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天才画家ルノワールとはどんな人物?代表作品や名言まとめ【年表付】

ピエール=オーギュスト・ルノワールは1800年代を代表するフランスの画家です。彼が育った環境は貧しく、彼自身も13才の頃から働きました。お皿に色を塗ったり、お店の壁をデザインするなど職人として働いていたのですが、職人として働くことが困難になったルノワールは20才で画家になることを決めます。

時には戦争に兵隊として参加したり、スパイと間違われて逮捕されたりしましたがそんな中でも絵を描くことへの情熱が消えることはありませんでした。

ピエール=オーギュスト・ルノワール

彼の作品は光の加減や女性の美しさを追及し続けたことが特徴で、教科書でも見たことがあるであろう「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」や「舟遊びをする人々の昼食」など主に人物画を描き、78才で亡くなるまでに4000点以上もの作品を作ったとされています。

当初は画家として認められなかったものの晩年にはレジオンドヌール勲章に選ばれたり、大規模な個展が開かれたりと画家として巨匠と言われるまでになりました。

また生前はもちろん現代においても日本のみならず世界各国でルノワール展が開催されるなど人気の高い画家となっています。

本記事ではルノワールの誕生から美術界の巨匠にまでなった生涯や、絵に込められた想いに魅了され数々の作品を見てきた筆者が、ルノワールの生涯や代表的な作品、さらには特徴などを幅広くご紹介していきたいと思います。

ルノワールとはどんな人?

名前ピエール=オーギュスト・ルノワール
誕生日1841年2月25日
生地フランス王国 オート=ヴィエンヌ県リモージュ
没日1919年12月3日(78才)
没地フランス共和国
アルプ=マリティーム県カーニュ
=シュル=メール
配偶者アリーヌ・シャリゴ
埋葬場所フランス オーブ県エッソワ共同墓地

「光の画家」ルノワールの生涯をダイジェストで

ピエール=オーギュスト・ルノワール(1861年)

1841年、ピエール=オーギュスト・ルノワールはフランス中部に位置する街・リモージュに生まれました。小さなころから絵に興味のあった彼は13歳で絵付け職人の弟子となり、働き始めます。画家になると決意したのは20歳のときです。

画塾や美術学校に通い始め、サロンに出品し始めますが入選と落選を繰り返す日々を送ります。33歳のころ、保守的な方針をとるようになったサロンに対抗してクロード・モネやカミーユ・ピサロらと開いたのが「印象派展」です。この展示はとても評判が悪かったのですが、「印象派」という流派が知られるきっかけになりました。

けれども1878年、ルノワールは貧しさから再びサロンに出品し、印象派を離れます。40代のときには北アフリカやヨーロッパ各国を旅し、ドミニク・アングルという画家に強い影響を受けた作品を描きました。49歳で長く交際していたアリーヌ・シャリゴと結婚しています。

印象派の画家・バジールの描いた
『ルノワールの肖像』

ルノワールの絵が世間から認められるようになったのは59歳のとき、パリ万博に出品したことがきっかけです。このときの作品で彼はレジオンドヌール5等勲章を受け、個展もどんどん開けるようになりました。

69歳ごろ、長年患っていたリウマチが悪化し始め、描くことがだんだん難しくなってきます。病の身体を抱えての制作は厳しかったはずですが、それでもルノワールは喜びや暖かさに満ちた絵を生み出し続けました。1919年12月、ルノワールは78歳でその生涯を閉じました。

幸せな光景を描いた代表作

ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」

ルノワールの代表的な作品には以下のようなものがあります。

  • セーヌの水浴(1869年)
  • ムーラン・ド・ラ・ギャレット(1876年)
  • イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(1880年)
  • 舟遊びをする人々の昼食(1881年)
  • ピアノに寄る少女たち(1892年)

世界を「新しい目」で見た印象派の画家たち

印象派の由来となった
クロード・モネ『印象・日の出』

ルノワールは「印象派」という流派の代表的な画家といわれています。彼が実際に印象派の画家たちと行動をともにしていたのは、印象派が確立する10年ほど前から確立後5年ほどの間でした。ルノワールはクロード・モネらとともに印象派を生み出した画家といえます。

印象派とは、当時のフランス美術界で権力をもっていた「フランス王立美術アカデミー」や、アカデミーが支配する「サロン」に対抗して生まれた流派です。アカデミーでは歴史画が最も高貴なテーマで、さらに筆のタッチを残さない画面が最上とされていました。印象派の画家たちが描く風俗画や風景画は低俗とされ、さらに描きたいその一瞬を画面に残すために荒くなる筆触は認められなかったのです。

印象派の画家、カミーユ・ピサロ『ジャレの丘』

サロンで評価されない画家たちは、自分たちで展覧会を開くことにしました。それが「第1回印象派展」です。クロード・モネが出品した「印象、日の出」を批評家が「印象を描いただけの稚拙な絵」と評したことから「印象派」という呼び名が定着しました。

