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ピエール=オーギュスト・ルノワールとはどんな人物?代表作品や名言まとめ

ピエール=オーギュスト・ルノワールは1800年代を代表するフランスの画家です。彼が育った環境は貧しく、彼自身も13才の頃から働きました。お皿に色を塗ったり、お店の壁をデザインするなど職人として働いていたのですが、アートを仕事にすることが困難になったルノワールは20才で画家になることを決めます。

時には戦争に兵隊として参加したり、スパイと間違われて逮捕されたりしましたがそんな中でも絵を描くことへの情熱が消えることはありませんでした。

ピエール=オーギュスト・ルノワール

彼の作品は光の加減や女性の美しさを追及し続けたことが特徴的で教科書でも見たことがあるであろう「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」や「舟遊びをする人々の昼食」など主に人物画を描き、78才で亡くなるまでに4000点以上もの作品を作ったとされています。

当初は画家として認められなかったものの晩年にはレジオンドヌール勲章に選ばれたり、大規模な個展が開かれたりと画家として巨匠と言われるまでになりました。

また生前はもちろん現代においても日本のみならず世界各国でルノワール展が開催されるなど人気の高い画家となっています。

本記事ではピエール=オーギュスト・ルノワールの誕生から美術界の巨匠にまでなった生涯や絵に込められた想いに魅了され数々の作品を見てきた筆者がルノワールの生涯や代表的な作品、さらには特徴などを幅広くご紹介していきたいと思います。

ピエール=オーギュスト・ルノワールとはどんな人?

名前ピエール=オーギュスト・ルノワール
誕生日1841年2月25日
生地フランス王国 オート=ヴィエンヌ県リモージュ
没日1919年12月3日(78才)
没地フランス共和国
アルプ=マリティーム県カーニュ
=シュル=メール
配偶者アリーヌ・シャリゴ
埋葬場所フランス オーブ県エッソワ共同墓地

ピエール=オーギュスト・ルノワールが影響を受けた人・流派は?

ジャン・オノレ・フラゴナール「ぶらんこ」

扇子の装飾を仕事にしていたルノワールは18世紀に流行した美術様式であるロココ絵画に興味を持ち、特にブーシェやジャン・オノレ・フラゴナールなどの色彩派と言われる画家の絵が好きだったようです。

さらに画塾に入った際に出会ったクロード・モネとは生涯を通して交流があり互いの作品に大きく影響しています。

画塾に通っていた頃には19世紀に流行したロマン主義のドラクロワに影響を受け華やかさが感じられる色彩でした。しかし、後に画家として絵について悩んだルノワールはドラクロワと対抗していた新古典主義の巨匠であるドミニク・アングルというフランスで活動していた画家にも影響を受け、どこか固く冷たい雰囲気に感じられる作品になった時期もあります。

そのため、ドラクロワに影響された時代とドミニク・アングルに影響された時代では大きく絵の印象が違い、ルノワールの作品の面白い部分の1つです。

ピエール=オーギュスト・ルノワールの代表作品は?

ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」

ルノワールの代表的な作品には以下のようなものがあります。

  • セーヌの水浴(1869年)
  • ムーラン・ド・ラ・ギャレット(1876年)
  • イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(1880年)
  • 舟遊びをする人々の昼食(1881年)
  • ピアノに寄る少女たち(1892年)

ピエール=オーギュスト・ルノワールの生まれは?

1841年にフランスのリモージュという町で父は仕立屋で母はお針子という家庭で7人兄弟の6番目として誕生しました。

幼い頃は比較的穏やかで恥ずかしがり屋な性格だったとされており、この性格からか生涯を通して多くの画家たちと交流し親しまれていました。

ピエール=オーギュスト・ルノワールの死因は?

