ヨハン=ゴットリープ=フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte)は18世紀から19世紀にかけてのドイツの哲学者で、イェーナ大学などでの教員を経て、ベルリン大学の初代学長になりました。
フィヒテは、彼の青年時代に当時のドイツ、そしてヨーロッパで最高の哲学者であったイマヌエル=カントに大きく影響を受けました。また、フィヒテに続くG.W.F.ヘーゲルらに大きな影響を与えました。カントからフィヒテを経てヘーゲルに至る哲学の学派をドイツ観念論といいます。
フランス革命の時代を生きたフィヒテは、個人の自由は個人より高次の存在である国家によって実現すると考え、個人は自由を実現するために政治に参加すべきだと主張しました。ナポレオンがドイツを占領した際に行った、国家の大切さと青年教育の重要性を訴える『ドイツ国民に告ぐ』という演説は有名です。
そんなフィヒテについて、歴史学で博士学位を取得し、現在は大学で教えている私が解説します。哲学少年だった頃からの知識を活かしながら、とことん掘り下げていくので最後までお付き合いください。
フィヒテとはどんな人?
名前 | ヨハン=ゴットリープ=フィヒテ (Johann Gottlieb Fichte) |
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誕生日 | 1762年5月19日 |
生地 | ザクセン選帝侯領ランメナウ (現ドイツ・ドレスデン一帯) |
没日 | 1814年1月27日 |
没地 | ベルリン |
配偶者 | ヨアンナ=ラーン |
埋葬場所 | ベルリン・ドローテン墓地 |
フィヒテの生まれは?
フィヒテは1762年5月19日、当時のザクセン選帝侯領にある小さな村ランメナウに生まれました。現在のドイツ・ドレスデンから東に30キロほどの場所にあります。
フィヒテの生家は、代々農業を営みつつ、紐織業もしていました。父親は、その家業を継いでいました。母親は裕福な家庭の生まれで、芯の強い女性だったと言われていて、その芯の強さがフィヒテにも受け継がれたそうです。フィヒテは長男で、下に6人の妹と1人の弟がいました。フィヒテは8人兄弟で、家計は非常に苦しい状態でした。そのため、子供の頃は、学校に通うことができず、家業の手伝いをして暮らしていました。
少年時代のフィヒテは暗記が得意でした。その優れた記憶力で、地元の教会での説教の全てをほぼ完璧に記憶していました。そこにやって来たのが、説教を聴き損ねた貴族ミリティツ侯です。近所の人が、説教を記憶している少年がいる、とフィヒテを紹介します。説教の内容を記憶している少年フィヒテを見たミリティツ侯は驚き、フィヒテに学資を援助することを申し出ました。そして、ミリティツ侯の元家庭教師であるクレーベル牧師の元で2年間学び、12歳で、名門のギムナジウム(中学・高校に相当)であるシュール・プフォルタに入学しました。
フィヒテのカントとの出会いは?
フィヒテはイェーナ大学神学部に入学後、ライプチヒ大学に転学します。この頃、ヨーロッパを圧巻する哲学書が刊行されました。カントの『純粋理性批判』(1781年刊)です。しかし、当時のフィヒテには、カントの哲学に深く触れる機会はありませんでした。
転機となったのは、1790年、ある大学生に請われてカント哲学を個人教授したことでした。この時、これまであまり触れたことのなかったカントの哲学の魅力に、フィヒテはすっかりとはまってしまったのです。そして、フィヒテは、カントの著作を熟読して理解を深めます。
すっかりカントの虜になったフィヒテは、1791年7月、ついにケーニヒスベルクにいたカントを訪ねました。しかし、名も無いフィヒテを著名人のカントはあまり積極的に受け入れてくれません。そこでケーニヒスベルクに滞在して、論文を執筆してカントに見てもらおうと考えました。翌月、フィヒテの論文を読んだカントはフィヒテの実力を認め、その論文の出版を助けました。これが1792年に刊行されたフィヒテの初著書『一切の啓示の批判の試み』でした。
フィヒテの演説『ドイツ国民に告ぐ』とは?

