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フローレンス・ナイチンゲールの生涯・年表まとめ【名言や功績、エピソードについても紹介】

フローレンス・ナイチンゲールとは、19世紀に活躍した看護師の女性です。

「クリミアの天使」という通称で知られ、俗に看護師の女性のことを示す「白衣の天使」という言葉も、ナイチンゲールに対するイメージから付けられた言葉であると言われています。

彼女の功績は幅広い分野に残されていますが、彼女の功績を一言で表すとしたら「医療看護の全面改革」を行ったという事に集約されます。ナイチンゲールという女性が存在しなければ、現在のような医療体制や公衆衛生という概念は、現在でも存在せず、医療の発展はここまで進んでいなかったかもしれません。

フローレンス・ナイチンゲール

また、彼女は医療分野の改革だけでなく、現在で言う統計学の学問分野を起こし、それを自身の行う改革の中で実践するという功績も残しています。現在の社会は統計学によるデータが重要視されている社会のため、彼女はまさしく、現代社会の原型を作った人物であるとも言えるでしょう。

しかし、「天使」と称される可憐で清楚なイメージに反して、実際の彼女は中々に強烈で、どちらかというと「強い女性」であったそう。その強さを示すエピソードは数多く残されており、屈強な軍人ですら彼女のことを恐れるほどだったそうです。また、彼女自身は「天使」という呼ばれ方を、あまり好んでいなかったとされています。

この記事ではナイチンゲールの生涯や、イメージと史実のギャップについて、病弱ゆえに病院でよくナイチンゲールの本を目にし、看護の道に進んでいないにも拘らず「ナイチンゲール誓詞」を暗記してしまった筆者が執筆させていただきます。

目次

フローレンス・ナイチンゲールとはどんな人?

名前フローレンス・ナイチンゲール
通称「クリミアの天使」「小陸軍省」「ランプの貴婦人」
誕生日1820年5月12日(現在の国際看護師の日)
生地トスカーナ大公国・フィレンツェ
没日1910年8月13日(享年90歳)
没地イギリス・ロンドン
配偶者なし
埋葬場所ハンプシャー州・聖マーガレット教会

フローレンス・ナイチンゲールの生まれは?

ナイチンゲールが生まれたのは、1820年の5月12日。両親の2年間の新婚旅行中、トスカーナ大公国・フィレンツェでの誕生でした。彼女の名前である「フローレンス」の名前の由来も、実は「フィレンツェ」の英語読みとなっています。

ナイチンゲールの生家は裕福な地主の家系であり、そのこともあって彼女には、幼い頃から様々な教育が施されたようです。代表的なものとしては、英語・フランス語などの語学、哲学や歴史の基礎であるラテン語、ギリシア哲学や数学などの当時の富裕層にとっての一般教養から、天文学、経済学、歴史などの高度な知識、さらに美術、音楽、絵画、文学などの芸術分野に至るまで教育が施されたと記録されています。

かつてナイチンゲール一家が暮らしたエンブリー・パーク

そのような、当時にしては超高度な教育を受けたナイチンゲールですが、彼女の運命は慈善活動に接したことで大きく変化します。

ナイチンゲールが事前活動の最中に接したのは、その日の暮らしにも困る貧しい農民たちの生活でした。常にが死と隣り合わせにあるような、自身の甘んじてきた状況とはまるで違うその現状に、ナイチンゲールは強く心を痛めたようです。そのことをきっかけとして、彼女は徐々に自身の進むべき方向性を「人々に奉仕する仕事」へと定めていくことになりました。

フローレンス・ナイチンゲールの性格は?

世間では天使のイメージが強い

序文でも少々書いた通り、ナイチンゲールは一般的な「天使」に対するイメージのような可憐で温和な人物ではなく、むしろ気の強い苛烈な人物だったようです。彼女自身も、一般的な「天使」のイメージで語られることを嫌っていたようで「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」という言葉を残しています。

そのような苛烈な性格であった一方で、誰かを犠牲にすることや、誰かに犠牲を強いることを嫌う、真っすぐで清廉な人物でもあったらしく、赤十字活動のようなボランティアによる救護組織の常備化については、真っ向から反対の立場をとっていたようです。その考えは「犠牲なき献身こそが本当の奉仕である」という彼女の遺した言葉に表れています。

ナイチンゲール

他人に対しては「犠牲なき献身」を求めた彼女ですが、彼女自身は昼夜を問わずに患者のために無茶な献身を続け、37歳という若さで過労にによって倒れるという事態も経験しています。その病状は重かったようで、以降の彼女はほとんどベッドから起き上がれないような生活を、亡くなるまでの50年程の間続けていたそうです。しかしそんな状況の中でも、彼女は本の執筆や手紙を書くことにより、医療や衛生への改革を訴え続けたことが記録されています。

これらのエピソードを総括すると、ナイチンゲールという女性は強く清廉な女性であり、あまりに真っすぐな人間だったと言えるでしょう。

フローレンス・ナイチンゲールと関わり深い人物は?

ナイチンゲールの友人として有名なのは、エリザベス・ハーバートという、夫とともに保養所を営んでいた女性です。彼女はナイチンゲールと看護の道を結び付けた人物でもあり、ナイチンゲールが初めて看護師として働くことになったロンドンの病院での仕事についても、エリザベスが斡旋を行っています。

他にも、当時のイギリスのトップであったヴィクトリア女王からも、高い評価を得ていたことが知られています。ヴィクトリア女王は、クリミア戦争に従軍しているナイチンゲールの報告を、縦割り的な行政府を通さずに自分に直接届けさせることを厳命。「女王がナイチンゲールのことを認めている」と受け取れるその布告が知れ渡ることで、ナイチンゲールの行う医療衛生改革が加速するという功名を生んでいます。

ナイチンゲールを後押ししたヴィクトリア女王

ナイチンゲールは弟子にも恵まれており、後にプロイセン王妃となるヴィクトリア(イギリス女王とは別人)や、前述のイギリス女王・ヴィクトリアの娘であるアリス・モード・メアリも、ナイチンゲールの弟子として活動していたことが記録されています。

それらのエピソードの一方で、ナイチンゲールの男性に関するエピソードは極端に少なく、実際に彼女は生涯を独身で過ごしました。数人の男性からプロポーズを受けたことは記録されていますが「看護研究の邪魔になる」とすべて断っていたようです。現在で言う「キャリアウーマン」の元祖こそが、ナイチンゲールという女性なのかもしれません。

フローレンス・ナイチンゲールと「クリミア戦争」の関わりは?