晩年は車椅子生活を余儀なくされた

晩年のルノワールはリウマチを患っており車いすでの生活となっていました。この頃にはパブロ・ピカソやモーリス・ドニなど若い画家たちが毎日のようにピエールに会いに来ていたとされ彼がどれだけ愛されていたかが分かりますね。

手術をすることもありましたが改善することは無く、体がほとんど動かなくなったルノワールですが、それでも絵を描くことを諦めず動かない手に鉛筆を括り付けて作品を作っていたとされています。

しかし1919年肺充血によりルノワールは亡くなりました。このことを聞いたクロード・モネは友人の死にひどく落ち込んだといいます。

ピエール=オーギュスト・ルノワールの名言は?

私には規則や方式は一切ない。裸婦を見る、すると幾千ものちいさな色合いが見えてくる。
その中から、生き続けるものを探し出し、そのようにして真新しい色調をキャンバスの上に躍動させ  るのだ。

芸術が愛らしいものであってなぜいけないんだ?世の中は不愉快なことだらけじゃないか。

痛みはいつか消えるが、美は永遠に残る。

ルノワールの絵の特徴

特徴1 光を繊細に表現している

光の表現を研究した

ルノワールをはじめ印象派と呼ばれる画家たちは光のあり方を研究しました。光というのは見たまま描くのは難しいとされ複雑に色を配色しなければなりません。そのため何色もの色を使い、優しい光の射し方を表現しているのです。

中でもルノワールの作品は柔らかい光が表現されており、光の陰影も含めとても繊細な作風となっていて温かみのある絵画が多いです。

特徴2 女性の美の追及した作品

女性のやわらかな表現を追求した

ルノワールは女性や子供をモデルにした絵画がとても多いです。それは彼が「美」を追及し続けたからなのです。

美しいものを描きたい、その美しさを追及したいと思っていたルノワールは女性のしなやかな曲線や美しい表情を表現していました。

はじめの頃はあえて輪郭線を描かず、背景との境界線がぼやけたような作品だったのですが、次第に輪郭線をはっきりと描き陰影をつけた作品へと変化しているため同じような構成や女性でも絵の見方がガラッと変わるので面白いですよ。

ピエール=オーギュスト・ルノワールにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「ルノワールは美声だった!?」

音楽への才もあった

幼い頃から絵が上手かったルノワールですが実は歌も上手かったそうです。そのため9才の頃にはサン・トゥスタッシュ教会の聖歌隊に入り、作曲家でもあったシャルル・グノーから歌を学んだとされています。

グノーはルノワールの歌の上手さを認め、オペラ座の合唱団に入ることを勧めましたが父親は知り合いからルノワールを磁器職人として雇いたいと言われたためグノーの誘いを断りました。

結果、このままルノワールは聖歌隊も辞めて磁器職人となり後に画家となりましたが、もし合唱団に入っていたらと考えると面白いですよね。

都市伝説・武勇伝2「亡くなる直前 “ようやく何か分かりかけてきたような気がする。” と呟いた」

ルノワールは晩年リウマチで体が不自由になっていました。それでもなお絵を描き続けていたのですが亡くなる直前にも絵を描きたいと伝え、パレットと筆を求めたとされています。

さらには、そのパレットと筆を返した際に「ようやく何か分かりかけてきたような気がする。」と呟いたという伝説があるのです。

この言葉が本当か嘘かは分かりませんが亡くなるまで絵を描き続けた姿勢はルノワールの情熱が伺えますね。

ピエール オーギュスト ルノワールの作品年表

1864年「小さな貴婦人ロメーヌ・ラコー嬢」

ルノワール「小さな貴婦人ロメーヌ・ラコー嬢」

製造業で働いていたラコー夫妻からの要望で描いた作品で夫妻の子供を描いています。子供っぽい雰囲気も残しつつ、凛とした表情からは芯の強さも感じられますよね。

1866年「春のブーケ」

ルノワール「春のブーケ」

ルノワールを応援しており、経済的にも支えていた建築家のシャルル・ル・クールという人へ向けて描いた作品です。花の美しさ、陰影などを繊細に描いており印象派の特徴がよく出ている絵画になっています。

1867年「フレデリック・バジール」

ルノワール「フレデリック・バジール」

ルノワールと同じ印象派の画家フレデリック・バジールを描いた作品です。第2回の印象派展へも出品していた本作ではフレデリック・バジールが熱心に作品を作り上げている様子が分かります。