印象派の絵画は、外に出て風景や風俗を写し取るように描いているのが特徴です。その一瞬の光の移り変わりを写し取るために、ラフなタッチで時には画面を塗り残すこともあります。絵具を混ぜずに、直接キャンバスに置いていくため明るく鮮やかな画面になるため、日本では特に好まれている流派です。

ドラクロワやアングルに影響を受けた

ジャン・オノレ・フラゴナール「ぶらんこ」

扇子の装飾を仕事にしていたルノワールは、18世紀に流行した美術様式である「ロココ美術」に興味を持ち、特にブーシェやジャン・オノレ・フラゴナールなどの「色彩派」といわれる画家の絵が好きだったようです。

さらに画塾に入った際に出会ったクロード・モネとは生涯を通して交流があり、互いの作品に大きく影響しています。

画塾に通っていた頃には、19世紀に流行したロマン主義のドラクロワに影響を受け、華やかさが感じられる色彩でした。しかし、後に画家として絵について悩んだルノワールは、ドラクロワと対抗していた新古典主義の巨匠であるドミニク・アングルというフランスで活動していた画家にも影響を受け、どこか固く冷たい雰囲気に感じられる作品になった時期もあります。

そのため、ドラクロワに影響された時代とドミニク・アングルに影響された時代では大きく絵の印象が違い、ルノワールの作品の面白い部分の1つとなっています。

生前から若い画家たちに大きな影響を与え続けた

パブロ・ピカソはルノワールを「法王」と呼んだ

ルノワールの評価は生前から高く、レジオンドヌール勲章を受けたり、1904年には存命中でありながら大回顧展が開かれたりしていました。若いころは貧しさに苦しんだものの、50代ごろから徐々に評価され始めます。1892年には『ピアノに寄る少女たち』がフランス政府に4000フランで買い上げられるなど、経済的にも安定しました。

評価が安定し始めた1890年代は、ルノワール独自の画風が定着した時期でもありました。モーリス・ドニやポール・セザンヌなど若い画家たちも影響を受け、特にパブロ・ピカソはルノワールを「法王」と呼び、敬愛しました。晩年にはフランス国内だけでなく、アメリカやドイツでもルノワール展が次々開催されています。

ルノワールに大きな影響を受けた
洋画家・梅原龍三郎

日本人でルノワールに大きな影響を受けた画家に、洋画家の梅原龍三郎がいます。1908年にパリでルノワールの作品に感動した梅原は、翌年の2月に南フランスに暮らしていたルノワールのもとを訪れています。

日本でルノワールの作品が紹介されたのは雑誌『白樺』でした。『白樺』はヨーロッパ美術の紹介のほか展覧会も開催していたのですが、第4回白樺美術展でルノワールの『水浴の女』が展示されたとき、初めて彼の作品を観た日本人の反応は薄いものでした。その後、第一次世界大戦の後にルノワールの人気が急騰し、1919年に彼が亡くなったときには日本でも大々的に報じられたといわれています。

穏やかでシャイな性格で好かれたルノワール

1841年にフランスのリモージュという町で父は仕立屋で母はお針子という家庭で7人兄弟の6番目として誕生しました。

幼い頃は比較的穏やかで恥ずかしがり屋な性格だったとされており、この性格からか生涯を通して多くの画家たちと交流し親しまれていました。

クリエイター揃いの息子たち

ルノワールの次男、映画監督のジャン・ルノワール

ルノワールの息子たちはみんなクリエイティブな仕事に就きました。長男のピエールは映画や舞台で活躍した俳優です。フランス映画史上に残る名作といわれる「天井桟敷の人々」に出演しています。

次男のジャンは映画監督になりました。「大いなる幻影」「南部の人」「ピクニック」など、数々の名作を世に送り出しています。「父の描いた絵と世界観が似ている」という指摘もあり、やはり幼いころから影響を受けていたのかな、と考えさせられます。

三男のクロードは陶芸家となり、父の絵を管理していました。そのほかにもピエールの息子(つまりルノワールの孫)は、カメラマンとしてジャンの作品などに参加していました。ルノワールの血筋を辿っていくとほかにも女優や映画関係の人たちが出てきて、現在にもその芸術家の血が脈々と受け継がれていることを感じます。

リウマチで車いす生活を送った晩年

晩年は車椅子生活を余儀なくされた

晩年のルノワールはリウマチを患っており、車いすでの生活となっていました。この頃にはパブロ・ピカソやモーリス・ドニなど若い画家たちが毎日のように会いに来ていたといわれており、彼がどれだけ愛されていたかが分かります。

手術をすることもありましたが改善することはなく、体がほとんど動かなくなったルノワールですが、それでも絵を描くことを諦めず動かない手に鉛筆を括り付けて作品を作っていたとされています。

しかし1919年肺充血によりルノワールは亡くなりました。このことを聞いたクロード・モネは友人の死にひどく落ち込んだといいます。

ピエール=オーギュスト・ルノワールの名言は?