患者の世話をするナイチンゲール

ナイチンゲールの通称として最も有名なのは、やはり「クリミアの天使」という通称です。これは、ナイチンゲールが従軍し、初めて医療や看護の改革を行った、フランス・イギリスとロシアの戦争・クリミア戦争に由来する通称となっています。

実のところ、ナイチンゲールが に派遣されるまでにも、最前線における負傷兵の扱いは問題となっており、ナイチンゲールが戦地に派遣されたのも、その状況を重く見た戦時大臣による依頼があったからでした。ただ、これに異説として、ナイチンゲール自身が戦時大臣に自分を売り込んだとする説も存在しています。

予てより戦場における医療状況に危機感を覚えていたナイチンゲールは、戦時大臣からの依頼を即座に受諾。シスター24名、職業看護師14名の女性たちを率いて戦地に赴いたナイチンゲールは、そこで「地獄を見た」と後に書き残しています。下水の上に直接建てられた洋館が、野戦病院として扱われていたと言えば、その状況の悲惨さは伝わってくれるでしょう。

クリミア戦争

ナイチンゲールは即座に衛生改革を上官に進言しますが、当時のイギリス軍の事なかれ主義と権威主義の権化のような、ジョン・ホール軍医長官は、ナイチンゲールたちの従軍を拒否。しかしナイチンゲールは諦めず、病院内で誰も手を付けていなかった便所掃除を自分たちの仕事とすることで、院内に居場所を作ることに成功します。

それらの地道な活動と、彼女に味方するヴィクトリア女王からの布告もあって、ナイチンゲールは野戦病院の看護総責任者に着任。彼女の着任した2月には、病院での患者死亡率が40パーセントを超える事態となりましたが、その後は一気に死亡率は減少。4月には14パーセントほどになり、5月には5%ほどにまで、死亡者の数は激減したと記録されています。

野戦病院の衛生状況を改革し、多くの人々を救ったナイチンゲールは、負傷兵から母のように慕われたらしく、夜の見回りを欠かさなかった彼女のことを「ランプの貴婦人」「光を掲げる貴婦人」とあだ名し、崇拝する兵士もいたそうです。

フローレンス・ナイチンゲールの行った看護改革とは?

後の看護体制に影響を与えた

医療分野に華々しい功績を遺し、「医療従事者の鑑」として扱われることの多いナイチンゲールですが、彼女自身は”医術”の分野において発展を促した存在ではありません。彼女の功績は、新薬や新たな治療法の発見ではなく、それとは別の領分にあるのです。

彼女が行ったのは、病院の衛生改革と看護教育の体系化。トイレや洗面所の掃除といった衛生改革も、看護師としての専門知識を授ける看護教育も、現在では当たり前のように行われている事ですが、ナイチンゲールが看護師として勤務を始めた頃はどちらも行われていませんでした。そのため病院の衛生状況は、感染症が蔓延するような悲惨なものであり、看護師は専門知識が必要ない卑しい職業だと思われていたようです。

ナイチンゲールは衛生管理を徹底した

ナイチンゲールによる改革以前の病院、とりわけ戦場の野戦病院の死亡率は、40パーセントほどと非常に高かったうえ、そのほとんどの死因が、戦場での負傷ではなく「感染症」でした。当時の戦場においては、「多少の傷を負う」という事自体が死へと直結するほどの、悲惨な状況が長らく続いてきたのです。

クリミア戦争の野戦病院で、戦場の兵士を襲うその現状を知ったナイチンゲールは、頑なに状況の非を認めようとせず、ナイチンゲールたちを追い出そうとする軍医長官を黙らせるために、自身と共に従軍した看護師たちとトイレ掃除による衛生管理を開始。その取り組みはイギリス政府を動かすことにもなり、40パーセント以上もあった野戦病院での負傷兵死亡率は、ナイチンゲールが活動を始めてから3カ月弱で、なんと5パーセントにまで減少したと記録されています。

フローレンス・ナイチンゲールと統計学との関わりは?

医療分野、とりわけ看護の分野で有名なナイチンゲールですが、実は現在の我々が広く用いている、グラフなどを用いた統計学の先駆者としても知られています。

ナイチンゲールがそのような統計学を用い始めたのは、クリミア戦争からの帰国後であり、その目的もまた、イギリス国内の病院に対する改革のための分析でした。つまり、ナイチンゲールは統計学という分野を築くために研究を行ったのではなく、医療改革のために必要だった手段が、たまたま様々な分野に応用できる統計手法になったのだと言えるでしょう。

ナイチンゲールによるクリミア戦争の死因分析

ナイチンゲールが考案した統計グラフは、現在では「レーダーチャート」と呼ばれ、様々な統計の場面で広く使われる形式となっています。「模試の点数などを示す多角形のグラフ」と言えば、皆さまにも馴染みがあるものだと思います。

医療分野についてだけでなく、経済や法律などの様々な分野に広く活用される統計術を生み出したナイチンゲール。私たちはあらゆる意味で「彼女が作り上げた社会」の中で生きていると言えるかもしれません。

「ナイチンゲール誓詞」とは?

ナイチンゲール誓詞

「ナイチンゲール誓詞」とは、看護師の仕事の裏にある理念を表した誓いの言葉の事です。アメリカのファーランド看護学校の校長であるリストラ・グレッターを委員長とする委員会によって作成されたものであり、主にアメリカにおける看護倫理の原則となっています。

「ナイチンゲール誓詞」という名前から誤解されがちですが、ナイチンゲール自身は、この誓詞の成立に携わったわけではなく、彼女自身はむしろ「看護の仕事とそれに対する従事を希望する者たちは、わざわざ誓いを立てる必要がある程次元の低いものではない」と、誓詞について否定的な見解を著作中で述べています。

しかしナイチンゲールの精神が、看護倫理として基本的かつ絶対的なものであることは変わりないため、現在も看護の現場では広く使われており、戴帽式や卒業式などの行事の際に、ナイチンゲール誓詞の暗唱を行う看護学校もあるようです。

以下が、その日本語訳となります。

ナイチンゲール誓詞
われはここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん
わが生涯を清く過ごし わが任務を忠実に尽くさんことを
われはすべて毒あるもの 害あるものを絶ち 
悪しき薬を用いることなく また知りつつこれをすすめざるべし
われはわが力の限りわが任務の標準を高くせんことを務べし
わが任務にあたりて 取り扱える人々の私事のすべて
わが知り得たる一家の内事のすべて われは人に洩らさざるべし
われは心より医師を助け わが手に託されたる人々の幸のために 身を捧げん

「ナイチンゲール誓詞」について、より詳しく知りた人は以下の記事をご覧ください。

ナイチンゲール誓詞とは?意味や和訳・解釈、成り立ちをわかりやすく解説

「ナイチンゲール症候群」とは?