1869年「セーヌの水浴」

友人のクロード・モネにも似たような構成で描いた作品が発見されていることからモネと一緒にセーヌ湖畔へ訪れて並んで絵を描いたとされています。

湖に反射する光の様子や木漏れ日の様子をとてもきれいに表現しており美しい作品です。

1870年「散歩道」

ルノワール「散歩道」

若い男女が散歩をしている様子を描いた作品です。この作品も印象派の特徴である光の射し具合をうまく表現しており光の関係から黒っぽい男性と明るく白のドレスが映えている女性の対照的な明るさが作品の注目ポイントです。

1872年「アルジェリア風のパリの女たち」

ルノワール「アルジェリア風のパリの女たち」

1872年のサロンにも応募した作品でロマン主義のドラクロワから影響を受けた絵です。女性の体の曲線を上手く表現しながら衣服や床なども細かく描いています。

1874年「踊り子」

ルノワール「踊り子」

第一回印象派展に出品した作品の1つです。印象派の独特なタッチと背景と同化していくように描かれている作品は美しさが表れています。

1875年「鉛筆を持つクロード・モネ」

1876年に開催された第二回印象派展へ出品された作品の1つで、友人であったクロード・モネを描いた作品です。背景にはルノワールが度々作品に描く夾竹桃(キョウチクトウ)が描かれています。

この作品以外にもルノワールは友人であったクロード・モネをモデルとした作品を作っており仲の良さが伺えます。

1876年「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」

ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」

モンマルトルにある庶民の安らぎの場所を描いた作品です。なんと絵の中に描かれている人物のモデルはルノワールの友人たちだそうです。友人たちはこの絵のために何時間もモデルになってくれたといいます。

1878年「シャルパンティエ夫人とその子供たち」

ルノワール「シャルパンティエ夫人とその子供たち」

有名な出版事業者であったジョルジュ・シャルパンティエの夫人とその子供たちをモデルに描かれた作品です。夫人はこの作品をとても気に入り、ルノワールがお金持ちや芸能人ら様々な人物と出会うきっかけとなりました。

またこの作品に描かれている家具などは当時ヨーロッパで流行していたジャポニズムを感じさせる絵画となっています。

1880年「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」

ルノワール「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」

裕福な銀行家の娘をモデルに描いた作品で、表情はもちろん特に髪の毛は細部にこだわり描かれています。子供の愛らしさと繊細さから今もなおルノワール作品の中でも人気の高い絵画となっています。

1881年「舟遊びをするをする人々の昼食」

ルノワール「舟遊びをするをする人々の昼食」

印象派主義の傑作でもある「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」に続いて集団的に人々が過ごしている描写の作品です。この作品でもルノワールの友人たちがモデルとなっており左の犬と共にいる女性は後にルノワールの妻となるアリーヌ・シャリゴです。

またこの年以降はルノワールの絵の描き方に変化が見られるため転換期となった作品でもあります。

1883年「田舎のダンス」

ルノワール「田舎のダンス」

印象主義への疑問を感じ始めたルノワールが新たな表現方法で描いた作品です。以前よりはっきりと境界線があり人物と背景の差もしっかりとある様子が分かります。

ルノワールは当時、この作品のモデルをしていて後に妻となるアリーヌ・シャリゴに心を惹かれていました。

1884年「ヴァルジュモンの子供たちの午後」

ルノワール「ヴァルジュモンの子供たちの午後」

裕福な銀行家の家庭に生まれた娘3人を描いた作品です。左側を寒色で右側を暖色で構成しており計画的な色彩配置を行っている様子が分かります。

また今までの描き方と違っているのはこの時代、画家たちが表現方法に悩み、探究していた時代であったためです。

1885年「アリーヌ・シャリゴの肖像」

ルノワール「アリーヌ・シャリゴの肖像」

ルノワールの妻となるアリーヌ・シャリゴの肖像画です。アリーヌ・シャリゴへの愛が感じられる作品となっておりアリーヌの表情も幸せそうな様子です。

寒色を用いた本作はこの時代のルノワール作品の特徴でもあります。

1892年「ピアノに寄る少女たち」

絵が評価されたルノワールに美術館から作品の要望が来たことにより描いた作品です。ピアノに掛けられている楽譜を2人の少女が見ている本作は絵に悩んだ時期を超えルノワール独自の描き方になっています。

