。
そしてスクタリに到着したナイチンゲールは、まさに「地獄」と形容すべき光景を目の当たりにすることとなります。
クリミアの「地獄」
スクタリの野戦病院には、まさに地獄と言うべき惨状が広がっていました。
野戦病院は、外観こそ立派な洋館でしたが、その立地がまず問題。何の覆いもない下水の上に直接建てられたその洋館には汚水の悪習が立ち込め、換気窓もほとんど意味をなさない状態。患者は押し込められるように病室の腐りかけのベッドに寝かされ、清潔なシーツどころか、包帯や食料すら満足に行き届いていない状況だったと言います。
負傷者を救護する設備としてあるまじき惨状に、当然ながらナイチンゲールは憤りましたが、軍医長官たちはどこ吹く風。当時のイギリス軍には官僚主義や事なかれ主義が横行しており、複雑な書類上の審査が滞っている事を理由に、包帯や食料などの必須である物資すら満足に行き届かず、救えたはずの負傷兵はバタバタと命を落としていく状況でした。そしてその惨状すら、軍医長官は本国に「問題なし」と報告していたのです。
現状に憤ったナイチンゲールは、軍医長官に直談判を行いますが失敗してしまいます。しかも軍医長官は「女性であること」を理由にナイチンゲールを冷たくあしらい、せっかく本国から派遣された彼女たち看護師団に、何の仕事も与えませんでした。この状況には看護師団の中からも不満の声が上がり、実際に本国へ帰ってしまった者もいたそうです。
しかしナイチンゲールは諦めませんでした。彼女は負傷兵たちを「救えない」現状に心を痛めながら辛抱強く機を待ち、「ある行動」からクリミアの惨状を改革していくことになるのです。
衛生改革に乗り出す
現場のトップから冷遇され、仕事を与えられなかったナイチンゲールたちは、現場の誰も管理していない「ある仕事」に目を付けました。
その仕事とは「トイレ掃除」。それまで誰もやりたがらなかったトイレ掃除を引き受けたナイチンゲールは、それを皮切りに徐々に病院の内部清掃に範囲を広げ、それが認められたとみると、次は負傷者の介助に…と、徐々に看護師団の仕事の範囲を広げ、病院の内部に切り込んでいきました。
この活動は従軍記者によってイギリス本国にも知られ、本国の世論は軍部ではなくナイチンゲールたち看護師団への支持が優勢になります。その世論を知ったヴィクトリア女王もナイチンゲールの行動への支持を表明し、ナイチンゲールの報告書を、行政組織を通さずに直接自身に渡すよう布告を出します。
この布告により、頑なだった軍医長官も折れざるをえず、遂にナイチンゲールは、スクタリの野戦病院の看護師長として公式に看護業務に当たることが認められたのです。彼女がスクタリに派遣されてから、およそ半年ほどが経った頃でした。
しかし彼女の行う改革は、これからが本番だったのです。
衛生改革により兵士たちの「天使」となる
こうして看護師長に就任したナイチンゲールでしたが、昼夜を徹した看護も空しく、彼女が看護師長になってすぐの負傷兵の死亡率は、42パーセントにまで上昇してしまったと記録されています。そのような惨状は、ナイチンゲールの心と体を徐々に蝕んでいったようです。
しかし、不調を抱えつつもナイチンゲールは諦めませんでした。彼女は次々と倒れていく患者たちを見続けながら、彼らが「戦場で負った怪我で死んでいるのではない」ことに気づいたのです。負傷兵の多くは怪我が原因で死ぬのではなく、病院の衛生環境による感染症の蔓延によって死んでいるのだと、彼女は確信しました。
ナイチンゲールは、すぐさま改革に乗り出します。徹底的なノミ、シラミ、ネズミの駆除を皮切りに、病院の悪臭を改善させることで換気窓の使用を可能にする、壁を白いペンキで塗ることで汚れを分かりやすくし、衛生的な環境を保てるようにするなど、現在の病院の基礎に通じる様々な改革を行いました。
さらに、看護師たちに制服を着用することを命じ、病院の周囲にいた売春婦との区別を付けさせたほか、それによって仕事を失った売春婦たちにも職の斡旋を行うなどして援助しました。この頃にはナイチンゲールを慕って、イギリス本国からスクタリまで出向いてくる者も多く、彼女はその中から腕利きのコックを雇用し、冷たかった病院食を温かく美味しいものに一変させています。
これらの改革によって、負傷兵死亡率は激減。ナイチンゲールの就任当初である2月の時点で42パーセントだった死亡率は、4月には15パーセント、5月には4パーセントにまで激減したと記録に残されています。