ナイチンゲール症候群とは

創作物などでは度々、「医師と患者」あるいは「看護師と患者」の恋が描かれ、それには大抵「ナイチンゲール症候群」という言葉も付きまとってきます。

このような創作に見られる「ナイチンゲール症候群」は、一般に「医者や看護師などの看護提供者が、患者に対して恋愛感情を錯覚してしまう」という意味で使われていますが、実際のところ、この使われ方は誤用です。

上記のような状況は「ナイチンゲール効果」と呼ばれる、ポップカルチャーから生まれた造語の一つであり、実際の「ナイチンゲール症候群」は、晩年の彼女が患っていたとされる「慢性疲労症候群」のことを指す言葉です。慢性疲労症候群はその名の通り、常に強い疲労と倦怠感を感じ、日常生活が困難になる病気であり、恋愛などの精神的要因が原因となって怒る病とは根本的に違うものです。

実際には強い疲労感を伴う症状をあらわす

また「ナイチンゲール効果」という言葉そのものについても、ナイチンゲールが患者と恋に落ちたという事実は一切なく、それどころか求婚者に対して「看護研究の邪魔になるから」と断るなど、彼女は生涯を独身で過ごしています。

「白衣の天使」という言葉から生じる可憐なイメージから、創作において恋愛などとも結び付けやすいナイチンゲールではありますが、流石に少々事実無根が過ぎる言葉とも感じられるため、「ナイチンゲール効果」については、使用に際してよく考えるべき言葉だと言えるでしょう。

ナイチンゲール症候群とは?意味や成り立ち、関連する作品も紹介

フローレンス・ナイチンゲールの死因は?

37歳という若さで過労により倒れ、そこから奇跡的に生還するも、その後はほとんどベッドの上で50年もの余生を過ごしたナイチンゲール。そんな中でも執筆活動を通じて、医療や看護の発展に尽力し続けた彼女は、直系の親族である両親と姉の死を見届けた後に、バーンレーンの自宅で静かにこの世を去りました。享年は90歳でした。

彼女の死に際し、イギリス政府は国葬を行うことを親族に打診したようですが、親族はそれを断っています。ナイチンゲールは成した功績の大きさに反して、親族のみに看取られて静かにこの世を去っていったのです。

晩年のナイチンゲール

親族が国葬を断った理由については、ナイチンゲール自身が生前にそう望んだからだと言われています。「クリミアの天使」として看護分野の英雄として扱われてきた彼女は、看護の発展のためなら矢面に立つことを厭うことはありませんでした。しかし彼女自身は、そのような「有名人扱い」を好んではいなかったようで、むしろ静かに暮らすことを望んでいたそうです。

そのような彼女の性格は、その墓石にも表れており、彼女の墓石には「Florence Nightingale」という実名ではなく「F.N」というイニシャルだけが、本人の希望によって刻まれています。そのようなエピソードを見ると、彼女は確かに苛烈な人物ではありましたが、意外と一般的な感性を持った人物でもあったのかもしれません。

フローレンス・ナイチンゲールの名言は?

天使とは、美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者である。

愛というのは、その人の過ちや自分との意見の対立を許してあげられること

私が成功したのは、決して弁解したり、弁解を受け入れなかったからです。

私は地獄を見た。私は決してクリミアを忘れない。

子を失う親のような気持ちで患者に接することのできない、そのような共感性のない人がいるとしたら、今すぐこの場から去りなさい。

私は、すべての病院がなくなることを願っています。

フローレンス・ナイチンゲールの名言21選!その言葉の意図や背景も解説

フローレンス・ナイチンゲールにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「素手で木箱を叩き割る”クリミアの天使”」

ナイチンゲールと看護婦達

ナイチンゲールが一般的な「天使」でイメージされるような人物ではないことは、ここまで読んでくださっている皆さんは理解してくれているかと思います。彼女のそのような性格を示すエピソードの中には、このようなものも存在しています。

それは、彼女がクリミアに従軍している時の事。医療物資が欠乏している中、倉庫で医療物資の在庫が詰まった木箱を見つけたナイチンゲールは、その使用の許可を軍医長官のジョン・ホールに求めます。

しかし、官僚主義で公務員的なジョンは、「この箱は委員会の許可なしでは開けられない」と要求を突っぱねてしまいました。「では、次の委員会はいつ?」と尋ねるナイチンゲールに、ジョンは「3週間後です」と答えます。当然、怪我をした兵士たちが、治療無しで3週間も待っていられるわけがありません。

しかし、ナイチンゲールは引き下がりませんでした。ジョンの言葉を受けた次の瞬間、彼女は木箱を素手で叩き割り、唖然とするジョンにこう告げたのです。

「開いたじゃないの。では、物資を使わせていただきますからね」と。

都市伝説・武勇伝2「ナイチンゲール、初めての医療行為」

ナイチンゲールが看護師という職業を志したのは、実はそれほど若い時ではなく、20代の後半から30代前半程度だったと言われています。しかし、彼女が後に看護師として多くの人を救うことになる片鱗は、やはり幼い頃から備わっていたようです。

幼いナイチンゲールは、散歩中にあるものを見つけました。それは足が折れ、苦しそうに呻く子犬。道を行く大人たちの誰もが見て見ぬふりを決め込む中、幼いナイチンゲールただ一人だけが子犬に歩み寄り、そしてたまたま近くを通りすがった牧師に「あんた、手伝いなさい」と声高に命令しました。

子犬を助けたナイチンゲール

牧師を従えた幼いナイチンゲールは、テキパキと子犬のケガの手当てをし、折れた足には添え木をしてやり、その犬がきちんと歩けていることを確認してから、ようやく牧師を解放してやったと伝わっています。

