金子兜太とはどんな人?俳句に生きた人生を代表作と共に紹介

1972年 – 53歳「句集(第四〜第六)を相次ぎ著す」

1972年、兜太は第四句集『暗緑地誌』を著します。

1974年には、長男の眞土が結婚し、兜太は長男夫婦との同居生活を開始します。また、55歳のこの年、兜太は日本銀行を定年退職しました。その後、兜太は上武大学(群馬県)の教授となります。

また、この年、兜太は第五句集『早春展墓』、『種田山頭火』を著します。

1975年には、第六句集『狡童』を著しました。

1977年 – 58歳’ title=’『海程』15周年と父の死」

1977年、兜太の創刊した俳誌『海程』は15周年を迎え、これを記念すべく俳句大会が催されました。また、第七句集『旅次抄録』を著しました。

父・金子元春(伊昔紅)逝く

同じ年、父の金子元春(伊昔紅)が死去します。享年88歳でした。息子である兜太の陰にいるようで目立ちませんが、俳誌「若鮎」「雁坂」の創刊や「馬酔木」同人など俳人として活躍しています。

また、本業である医業においても、地域医療への取り組みや結核病院の設立に尽力しています。道場懐士館を設立して柔道剣道を普及したり、漢学塾である両忘会の設立など、文武両面で地域の発展を下支えしました。

伊昔紅の俳句として、次のような句が遺されています。

麦蒔の牛も家族として憩ふ

兜太は俳人・小林一茶の「荒凡夫」を理想としましたが、その原型は父の伊昔紅にあったようにも感じられます。

兜太の父・伊昔紅の像と秩父音頭の石碑がならぶ

カルチャーセンター講師に就任

翌1978年、兜太は東京都新宿の朝日カルチャーセンター俳句講座講師に就任しています。

次いで1979年、兜太は上武大学の教授職を辞職しています。

1981年 – 62歳「句集(第八〜第九)を著す、俳句界の要職にも就任」

1981年、兜太は第八句集『遊牧集』を著します。翌1982年には第九句集『猪羊集』を著しています。また、この年は俳誌『海程』20周年の記念すべき年でした。

要職への就任相次ぐ

1983年、兜太は現代俳句協会会長、角川俳句賞選考委員といった俳句界における要職に、それぞれ就任しています。

1985年 – 66歳「句集(第十、第十一)を著すなど精力的に取り組む」

『海程』主宰に

1985年、兜太は『海程』主宰となります(それまでは同人代表という立場でした)。また、福島県文学賞選考委員にも就任しました。

同年、第十句集『詩経国風』を著しています。

朝日俳壇と「お〜いお茶」新俳句

翌1986年、兜太は朝日新聞の俳句欄「朝日俳壇」の選者に加わりました。同年、第十一句集『皆之』を著しています。

なお、3年後の1989年には創設された「お〜いお茶新俳句大賞の最終選考委員に就任します。

朝日俳壇も「お〜いお茶」新俳句も、ともに俳人ではない一般人が多く俳句を詠む場であることから、俳句をさらに広めようという姿勢が伺えます。

1995年 – 76歳「句集(第十二、第十三)を著す」

1995年、兜太は第十二句集『両神』を著します。また、2001年には第十三句集『東国抄』を著しました。

2004年 – 85歳「母と妻、相次ぎ世を去る」

母と妻の死

2004年、兜太の母・はるが世を去ります。

その2年後の2006年には、兜太の妻・皆子が世を去ります。皆子は、同じく俳人であり1988年に第一句集『むしかりの花』、1997年に第二句集『黒猫』を著しました。

2007年 – 88歳「体調を崩しつつも句集を著す」

顔面神経麻痺と胆管がん

2007年、兜太は顔面神経麻痺を患います。同年、妻の残した句を集め遺句集『下弦の月』を著しました。

翌々年の2009年、兜太は第十四句集『日常』を著します。

2011年には、兜太は胆管に見つかったがんを切除するため手術を受けました。

2012年 – 93歳「『海程』50周年、最晩年の兜太」

俳誌『海程』50周年

2012年、兜太の創刊した俳誌『海程』50周年の記念大会が催されました。嵐山光三郎(作家)、浅井慎平(写真家)、小沢昭一(俳優)、西澤稔(放送作家)など沢山の来賓が駆けつけました。特に西澤稔はトラック島で開いた句会の仲間でもあります。