その改革により助けられた兵士たちは、彼女のことを「天使」と呼び母のように慕ったらしく、ナイチンゲールが病室を訪れただけで部屋の空気が明らかに和らいだ、悪夢にうなされていた兵士が、ナイチンゲールの持つランプの光が近付いてきただけで、穏やかな寝息を立て始めたという話も残されています。
1856年 – 36歳「終戦と帰国」
クリミア戦争が終結し、帰国
3月30日、パリで平和条約が締結されたことにより、4月29日をもってクリミア戦争が終わりました。しかしナイチンゲールは終戦後もすぐに帰国することはなく、スクタリの野戦病院で負傷兵の看護を続け、7月16日に最後の患者の退院を見届け、病院が閉鎖されるまでスクタリに残っていたようです。
ナイチンゲールは終戦の時点で、「多くの兵士を救った”クリミアの天使”」として奉り上げられる存在でした。けれど彼女自身は、「天使」と称される扱いを好んではいなかったようで、最後の患者の隊員を見届けてすぐの8月6日に、スミスという偽名を使ってイギリスに帰国しています。
実際、ナイチンゲールの心には「救えた」という満足感よりも「多くの人を救えなかった」という後悔の方が強く残っていたようです。その後悔を晴らすためか、帰国後の11月、彼女はクリミアの地獄を共にした看護師団を再集結。クリミアでの負傷兵の死因分析や、衛生環境改善の必要性、従軍看護師の必要性を報告書に纏め、ヴィクトリア女王や、多くの委員会に提出することを開始しました。
なかでもヴィクトリア女王に提出された報告書は、900ページにも及ぶ大長編ででした。けれども、医療従事者ではない女王にも理解できるように、図やグラフを使って視覚的な効果も盛り込んだ大変分かりやすいものだったようです。
この報告書に使われたグラフの形式は「レーダーチャート」と呼ばれ、現在も様々な場面で活用されています。ナイチンゲールの統計学者としての功績は、この報告書に集約されているともいえ、イギリス政府は統計学の先駆者として、ナイチンゲールの名を挙げています。
「小陸軍省」
クリミアからの帰還後も、ナイチンゲールの仕事ぶりは衰えを見せることなく、彼女は戦場にいた頃と同様に、昼夜を問わず患者への献身を続けていました。
彼女は看護師としての業務や、報告書の執筆と並行し、様々な政府機関や有力者たちとの交渉を展開します。その交渉相手のほとんどが、ナイチンゲールよりも身分が上の貴族たちでした。けれども彼女はそんな彼らを恐れることなく、果敢かつ率直にものを言い、交渉を有利に進めていったそうです。
彼女との交渉に臨んだ者たちは、ナイチンゲールの真っすぐな強さを敬い、またそれ以上にひどく恐れていたことが伝わっています。特にナイチンゲールとたびたび衝突することになった陸軍は、彼女のことを非常に恐れていたらしく、彼女の住居兼事務所であった建物のことを「小陸軍省」と呼んでいたことも記録されています。
1857年 – 37歳「過労により倒れる」
献身の反動
クリミアで野戦病院の衛生改革を皮切りに、負傷兵に対する昼夜を問わない看護、帰国後の報告書の執筆や、医療看護に対する改革派勢力の広告塔としての業務など、その多忙さはナイチンゲールを確実に蝕んでいました。
忘れがちですが、彼女は幼い頃は病弱な少女であり、その体は決して強いほうではありませんでした。そこにクリミアで抱えた多くの後悔も重なり、彼女の体と精神は、この時点で既に限界を超えていたのです。そしてそのツケが、この年に彼女を襲います。
過労によって倒れた彼女は一応の回復はみせますが、やはり一度落ちた体力は戻ることなく、以降は断続的に床に伏せることが増えて看護の第一線からは退くことになってしまいます。それでも彼女はパンフレットや意見書を精力的に執筆し、ベッドの上からも看護の改革に尽力を続けました。
以降の50年ほどの間、ベッドの上でナイチンゲールが著した出版物は150編以上に上り、手紙のような個人に当てた文書は、12000通以上に上ると推定されています。その中でも主要な文書は『ナイチンゲール文書』と呼ばれ、現在も様々な国で出版、翻訳されています。
1860年 – 40歳「ナイチンゲール看護学校が設立」
ナイチンゲール看護学校
