【大学教授が解説】ヨハン・ゴットリープ・フィヒテとはどんな人?名言や功績まとめ

ヨハン=ゴットリープ=フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte)は18世紀から19世紀にかけてのドイツの哲学者で、イェーナ大学などでの教員を経て、ベルリン大学の初代学長になりました。

ヨハン=ゴットリープ=フィヒテ

フィヒテは、彼の青年時代に当時のドイツ、そしてヨーロッパで最高の哲学者であったイマヌエル=カントに大きく影響を受けました。また、フィヒテに続くG.W.F.ヘーゲルらに大きな影響を与えました。カントからフィヒテを経てヘーゲルに至る哲学の学派をドイツ観念論といいます。

フランス革命の時代を生きたフィヒテは、個人の自由は個人より高次の存在である国家によって実現すると考え、個人は自由を実現するために政治に参加すべきだと主張しました。ナポレオンがドイツを占領した際に行った、国家の大切さと青年教育の重要性を訴える『ドイツ国民に告ぐ』という演説は有名です。

そんなフィヒテについて、歴史学で博士学位を取得し、現在は大学で教えている私が解説します。哲学少年だった頃からの知識を活かしながら、とことん掘り下げていくので最後までお付き合いください。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

フィヒテとはどんな人?

名前ヨハン=ゴットリープ=フィヒテ
(Johann Gottlieb Fichte)
誕生日1762年5月19日
生地ザクセン選帝侯領ランメナウ
(現ドイツ・ドレスデン一帯)
没日1814年1月27日
没地ベルリン
配偶者ヨアンナ=ラーン
埋葬場所ベルリン・ドローテン墓地

フィヒテの生まれは?

フィヒテは1762年5月19日、当時のザクセン選帝侯領にある小さな村ランメナウに生まれました。現在のドイツ・ドレスデンから東に30キロほどの場所にあります。

フィヒテの生家は、代々農業を営みつつ、紐織業もしていました。父親は、その家業を継いでいました。母親は裕福な家庭の生まれで、芯の強い女性だったと言われていて、その芯の強さがフィヒテにも受け継がれたそうです。フィヒテは長男で、下に6人の妹と1人の弟がいました。フィヒテは8人兄弟で、家計は非常に苦しい状態でした。そのため、子供の頃は、学校に通うことができず、家業の手伝いをして暮らしていました。

幼い頃から記憶力に長けていた

少年時代のフィヒテは暗記が得意でした。その優れた記憶力で、地元の教会での説教の全てをほぼ完璧に記憶していました。そこにやって来たのが、説教を聴き損ねた貴族ミリティツ侯です。近所の人が、説教を記憶している少年がいる、とフィヒテを紹介します。説教の内容を記憶している少年フィヒテを見たミリティツ侯は驚き、フィヒテに学資を援助することを申し出ました。そして、ミリティツ侯の元家庭教師であるクレーベル牧師の元で2年間学び、12歳で、名門のギムナジウム(中学・高校に相当)であるシュール・プフォルタに入学しました。

フィヒテのカントとの出会いは?

カント
引用元:Wikipedia

フィヒテはイェーナ大学神学部に入学後、ライプチヒ大学に転学します。この頃、ヨーロッパを圧巻する哲学書が刊行されました。カントの『純粋理性批判』(1781年刊)です。しかし、当時のフィヒテには、カントの哲学に深く触れる機会はありませんでした。

転機となったのは、1790年、ある大学生に請われてカント哲学を個人教授したことでした。この時、これまであまり触れたことのなかったカントの哲学の魅力に、フィヒテはすっかりとはまってしまったのです。そして、フィヒテは、カントの著作を熟読して理解を深めます。

すっかりカントの虜になったフィヒテは、1791年7月、ついにケーニヒスベルクにいたカントを訪ねました。しかし、名も無いフィヒテを著名人のカントはあまり積極的に受け入れてくれません。そこでケーニヒスベルクに滞在して、論文を執筆してカントに見てもらおうと考えました。翌月、フィヒテの論文を読んだカントはフィヒテの実力を認め、その論文の出版を助けました。これが1792年に刊行されたフィヒテの初著書『一切の啓示の批判の試み』でした。

フィヒテの演説『ドイツ国民に告ぐ』とは?