1897年「ピアノを弾くイヴォンヌとクリスティーヌ・ルロル」

ルノワール「ピアノを弾くイヴォンヌとクリスティーヌ・ルロル」

ピアノを弾いている少女や女性を多く描いたルノワールですがその1つがこちらの作品です。先ほど紹介した「ピアノに寄る少女たち」と同じような構成ではあるものの、印象はガラリと変わっていて白と赤の服と黒の鍵盤は色が強いのにも関わらず1つにまとまっている様子が受けられます。

1908年「アンブロワーズ・ヴォラールの肖像」

ルノワール「アンブロワーズ・ヴォラールの肖像」

画商として有名だったアンブロワーズ・ヴォラールを描いた絵です。髪や髭の繊細なタッチと机の柄、スーツのしわなど細部にまでこだわり描いたことが分かります。

ピエール=オーギュスト・ルノワールの略歴年表

1841年
ピエール=オーギュスト・ルノワール誕生
2月25日に父で仕立屋だったレオナルド・レノアと母でお針子だったマルグリート・メルレとの間に生まれました。
1844年
パリに一家で移住する
貧しかった一家は新たな仕事を得るためにルノワールが3才の頃にパリに移住しました。
1854年
絵付け職人の見習いになる
当時13才だったルノワールは経済的に貧しかったため父親の知り合いの元で働き始めます。器の絵付けの仕事でしたが絵に興味があったルノワールにとって楽しい仕事であったそうです。
1861年
画家になることを決意
仕事を順調に出来たのは束の間であったとされ機械の発達・産業革命などあらゆる時代の流れから次第に職人としての仕事は無くなり職を失いました。そんな彼が次に目指したのは画家でした。
1863年
サロンへ応募し落選と入選を繰り返す
サロンで入選することが画家として当たり前だった当時ルノワールも作品を応募しましたが初めてのサロンは落選、翌年は入選するなど落選と入選を繰り返していました。
1869年
モネを支援しながら印象派が誕生
ルノワールが画家として生活できていた一方モネはかなり貧しく、ルノワールが支援していました。モネとの過ごす時間が長くなった頃2人は新たな表現を見つけ出し「印象派」が誕生したと言われています。
1870年
戦争で生命の危機が訪れる
29才だったルノワールも当時発生していた普仏戦争への参加を命じられ戦地へ向かいました。病気にかかり生命の危機がありましたが奇跡的に生還し、再び絵を描き始めます。
1874年
第1回印象派展を開催
サロンへの応募を長年していたルノワールは入選することがあったものの、サロンの保守的な態度が気に入らず新たな展覧会を開きました。
1878年
批判していたサロンに応募し印象派から離れる
サロンに入選することが画家としての評価だった当時、食べていくためには入選するしかありませんでした。金銭的に苦しかったルノワールはサロンに応募せずにはいられず印象派の仲間から批判されたそうです。
1883年
印象派を離れ「アングル風」へ
印象派の描き方に疑問を感じ始めたためしばらくの間さまざまな地域を旅しながら感性を磨き次第に新古典派であったアングルのような描き方になりました。
1890年
アリーヌ・シャリゴと結婚
ルノワールが38才の時に出会った女性アリーヌ・シャリゴと約11年の交際を経て結婚しました。アリーヌ・シャリゴは素晴らしい妻であったそうで作品にもよく出てきます。
1900年
パリ万国博覧会に展示される
長年の画家としての活動が認められパリ万国博覧会に絵画が展示されたり、賞を獲得したりと巨匠と言われるまでになっていきます。
1910年
リウマチが悪化し歩行も困難に
長年にわたり患っていたリウマチが悪化し歩行することさえ難しくなりました。
1915年
妻アリーヌが死去
妻であったアリーヌ・シャリゴが糖尿病の悪化により亡くなりました。最愛の人の死にルノワールはとても悲しみました。
1919年
ピエール=オーギュスト・ルノワール死去
肺充血により78才で亡くなりました。