1800年ごろから、ナポレオン率いるフランス軍がドイツへと侵攻し、1806年にはナポレオンに制圧されたドイツ諸侯たちがライン同盟を結成させられました。そして同じ年、ついにベルリンのあるプロイセンも屈服し、領土の割譲や貢納金の支払いなど、プロイセンにとって不利な内容の「ティルジットの和議」が1807年に結ばれることになりました。
このような情勢下でフィヒテは、妻子をベルリンに残して一時、ケーニヒスベルクに移りましたが半年後の1807年8月にフランス支配下のベルリンに戻り、ドイツ国民へ向けて外国支配からの解放とドイツの独立を訴えるアピールを展開します。これがベルリンの科学アカデミーでフィヒテが14回に渡って行った講演『ドイツ国民に告ぐ』です。講演でフィヒテは、国民教育を通じた、国民的自覚の重要性を説きました。
フィヒテのベルリン大学時代は?


プロイセン国王のフリードリヒ=ヴィルヘルム3世はフランス支配の屈辱を克服し、精神の力による国家再興を目指しました。こうして1810年に設立されたのがベルリン大学(現在のフンボルト大学)です。設立に先立って、フィヒテは「ベルリンに設立予定の科学アカデミーと密接に結びついた、高等教授施設の演繹的プラン」という大学設立の建白書を国王に提出しています。
大学が設立されると、フィヒテは哲学部長として赴任し、1811年の学長選挙で初代学長に選出されました。しかし、1812年に学生による決闘事件の処分をめぐって大学の評議会と意見が対立し、学長の職を辞してしまいました。この年に、プロイセン国王によって「解放戦争」の宣言が発せられ、フランス軍への全面的反撃が開始されます。フィヒテも政府に従軍を申し出ましたが、断られます。その後も、フィヒテは大学での教育と研究に力を注ぎました。
フィヒテの死は?


プロイセン国王によって「解放戦争」が宣言された際、フィヒテの妻であるヨアンナ夫人が篤志看護婦を志願します。1814年1月初頭、そんなヨアンナ夫人が病院でチフスに感染してしまいます。フィヒテは大学での講義を続けながらも、献身的に看病しました。
その甲斐あって、ヨアンナ夫人の病状は最悪の事態を脱しましたが、フィヒテ自身が感染してしまいました。フィヒテの容態は急速に悪化し、1月27日に死亡しました。そして、1月31日にベルリンのドローテン墓地に埋葬されます。ヨアンナ夫人もその5年後(1819年)に亡くなり同じ場所に埋葬されました。フィヒテの後継者として「ドイツ観念論の大成者」とされるヘーゲルは、フィヒテの墓の横に埋葬されることを希望し、のちにフィヒテ夫妻の墓と並んでヘーゲル夫妻の墓が建立されました。ヘーゲルがいかにフィヒテに敬意を抱いていたかを物語っています。
フィヒテの名言は?
人がどんな哲学を選ぶかはその人間がどんな人間かによる。
哲学は、ひからびた思弁ではなく……精神をその最も深い根において創造し直し、再生させ、革新するものです。
高級官吏のあいだに、自分たちは生きんがために社会に奉仕するのではなく、社会に奉仕せんがために生きるのだという考え方が必要なのである。
フィヒテにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「天才少年フィヒテ!?牧師の説教丸暗記でチャンスをつかむ」
少年時代のフィヒテは暗記が得意でした。その優れた記憶力で、地元の教会での説教の全てをほぼ完璧に記憶していました。
ある時、説教を聴き損ねた貴族ミリティツ侯に近所の人が、説教を記憶している少年がいる、とフィヒテを紹介しました。説教の内容を完璧に記憶している少年フィヒテを見たミリティツ侯。彼は大変驚いて、フィヒテに学資を援助することを申し出ました。これが不遇な少年フィヒテを歴史に名を残す哲学者への道へと引き入れる転機になりました。
フィヒテの略歴年表
こうして1810年に設立されたのがベルリン大学(現在のフンボルト大学)です。大学が設立されると、フィヒテは哲学部長として赴任しました。
フィヒテの生涯具体年表
1762年 – 0歳「誕生」
貧しい家庭に育ち学校には通えず