幼いながらも的確な判断力や治療のウデ、誰もが見て見ぬふりをした犬に手を差し伸べる優しさ、物怖じせずに誰かに物を言う胆力など、後の「クリミアの天使」であり「小陸軍省」でもある、フローレンス・ナイチンゲールの片鱗が詰まったエピソードであると言えそうです。

フローレンス・ナイチンゲールの早見年表

1820年
両親の新婚旅行中、フィレンツェで生まれる
フローレンス・ナイチンゲールは、イギリスの裕福な地主の家系の次女として生まれました。幼い頃から英才教育を施された彼女は、恋愛小説や絵画よりも、数学書や医学書を好むような、少々変わった子供であったようです。
1837年
神のお告げを聞く
ナイチンゲールはこの年までに社交界デビューを果たし、社交界の花として多くの男性から求婚を受けたようです。しかし彼女は”花”としての扱いを好んでおらず、17歳の時に「神のお告げを聞いた」と言い出して、貧民救済のための仕事という道を志すようになります。
1847年
エリザベス・ハーバートとの交流が始まる
友人に誘われて行ったローマ旅行で、保養所を営むハーバート夫妻と知り合うことになります。彼らとの交流は長く続き、特に妻のエリザベスは、ナイチンゲールが看護師として働く病院を斡旋するなど、彼女のことを気にかけていたようです。
1851年
カイゼルスベルト学園で看護教育を受ける
姉の看病を名目にドイツに渡ったナイチンゲールは、カイゼルスベルト学園で看護教育を受け、ここで自分の道を看護師と定めました。
1853年
ロンドンの病院に就職
カイゼルスベルト学園を出て帰国したナイチンゲールは、前述のエリザベスの紹介でロンドンの病院に就職。ただし無給だったため、生活費は理解者である父が出し、就職に反対する母と姉とは不仲になってしまったようです。
1854年
クリミア戦争に従軍し、衛生改革に努める
戦時大臣から勅命を受け、ナイチンゲールは38名の看護師たちを率いてクリミア戦争に従軍。そこで地獄のような負傷兵たちの惨状を見た彼女は、ヴィクトリア女王すら巻き込んで野戦病院の衛生改革を断行します。これにより戦地での負傷兵死亡率は激減。彼女は「クリミアの天使」の通称で、国民的英雄となりました。
1856年
国内の病院における看護・衛生改革に乗り出す
クリミア戦争が終結し、帰国したナイチンゲールは即座にイギリス国内における看護・衛生改革に着手。多くの統計資料を様々な委員会に提出し、自身の改革の必要性を訴えました。この時に生み出されたのが、現在の我々も使っている「レーダーチャート」というグラフです。
1857年
過労によって倒れる
昼夜を問わない患者への献身を行ってきたナイチンゲールでしたが、彼女の体はここで限界を迎えます。この年に過労によって倒れて以降、彼女は断続的に床に臥すようになり、次第に看護の現場で働くことが困難になっていったようです。この事件以降、彼女の活動は本の執筆や、手紙による交渉や指示に移っていきます。
1860年
ナイチンゲール看護学校が設立
「ナイチンゲール基金」によって集められた収益が目標額に達し、看護教育を行う専門機関である、ナイチンゲール看護学校が設立されました。この設立を皮切りに、イギリス国内では看護学校が急増。ナイチンゲールの改革が、目に見える形で実を結んだ年だと言えるでしょう。
1871年
ナイチンゲール病棟が効果を上げる
予てよりナイチンゲールが提唱していた「ナイチンゲール病棟」という病棟建築方式が、聖トーマス病院で採用。大きな効果を上げたその建築方式は、後に全世界的に広まっていくことになります。
1901年
完全に失明
30代後半で床に伏せることとなり、その後も精力的に文筆や手紙で活動してきたナイチンゲールでしたが、この年には完全に光を失ってしまいました。これによりナイチンゲールは表舞台から身を引くことになりましたが、彼女を慕う教え子や弟子たちは、ひっきりなしに彼女の自宅を訪れていたそうです。
1907年
女性として初めて「メリット勲章」の叙勲を受ける
クリミア戦争時代の兵士たちへの献身や、その後の医療看護、衛生分野への改革の功績を讃えられ、イギリス政府から「メリット勲章」の叙勲を受けることになります。メリット勲章は、叙勲者の死去を除いては、24名しか叙勲を受けられない名誉ある勲章であり、ナイチンゲールは女性として初めて、その叙勲を受けた人物となりました。
1910年
自宅にて静かに息を引き取る
この年の8月13日に、ナイチンゲールはバーンレーンの自宅で、静かに息を引き取りました。享年は90歳。イギリス政府は国葬を行うことを打診しましたが、ナイチンゲールが有名人扱いを嫌がっていたこともあり、遺族がそれを断っています。そのこともあってか、ナイチンゲールの墓には、彼女の本名ではなくイニシャルだけが刻まれています。

フローレンス・ナイチンゲールの具体年表

1820年 – 0歳「フィレンツェにて誕生」

「クリミアの天使」の誕生

1820年5月12日、2年にわたる新婚旅行中だったナイチンゲール夫妻の下に、第2子が誕生しました。生まれたその女の子は、生地となったトスカーナ大公国の都市・フィレンツェを英語読みし「フローレンス」と名付けられることとなります。

幼い頃のフローレンスは頭の良い子供でしたが、その反面病弱でもあり、何度か生死の境をさまようような経験をしたこともあったようです。

幼少のナイチンゲール

かつてナイチンゲール一家が暮らしたエンブリー・パーク

ナイチンゲール家は、貴族でこそありませんでしたが、多くの使用人を抱える地主であるジェントリという家系であり、フローレンスもその財力によって、何の不自由もなく育てられることになりました。

彼女と1歳年上の姉には、幼い頃から英才教育が施され、フローレンスは幼いながらに英語・フランス語・ギリシャ語・イタリア語などを話すだけでなく、哲学や歴史の基礎であるラテン語、ギリシア哲学や数学などの当時の富裕層にとっての一般教養から、天文学、経済学、歴史などの高度な知識、さらに美術、音楽、絵画、詩や小説などの文学などの芸術分野に至るまで、高い能力を発揮していたそうです。

数学に高い関心を持っていた

それらの学問分野の中でも、フローレンスはとりわけ数学に興味を抱いていたらしく、姉にプレゼントされたライラックを見て「ライラックの法則」について語り出し、姉と両親を唖然とさせたというエピソードも残されています。確かに子供らしくないエピソードですが、後に統計学の先駆者となる人物だと考えると、その片鱗を感じるエピソードでもあるでしょう。