私には規則や方式は一切ない。裸婦を見る、すると幾千ものちいさな色合いが見えてくる。
その中から、生き続けるものを探し出し、そのようにして真新しい色調をキャンバスの上に躍動させるのだ。

芸術が愛らしいものであってなぜいけないんだ?世の中は不愉快なことだらけじゃないか。

痛みはいつか消えるが、美は永遠に残る。

ルノワールの絵の特徴

特徴1 光を繊細に表現している

光の表現を研究した

ルノワールをはじめ、印象派と呼ばれる画家たちは光のあり方を研究しました。光というのは見たまま描くのは難しいとされ、複雑に配色しなければなりません。そのため何色もの色を使い、優しい光の射し方を表現しているのです。

中でもルノワールの作品は柔らかい光が表現されており、光の陰影も含めとても繊細な作風となっていて温かみのある絵画が多いです。

特徴2 女性の美の追及した作品

女性のやわらかな表現を追求した

ルノワールは女性や子供をモデルにした絵画がとても多いです。それは彼が「美」を追及し続けたからなのです。

美しいものを描きたい、その美しさを追及したいと思っていたルノワールは女性のしなやかな曲線や美しい表情を表現していました。

はじめの頃はあえて輪郭線を描かず、背景との境界線がぼやけたような作品だったのですが、次第に輪郭線をはっきりと描き陰影をつけた作品へと変化しているため同じような構成や女性でも絵の見方がガラッと変わるので面白いですよ。

ルノワールにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「ルノワールは美声だった!?」

音楽への才もあった

幼い頃から絵が上手かったルノワールですが、実は歌も上手だったそうです。そのため9才の頃にはサン・トゥスタッシュ教会の聖歌隊に入り、作曲家でもあったシャルル・グノーから歌を学んだとされています。

グノーはルノワールの歌の上手さを認め、オペラ座の合唱団に入ることを勧めましたが、父親は知り合いからルノワールを磁器職人として雇いたいと言われたためグノーの誘いを断りました。

結果、このままルノワールは聖歌隊も辞めて磁器職人となり後に画家となりましたが、もし合唱団に入っていたらと考えると面白いですよね。

都市伝説・武勇伝2「亡くなる直前 “ようやく何か分かりかけてきたような気がする。” と呟いた」

ルノワールは晩年リウマチで体が不自由になっていました。それでもなお絵を描き続けていたのですが亡くなる直前にも絵を描きたいと伝え、パレットと筆を求めたとされています。

さらには、そのパレットと筆を返した際に「ようやく何か分かりかけてきたような気がする。」と呟いたという伝説があるのです。

この言葉が本当か嘘かは分かりませんが、亡くなるまで絵を描き続けた姿勢からはルノワールの情熱がうかがえます。

ルノワールの功績

功績1「印象派の成立に携わった」

ルノワールが第1回印象派展に出品した
『劇場にて~桟敷席』

画家を目指してシャルル・グレールの画塾に入ったルノワールは、そこでクロード・モネなど後に印象派の代表画家となる友人たちと出会います。特にモネとは一緒に制作したり、肖像画を描き合ったりするなど親友と呼べる存在だったようです。

その当時、伝統的な絵画を重んじるサロンでは凝った構図で筆のタッチがわからないほどなめらかな画面が至高とされていました。ルノワールたち印象派の画家は、目の前の一瞬の色彩をそのまま写し取ることに大切にし、パレットで色を混ぜるのを止めて原色をそのまま画面に細かくのせていく「筆触分割」という手法を生み出しました。

この方法によってより臨場感のある絵が仕上がり、一瞬のきらめきを切り取ることができたのです。

功績2「印象派を自ら乗り越えた」

1881年のサロンに出品した
『ピンクとブルー』

印象派の成立に携わったルノワールですが、1878年にサロンに作品を応募します。生活の貧しさからきた行動だったのですが、印象派の仲間からは批判を受け、彼は印象派を離れて独自の画風を生み出す決意をしました。ここから彼の画風は変わっていきます。

北アフリカやヨーロッパ各国への旅を通して、ルノワールの画風は一時的にデッサン重視の「アングル風」になりました。その後、人物のボリューム感がしっかりとしていながら輪郭線はぼやけて優しい雰囲気をたたえたルノワールの画風が確立します。印象派のやさしげな色彩やタッチに、アングル風のデッサン力を加えたルノワール独自の画風ができあがったのでした。

功績3「『生きることの幸福』を描き続けた」

画面の中を幸せや喜びで満たした

ルノワールは幼いころから青年期にかけて貧しい生活を送っていました。サロン出品後もモネとは友人でありつづけましたが、そのほかの仲間たちから批判されたのも辛い経験だったでしょう。

けれども、だからこそ彼は愛らしい、牧歌的で幸福に満ちた光景を描き続けました。世の中の苦さをよく知っていたからこそ、生きることの幸せを描いたのです。信念の強い、愛情に溢れた人だったんだな、と感じます。

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