平和の俳句

2015年、兜太は東京新聞の戦後70周年企画「平和の俳句」選者になります。1年間で57000句もの俳句が寄せられ、平和への関心の高さが示されました。当初1年の企画として開始されたものの、反響の大きさもあり2017年12月まで延長されたほどでした。

アベ政治を許さない

同じ2015年、安全保障関連法案への反対運動が広がりをみせると、兜太は「アベ政治を許さない」を揮毫します。兜太の言葉はプラカードなどに印字され、東京・永田町の国会議事堂前を中心に全国各地で反対運動の旗印となりました。

2018年 – 98歳「金子兜太、永眠」

絶筆9句を記す

2018年2月、兜太は絶筆となる9句を原稿用紙に認めました。定型も自由律も自在に詠まれ、最晩年の句作の境地が伺えます。中でも出色なのが最後の一句です。

金子兜太が最後に残した俳句

陽の柔わら歩ききれない遠い家

冬の、弱いながらも暖かい陽射しに、歩いても歩いても遠い家──。この家には、むろん様々な解釈が成り立ちますが、一つには産土(うぶすな)である皆野を指すと考えられます。透明感のあるやわらかい俳句です。

入院、最期

2月6日、誤嚥性肺炎のため熊谷市内の病院へ入院します。20日、急性呼吸窮迫症候群により死去しました。

金子兜太の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

『美しい日本の季語―365日で味わう』

私が始めて手に取った俳句の本です。一日ひとつの季語が紹介されています。とても分かりやすく、かつ読みやすいです。俳句のことをこれから学ぶ人でも、容易に手に取れるように感じます。俳句入門書として最適です。

『あの夏、兵士だった私』

金子兜太が戦争について実体験を語った本です。「反戦」は、兜太の生涯のテーマですから、兜太の俳句を理解するために、この本は大いに頼りになります。読後、兜太への理解は間違いなく深まります。そして「反戦」への理解もまた深まるに違いありません。

金子兜太 私が俳句だ(のこす言葉KOKORO BOOKLET)

金子兜太が死の直前に語った言葉たち。内容は、生い立ちからの半生について語ったものですが、語り口から人柄が感じられる本です。写真も豊富で、まるで「俳人・金子兜太」と直接対峙しているかのような感覚が得られます。

おすすめの動画

94歳の荒凡夫(あらぼんぷ)~俳人・金子兜太(かねことうた)の気骨より

金子兜太の俳句への思いが綴られた動画です。戦争、復員、日銀時代、俳句に専念してゆく時期。その時々に詠んだ俳句たち。90歳を超えてなお「荒凡夫」をめざし、また東日本大震災に係る津波や原発事故に心を痛めながらも、俳句を詠みつづけました。俳人・兜太の志操、矜持を感じる動画です。

現代俳句協会名誉会長・「海程」主宰 金子兜太インタビュー

金子兜太が主宰を務める『海程』50周年を記念したインタビュー動画です。こちらの動画でも俳句における足跡を振り返りつつ、独自の俳句観について兜太自身の言葉で語っています。

おすすめの映画

映画『天地悠々 兜太・俳句の一本道』

金子兜太の原点は、秩父とトラック島です。秩父音頭と戦争体験と、俳句。タイトル通り天地悠々と俳句を詠みついできた兜太は、しかし人一倍自由や平和について悩んでいたはずです。絶えず自問し、苦悶し、そこから生まれる想いを俳句という形式で世界に発信し続けていたのだと感じられます。

関連外部リンク

金子兜太についてのまとめ

今回は、俳人・金子兜太について、年表に沿う形で来歴を追体験しつつ、その生涯に迫りました。兜太の一生を大きく形成したものとして、故郷の秩父、戦争体験、その両者から導かれる人間愛があったと考えられます。

「反骨の人」という言葉が先に立っており、兜太のイメージはともすれば「ぶっきらぼう」な印象に偏りがちにも思われます。「人間の素晴らしさ」とそれを奪う「戦争」への憎しみ。それらは平和を守りつつ、あるがままの人間を自然の一部として敬うといった兜太の素顔としての生き方にダイレクトに通じています。「荒凡夫」を理想とした兜太の詠む俳句からは、とても温厚な人間味を感じることができます。

今回の記事により、一人でも多くの方が金子兜太の考え方に共鳴し、兜太の俳句を楽しんでもらえたら幸いです。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!

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