ピエール=オーギュスト・ルノワールの生涯具体年表

1841年 – 0歳「ピエール=オーギュスト・ルノワール誕生」

7人の兄弟で6番目に生まれたルノワール

1841年2月25日夫のレオナルド・レノアと妻のマルグリート・メルレとの間にルノワールは生まれました。ルノワールには5人の姉・兄と1人弟がいるため全員で7人兄弟です。

ルノワールが生まれた町リモージュは当時、再開発地域だったのですが富裕層と貧困層との差が大きかったそうでルノワール一家は子供が7人ということもあり大変貧しかったそうです。

その経済的困窮からか、ルノワールの兄弟でも2人は早くに亡くなっています。

1844年 – 3歳「パリに一家で移住する」

貧しかった一家は職を求め移住

ルーブル美術館の近くに引っ越した

仕立屋として働いていた父レオナルド・レノアですがやはり生活は苦しく1844年になると新たな職を探すため一家でパリへ移住します。

新たな家はアルジャントゥイユ通りというパリの中でも中心地でさらにルーブル美術館に近い場所でした。美術館の近くで生活していたこともあってか、小さなころから絵画については興味があったそうです。

音楽を学んでいたルノワール

絵に興味があった一方、歌も上手かったルノワールはシャルル・グノーという作曲家がしていた教会の聖歌隊に入り音楽を学んでいました。

その歌声はグノーも驚くほどの美しい声であったとされ、グノーはルノワールの両親に対し彼をオペラ座の合唱団に入れるべきだと言ったそう。しかしながら、貧困だったため父は知り合いからの仕事の提供を優先し、合唱団の入団を断ったという話があります。

1854年 – 13歳「絵付け職人の見習いになる」

弟子として始めた絵付け

絵付けの仕事を始める

困窮していた一家に父の知り合いからルノワールを絵付けの弟子にしたいという話がありました。そのためルノワールは聖歌隊から去ることを決め絵付けの弟子として働き始めました。

絵に興味があった彼には絵付けという仕事が合っており、この頃からしばしば家の近くにあったルーブル美術館に通いながら絵の勉強もしていたとされています。弟子として働き始め4年になる頃、次第に機械化が進みさらには産業革命が起こりました。

これらの出来事はルノワールの職が無くなることを意味し結局、絵付け職人になることはなくルノワールは新たな仕事を探し出しました。

さまざまな仕事を行いながらデッサンに通う

絵付け職人を諦めたルノワールはその後、美術様式の1つであるロココ時代に有名だった画家たちの作品を扇子に描く仕事やお店の壁に絵を描くなどの仕事をしていました。

そして絵をもっと極めたいと考えた彼は仕事をする傍ら空き時間には無料のデッサンを学べる学校に通い、コツコツと絵について勉強しました。

その努力もあってか、ルーブル美術館では模写をしても良いとの判断もされたそうです。

1861年 – 20歳「画家になることを決意」

絵への関心はさらに深まり画塾へ

画塾の経営者シャルル・グレール

13才から仕事をしていたルノワールですが機械化により絵付けの職を失い、その後の仕事でも安定的な収入は得られませんでした。

さらに彼の絵に対しての関心は高くなる一方であったためルノワールは画塾に通うことを決めます。この画塾はシャルル・グレールという画家が開いた塾で後に有名になる画家クロード・モネやフレデリック・バジールも入塾しています。

塾で出会った画家たちとは以降、塾を辞めた後でも交流はあり彼の人生で大切な期間であったことが伺えます。

美術学校にも通い精力的に絵を学んだ

画塾へ通いながら美術の学校にも通っていたルノワールはデッサンや解剖学を学んでいました。しかし当時、派手な色彩で「良くない」と排除されていたドラクロワに影響されて描いた作品は批判をされ先生からは怒られることもあったそうです。