フィヒテは1762年5月19日に、ドイツの有力諸侯の一つである、ザクセン選帝侯の支配下にある小さな村ランメナウで生まれました。この村は、ドイツ東部のドレスデンから東に30キロほどの場所にあります。
フィヒテの生家は、代々農業を営みつつ、紐(ひも)織業もしていました。フィヒテの父親は、その家業を継いでいました。母親は裕福な家庭の生まれで、芯の強い女性だったと言われています。母親の芯の強さは、息子のフィヒテにも受け継がれて哲学者として大成することになりました。フィヒテの兄弟には下に6人の妹と1人の弟がいて、長男でした。
フィヒテの家は子だくさんで、家計は非常に苦しい状態でした。そのため、子供の頃は、学校に通うことができませんでした。到底、のちのフィヒテが育つような過程環境ではなかったのです。仕方なく、少年時代のフィヒテは家業の手伝いをしながら、暮らしていました。
天才的な記憶力でチャンスを手にする


貧しさゆえに学校に通えなかったフィヒテでしたが、記憶するのが大変得意な少年でした。その人並み外れた記憶力で、地元の教会に通っては、牧師の説教を聴き、その全てをほぼ完璧に記憶していました。
ある時、牧師の説教を聴きに来た貴族のミリティツ侯が時間に遅れてしまい、聴きそびれてしまいました。その時、ミリティツ侯に近隣の住民が、説教を記憶している少年がいる、とフィヒテを紹介しました。フィヒテの記憶力は近所でも評判だったのです。
ミリティツ侯は早速フィヒテのもとを訪ねました。そこでミリティツ侯が見たのは、説教の内容を完璧に記憶している天才少年でした。
彼は幼いフィヒテの才能に大いに驚いて、学校に通っていないことを知ると、みずからフィヒテに学資を援助することを申し出ました。こうして貧しくて不遇な少年時代を送っていたフィヒテは、学問の道へと進むチャンスを手に入れます。
1774年 – 12歳「ギムナジウム入学」
名門校シュール・プフォルタに入学


才能を見出した貴族・ミリティツ侯の学資援助により勉学の機会を得たことで、フィヒテは次第に実力を伸ばしました。
努力を重ねた結果、フィヒテはドイツ有数の名門ギムナジウムであるシュール・プフォルタ(プフォルタ学院)に入学しました。どれほどの名門校かということは、卒業生の面々を見ればわかります。フィヒテの後輩で特に著名なのは、近代歴史学を切り拓いたランケや20世紀の哲学者F.ニーチェなど、歴史に名を残した数々の学者がいます。もちろん、哲学者として大成したフィヒテもその著名な卒業生の一人です。
シュール・プフォルタは、12世紀にできた伝統のある学校で、18世紀にはヨーロッパじゅうに知られた名門校でした。厳しい規則と上級生への服従の精神が強い全寮制の学校で、6年間を過ごします。厳しい環境の中で、学生の間では禁じられていたルソーら啓蒙思想家の書物が出回り、これらをフィヒテも必死で読みました。これが、フランス革命に対してフィヒテが肯定的な評価を下すことに繋がったと考えられます。
1780年 – 18歳「イェーナ大学神学部入学」
イェーナ大学神学部に入学するもフィヒテを苦しめる経済事情


名門シュール・プフォルタを優秀な成績で卒業したフィヒテは、経済的な問題を抱えながらも大学への進学を希望していました。当時、母親の希望もあって、フィヒテは神学部への入学を望んでいました。牧師になろうと考えていたのです。
そこでフィヒテが選んだのが、イェーナ大学の神学部でした。ところが、経済的に苦しいフィヒテを助けてくれていたミリティツ侯はすでに亡くなり、ミリティツ夫人も援助は継続してくれていましたが、大学生活を送るには不十分で、事実上、家庭教師のアルバイトだけで学費と生活費を捻出しなければならないありさまでした。
1781年 – 19歳「ライプチヒ大学に転学」
決定論を学んだフィヒテ