フィヒテの演説の様子

1800年ごろから、ナポレオン率いるフランス軍がドイツへと侵攻し、1806年にはナポレオンに制圧されたドイツ諸侯たちがライン同盟を結成させられました。そして同じ年、ついにベルリンのあるプロイセンも屈服し、領土の割譲や貢納金の支払いなど、プロイセンにとって不利な内容の「ティルジットの和議」が1807年に結ばれることになりました。

このような情勢下でフィヒテは、妻子をベルリンに残して一時、ケーニヒスベルクに移りましたが半年後の1807年8月にフランス支配下のベルリンに戻り、ドイツ国民へ向けて外国支配からの解放とドイツの独立を訴えるアピールを展開します。これがベルリンの科学アカデミーでフィヒテが14回に渡って行った講演『ドイツ国民に告ぐ』です。講演でフィヒテは、国民教育を通じた、国民的自覚の重要性を説きました。

フィヒテのベルリン大学時代は?

現在のフンボルト大学

プロイセン国王のフリードリヒ=ヴィルヘルム3世はフランス支配の屈辱を克服し、精神の力による国家再興を目指しました。こうして1810年に設立されたのがベルリン大学(現在のフンボルト大学)です。設立に先立って、フィヒテは「ベルリンに設立予定の科学アカデミーと密接に結びついた、高等教授施設の演繹的プラン」という大学設立の建白書を国王に提出しています。

大学が設立されると、フィヒテは哲学部長として赴任し、1811年の学長選挙で初代学長に選出されました。しかし、1812年に学生による決闘事件の処分をめぐって大学の評議会と意見が対立し、学長の職を辞してしまいました。この年に、プロイセン国王によって「解放戦争」の宣言が発せられ、フランス軍への全面的反撃が開始されます。フィヒテも政府に従軍を申し出ましたが、断られます。その後も、フィヒテは大学での教育と研究に力を注ぎました。

フィヒテの死は?

偉大な哲学者の最後

プロイセン国王によって「解放戦争」が宣言された際、フィヒテの妻であるヨアンナ夫人が篤志看護婦を志願します。1814年1月初頭、そんなヨアンナ夫人が病院でチフスに感染してしまいます。フィヒテは大学での講義を続けながらも、献身的に看病しました。

その甲斐あって、ヨアンナ夫人の病状は最悪の事態を脱しましたが、フィヒテ自身が感染してしまいました。フィヒテの容態は急速に悪化し、1月27日に死亡しました。そして、1月31日にベルリンのドローテン墓地に埋葬されます。ヨアンナ夫人もその5年後(1819年)に亡くなり同じ場所に埋葬されました。フィヒテの後継者として「ドイツ観念論の大成者」とされるヘーゲルは、フィヒテの墓の横に埋葬されることを希望し、のちにフィヒテ夫妻の墓と並んでヘーゲル夫妻の墓が建立されました。ヘーゲルがいかにフィヒテに敬意を抱いていたかを物語っています。

フィヒテの名言は?

人がどんな哲学を選ぶかはその人間がどんな人間かによる。

哲学は、ひからびた思弁ではなく……精神をその最も深い根において創造し直し、再生させ、革新するものです。

高級官吏のあいだに、自分たちは生きんがために社会に奉仕するのではなく、社会に奉仕せんがために生きるのだという考え方が必要なのである。

フィヒテにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「天才少年フィヒテ!?牧師の説教丸暗記でチャンスをつかむ」

少年時代のフィヒテは暗記が得意でした。その優れた記憶力で、地元の教会での説教の全てをほぼ完璧に記憶していました。

ある時、説教を聴き損ねた貴族ミリティツ侯に近所の人が、説教を記憶している少年がいる、とフィヒテを紹介しました。説教の内容を完璧に記憶している少年フィヒテを見たミリティツ侯。彼は大変驚いて、フィヒテに学資を援助することを申し出ました。これが不遇な少年フィヒテを歴史に名を残す哲学者への道へと引き入れる転機になりました。

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