また学校で行われた構図のテストでは12人中9位という結果ではあったものの、彫刻やスケッチのテストでは106人中10位とかなり高い成績を残しています。

このことから当時のルノワールは構図を深く考えることなく感覚で絵を描いていたことが分かりますね。

1863年 – 22歳「サロンへ応募し落選と入選を繰り返す」

本格的に活動を開始

サロンドパリの様子

いよいよルノワールは本格的に画家として活動します。その第一歩として彼はサロン・ド・パリという当時入選すると画家として認められる展覧会に作品を応募したのです。

しかし、結果は残念ながら落選し、展覧会に飾られることはありませんでした。それでも翌年再びサロンに応募すると今度は入選し、やっと画家として仕事ができ始めました。

サロンで落選するも地道に活動

数年にわたり入選していたサロンですが次第に審査がシビアになっていき、落選することも増えてきました。そんなルノワールを支えていた活動が肖像画を描くことです。

不特定多数の人へ向けて描く絵よりも特定の人物に向けた絵を描いた方が作品を買ってもらえる可能性が高いためルノワールは依頼してくれた人物の肖像画やその家族の肖像画を生涯を通して多く描いています。


ルグラン嬢の肖像(1875年)

1869年 – 28歳「印象派が誕生」

モネと過ごす時間が増えた時期

ルノワールと交流の深かったモネ

画塾で出会って以降、交流はずっとあったルノワールとモネですがこの時期は特に一緒にいました。その理由としてはルノワールが肖像画を描いて画家として生活できていた一方、モネはかなり貧しい状態だったためです。

ルノワールは貧しいモネに食事を持って行ったり、絵の具を買ったりと助けていました。そうして長い時間モネといた際に新たな絵の描き方が生まれ「印象派」と言われる流派が出来上がったとされています。

擁護されることもあったルノワール

当時サロンへ応募した作品の中には賛否両論になるものもありましたが、そんな中ルノワールの作品を擁護する人もでました。

それがアルセーヌ・ウーセです。彼は評論家だったのですが雑誌でルノワールとモネの作品を褒め「ルノワールを入選させたのは良い判断である。」と評価しました。こうして徐々にルノワールの作品は多くの人に見られることが増えていったとされています。

1870年 – 29歳「戦争へ出兵し生命の危機が訪れる」

普仏戦争が開始

普仏戦争

1870年の大きな出来事と言えば普仏戦争です。ルノワールも戦争に参加することになりしばらくの間戦地へ行きました。

戦地に出向いたルノワールですが衛生状態の悪さから赤痢にかかり、翌年除隊することとなりました。病気になったことで命さえも危険な状態に陥りましたが叔父に引き取られ何とか危機を脱する事ができたそうです。

その後はパリへ戻ると再び絵を描き始めました。

スパイと間違われたルノワール

スパイの容疑をかけられた

未だ戦争の混乱が続いていた頃、ルノワールは絵を描くためにセーヌ川へ訪れていました。しかしその時、敵対していた政府のスパイと間違われて逮捕されてしまう事件が起こったのです。

幸い途中で知り合いだったパリの警察官と遭遇し釈放となったものの勘違いから逮捕されていたかもしれないと考えると怖いですね。

1874年 – 33歳「第1回印象派展を開催」

サロンの方針が気に入らず印象派展を作る

戦争により新たな政府となってからはサロンも保守的な態度をとることが増えました。その影響からか、ルノワールの作品はことごとく落選しました。

そのため、ルノワールをはじめクロード・モネやカミーユ・ピサロなどは印象派の画家たちを集めて印象派だけの個展を開くことを計画したのです。

第1回印象派展にルノワールは7点ほどの作品を出し他の画家たちも作品を出品しその数は165点を超えるほどでした。しかし、この個展はとても不評で世の中には印象派の素晴らしさが伝わることはありませんでした。

ルノワールが出展した作品のひとつ「桟敷席」


ルノワールが出した7つの作品の1つ「桟敷席」(1874年)