ライプチヒ大学に移ったフィヒテは、法律と哲学を学びます。ここで学んだ哲学は決定論でした。決定論というのは、物事がどうなるかは最初から決まっているのだ、という考え方です。
決定論的な人生観では、努力や能力に関係なく、物事は最初から決まっているのですから、人生がうまく行かないのも、言ってみれば運命です。不遇なのは本人の努力や能力が足りないからではなく、また社会に問題があるわけでもなく、すべて運命なのだ、という考え方になります。子供の頃から厳しい経済事情に翻弄されてきたフィヒテ。のちに影響を受けるカントの自由論的な哲学とは正反対の思想ですが、このような運命論的な考え方は、当時フィヒテが置かれた苦しい状況をみずから納得するのに、ちょうどよかったのかもしれません。
しかし、このような学びの日々も経済的事情により終わりの時を迎えました。わずかながら支援してくれていたミリティツ夫人から、これ以上の援助は難しいという連絡がきたのでした。こうしてフィヒテはライプチヒを去ることになりました。
1788年 – 26歳「スイスで家庭教師」
オットー家での苦労の連続


経済的な苦境により、フィヒテはライプチヒを去り、フィヒテの困窮した姿をみた友人の詩人C.F.ヴァイゼの紹介により、スイスのチューリッヒで家庭教師をすることになりました。ヴァイゼに紹介されたのは、スイスで有名なホテル経営者であるオットー家でした。
オットー家では10歳のカスパールと7歳のズゼッテの家庭教師を任されました。しかし、教育のあり方をめぐって、オットー夫妻、とくに夫人とまったくソリが合わず、フィヒテは非常に苦労します。とくに対立したのが、夫人の女中たちに対する振る舞いでした。威圧的で意地悪く、見下し、嘲笑するような女中への態度は、子供たちの道徳教育に良くないと、フィヒテは考えたのです。
実際、子供たちは母親をまねて女中たちに対して同様の態度で接します。これに対してフィヒテは兄妹に厳しく言って聞かせますが、むしろ兄のカスパールは反省するどころかフィヒテに皮肉を繰り返す始末でした。オットー家での家庭教師は、このような苦労の連続でした。そこから、フィヒテは教育に対する思索を重ね、それが後の『ドイツ国民に告ぐ』などで示されるフィヒテの教育論の基礎となっていったのでした。
フィヒテの人生を変えた2つの出会い


一方で、フィヒテは1年9ヶ月のチューリッヒでの生活で、様々な人と交流し、さまざまな影響を受けました。中でも、とくにフィヒテのその後の人生に大きな影響を与えた出会いが2つありました。1つはヨアンナ=ラーンとの出会い、そしてもう1つが個人教授を通じたカント哲学との出会いです。
まず、のちに妻となるヨアンナ=ラーンと出会いです。フィヒテとヨアンナとの縁は、チューリッヒの牧師で観相学の著書もあり、ロマン主義の詩人ゲーテに大きな影響を与えたラヴァーターが、ラーン家をフィヒテに紹介したことがきっかけでした。ラーン家は常に一流の知識人が出入りしていました。ラーン家に出入りしていく中で、フィヒテはラーン家の娘で4歳年上のヨアンナに接近していきました。ヨアンナの父は、ドイツ近代文学の先駆者の一人として知られる作家クロプシュトックの妹が妻(ヨアンナの母)で、ヨアンナはその姪にあたります。2人は1790年に婚約しましたが、この頃、フィヒテは「私はまだ今のところあなたに値していないのです」とヨアンナへの手紙で書いていました。すぐに結婚する資格は自分にはまだない、と考えていたのです。結局、結婚に至るまで数年を待たねばなりませんでした。
さらに、1790年、フィヒテはある大学生に請われてカント哲学を個人教授する機会を得ます。これによりカントの思想に本格的に触れ、フィヒテの思想的な転機となりました。フィヒテはカントの書物を読んで「私はより高い道徳を知りました。そして、外物にかかりあうよりむしろ私自身を問題にするようになりました」と述べ、「まったくの偶然としか思えないような機会が私をしてカントの哲学の勉強に没頭させることになったのです」と、フィヒテにとってカントの哲学との出会いがいかに意義深いものであったかを語っています。カント哲学の壮大さもさることながら、ライプチヒで決定論を学んだフィヒテにとって、「人間の意志の自由」を語るカントの思想は、非常に衝撃的なものであったのでしょう。
1791年 – 29歳「カント訪問」
カントに会うが相手にされなかったフィヒテ