この年、戦時中に設立された「ナイチンゲール基金」への寄付が、目標額である45000ポンドに到達。当初の予定通り、ナイチンゲール看護学校という看護師養成学校を設立しました。学校は聖トーマス病院に併設され、校長は病院の看護師長であるウォードローバーが務めましたが、ナイチンゲール自身も運営に携わり、生徒たちを監督していたようです。
ナイチンゲールがこの学校を設立した目的に、「”看護師”という職業に対する偏見の除去」があったため、ナイチンゲールの指導はとても厳しかったことが伝わっています。
入学希望者は能力と道徳の両面から厳しく審査され、入学してからは恋愛は一切禁止、それを破れば即座に退学になりました。外出は制服着用の上で、必ず二人一組で行うこととされ、さらに生徒たちは日記の提出も義務付けられ、ナイチンゲール自身による誤字や文法の訂正なども行われていたといわれています。
しかし、そんな厳しい指導を受けた生徒たちは、卒業するや否や各地の病院から引っ張りだこになりました。ナイチンゲールの育てた看護師たちは各地の病院に散らばり、優れた指導能力を発揮することで、イギリスの医療体制の改善と発展に大きく貢献したことがいわれています。
その後イギリスでは、多くの看護師養成学校が開校されることになり、ナイチンゲールの悲願であった看護師に対する偏見は、ほとんど完全に除かれることとなりました。彼女の夢が叶ったのは、もしかしたらこのときだったのかもしれません。
1871年 – 51歳「「ナイチンゲール病棟」の成立」
「ナイチンゲール病棟」
床に臥すことが増えたナイチンゲールが、執筆によって医療改革に尽力していたのは前述の通りです。
彼女の著作として最も有名なものに、1860年に記された『看護覚え書』というものがあります。現在も看護師教育の現場で用いられるようなテキストなのですが、その中に示された「ナイチンゲール病棟」と呼ばれる病棟の建築方式が、この年にようやく聖トーマス病院で実際に用いられることとなりました。
その病棟は当時としては画期的かつ、現在でも病室の基本形として用いられるものであり、『看護覚え書』には理論や計算に基づいた理想形が、図面として事細かに記されていました。以下がその大まかな特徴です。
- 病室は間仕切りなしのワンルーム。
- 患者のベッド1つにつき、1つの窓がセットされる。
- ベッドは病室の左右にそれぞれに15ずつ並んでいる。
- 窓は高い天井まで延びた3層の窓。
- 1番高い3層目の窓を常時開放しておくことで、病室の換気を行う。
この設計は聖トーマス病院で高い効果を上げ、次第に全世界的に広まっていくこととなりました。ナイチンゲールの多才さと先見性は、医療建築の分野においても発揮されていたといえそうです。
1901年 – 81歳「失明し、表舞台から退く」
失明
著述家として多くの論文や意見書を残し、ベッドの上からも精力的に活動を続けてきたナイチンゲールでしたが、1901年にはいよいよ完全に失明してしまいます。これによって執筆作業も困難になり、彼女は表舞台から姿を消すこととなりました。
晩年の彼女は猫を数匹飼っていたといわれています。彼女はその猫たちをたいそう可愛がっていたようで、彼女の最期を看取ったのはその飼い猫たちだったという説さえあるほどです。強い女性のイメージを持たれがちだった彼女が、本来はそれ以上に優しい女性だったことがわかるエピソードでしょう。
また、彼女の自宅には訪問者が絶えなかったことも伝わっており、晩年の彼女の周りは、彼女に教えを請いに来る若者や、昔話をしに来るかつての弟子たちなど、多くの人で賑わっていたようです。
1907年 – 87歳「メリット勲章の叙勲を受ける」
メリット勲章
1907年、ナイチンゲールはクリミア戦争での功績や、その後の看護改革の功績を讃えられ、メリット勲章の叙勲を受けることになりました。
メリット勲章は、イギリス王より授けられる勲章の1つであり、純粋な功績のみで評価された24名だけが受勲することができる、大変名誉ある勲章です。しかもナイチンゲールが受勲するまで、女性でメリット勲章を受けた人物はおらず、ナイチンゲールは女性として初めてメリット勲章を受ける人物となりました。
メリット勲章は現在もイギリスに現存しており、イギリス国内のみならず、外国の人物に対しても叙勲が行われています。最近の有名な人物で言えば、ネルソン・マンデラ大統領や、日本人では山県有朋や東郷平八郎が受勲しています。
1910年 – 90歳「”クリミアの天使”、安らかに逝く」
安らかに天国へ