酷評が続く中でも続けた印象派展

1回目の個展を開いた翌年は第2回印象派展を、またその翌年は第3回印象派展を開いた印象派の画家たちですがやはりほとんどが不評になってしまいました。

しかし逆に「印象派」という流派が多くの人に知られることにもなり、ルノワールは以前から行っていた肖像画の仕事も増えたとされています。

1878年 – 37歳「批判していたサロンに応募し印象派から離れる」

貧困からサロンへの復活

ルノワール「シャルパンティエ夫人とその子供たち」

数年間、サロンへの作品応募をしていなかったのですが1878年に再び参加しました。その理由として大きかったのは「貧しさ」でした。

サロンで評価されなければ画家としての価値が無いに等しかった当時は、入選することが1つの画家としての目安だったため数年サロンに参加していなかったルノワールは次第にお金に困り始めたのです。

印象派の仲間からは批判続出

生活の困窮のためにサロンへ応募したのですがサロンに不満を感じていた印象派の仲間たちからは批判をされました。

そのため第4回の印象派が開いた個展にはサロンに応募した者は参加できないというルールを新たに作られてしまったのです。しかしながらサロンに応募した作品は見事入選し、さらに高評価を得られたためルノワールにとっては画家として地位を築き上げていくきっかけになりました。


入選した作品「シャルパンティエ夫人とその子供たち」(1878年)

1883年 – 42歳「印象派を離れ「アングル風」へ」

旅に出て感性を磨いた日々

ドミニク・アングル「24才の自画像」

絵についてさらに理解を深めたかったことから北アフリカやヨーロッパ各国へ旅にでました。そこで目にした作品にはとても刺激を受けたようで特にドミニク・アングルという画家からは大きな影響を受けました。

アングルの作品と出会ったことで新たな表現技法と出会い、ここから「アングル風」という今までとは違ったどこか冷たく感じる作品へと変化していきます。


ドミニク・アングルの作品の1つ「ド・ブロイ公爵夫人の肖像」(1853年)

ルノワールの個展を開催

デュラン・リュエルという画商の支援で個展が開催されました。およそ70点にも及ぶ作品の中には現在でも有名な作品が多く展示され知名度を上げるイベントにもなったそうです。

一方で新たな表現法「アングル風」には賛否両論あり、今までルノワールを経済的に支援していた人たちの中には作品を求めなくなる人も出てきたため絵画が売れなくなった時期でもありました。


アングル風時代のルノワールの作品「雨傘」(1886年)

1890年 – 49歳「アリーヌ・シャリゴと結婚」

長い交際期間だった2人

長年の恋人との結婚

1879年に出会った2人はもともと画家とモデルという関係でした。しかしモデルのアリーヌを描いていたルノワールは徐々に恋愛感情を抱き始め次第に2人は恋人関係になったのです。

ただ2人の交際を知人たちが知ることはほとんどなく、密かに愛を育んでいました。そのわけとはアリーヌが労働階級、つまり貧困な家庭に生まれていたためです。

そのため約11年という長い間、静かに愛を育んでいたと考えられます。長い年月だったことを考えるとどれだけ2人が互いを大事に思っていたのかがわかりますね。


妻アリーヌがモデルを務めた作品の1つ「海辺にて」(1883年)

ルノワール「海辺にて」

実は結婚前に子供が生まれた

1890年に結婚した2人でしたが実は1885年に第一子となる長男ピエールが誕生しています。その後1894年には次男ジャンが誕生、さらに1901年に三男クロードが誕生しルノワール夫妻は3人の子供に恵まれました。

しかも子供たちの才能も素晴らしく、後に長男は俳優・次男は映画監督となっています。

1900年 – 59歳「ルノワールが世間から認められる」

パリ万国博覧会に参加・レジオンドヌール勲章を受賞

パリ万博博覧会

絵画が多くの人に評価されたルノワールはパリ万国博覧会へ参加します。11点の作品はどれも素晴らしく、同年レジオンドヌール勲章を受賞しました。この賞はナポレオン1世が作ったとされ、フランスの中でも1番すごい賞です。

