【大学教授が解説】ヨハン・ゴットリープ・フィヒテとはどんな人?名言や功績まとめ

1792年 – 30歳「初の著書『一切の啓示の批判の試み』出版」

ついにフィヒテの実力を認めたカント

カントも認める論文を執筆

ケーニヒスベルクに留まって、カントに見せる論文を執筆していたフィヒテは、ついにその力作を書き上げました。そして1791年8月18日に論文を手にフィヒテはカントのもとを訪ねます。この論文はカントの批判哲学のラインにそいつつ、宗教哲学における問題に答えようとする内容でした。フィヒテの優れた論文を読んだカントは、その実力に多いに驚きフィヒテの才能を認めました。
こうしてカントに認められたものの、失業状態であったフィヒテはこれに乗じてカントに借金を申し込みましたが、さすがにこれはカントも断りました。しかしながら、一方でカントはこのフィヒテの論文を出版できるように手助けします。こうして出版されたのが、フィヒテの初めての著書である『一切の啓示の批判の試み』でした。

ついに哲学者として本格デビュー

このフィヒテの初めての著書『一切の啓示の批判の試み』は、匿名で発表されました。そのため、あまりに内容が優れているためカントが書いたのではないか、との噂がヨーロッパじゅうをかけめぐりました。
これに対し、カントは「私はこの練達した人の著作に、書面でも口頭でも、全く関与していない」「私はこのようにして、その名誉を、それにふさわしい人にそっくりと残して置くことが義務であると考える」という声明を新聞に発表しました。このフィヒテへの賞賛が散りばめられたカントの声明により、著者であるフィヒテは哲学者として本格的にデビューを果たしたのでした。

1793年 – 31歳「ヨアンナ=ラーンと結婚」

名声を得て結婚へ

初著書である『一切の啓示の批判の試み』出版によってフィヒテは、哲学者としての名声を手にしました。そして、チューリッヒで出会ったヨアンナ=ラーンと1793年10月に結婚します。
ヨアンナと婚約したのは1790年でしたが、この時にはフィヒテは「私はまだ今のところあなたに値していないのです」とヨアンナへの手紙で書いていました。生活のために働いて研究の時間もろくに取れず、いかにも自信のないフィヒテの姿が思い浮かぶような内容です。こうして婚約してから数年の月日が過ぎていました。
しかし、初著書『一切の啓示の批判の試み』が大きな反響を呼んだことでフィヒテは自信をつけ、以前のフィヒテではなくなりました。こうして、ついにフィヒテはヨアンナとの結婚へと踏み切ったのです。

1794年 – 32歳「イェーナ大学に助教授として赴任」

大学で教育と著述活動に励む

フィヒテの講義は人気を博した

カントの助力を得つつ、哲学者としての名声を手にし、結婚もしたフィヒテのもとに、イェーナ大学から教員としての招へい状が届きました。こうして1794年、フィヒテはイェーナ大学の助教授に赴任しました。これは、イェーナ大学を管轄するワイマール政府が当時、名声を高めていたフィヒテに目をつけて招へいしたものでした。
フィヒテは朝6時から1時間、聴講生が聴講料を支払う私講義と、金曜日の夕方6時から1時間の公開講義を精力的に行いました。この時、フィヒテは私講義では自身が確立した哲学体系である知識学を、公開講義では「学者のための道徳論」を講義しています。フィヒテの講義は大変な人気がありました。とくに公開講義には、大学でもっとも大きな講義室でも足りないほどに、多くの聴講者が押し寄せました。一方で著作活動も精力的に行い、カント哲学を批判的に発展・体系化させました。こうしてフィヒテは、「自我」概念を軸として<自我ー非自我>関係から法論や道徳論を導き出すという独自の思想をイェーナで形成していきました。

1799年 – 37歳「イェーナ大学辞任、ベルリンへ」

無神論論争でイェーナを去る

優秀が故に周りの妬みをかってしまう

カントの後押しにより名声を得て、イェーナ大学の教員として成功していくフィヒテの姿は、他の教員たちの嫉妬の対象になりました。さらに、フランス革命に対してフィヒテは肯定的な見方をしていたので、これをもってフィヒテを敵視する人もいました。そのような中、1798年にフィヒテが発表した論文が無神論として中傷されます。これはやがて、「無神論論争」と呼ばれる大きな論争に発展していきます。
当時のドイツ社会において無神論者は、その存在さえ社会的に危険視されました。そのため、「無神論」という中傷は、フィヒテの存在そのものを危うくするものだったのです。これにより、フィヒテはワイマール当局から危険人物視されることになりました。その結果、フィヒテはイェーナを追われ、ベルリンへと去って行ったのでした。

1806年 – 44歳「ナポレオン軍ベルリン侵攻」

ドイツへ侵攻するナポレオン軍

ナポレオンによるドイツ侵攻


フランス革命がジャコバン派による恐怖政治を経て迷走する中で、台頭してきたのがナポレオンでした。ナポレオンは政権を掌握するとヨーロッパ各国への侵攻をはじめ、ドイツには1800年ごろからナポレオン率いるフランス軍が侵攻していました。
その結果、1806年にはナポレオンに制圧されたドイツ諸侯たちがライン同盟を結成させられ、約1000年間続いていた神聖ローマ帝国を滅亡させました。そして同じ年、ついにベルリンのあるプロイセンも屈服し、領土の割譲や貢納金の支払いなど、プロイセンにとって不利な内容の「ティルジットの和議」が翌1807年に結ばれました。

