【大学教授が解説】ヨハン・ゴットリープ・フィヒテとはどんな人?名言や功績まとめ

フィヒテの略歴年表

1762年
誕生

1762年5月19日、ドイツの小さな村・ランメナウに生まれました。父親は、代々の家業である農業を継いでいました。母親は裕福な家庭の生まれでした。フィヒテは長男で、下に6人の妹と1人の弟がおり、貧しい環境で育ちました。

1774年
ギムナジウム入学

フィヒテは、貴族・ミリティツ侯の援助により勉学の機会を得て、名門のギムナジウムであるシュール・プフォルタに入学します。後輩には、歴史学者のランケや哲学者のニーチェなどがいます。

1780年
イェーナ大学神学部入学

ギムナジウムでさらに勉学に励んだフィヒテは、牧師になることを目指してイェーナ大学神学部に入学しました。しかし、経済的に行き詰まり、転学することになりました。

1781年
ライプチヒ大学に転学

ライプチヒ大学に移ったフィヒテは、法律と哲学を学びます。ここで学んだ哲学は決定論でした。子供の頃から厳しい経済事情に翻弄されてきたフィヒテには、この運命論的な思想は当時フィヒテが置かれた状況を納得するのに、ちょうどよかったのかもしれません。

1788年
スイスで家庭教師

スイスのチューリッヒに移り、ホテル経営者のオットー家で家庭教師をします。オットー家では夫人とソリが合わず、苦労します。一方でチューリッヒで様々な人と交流し、のちに妻となるヨアンナ=ラーンと出会い、さらに、1790年、ある大学生に請われてカント哲学を個人教授する機会を得ます。これによりカントの思想に本格的に触れ、フィヒテの思想的な転機となりました。

1791年
カント訪問

カント哲学の魅力にすっかりはまったフィヒテは、ケーニヒスベルクにいたカントを訪ねました。しかし、著名人のカントは、名も無いフィヒテをすぐには受け入れてくれませんでした。

1792年
初の著書『一切の啓示の批判の試み』出版

カントに相手にされなかったフィヒテは、実力を示すため翌1792年に論文を書き上げてカントに見せました。これを読んだカントはその実力に驚嘆し、フィヒテの初著書『一切の啓示の批判の試み』が出版されました。この著書により、フィヒテは本格的に哲学界のメンバーとして認められるようになりました。

1793年
ヨアンナ=ラーンと結婚

10月にスイスのチューリッヒで出会ったヨアンナ=ラーンと結婚しました。初著書『一切の啓示の批判の試み』が大きな反響を呼んだことで、ついに結婚へと踏み切ったのです。

1794年
イェーナ大学に赴任

カントの助けを得て、哲学者としての名声を手に似たフィヒテは、イェーナ大学の助教授に赴任しました。講義には、多くの聴講者が押し寄せました。また、カント哲学を批判的に発展・体系化させ、「自我」概念を軸として<自我ー非自我>関係から法論や道徳論を導き出す独自の思想を形成しました。

1799年
イェーナ大学辞職、ベルリンへ

フィヒテの成功は嫉妬の対象にもなり、またフランス革命への肯定的な見方を敵視する人もいました。そのような中で、1798年に発表した論文が無神論として中傷されます。結局、イェーナを追われ、ベルリンへと去りました。

1806年
ナポレオン軍ベルリン侵攻

1800年ごろから、ナポレオン率いるフランス軍がドイツへと侵攻してきました。そして、1806年にはプロイセンも屈服しました。他国の支配を嫌ったフィヒテは、妻子をベルリンに残して一時、ケーニヒスベルクに移りました。

1807年
フランス占領下で『ドイツ国民に告ぐ』講演

ケーニヒスベルクに移ったフィヒテは半年後の1807年8月、ベルリンに戻ります。そして、ドイツ国民へ向けて外国支配からの解放とドイツの独立を訴えるアピールを展開しました。これがベルリンの科学アカデミーで14回にわたって行った講演『ドイツ国民に告ぐ』です。

1810年
ベルリン大学教授就任、哲学部長に

フランス支配の屈辱を味わったプロイセンを、精神の力によって再興するため、大学をベルリンに設立しようという声があがります。その中で、フィヒテは、大学設立の建白書を国王に提出しました。
こうして1810年に設立されたのがベルリン大学(現在のフンボルト大学)です。大学が設立されると、フィヒテは哲学部長として赴任しました。

1811年
ベルリン大学学長に就任

ベルリン大学教授となったフィヒテは、1811年に大縄れた学長選挙において初代学長に選出されました。しかし、その翌年、学生による決闘事件が発生し、関与した学生の処分をめぐって、大学の評議会と意見が鋭く対立します。結局、学長の職を辞することになってしまいました。

1814年
チフスに感染し死亡

プロイセン国王によるフランスへの反撃の呼びかけに応じ、妻ヨアンナが篤志看護婦を志願しました。ところが、ヨアンナがチフスに感染しました。フィヒテは献身的に看病し、ヨアンナの病状は回復。ところが、フィヒテ自身がチフスに感染し、死亡しました。