家庭教師の仕事で生活していた当時のフィヒテは、新たな家庭教師先としてワルシャワの貴族プラター家に向かうことになりました。ワルシャワでは、プラター家に住み込みで働気ことになっていましたが、ここでもプラター夫人の尊大な態度にフィヒテは我慢ができなくなりました。結局、フィヒテはワルシャワを離れることになりました。
ワルシャワを去ったフィヒテは、カントがいたケーニヒスベルクに向かいました。ずっと敬愛していたカントに直接会って、自分の実力をみてもらいたいと思ってのことでした。こうしてついに7月、フィヒテはあこがれのカントのもとを訪ねました。
ところが、当時のフィヒテは名も肩書きも無い哲学者を志願する若者に過ぎませんでした。ヨーロッパじゅうで知らない人はいないほど有名な哲学者になっていたカントにとって、そのようなフィヒテを話す価値のある存在には思えませんでした。フィヒテは軽くあしらわれ、ろくに話も聞いてもらえません。そこでフィヒテは論文を執筆してカントに哲学の実力を示そうと考え、そのままケーニヒスベルクに留まって、論文を書き始めました。
1792年 – 30歳「初の著書『一切の啓示の批判の試み』出版」
ついにフィヒテの実力を認めたカント


ケーニヒスベルクに留まって、カントに見せる論文を執筆していたフィヒテは、ついにその力作を書き上げました。そして1791年8月18日に論文を手にフィヒテはカントのもとを訪ねます。この論文はカントの批判哲学のラインにそいつつ、宗教哲学における問題に答えようとする内容でした。フィヒテの優れた論文を読んだカントは、その実力に多いに驚きフィヒテの才能を認めました。
こうしてカントに認められたものの、失業状態であったフィヒテはこれに乗じてカントに借金を申し込みましたが、さすがにこれはカントも断りました。しかしながら、一方でカントはこのフィヒテの論文を出版できるように手助けします。こうして出版されたのが、フィヒテの初めての著書である『一切の啓示の批判の試み』でした。
ついに哲学者として本格デビュー
このフィヒテの初めての著書『一切の啓示の批判の試み』は、匿名で発表されました。そのため、あまりに内容が優れているためカントが書いたのではないか、との噂がヨーロッパじゅうをかけめぐりました。
これに対し、カントは「私はこの練達した人の著作に、書面でも口頭でも、全く関与していない」「私はこのようにして、その名誉を、それにふさわしい人にそっくりと残して置くことが義務であると考える」という声明を新聞に発表しました。このフィヒテへの賞賛が散りばめられたカントの声明により、著者であるフィヒテは哲学者として本格的にデビューを果たしたのでした。
1793年 – 31歳「ヨアンナ=ラーンと結婚」
名声を得て結婚へ


初著書である『一切の啓示の批判の試み』出版によってフィヒテは、哲学者としての名声を手にしました。そして、チューリッヒで出会ったヨアンナ=ラーンと1793年10月に結婚します。
ヨアンナと婚約したのは1790年でしたが、この時にはフィヒテは「私はまだ今のところあなたに値していないのです」とヨアンナへの手紙で書いていました。生活のために働いて研究の時間もろくに取れず、いかにも自信のないフィヒテの姿が思い浮かぶような内容です。こうして婚約してから数年の月日が過ぎていました。
しかし、初著書『一切の啓示の批判の試み』が大きな反響を呼んだことでフィヒテは自信をつけ、以前のフィヒテではなくなりました。こうして、ついにフィヒテはヨアンナとの結婚へと踏み切ったのです。
1794年 – 32歳「イェーナ大学に助教授として赴任」
大学で教育と著述活動に励む