さらに同じ年には個展を開催するなど画家として誰もが羨む仕事をこなしていました。

1910年 – 69歳「体調が悪化し描くことも難しくなる」

長い間付き合っていた病「リウマチ」

10年以上にわたり患っていた病リウマチが悪化し歩行も困難になっていました。そんな自力で歩くことも出来なくなった彼を心配し、多くの若い画家たちが家を訪れたといいます。

また体が思うように動かなくなっていた当時、自らの手に筆をくくってでも創作していたという説があり彼の情熱が伺えますね。

1915年 – 74歳「妻アリーヌが死去」

息子2人の怪我と妻の死

妻に先立たれてしまう

1914年に始まった第一次世界大戦にルノワールの息子であるピエールとジャンの2人が参加したのですが2人とも負傷をしてしまいました。

そのため妻アリーヌは2人のお見舞いに向かうことがあったのですが、そのお見舞いから帰っていた6月27日、もともと患っていた糖尿病の悪化と心筋梗塞により突然亡くなってしまいました。

病を隠していたアリーヌ

妻だったアリーヌは夫のルノワールに糖尿病であることを隠していたそうです。それはルノワールがリウマチを患っていたためです。アリーヌは自分の病を打ち明けることなく夫を看病していたのです。

アリーヌはルノワールのモデルを長年勤めた上に3人の子供を育て上げるなど妻として完璧だったとされルノワールはアリーヌが亡くなったことにひどく落ち込みました。

1919年 – 78歳「ピエール=オーギュスト・ルノワール死去」

ルノワールの終の住処

レジオンドヌール勲章とルーブル美術館

この年、フランスで最も権威ある賞のレジオンドヌール勲章を受賞しました。さらに画家になる前から通っていたルーブル美術館でルノワールの作品が展示されることになり彼はとても感動したそうです。

これらのことからルノワールは腕が動かない中でもずっと精力的に作品を作っていたことが分かりますね。

肺充血で死去

亡くなる直前まで絵を描いていたルノワールですが12月3日肺充血により78才で亡くなりました。

多くの画家たちが悲しんだルノワールの死ですが、特に長年ルノワールと交流があり、互いに刺激を得ていたクロード・モネは「私だけが残ってしまった。」ととてもショックを受けました。

たくさんの人が悲しんだ彼の死からは画家としてだけではなく人としても魅力のある人間であったと考えられますね。

ピエール=オーギュスト・ルノワールの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

ルノワール名画集 近代絵画

この本はルノワールの名作を解説している本です。解説も分かりやすく、さらに電子辞書で無料のため初めてで「どんな本を読めばいいか分からない。」といった方におススメの本となっています。

印象派という革命

ルノワールをはじめ印象派だったクロード・モネやドガなど6人の画家たちの生涯や性格を書いている本です。ルノワール1人だけでなく、印象派の画家たちの生涯を知ることで当時の時代背景や彼らの葛藤がより分かるので面白いですよ。

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世界の美術歴史人物 ピエール=オーギュスト・ルノワール vol13

ルノワールの生涯を説明している動画です。その説明の後にはたくさんの絵画の紹介があるため分かりやすく一度にルノワールを知ることができる動画となっています。

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ルノワール 陽だまりの裸婦

ルノワールの晩年にフォーカスをあてた作品で、「浴女たち」という絵画がどうして誕生したのかを明かしている映画です。ルノワールやその子供たちの関係性も分かり大変面白い作品です。

ピエール=オーギュスト・ルノワールについてのまとめ

本記事ではピエール=オーギュスト・ルノワールの生涯や絵画を年表にしてまとめましたがいかがでしたでしょうか?

同じ人物が描いている作品でも時代や年齢、影響を受けたものによって全く違うような作品になるのは絵画を見る上で大変面白く、興味深いものですよね。

筆者としては何も知らないまま作品を見ることもいいと思いますが、人物を知りその上で作品を見ると新たな発見や新たな感情が湧いてきて楽しめると思っています。

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