金子兜太にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「名前は『藤太』?名前取り違え事件」
兜太が生まれた時、日本を離れていた父・元春は「トウタ」と兜太の母の実家に命名の電報を打ちます。それを受け、兜太の叔父は「金子藤太」として役所に届け出てしまいました。
その後、「兜」の字だということが伝わり、名前の訂正手続きが行われました。晴れて「金子兜太」と戸籍に載るまで、約ひと月かかりました。このため、本当の誕生日は8月だったと言われています。
都市伝説・武勇伝2「筋金入りの『反』骨精神の持ち主」
2015年。安全保障関連法案が国会で取り上げられる中、東京を中心に抗議デモが広がりました。その際の旗印となったのが、金子兜太が揮毫した《アベ政治を許さない》というプラカードです。これだけの著名人でありつつ、時の政権に明確に異議を唱えるのは稀有なことです。
日銀時代にも、兜太はその芯の強さを見せています。組合活動に対する上司からの再三の説得にも、その後の地方勤務にもめげずに、55歳の定年まで勤め上げました。自身を窓際族ならぬ「窓奥族」と定義しつつ、その信念を曲げることはありませんでした。
自らの戦争体験に裏打ちされた「反戦」、組合運動を通して実践した「反出世」、俳句における「反伝統」。こうした金子兜太の生き方に共通するのは「自由を志向すること」だと言われています。その根底には、戦地で散っていった仲間への想いがありました。まさしく、筋金入りの『反』骨精神の持ち主と言えるでしょう。
金子兜太の略歴年表
1919年9月23日、金子兜太は埼玉県比企郡小川町にある母の実家で生を受けました。
1937年、兜太は旧制熊谷中学を卒業すると、旧制水戸高等学校に入学します。同年、一学年上級の出澤三太に誘われて句会に参加し、初めて次の俳句を詠みました。
白梅や老子無心の旅に出る
この翌年には、全国学生俳誌「成層圏」に参加。のちの師となる加藤楸邨はじめ竹下しづの女、中村草田男らに出会いました。
1941年、兜太は東京帝国大学経済学部に入学します。その後、加藤楸邨主宰の「寒雷」に参加し、投句するようになりました。
1943年、兜太は大学を繰り上げ卒業し、日本銀行に入行しています。その後、海軍主計中尉として、トラック諸島に赴任しました。
1945年8月15日、日本は敗戦の日を迎えます。兜太は米軍の捕虜となり、翌1946年11月にようやく日本への帰国を果たしました。引き揚げ船でトラック諸島を離れる際に、兜太は次の句を詠んでいます。
水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る
戦友たちの眠る墓碑を置いたまま、日本へ帰る心中はさぞ複雑であったに違いありません。
日本に帰国した兜太は、1947年、もとの職場である日本銀行に復職します。同じ年の春、兜太は眼科医の娘である塩谷みな子と結婚しました。
1948年には、長男・眞土が誕生しています。また、しだいに銀行内の身分格差などのしきたりに憤りを感じた兜太は、日本銀行従業員組合に参加しました。翌1949年には組合の初代専従事務局長となります。
1950年には、組合から退くことを余儀なくされ、さらに命じられて福島支店へ転勤しています。3年後の1953年には神戸支店へ転勤します。
1955年、兜太は第一句集『少年』を著します。
なお、この前年、社会性俳句に関して「社会性は態度の問題」と表現したことが話題となりました。
翌1956年には関西の俳人中心の現代俳句懇話会に参画し、軸足を俳句活動に移していきました。
1958年、兜太は長崎支店へ転勤します。その2年後の1960年、東京本社への転勤が来まります。
兜太は、帰路の船上で有名な《海程百句》を詠みます。これらの句は『俳句』誌上に掲載されました。
1961年、兜太は自身の俳論「造型俳句六章」を『俳句』に連載します。この年、現代俳句協会が分裂し、新たに俳人協会が設立されました。
翌1962年には、同人誌「海程」を創刊しています。
1974年、兜太は55歳にして日本銀行を定年退職します。同じ年、長男の眞土が結婚し以後は息子夫婦と同居しました。また、上武大学の教授となります(1979年に辞職)。
その後も1983年には、現代俳句協会会長、角川俳句賞選考委員に就任しています。
1986年には朝日俳壇選者に加わり、1989年にはあらたに創設された伊藤園「お〜いお茶新俳句大賞」の最終選考者に就きました。
2015年に東京新聞「平和の俳句」選者となる一方、安全保障関連法案への反対に賛同して「アベ政治を許さない」を揮毫しました。
2月6日、誤嚥性肺炎のため熊谷市内の病院に入院した金子兜太は、20日、急性呼吸窮迫症候群により死去しました。兜太は98年の生涯で十四もの句集を著しました。
2月4日に原稿用紙に手書きした次の俳句9句が絶筆となりました。
雪晴れに一切が沈黙す
雪晴れのあそこかしこの友黙る
友窓口にあり春の女性の友ありき
犬も猫も雪に沈めりわれらもまた
さすらいに雪ふる二日入浴す
さすらいに入浴の日あり誰が決めた
さすらいに入浴ありと親しみぬ
河より掛け声さすらいの終わるその日
陽の柔わら歩ききれない遠い家