カントの助力を得つつ、哲学者としての名声を手にし、結婚もしたフィヒテのもとに、イェーナ大学から教員としての招へい状が届きました。こうして1794年、フィヒテはイェーナ大学の助教授に赴任しました。これは、イェーナ大学を管轄するワイマール政府が当時、名声を高めていたフィヒテに目をつけて招へいしたものでした。
フィヒテは朝6時から1時間、聴講生が聴講料を支払う私講義と、金曜日の夕方6時から1時間の公開講義を精力的に行いました。この時、フィヒテは私講義では自身が確立した哲学体系である知識学を、公開講義では「学者のための道徳論」を講義しています。フィヒテの講義は大変な人気がありました。とくに公開講義には、大学でもっとも大きな講義室でも足りないほどに、多くの聴講者が押し寄せました。一方で著作活動も精力的に行い、カント哲学を批判的に発展・体系化させました。こうしてフィヒテは、「自我」概念を軸として<自我ー非自我>関係から法論や道徳論を導き出すという独自の思想をイェーナで形成していきました。
1799年 – 37歳「イェーナ大学辞任、ベルリンへ」
無神論論争でイェーナを去る


カントの後押しにより名声を得て、イェーナ大学の教員として成功していくフィヒテの姿は、他の教員たちの嫉妬の対象になりました。さらに、フランス革命に対してフィヒテは肯定的な見方をしていたので、これをもってフィヒテを敵視する人もいました。そのような中、1798年にフィヒテが発表した論文が無神論として中傷されます。これはやがて、「無神論論争」と呼ばれる大きな論争に発展していきます。
当時のドイツ社会において無神論者は、その存在さえ社会的に危険視されました。そのため、「無神論」という中傷は、フィヒテの存在そのものを危うくするものだったのです。これにより、フィヒテはワイマール当局から危険人物視されることになりました。その結果、フィヒテはイェーナを追われ、ベルリンへと去って行ったのでした。
1806年 – 44歳「ナポレオン軍ベルリン侵攻」
ドイツへ侵攻するナポレオン軍


フランス革命がジャコバン派による恐怖政治を経て迷走する中で、台頭してきたのがナポレオンでした。ナポレオンは政権を掌握するとヨーロッパ各国への侵攻をはじめ、ドイツには1800年ごろからナポレオン率いるフランス軍が侵攻していました。
その結果、1806年にはナポレオンに制圧されたドイツ諸侯たちがライン同盟を結成させられ、約1000年間続いていた神聖ローマ帝国を滅亡させました。そして同じ年、ついにベルリンのあるプロイセンも屈服し、領土の割譲や貢納金の支払いなど、プロイセンにとって不利な内容の「ティルジットの和議」が翌1807年に結ばれました。
ケーニヒスベルクへの避難を経て『ドイツ国民に告ぐ』演説へ


フィヒテは他国支配のもとで安住することを嫌いました。そのため、1806年10月に妻子を残してケーニヒスベルクへと避難しました。しかし、1807年6月にはケーニヒスベルクにもナポレオン軍が迫ったため、さらにデンマークのコペンハーゲンへと移っています。
しかし、8月にベルリンに戻ります。そして、ドイツ国民へ向けて外国支配からの解放とドイツの独立を訴えるアピールを展開しました。外国支配から避難するのではなく、フランス占領下のベルリンで真正面からこれに向き合う道を選んだのでした。これがベルリンの科学アカデミーで14回にわたってフィヒテが行った講演『ドイツ国民に告ぐ』です。この講演『ドイツ国民に告ぐ』でフィヒテは、青年に対する国民教育を通じた国民的自覚の重要性を説き、さらにベルリンでの名声を高めました。
1810年 – 48歳「ベルリン大学教授に就任、哲学部長となる」
プロイセン再興のために構想されたベルリン大学で教授そして哲学部長に