フローレンスは当初、興味を抱いていた数学の道に進みたいと考え、反対する両親とたびたび衝突をしていたそうです。しかし彼女の進むべき道は、ある活動と関わったことで強烈に定められることとなります。

慈善活動との関わり

飢える者も多かった当時のイギリス社会

フローレンスの運命は、父親に連れられて行った慈善活動によって変化することとなりました。

当時のイギリスは飢饉が起こっており、ナイチンゲール家のような富裕層や貴族層はともかく、その下で暮らす農民たちは、少ない物資をどうにかやりくりして生活するしかない状況でした。しかし、それだけではとても家系は賄いきれず、農民たちは飢えや貧しさによって、ばたばたと死んでいったと記録されています。

そんな農民たちの生活風景は、幼いフローレンスの脳に鮮烈に焼き付いたのでしょう。彼女はこの訪問以後、「弱い立場の人々を救済し、人々に奉仕する仕事に就く」という方向に、自分の生きる道を定めています。

1837年 – 17歳「「神のお告げ」を聞く」

「神のお告げ」により、貧民救済の道へ

神に導かれ看護の道へ

この年までに、フローレンスは社交界にデビューし、社交界の花として多くの男性に言い寄られることとなります。それは彼女の父親であるウィリアムの狙い通りでもあり、彼はフローレンスに「普通の貴族の男性と結婚し、普通に幸せな暮らしを送ってほしい」と考えていました。

しかしフローレンスは、父のそんな思いとは裏腹に、社交界の花扱いを好んではいなかったようです。17歳のある日、「神からのお告げを聞いた」と言い出したフローレンスは、突如として社交界への参加をボイコット。一説では、婚約者との婚約破棄まで行ったと言われています。

彼女がどのような「お告げ」を聞いたのかは彼女本人にしかわかりませんが、このあたりからフローレンスは決定的に「弱い立場の人々を救済し、人々に奉仕する仕事に就く」という方向に、自分の道を定めたようです。

1847年 – 27歳「ローマ旅行にて「リズ」と知り合う」

ローマ旅行にて、運命が開かれる

自分の道を貧民救済の方向に定めたナイチンゲールでしたが、その後の10年ほどの間は、細かい道行が決まらなかったことや、決意に反対する母と姉との不仲もあり、悶々とした日々を送っていたようです。

そんな彼女の運命は、友人である旅行家・ブレスブリッジ夫妻と共にローマ旅行に行ったことで、大きく開かれることとなります。

シドニー・ハーバートの肖像

ナイチンゲールは旅行中、ローマで保養所を営むシドニー・ハーバートと、エリザベス・ハーバートと知り合うことになりました。彼らはナイチンゲールの語る夢を応援し、特にエリザベスは何かとナイチンゲールの世話を焼いてくれたことが記録されています。

1851年 – 31歳「姉の看病を名目にドイツに渡る」

ドイツに渡る

ドイツに渡る

ローマ旅行でのエリザベスとの出会いを経たナイチンゲールは、この年にドイツに渡ります。ドイツに渡るための口実には「精神を病んだ姉の看護」という理由を使ったようです。ナイチンゲールの姉が本当に精神を病んでいたのかはわかりませんが、もしかすると自分の進むべき道に反対し続けた姉に対する、少しばかりの意趣返しの気持ちがあったのかもしれません。

カイゼルスヴェルト学園

ドイツに渡ったナイチンゲールは、カイゼルスヴェルト病院に併設された医療従事者の養成機関(通称:カイゼルスヴェルト学園)に入り、そこで看護の経験を積むことになります。この時点になると、ナイチンゲールは明確に「貧しい人たちを救う仕事に就く=看護師になる」と、自分の道を定めていたようです。

1853年 – 33歳「ロンドンの病院に就職」

ロンドン・ハーリー街にて看護師となる

カイゼルヴェルと学園で看護の経験を積んだナイチンゲールは、イギリスに帰国したのちに、ロンドン・ハーリー街の病弱貴婦人のための療養施設に就職します。この就職には前述のエリザベス・ハーバートの斡旋があったとされており、ナイチンゲールという女性にとって、どれだけエリザベスがよき理解者だったかが窺えます。

ただし、後述の通り当時の看護師の待遇は最底辺レベルに悪く、ナイチンゲールも無給で働くことになっていたようです。現在では考えられないほどのブラックさですが、その理由については後のトピックで解説させていただきます。

看護師は劣悪な環境で働いていた

当然ながら「一般的な感性」を持つ母と姉は、ナイチンゲールが看護師となることに大反対。しかしナイチンゲールは真っ向からその反対を受けても決して引き下がらず、彼女たちの不仲は決定的なものとなってしまいました。後に「小陸軍省」とまで呼ばれる彼女の強さが現れたエピソードではないでしょうか。

しかし父であるウィリアムは、ナイチンゲールの進む道に難色はありつつも理解を示していたらしく、当時のナイチンゲールの生活費を全額賄うなど、金銭面で彼女のサポートをしてくれていたようです。

当時の「看護師」とは

ナイチンゲールが活躍した19世紀初頭から中盤において、「看護師」とは「卑しい職業の代名詞」という扱いを受けていました。

現在でこそ「白衣の天使」とも称され、豊富な専門知識や的確な治療のサポートによって、多くの人々を救う「働く女性の代表格」のような扱いを受ける「看護師」という職業。ですが、当時は現在の価値観とはほとんど真逆の扱いを受けていたのです。

当時の看護師は、未亡人やクビになったメイドが最終的に回される卑しい職業として扱われており、その実態も現在で言う看護を生業とする仕事というよりも、どちらかと言えば売春婦などに近い状況だったと言われています。当然ながら看護に対する専門知識もなく、彼女たちの仕事は文字通りに、性行為を通じて患者の苦痛を和らげることだったとも言われています。

患者の世話をするナイチンゲール

そもそも当時の「病院」も、現在のような医療機関としての機能をまるで果たしておらず、病院は貧しい病人が、苦しみながら最期を過ごす場所として忌み嫌われる場所だったのです。