ケーニヒスベルクへの避難を経て『ドイツ国民に告ぐ』演説へ

フィヒテの演説の様子

フィヒテは他国支配のもとで安住することを嫌いました。そのため、1806年10月に妻子を残してケーニヒスベルクへと避難しました。しかし、1807年6月にはケーニヒスベルクにもナポレオン軍が迫ったため、さらにデンマークのコペンハーゲンへと移っています。
しかし、8月にベルリンに戻ります。そして、ドイツ国民へ向けて外国支配からの解放とドイツの独立を訴えるアピールを展開しました。外国支配から避難するのではなく、フランス占領下のベルリンで真正面からこれに向き合う道を選んだのでした。これがベルリンの科学アカデミーで14回にわたってフィヒテが行った講演『ドイツ国民に告ぐ』です。この講演『ドイツ国民に告ぐ』でフィヒテは、青年に対する国民教育を通じた国民的自覚の重要性を説き、さらにベルリンでの名声を高めました。

1810年 – 48歳「ベルリン大学教授に就任、哲学部長となる」

プロイセン再興のために構想されたベルリン大学で教授そして哲学部長に

プロイセンの学問の発展に貢献したフィヒテ

フランス支配の屈辱を味わったプロイセン。プロイセンの国王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世は、この国を精神の力によって再興させようと模索していました。国王のこのような方針を受けて、プロイセンをリードする知識人や高級官僚を育成する大学をベルリンに設立しようという動きが学者や官僚からもちあがります。
そのような中、哲学者としてプロイセン国内で影響力を高めていたフィヒテは、「ベルリンに設立予定の科学アカデミーと密接に結びついた、高等教授施設の演繹的プラン」という大学設立の建白書を国王に提出しました。このような働きかけの結果、1810年にベルリン大学(現在のフンボルト大学)が設立されました。フィヒテはベルリン大学の教授に就任し、哲学部長として活躍しました。

1811年 – 49歳「ベルリン大学初代学長に就任」

初代学長に就任するも評議会と対立し辞任

1811年に初めて行われたベルリン大学の学長選挙では、大学設立構想で大きな役割を果たし、ベルリン大学教授となったフィヒテが初代学長に選出されました。フィヒテは、これからベルリン大学の学長としてプロイセンの精神的再興とそれを牽引する社会的指導者を育成することが期待されていました。
ところが、その翌年、学長であるフィヒテにとって悩ましい事件が発生しました。学生による決闘事件です。事件に関与した学生の処分をめぐって、フィヒテは大学の評議会と意見が鋭く対立します。こうして結局、フィヒテは学長の職を辞することになってしまいました。一教授となったフィヒテは研究と教育に尽くしました

1814年 – 52歳「死亡」

ヨアンナ夫人の看病の末に

最後は病に倒れてしまう

プロイセン国王によってフランス軍に対する「解放戦争」が宣言されると、フィヒテの妻であるヨアンナ夫人はこれに応じて篤志看護婦を志願しました。こうしてヨアンナ夫人は看護師となりますが、これが大変な結果をもたらすことになります。1814年1月初頭、ヨアンナ夫人は看護師として勤務していた病院でチフスに感染しました。
フィヒテは大学での講義を続けていましたが、それが終わると献身的にヨアンナ夫人の看病を続けました。その結果、ヨアンナ夫人の病状は最悪の事態を脱しました。ところが、なんとフィヒテ自身が感染してしまいました。フィヒテはチフスに苦しみ、容態は急速に悪化します。そしてついに、1月27日に波乱に満ちた人生を終えることになりました。

ベルリンの墓地に埋葬、横にはヘーゲル夫妻の墓が!?

フィヒテの遺骸は、1月31日にベルリンにあるドローテン墓地に埋葬されました。ヨアンナ夫人もその5年後の1819年に亡くなり、同じ場所に夫婦で埋葬されました。
フィヒテの後継者として「ドイツ観念論の大成者」とされるヘーゲルは、フィヒテを生涯にわたって非常に尊敬していました。そのため、ヘーゲルは死後もフィヒテの墓の横に埋葬されることを希望します。その希望によって、のちにフィヒテ夫妻の墓と並んでヘーゲル夫妻の墓が建立され、ヘーゲルはそこに埋葬されました。今日もフィヒテとヘーゲルは横に埋葬され、祖国ドイツのあゆみを見守っています。

フィヒテの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

フィヒテ (Century Books―人と思想)

哲学者の生涯と思想をまとめた「人と思想」シリーズの一冊です。難解なフィヒテ関連の本の中で、比較的やさしい言葉でフィヒテの一生と思想に触れることができます。

フィヒテを読む

難解なフィヒテの思想を読み解くための本です。著者は国際J.G.フィヒテ協会会長などを歴任したフィヒテ哲学研究の第一人者で、本書はその日本語訳となります。そもそもフィヒテの思想自体が難解なので、ある程度哲学の知識があって、フィヒテの読解に挑戦してみたい、という人向きです。

関連外部リンク

フィヒテについてのまとめ

貧しい家庭で育ち、優れた記憶力を持ちながらも学校に通えず不遇な少年時代を過ごしたフィヒテ。だからこそ、教育の重要性を生涯訴え続け、また自身も研究者であると同時に教育者として生き抜きました。

教育を通じて社会を良くしようという彼の構想は、単に自己のスキル獲得のための手段に成り下がっているように見える、現在の教育に欠けているものを問いかけているように感じます。私たちが小学校以来学んできたことで、社会にどう貢献できるのか、フィヒテの生涯から今一度考えてみたいものです。

1 2 3

コメントを残す