金子兜太の具体年表
1919年 – 0歳「誕生」
金子兜太、埼玉県に生まれる
金子兜太は1919年9月23日、医師である父・金子元春と母・はるの長男(第一子)として、埼玉県比企郡小川町の母の実家で誕生しています。父は、医療に従事する傍ら、俳人としても活動をしており、高浜虚子や水原秋櫻子とも交流をもちました。地元秩父に伝わる秩父音頭の歌詞を改定したことでも知られています。
じつは8月生まれとも
なお、誕生日は9月23日とされていますが、実は8月生まれであるとも言われています。兜太自身、講演や取材において幾度かその話題にふれたことがありました。これは出生届に記載した名前の漢字に誤りがあり、訂正を要したためと言われています。
1932年 – 13歳「兜太の中高生時代、そして俳句に出会う」
埼玉県立熊谷中学校に入学
1932年、兜太は埼玉県立熊谷中学に入学します。現在の県立熊谷高等学校です。なお、約80年後の2015年には同校に金子兜太の句碑が建立されました。この句碑には、次の俳句が刻まれています。
質実の窓若き日の夏木立
旧制水戸高等学校に入学
1937年、兜太は水戸高校に入学します。一学年上級の出澤三太に誘われ、句会に出席しはじめて俳句を詠みました。以後、竹下しづの女、中村草田男らの「成層圏」、加藤楸邨主宰の「寒雷」などに投句するようになります。
1941年 – 22歳「東京帝国大学経済学部に入学」
太平洋戦争はじまる
兜太が東京帝国大学に入学したこの年の12月、日本はイギリス領マレー半島及びハワイ真珠湾への攻撃を開始し、太平洋戦争の火ぶたが切られます。この戦争は、当時学生であった金子兜太の人生を大きく左右することとなりました。
1943年 – 24歳「東京帝国大学経済学部を卒業、就職と出征」
繰り上げ卒業と出征
1943年9月、半年の繰り上げで東京帝国大学を卒業し、日本銀行に入行します。しかし、3日で退職。その後、海軍主計科の短期現役士官として訓練を受けました。
1944年3月には、主計中尉に任官し、トラック諸島に赴任しています。上司で詩人の西村皎三の計らいもあり、現地で句会を開きました。
1945年8月、28歳の兜太は敗戦を迎えました。米軍の捕虜となります。
1946年 – 29歳「復員と復職、そして結婚」
復員、日銀への再入行
1946年、兜太は復員船「桐」により日本への帰国を果たします。
1947年には、出征前に在籍した日本銀行へ復職しました。しかしその後、銀行内の理不尽な職場環境に反発し、日本銀行従業員組合に参加しています。
同年4月、兜太は埼玉県野上町(現在の長瀞町)の塩谷みな子と結婚します。
組合活動と左遷、俳句への傾斜
翌1947年には長男・眞土が誕生しました。同じ年、兜太は俳誌「風」に参加します。
1949年、兜太は日銀従業員組合の初代専従事務局長となります。翌1950年には、日銀の従業員組合を退かされ、福島支店に転勤を命じられます。さらに3年後の1953年には、神戸支店へ転勤になります。
1954年 – 35歳「社会性俳句を発信、俳人としての活動を活発化」
「社会性は態度の問題」
1954年、兜太は俳誌「風」のアンケートに応え「社会性は態度の問題」と発信。俳壇の耳目を集めました。いわゆる社会性俳句の定義やありように関しては、賛否両論がたたかわされることとなりました。
翌1955年、兜太は第一句集『少年』を著しました。また、1956年には関西の俳人らとともに現代俳句懇話会を設立、参加しています。同年、現代俳句協会賞を受賞しており、このことをきっかけとして、俳句に専念することを決意したと言われています。
1958年には、長崎支店へと転勤になります。福島、神戸についで3度目の転勤でした。
1960年 – 41歳「転勤族からの卒業」
長崎から東京への「海程」
1960年、兜太は日本銀行本店へと転勤となります。10年に及ぶ転勤族からの卒業でした。兜太は長崎からの船中、「海程」という言葉から着想を得て百句を詠み「海程百句」としてまとめます。これらの句は『俳句』誌上に掲載されました。なお、「海程」は後に兜太自身が創刊する俳誌のタイトルにも使われることとなります。
1961年 – 42歳「「造型俳句六章」と現代俳句協会の分裂」
「造型俳句六章」を発表
1961年、兜太は社会性俳句の考え方を発展させ「造型俳句六章」と題した新しい俳論を『俳句』誌上に連載しています。この俳論の特徴の一つは、従来の主体と客体という二項対立ではなく、さらに俳句を詠む主体を考慮している点にあります。
現代俳句協会の分裂
同年、兜太も所属していた現代俳句協会が分裂し、俳人協会があらたに設立されました。以降、大きな俳人組織として現代俳句協会と俳人協会が並存するかたちとなります(1987年に、伝統俳句協会が設立され、現在は3つの大きな組織が存在しています)。
さらに、第二句集『金子兜太句集』を著わします。また、俳誌『海程』を創刊しました。
1967年 – 48歳「熊谷に居を定める」
終の住処、熊谷
1967年、兜太は勤務先である日本銀行の社宅をはなれ、熊谷の地に定住します。以降、兜太にとって自宅とは熊谷を指すことになりました。
翌1968年、第三句集『蜿蜿』を著しています。