そのような扱いの職業と職場である以上、看護師は裕福な階級の女性が就く仕事では絶対になく、それ故にナイチンゲールの母と姉は、彼女の選択に大反対をしていたようです。

ナイチンゲールが残した業績だけを見ると、母と姉の反対に首を傾げたくなるかもしれません。しかし当時の看護の現場を知ると、むしろ母と姉は真っ当な感覚と家族愛を持っていたと言えそうです。

1854年 – 34歳「クリミア戦争に従軍」

クリミア戦争が勃発

クリミア戦争

この年、フランス・イギリスとロシアの間にクリミア戦争が勃発。看護の現場を取り巻く現状に、強い危機感と焦燥を感じていたナイチンゲールには、この戦争が転機となりました。

転機の始まりは、クリミア戦争に同行した『ロンドン・タイムス』の記者・ウィリアム・ハワード・ラッセルによる記事。彼の書いた記事によって、クリミア戦争の最前線における負傷兵がどれだけ悲惨な扱いを受けているのかが、イギリス国民全体に向けて知らされることとなったのです。

世論は沸騰し、事態を重く見た戦時大臣のシドニー・ハーバート――つまり、エリザベス・ハーバートの夫は、ナイチンゲールにクリミア戦争への従軍を依頼。ナイチンゲールもクリミアの現状を知って、どうにかクリミアに渡れないかを考えていたらしく、即座にこれを承諾しました。

依頼を受けたナイチンゲールは、すぐさま準備と38名からなる看護師団を整え、クリミアへと出発。目的地は、最前線から負傷兵が搬送されてくるスクタリの野戦病院でした。

そしてスクタリに到着したナイチンゲールは、まさに「地獄」と形容すべき光景を目の当たりにすることとなります。

クリミアの「地獄」

スクタリの野戦病院には、まさに地獄と言うべき惨状が広がっていました。

野戦病院は、外観こそ立派な洋館でしたが、その立地がまず問題。何の覆いもない下水の上に直接建てられたその洋館には汚水の悪習が立ち込め、換気窓もほとんど意味をなさない状態。患者は押し込められるように病室の腐りかけのベッドに寝かされ、清潔なシーツどころか、包帯や食料すら満足に行き届いていない状況だったと言います。

クリミア戦争

負傷者を救護する設備にあるまじき惨状に、当然ながらナイチンゲールは憤りましたが、軍医長官たちはどこ吹く風。当時のイギリス軍は官僚主義や事なかれ主義が横行しており、複雑な書類上の審査が滞っている事を理由に、包帯や食料などの必須である物資すら満足に行き届かず、救えたはずの負傷兵はバタバタと命を落としていく状況でした。そしてその惨状すら、軍医長官は本国に「問題なし」と報告していたのです。

現状に憤ったナイチンゲールは、軍医長官に直談判を行いますが失敗。しかも軍医長官は「女性であること」を理由にナイチンゲールを冷遇し、折角本国から派遣された彼女たち看護師団に、何の仕事も与えませんでした。この状況には看護師団の中からも不満の声が上がり、実際に本国へ帰ってしまった者もいたそうです。

しかしナイチンゲールは諦めませんでした。彼女は負傷兵たちを「救えない」現状に心を痛めながら辛抱強く機を待ち、”ある行動”からクリミアの惨状を改革していくことになるのです。

衛生改革に乗り出す

ナイチンゲールの衛生改革

現場のトップから冷遇され、仕事を与えられなかったナイチンゲールたちは、現場の誰も管轄していない”ある仕事”に目を付けました。

その仕事とは”トイレ掃除”。それまで誰もやりたがらなかったトイレ掃除を引き受けたナイチンゲールは、それを皮切りに徐々に病院の内部清掃に範囲を広げ、それが認められたとみると、次は負傷者の介助に……と、徐々に看護師団の仕事の範囲を広げ、病院の内部に切り込んでいきました。

この活動は従軍記者によってイギリス本国にも知られることとなり、本国の世論は軍部ではなくナイチンゲールたち看護師団の指示が優勢に。その世論を知ったヴィクトリア女王もナイチンゲールの行動への支持を表明し、ナイチンゲールの報告書を、行政組織を通さずに直接自身に渡すよう布告を出します。

この布告により、頑なだった軍医長官も折れざるをえず、遂にナイチンゲールは、スクタリの野戦病院の看護師長として公式に看護業務に当たることが認められたのです。彼女がスクタリに派遣されてから、およそ半年ほどが経った頃でした。

しかし彼女の行う改革は、これからが本番だったのです。

衛生改革により兵士たちの「天使」となる

こうして看護師長に就任したナイチンゲールでしたが、昼夜を徹した看護も空しく、彼女が看護師長になってすぐの負傷兵の死亡率は、42パーセントにまで上昇してしまったと記録されています。そのような惨状は、ナイチンゲールの心と体を徐々に蝕んでいったようです。

しかし、不調を抱えつつもナイチンゲールは諦めませんでした。彼女は次々と倒れていく患者たちを見続けながら、彼らが「戦場のケガで死んでいるのではない」事に気づいたのです。負傷兵の多くは怪我が元となって死ぬのではなく、病院の衛生環境による感染症の蔓延によって死んでいるのだと、彼女は確信をえました。

衛生を保つためのペンキのアイディア

確信したナイチンゲールは、すぐさま改革に乗り出します。徹底的なノミ、シラミ、ネズミの駆除を皮切りに、病院の悪臭を改善させることで換気窓の使用を可能にする、壁を白いペンキで塗ることで汚れを分かりやすくし、衛生的な環境を保てるようにするなど、現在の病院の基礎に通じる様々な改革を行いました。

さらに、看護師たちに制服を着用することを命じ、病院の周囲にいた売春婦との区別を付けさせたほか、それによって仕事を失った売春婦たちにも職の斡旋を行うなどして援助。この頃にはナイチンゲールを慕って、イギリス本国からスクタリまで出向いてくる者も多く、彼女はその中から腕利きのコックを雇用し、冷たかった病院食を温かく美味しいものに一変させています。

これらの改革によって、負傷兵死亡率は激減。ナイチンゲールの就任当初である2月の時点で42パーセントだった死亡率は、4月には15パーセント、5月には4パーセントにまで激減したと記録に残されています。

その改革により助けられた兵士たちは、彼女のことを「天使」と称して母のように慕ったらしく、ナイチンゲールが病室を訪れただけで部屋の空気が明らかに和らいだ、悪夢にうなされていた兵士が、ナイチンゲールの持つランプの光が近付いてきただけで、穏やかな寝息を立て始めたという話も残されています。