大きすぎる優しさと、偉大すぎる胆力をもって、当時の医療や看護に対する価値観をひっくり返してしまったナイチンゲールは、1910年8月13日に、バーンレーンの自宅で静かに息を引き取りました。
その死はイギリス国内でもニュースとして扱われ、イギリス政府はナイチンゲールの国葬を打診しましたが、親族はこれを拒否し、ナイチンゲールは親族だけに見守られて、静かにこの世を去っていったのです。
遺族が国葬を断ったのは、他でもないナイチンゲール本人が有名人扱いを嫌がっていたからだといわれており、実際に彼女の墓にも、「Florence Nightingale」という実名ではなく「F.N」というイニシャルと生没年だけが刻まれています。
ナイチンゲールの死因
ナイチンゲールの死因については、彼女が長く床に臥せっていたこともあり、様々な説が混在している状態でした。
しかしブリティッシュ・メディカル・ジャーナルに掲載された『 Florence Nightingale’s fever』という論文によると、彼女の死因はブルセラ病の慢性症状であると結論付けられています。
フローレンス・ナイチンゲールの関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
新版 ナイチンゲール看護論・入門 -『看護覚え書』を現代の視点で読む
現代でも看護教育で使われる、ナイチンゲールの『看護覚え書』を、現代的に分かりやすく編集した1冊です。ナイチンゲールという人物については勿論ですが、彼女が当時考案していた様々な看護や衛生体制が描かれ、彼女の思慮の深さに感動を覚えることは間違いありません。
看護の現場に携わる方だけでなく、病院を利用する全ての方に読んでほしい1冊となっています。
統計学者としてのナイチンゲール
医療分野の功績ではなく、ナイチンゲールの統計学者としての功績に焦点を当てた1冊です。ナイチンゲールという女性の、苛烈で真っすぐな部分がクローズアップされているため、人物としての彼女を知るにも良い本だと言えるでしょう。
【24年1月最新】ナイチンゲールをよく知れるおすすめ本ランキングTOP8
おすすめの動画
(Rare!) Voice of Florence Nightingale (1890)
なんと、70歳当時のナイチンゲール本人の肉声です。当時の録音技術や劣化から、音質はとても悪いですが、それでも歴史上に名を残す偉人の肉声であり、貴重な資料なことは間違いありません。
以下が発言の全文と、日本語訳となります。
‘When I am no longer even a memory, just a name, I hope my voice may perpetuate the great work of my life. God bless my dear old comrades at Balaclava, and bring them safe to shore. Florence Nightingale.
私が人々の記憶から消え、ただ名前だけが残った時、私の声が私の人生での偉大なる功績を永遠のものにしてくれるのことを望みます。バラクラバの同士達に幸あれ。そして彼らが無事家に帰れますように。
関連外部リンク
フローレンス・ナイチンゲールについてのまとめ
いかがでしたでしょうか?「クリミアの天使」と呼ばれたナイチンゲールについて、少しでも伝えることができていれば幸いです。
序文に少し書かせていただいた通り、筆者は元々病弱(現在もですが)であり、幼い頃には入院して、病院備え付けの本を読む生活を送ることがありました。その中でナイチンゲールという人物を知り「ナイチンゲールのやったことを探す」と言って病室を抜け出し、両親から怒られた経験もあります。ともかく、そうして興味を持ったことが仕事に繋がるのだから、人生はわからないものです。
とはいえ、現在になって考えてみると、「病弱な子供が、そうやって病院内を歩き回って成長できる」ということ自体がナイチンゲールの遺した偉業なのだと思います。ナイチンゲールが生まれていなかったら、筆者は今頃感染症か何かで死んでいたかもしれません。
そのような意味で、今を生きるあらゆる人の命を救ったとも言えるのが、フローレンス・ナイチンゲールという女性になります。皆さまがこれから病院に訪れるとき、ナイチンゲールと、それからこの記事のことを、少しでも思い出してくださると嬉しいです。