フィヒテの生涯具体年表

1762年 – 0歳「誕生」

貧しい家庭に育ち学校には通えず

大家族で育ったフィヒテ

フィヒテは1762年5月19日に、ドイツの有力諸侯の一つである、ザクセン選帝侯の支配下にある小さな村ランメナウで生まれました。この村は、ドイツ東部のドレスデンから東に30キロほどの場所にあります。
フィヒテの生家は、代々農業を営みつつ、紐(ひも)織業もしていました。フィヒテの父親は、その家業を継いでいました。母親は裕福な家庭の生まれで、芯の強い女性だったと言われています。母親の芯の強さは、息子のフィヒテにも受け継がれて哲学者として大成することになりました。フィヒテの兄弟には下に6人の妹と1人の弟がいて、長男でした。
フィヒテの家は子だくさんで、家計は非常に苦しい状態でした。そのため、子供の頃は、学校に通うことができませんでした。到底、のちのフィヒテが育つような過程環境ではなかったのです。仕方なく、少年時代のフィヒテは家業の手伝いをしながら、暮らしていました。

天才的な記憶力でチャンスを手にする

飛び抜けた記憶力で周囲を驚かせた

貧しさゆえに学校に通えなかったフィヒテでしたが、記憶するのが大変得意な少年でした。その人並み外れた記憶力で、地元の教会に通っては、牧師の説教を聴き、その全てをほぼ完璧に記憶していました。
ある時、牧師の説教を聴きに来た貴族のミリティツ侯が時間に遅れてしまい、聴きそびれてしまいました。その時、ミリティツ侯に近隣の住民が、説教を記憶している少年がいる、とフィヒテを紹介しました。フィヒテの記憶力は近所でも評判だったのです。
ミリティツ侯は早速フィヒテのもとを訪ねました。そこでミリティツ侯が見たのは、説教の内容を完璧に記憶している天才少年でした。
彼は幼いフィヒテの才能に大いに驚いて、学校に通っていないことを知ると、みずからフィヒテに学資を援助することを申し出ました。こうして貧しくて不遇な少年時代を送っていたフィヒテは、学問の道へと進むチャンスを手に入れます。

1774年 – 12歳「ギムナジウム入学」

学校の後輩にはあのニーチェ

名門校シュール・プフォルタに入学

才能を見出した貴族・ミリティツ侯の学資援助により勉学の機会を得たことで、フィヒテは次第に実力を伸ばしました。
努力を重ねた結果、フィヒテはドイツ有数の名門ギムナジウムであるシュール・プフォルタ(プフォルタ学院)に入学しました。どれほどの名門校かということは、卒業生の面々を見ればわかります。フィヒテの後輩で特に著名なのは、近代歴史学を切り拓いたランケや20世紀の哲学者F.ニーチェなど、歴史に名を残した数々の学者がいます。もちろん、哲学者として大成したフィヒテもその著名な卒業生の一人です。
シュール・プフォルタは、12世紀にできた伝統のある学校で、18世紀にはヨーロッパじゅうに知られた名門校でした。厳しい規則と上級生への服従の精神が強い全寮制の学校で、6年間を過ごします。厳しい環境の中で、学生の間では禁じられていたルソーら啓蒙思想家の書物が出回り、これらをフィヒテも必死で読みました。これが、フランス革命に対してフィヒテが肯定的な評価を下すことに繋がったと考えられます。

1780年 – 18歳「イェーナ大学神学部入学」

イェーナ大学神学部に入学するもフィヒテを苦しめる経済事情

経済的に苦しい時期が多かった

名門シュール・プフォルタを優秀な成績で卒業したフィヒテは、経済的な問題を抱えながらも大学への進学を希望していました。当時、母親の希望もあって、フィヒテは神学部への入学を望んでいました。牧師になろうと考えていたのです。
そこでフィヒテが選んだのが、イェーナ大学の神学部でした。ところが、経済的に苦しいフィヒテを助けてくれていたミリティツ侯はすでに亡くなり、ミリティツ夫人も援助は継続してくれていましたが、大学生活を送るには不十分で、事実上、家庭教師のアルバイトだけで学費と生活費を捻出しなければならないありさまでした。

1781年 – 19歳「ライプチヒ大学に転学」

決定論を学んだフィヒテ

法律と哲学の勉強に打ち込んだ

ライプチヒ大学に移ったフィヒテは、法律と哲学を学びます。ここで学んだ哲学は決定論でした。決定論というのは、物事がどうなるかは最初から決まっているのだ、という考え方です。
決定論的な人生観では、努力や能力に関係なく、物事は最初から決まっているのですから、人生がうまく行かないのも、言ってみれば運命です。不遇なのは本人の努力や能力が足りないからではなく、また社会に問題があるわけでもなく、すべて運命なのだ、という考え方になります。子供の頃から厳しい経済事情に翻弄されてきたフィヒテ。のちに影響を受けるカントの自由論的な哲学とは正反対の思想ですが、このような運命論的な考え方は、当時フィヒテが置かれた苦しい状況をみずから納得するのに、ちょうどよかったのかもしれません。
しかし、このような学びの日々も経済的事情により終わりの時を迎えました。わずかながら支援してくれていたミリティツ夫人から、これ以上の援助は難しいという連絡がきたのでした。こうしてフィヒテはライプチヒを去ることになりました。