1856年 – 36歳「終戦と帰国」

クリミア戦争が終結し、帰国

パリ平和条約(1856)

3月30日、パリで平和条約が締結されたことにより、4月29日をもってクリミア戦争が終戦を迎えました。しかしナイチンゲールは終戦後もすぐに帰国することはなく、スクタリの野戦病院で負傷兵の看護を続け、7月16日に最後の患者の退院を見届け、病院が閉鎖されるまでスクタリに残っていたようです。

ナイチンゲールは終戦の時点で、「多くの兵士を救った”クリミアの天使”」として奉り上げられる存在でした。けれど彼女自身は、「天使」と称される扱いを好んではいなかったようで、最後の患者の隊員を見届けてすぐの8月6日に、スミスという偽名を使ってイギリスに帰国しています。

実際、ナイチンゲールの心には「救えた」という満足感よりも「多くの人を救えなかった」という後悔の方が強く残っていたようです。その後悔を晴らすためか、帰国後の11月、彼女はクリミアの地獄を共にした看護師団を再集結。クリミアでの負傷兵の死因分析や、衛生環境改善の必要性、従軍看護師の必要性を報告書に纏め、ヴィクトリア女王や、多くの委員会に提出することを開始しました。

戦争が終わっても看護への情熱は冷めなかった

中でもヴィクトリア女王に提出された報告書は、900ページにも及ぶ大長編であったようですが、医療従事者ではない女王にも理解できるよう、図やグラフによる視覚的な効果も盛り込まれている、大変分かりやすいものだったようです。

この報告書に使われたグラフの形式は「レーダーチャート」と呼ばれ、現在も様々な場面で活用されています。ナイチンゲールの統計学者としての功績は、この報告書に集約されているとも言え、イギリス政府は統計学の先駆者として、ナイチンゲールの名を挙げています。

「小陸軍省」

クリミアからの帰還後も、ナイチンゲールの仕事ぶりは衰えを見せることなく、彼女は戦場にいた頃と同様に、昼夜を問わず患者への献身を続けていました。

彼女は看護師としての業務や、報告書の執筆と並行し、様々な政府機関や有力者たちとの交渉を展開。その交渉相手の殆どが、ナイチンゲールよりも身分が上の貴族たちでしたが、彼女はそんな彼らを恐れることなく、果敢かつ直截にものを言い、交渉を有利に進めていったそうです。

彼女との交渉に臨んだ者たちは、ナイチンゲールの真っすぐな強さを敬い、またそれ以上にひどく恐れていたことが伝わっています。特にナイチンゲールとたびたび衝突することになった陸軍は、彼女のことを非常に恐れていたらしく、彼女の住居兼事務所であった建物のことを「小陸軍省」と呼んでいたことも記録されています。

1857年 – 37歳「過労により倒れる」

献身の反動

クリミアで野戦病院の衛生改革を皮切りに、負傷兵に対する昼夜を問わない看護、帰国後の報告書の執筆や、医療看護に対する改革派勢力の広告塔としての業務など、その多忙さはナイチンゲールを確実に蝕んでいました。

忘れがちですが、彼女は幼い頃は病弱な少女であり、その体は決して強いほうではありませんでした。そこにクリミアで抱えた多くの後悔も重なり、彼女の体と精神は、この時点で既に限界を超えていたのです。そしてそのツケが、この年に彼女を襲うことになります。

長い間ベッドの上で過ごすことになる

過労によって倒れた彼女は一応の回復はみせますが、やはり一度落ちた体力は戻ることなく、以降は断続的に床に伏せることが増え、看護の前線からは退くことになってしまいます。それでも彼女はパンフレットや意見書の執筆を精力的に行い、ベッドの上からも看護の改革に尽力を続けました。

以降の50年ほどの間、ベッドの上でナイチンゲールが著した出版物は150編以上に上り、手紙のような個人に当てた文書は、12000通以上に上ると目されています。その中でも主要な文書は『ナイチンゲール文書』と呼ばれ、現在も様々な国で出版、翻訳が成されています。

1860年 – 40歳「ナイチンゲール看護学校が設立」

ナイチンゲール看護学校

看護学校を設立

この年、戦時中に設立された「ナイチンゲール基金」への寄付が、目標額である45000ポンドに到達。当初の予定通り、ナイチンゲール看護学校という看護師養成学校を設立しました。学校は聖トーマス病院に併設され、校長は病院の看護師長であるウォードローバーが務めましたが、ナイチンゲール自身も運営に携わり、生徒たちを監督していたようです。

ナイチンゲールがこの学校を設立した目的に、「”看護師”という職業に対する偏見の除去」があったため、ナイチンゲールの指導はとても厳しかったことが伝わっています。入学希望者は能力と道徳の両面から厳しく審査され、入学してからは恋愛は一切禁止かつ、それを破れば即座に退学。外出は制服着用の上で、必ず二人一組で行う。さらに生徒たちは日記の提出も義務付けられ、ナイチンゲール自身による誤字や文法の訂正なども行われていたと言われています。

ナイチンゲールと看護婦達

しかし、そんな厳しい指導を受けた生徒たちは、卒業するや否や各地の病院から引っ張りだこに。ナイチンゲールの育てた看護師たちは各地の病院に散らばり、各々で優れた指導能力を発揮することで、イギリスの医療体制の改善と発展に大きく貢献したことが伝わっています。

その後イギリスでは、多くの看護師養成学校が開校されることになり、ナイチンゲールの悲願であった看護師に対する偏見は、ほとんど完全に除かれることとなりました。彼女の夢が結実したのは、あるいはこの時だったのかもしれません。

1871年 – 51歳「「ナイチンゲール病棟」の成立」

「ナイチンゲール病棟」

床に臥すことが増えたナイチンゲールが、執筆によって医療改革に尽力していたのは前述の通りです。

彼女の著作として最も有名なものに、1860年に記された『看護覚え書』というものがあります。現在も看護師教育の現場で用いられるようなテキストなのですが、その中に示された「ナイチンゲール病棟」と呼ばれる病棟の建築方式が、この年にようやく聖トーマス病院で実際に用いられることとなりました。

ナイチンゲール病棟の例

その病棟は当時としては画期的かつ、現在でも病室の基本形として用いられるものであり、理論や計算に基づいた理想形が、図面として事細かに記されているものでした。以下がその大まかな特徴となります。