フランス支配の屈辱を味わったプロイセン。プロイセンの国王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世は、この国を精神の力によって再興させようと模索していました。国王のこのような方針を受けて、プロイセンをリードする知識人や高級官僚を育成する大学をベルリンに設立しようという動きが学者や官僚からもちあがります。
そのような中、哲学者としてプロイセン国内で影響力を高めていたフィヒテは、「ベルリンに設立予定の科学アカデミーと密接に結びついた、高等教授施設の演繹的プラン」という大学設立の建白書を国王に提出しました。このような働きかけの結果、1810年にベルリン大学(現在のフンボルト大学)が設立されました。フィヒテはベルリン大学の教授に就任し、哲学部長として活躍しました。
1811年 – 49歳「ベルリン大学初代学長に就任」
初代学長に就任するも評議会と対立し辞任
1811年に初めて行われたベルリン大学の学長選挙では、大学設立構想で大きな役割を果たし、ベルリン大学教授となったフィヒテが初代学長に選出されました。フィヒテは、これからベルリン大学の学長としてプロイセンの精神的再興とそれを牽引する社会的指導者を育成することが期待されていました。
ところが、その翌年、学長であるフィヒテにとって悩ましい事件が発生しました。学生による決闘事件です。事件に関与した学生の処分をめぐって、フィヒテは大学の評議会と意見が鋭く対立します。こうして結局、フィヒテは学長の職を辞することになってしまいました。一教授となったフィヒテは研究と教育に尽くしました
1814年 – 52歳「死亡」
ヨアンナ夫人の看病の末に


プロイセン国王によってフランス軍に対する「解放戦争」が宣言されると、フィヒテの妻であるヨアンナ夫人はこれに応じて篤志看護婦を志願しました。こうしてヨアンナ夫人は看護師となりますが、これが大変な結果をもたらすことになります。1814年1月初頭、ヨアンナ夫人は看護師として勤務していた病院でチフスに感染しました。
フィヒテは大学での講義を続けていましたが、それが終わると献身的にヨアンナ夫人の看病を続けました。その結果、ヨアンナ夫人の病状は最悪の事態を脱しました。ところが、なんとフィヒテ自身が感染してしまいました。フィヒテはチフスに苦しみ、容態は急速に悪化します。そしてついに、1月27日に波乱に満ちた人生を終えることになりました。
ベルリンの墓地に埋葬、横にはヘーゲル夫妻の墓が!?
フィヒテの遺骸は、1月31日にベルリンにあるドローテン墓地に埋葬されました。ヨアンナ夫人もその5年後の1819年に亡くなり、同じ場所に夫婦で埋葬されました。
フィヒテの後継者として「ドイツ観念論の大成者」とされるヘーゲルは、フィヒテを生涯にわたって非常に尊敬していました。そのため、ヘーゲルは死後もフィヒテの墓の横に埋葬されることを希望します。その希望によって、のちにフィヒテ夫妻の墓と並んでヘーゲル夫妻の墓が建立され、ヘーゲルはそこに埋葬されました。今日もフィヒテとヘーゲルは横に埋葬され、祖国ドイツのあゆみを見守っています。
フィヒテの関連作品
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フィヒテ (Century Books―人と思想)
哲学者の生涯と思想をまとめた「人と思想」シリーズの一冊です。難解なフィヒテ関連の本の中で、比較的やさしい言葉でフィヒテの一生と思想に触れることができます。
フィヒテを読む
難解なフィヒテの思想を読み解くための本です。著者は国際J.G.フィヒテ協会会長などを歴任したフィヒテ哲学研究の第一人者で、本書はその日本語訳となります。そもそもフィヒテの思想自体が難解なので、ある程度哲学の知識があって、フィヒテの読解に挑戦してみたい、という人向きです。
関連外部リンク
フィヒテについてのまとめ
貧しい家庭で育ち、優れた記憶力を持ちながらも学校に通えず不遇な少年時代を過ごしたフィヒテ。だからこそ、教育の重要性を生涯訴え続け、また自身も研究者であると同時に教育者として生き抜きました。
教育を通じて社会を良くしようという彼の構想は、単に自己のスキル獲得のための手段に成り下がっているように見える、現在の教育に欠けているものを問いかけているように感じます。私たちが小学校以来学んできたことで、社会にどう貢献できるのか、フィヒテの生涯から今一度考えてみたいものです。