1788年 – 26歳「スイスで家庭教師」

オットー家での苦労の連続

スイス チューリッヒ

経済的な苦境により、フィヒテはライプチヒを去り、フィヒテの困窮した姿をみた友人の詩人C.F.ヴァイゼの紹介により、スイスのチューリッヒで家庭教師をすることになりました。ヴァイゼに紹介されたのは、スイスで有名なホテル経営者であるオットー家でした。
オットー家では10歳のカスパールと7歳のズゼッテの家庭教師を任されました。しかし、教育のあり方をめぐって、オットー夫妻、とくに夫人とまったくソリが合わず、フィヒテは非常に苦労します。とくに対立したのが、夫人の女中たちに対する振る舞いでした。威圧的で意地悪く、見下し、嘲笑するような女中への態度は、子供たちの道徳教育に良くないと、フィヒテは考えたのです。
実際、子供たちは母親をまねて女中たちに対して同様の態度で接します。これに対してフィヒテは兄妹に厳しく言って聞かせますが、むしろ兄のカスパールは反省するどころかフィヒテに皮肉を繰り返す始末でした。オットー家での家庭教師は、このような苦労の連続でした。そこから、フィヒテは教育に対する思索を重ね、それが後の『ドイツ国民に告ぐ』などで示されるフィヒテの教育論の基礎となっていったのでした。

フィヒテの人生を変えた2つの出会い

フィヒテに影響を与えたカントの哲学

一方で、フィヒテは1年9ヶ月のチューリッヒでの生活で、様々な人と交流し、さまざまな影響を受けました。中でも、とくにフィヒテのその後の人生に大きな影響を与えた出会いが2つありました。1つはヨアンナ=ラーンとの出会い、そしてもう1つが個人教授を通じたカント哲学との出会いです。
まず、のちに妻となるヨアンナ=ラーンと出会いです。フィヒテとヨアンナとの縁は、チューリッヒの牧師で観相学の著書もあり、ロマン主義の詩人ゲーテに大きな影響を与えたラヴァーターが、ラーン家をフィヒテに紹介したことがきっかけでした。ラーン家は常に一流の知識人が出入りしていました。ラーン家に出入りしていく中で、フィヒテはラーン家の娘で4歳年上のヨアンナに接近していきました。ヨアンナの父は、ドイツ近代文学の先駆者の一人として知られる作家クロプシュトックの妹が妻(ヨアンナの母)で、ヨアンナはその姪にあたります。2人は1790年に婚約しましたが、この頃、フィヒテは「私はまだ今のところあなたに値していないのです」とヨアンナへの手紙で書いていました。すぐに結婚する資格は自分にはまだない、と考えていたのです。結局、結婚に至るまで数年を待たねばなりませんでした。
さらに、1790年、フィヒテはある大学生に請われてカント哲学を個人教授する機会を得ます。これによりカントの思想に本格的に触れ、フィヒテの思想的な転機となりました。フィヒテはカントの書物を読んで「私はより高い道徳を知りました。そして、外物にかかりあうよりむしろ私自身を問題にするようになりました」と述べ、「まったくの偶然としか思えないような機会が私をしてカントの哲学の勉強に没頭させることになったのです」と、フィヒテにとってカントの哲学との出会いがいかに意義深いものであったかを語っています。カント哲学の壮大さもさることながら、ライプチヒで決定論を学んだフィヒテにとって、「人間の意志の自由」を語るカントの思想は、非常に衝撃的なものであったのでしょう。

1791年 – 29歳「カント訪問」

カントに会うが相手にされなかったフィヒテ

当時カントが住んだケーニヒスベルク

家庭教師の仕事で生活していた当時のフィヒテは、新たな家庭教師先としてワルシャワの貴族プラター家に向かうことになりました。ワルシャワでは、プラター家に住み込みで働気ことになっていましたが、ここでもプラター夫人の尊大な態度にフィヒテは我慢ができなくなりました。結局、フィヒテはワルシャワを離れることになりました。
ワルシャワを去ったフィヒテは、カントがいたケーニヒスベルクに向かいました。ずっと敬愛していたカントに直接会って、自分の実力をみてもらいたいと思ってのことでした。こうしてついに7月、フィヒテはあこがれのカントのもとを訪ねました。
ところが、当時のフィヒテは名も肩書きも無い哲学者を志願する若者に過ぎませんでした。ヨーロッパじゅうで知らない人はいないほど有名な哲学者になっていたカントにとって、そのようなフィヒテを話す価値のある存在には思えませんでした。フィヒテは軽くあしらわれ、ろくに話も聞いてもらえません。そこでフィヒテは論文を執筆してカントに哲学の実力を示そうと考え、そのままケーニヒスベルクに留まって、論文を書き始めました。

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