病室は間仕切りなしのワンルーム。
患者のベッド1つにつき、1つの窓がセットされる。
ベッドは病室の左右にそれぞれに15ずつ並んでいる。
窓は高い天井まで延びた3層の窓。
一番高い3層目の窓を常時開放しておくことで、病室の換気を行う。

この設計は聖トーマス病院で高い効果を上げ、次第に全世界的に広まっていくこととなりました。ナイチンゲールの多才さと先見性は、医療建築の分野においても発揮されていたと言えそうです。

1901年 – 81歳「失明し、表舞台から退く」

失明

晩年には視力を失ってしまう

著述家として多くの論文や意見書を残し、ベッドの上からも精力的に活動を続けてきたナイチンゲールでしたが、この年にはいよいよ完全に失明。これによって執筆作業も困難になり、彼女は表舞台から姿を消すこととなります。

晩年の彼女は猫を数匹飼っていたとも言われており、彼女はその猫たちをたいそう可愛がり、一説では彼女の最期を看取ったのはその飼い猫たちだったとも言われています。強い女性のイメージを持たれがちだった彼女が、本来はそれ以上に優しい女性だという事がわかるエピソードでしょう。

また、彼女の自宅には訪問者が絶えなかったことも伝わっており、晩年の彼女の周りは、彼女に教えを請いに来る若者や、昔話をしに来るかつての弟子たちなど、多くの人で賑わっていたようです。

1907年 – 87歳「メリット勲章の叙勲を受ける」

メリット勲章

メリット勲章

この年、ナイチンゲールはクリミア戦争での功績や、その後の看護改革の功績を讃えられ、メリット勲章の叙勲を受けることになりました。

メリット勲章は、イギリス王より授けられる勲章の一つであり、純粋な功績のみで評価された24名だけが受勲することができる、大変名誉ある勲章です。しかもナイチンゲールが受勲するまで、女性でメリット勲章を受けた人物はおらず、ナイチンゲールは女性として初めてメリット勲章を受ける人物となったのです。

メリット勲章は現在もイギリスに現存しており、イギリス国内のみならず、外国の人物に対しても叙勲が行われています。最近の有名な人物で言えば、ネルソン・マンデラ大統領や、日本人で言えば山形有朋や東郷平八郎が叙勲を受けています。

1910年 – 90歳「「クリミアの天使」安らかに逝く」

安らかに天国へ

晩年のナイチンゲール

大きすぎる優しさと、偉大すぎる胆力をもって、当時の医療や看護に対する価値観をひっくり返してしまったナイチンゲールは、この年の8月13日に、バーンレーンの自宅で静かに息を引き取りました。彼女の死を看取ったのは、一説によると飼っていた猫たちだったと伝わっています。

その死はイギリス国内でもニュースとして扱われ、イギリス政府はナイチンゲールの国葬を打診しましたが、親族はこれを拒否し、ナイチンゲールは親族だけに見守られて、静かにこの世を去っていったのです。

遺族が国葬を断ったのは、他でも無いナイチンゲール本人が有名人扱いを嫌がっていたからだと言われており、実際に彼女の墓にも、「Florence Nightingale」という実名ではなく「F.N」というイニシャルと生没年だけが刻まれています。

ナイチンゲールの死因

ナイチンゲールの死因については、彼女が長くとこに臥せっていたこともあり、様々な説が混在している状態でした。

しかしブリティッシュ・メディカル・ジャーナルに掲載された『 Florence Nightingale’s fever』という論文によると、彼女の死因はブルセラ病の慢性症状であると結論付けられています。

フローレンス・ナイチンゲールの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

新版 ナイチンゲール看護論・入門 -『看護覚え書』を現代の視点で読む

現代でも看護教育で使われる、ナイチンゲールの『看護覚え書』を、現代的に分かりやすく編集した1冊です。

ナイチンゲールという人物については勿論ですが、彼女が当時考案していた様々な看護や衛生体制が描かれ、彼女の思慮の深さに感動を覚えることは間違いありません。

看護の現場に携わる方だけでなく、病院を利用する全ての方に読んでほしい1冊となっています。

統計学者としてのナイチンゲール

医療分野の功績ではなく、ナイチンゲールの統計学者としての功績に焦点を当てた1冊です。ナイチンゲールという女性の、苛烈で真っすぐな部分がクローズアップされているため、人物としての彼女を知るにも良い本だと言えるでしょう。

ナイチンゲールをよく知れるおすすめ本8選【漫画や伝記、小説まで】

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(Rare!) Voice of Florence Nightingale (1890)

なんと、70歳当時のナイチンゲール本人の肉声です。当時の録音技術や劣化から、音質はとても悪いですが、それでも歴史上に名を残す偉人の肉声であり、貴重な資料なことは間違いありません。

以下が発言の全文と、日本語訳となります。

‘When I am no longer even a memory, just a name, I hope my voice may perpetuate the great work of my life. God bless my dear old comrades at Balaclava, and bring them safe to shore. Florence Nightingale.

私が人々の記憶から消え、ただ名前だけが残った時、私の声が私の人生での偉大なる功績を永遠のものにしてくれるのことを望みます。バラクラバの同士達に幸あれ。そして彼らが無事家に帰れますように。

関連外部リンク

フローレンス・ナイチンゲールについてのまとめ

いかがでしたでしょうか?「クリミアの天使」と呼ばれたナイチンゲールについて、少しでも伝えることができていれば幸いです。

序文に少し書かせていただいた通り、筆者は元々病弱(現在もですが)であり、幼い頃には入院して、病院備え付けの本を読む生活を送ることがありました。その中でナイチンゲールという人物を知り「ナイチンゲールのやったことを探す」と言って病室を抜け出し、両親から怒られた経験もあります。ともかく、そうして興味を持ったことが仕事に繋がるのだから、人生はわからないものです。

とはいえ、現在になって考えてみると、「病弱な子供が、そうやって病院内を歩き回って成長できる」という事自体がナイチンゲールの遺した偉業なのだと思います。ナイチンゲールが生まれていなかったら、筆者は今頃感染症か何かで死んでいたかもしれません。

そのような意味で、今を生きるあらゆる人の命を救ったとも言えるのが、フローレンス・ナイチンゲールという女性になります。皆さまがこれから病院に行く際、ナイチンゲールと、それからこの記事のことを、少しでも思い出してくださると嬉しいです。

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