ピエール オーギュスト ルノワールの作品年表
1864年「小さな貴婦人ロメーヌ・ラコー嬢」
製造業で働いていたラコー夫妻からの要望で描いた作品で、夫妻の子供を描いています。子供っぽい雰囲気も残しつつ、凛とした表情からは芯の強さも感じられますよね。
1866年「春のブーケ」
ルノワールを応援しており、経済的にも支えていた建築家のシャルル・ル・クールという人へ向けて描いた作品です。花の美しさ、陰影などを繊細に描いており印象派の特徴がよく出ている絵画になっています。
1867年「フレデリック・バジール」
ルノワールと同じ印象派の画家、フレデリック・バジールを描いた作品です。第2回の印象派展へも出品していた本作ではフレデリック・バジールが熱心に作品を作り上げている様子が分かります。
1869年「セーヌの水浴」
友人のクロード・モネにも似たような構成で描いた作品が発見されていることからモネと一緒にセーヌ湖畔へ訪れて並んで絵を描いたとされています。
湖に反射する光の様子や木漏れ日の様子をとてもきれいに表現しており美しい作品です。
1870年「散歩道」
若い男女が散歩をしている様子を描いた作品です。この作品も印象派の特徴である光の射し具合をうまく表現しており、光の関係から黒っぽい男性と明るく白のドレスが映えている女性の対照的な明るさが作品の注目ポイントです。
1872年「アルジェリア風のパリの女たち」
1872年のサロンにも応募した作品でロマン主義のドラクロワから影響を受けた絵です。女性の体の曲線を上手く表現しながら衣服や床なども細かく描いています。
1874年「踊り子」
第一回印象派展に出品した作品の1つです。印象派の独特なタッチと背景と同化していくように描かれている作品は美しさが表れています。
1875年「絵筆を持つクロード・モネ」
1876年に開催された第二回印象派展へ出品された作品の1つで、友人であったクロード・モネを描いた作品です。背景にはルノワールが度々作品に描く夾竹桃(キョウチクトウ)が描かれています。
この作品以外にもルノワールは友人であったクロード・モネをモデルとした作品を作っており仲の良さが伺えます。
1876年「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」
モンマルトルにある庶民の安らぎの場所を描いた作品です。なんと絵の中に描かれている人物のモデルはルノワールの友人たちだそうです。友人たちはこの絵のために何時間もモデルになってくれたといいます。
1878年「シャルパンティエ夫人とその子供たち」
有名な出版事業者であったジョルジュ・シャルパンティエの夫人とその子供たちをモデルに描かれた作品です。夫人はこの作品をとても気に入り、ルノワールがお金持ちや芸能人ら様々な人物と出会うきっかけとなりました。
またこの作品に描かれている家具などは当時ヨーロッパで流行していたジャポニズムを感じさせる絵画となっています。
1880年「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」
裕福な銀行家の娘をモデルに描いた作品で、表情はもちろん特に髪の毛は細部にこだわり描かれています。子供の愛らしさと繊細さから、今もなおルノワール作品の中でも人気の高い絵画となっています。
1881年「舟遊びをするをする人々の昼食」
印象派主義の傑作でもある「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」に続いて集団的に人々が過ごしている描写の作品です。この作品でもルノワールの友人たちがモデルとなっており、左の犬と共にいる女性は後にルノワールの妻となるアリーヌ・シャリゴです。
またこの年以降はルノワールの絵の描き方に変化が見られるため転換期となった作品でもあります。
1883年「田舎のダンス」
印象主義への疑問を感じ始めたルノワールが新たな表現方法で描いた作品です。以前よりはっきりと境界線があり、人物と背景の差もしっかりとある様子が分かります。
ルノワールは当時、この作品のモデルをしていて後に妻となるアリーヌ・シャリゴに心を惹かれていました。
1884年「ヴァルジュモンの子供たちの午後」
裕福な銀行家の家庭に生まれた娘3人を描いた作品です。左側を寒色で右側を暖色で構成しており計画的な色彩配置を行っている様子が分かります。
また今までの描き方と違っているのはこの時代、画家たちが表現方法に悩み、探究していた時代であったためです。
1885年「アリーヌ・シャリゴの肖像」
ルノワールの妻となるアリーヌ・シャリゴの肖像画です。アリーヌ・シャリゴへの愛が感じられる作品となっておりアリーヌの表情も幸せそうな様子です。
寒色を用いた本作はこの時代のルノワール作品の特徴でもあります。
1892年「ピアノに寄る少女たち」
絵が評価されたルノワールに、美術館から作品の要望が来たことにより描いた作品です。ピアノに掛けられている楽譜を2人の少女が見ている本作は、絵に悩んだ時期を超えルノワール独自の描き方になっています。
1897年「ピアノを弾くイヴォンヌとクリスティーヌ・ルロル」
ピアノを弾いている少女や女性を多く描いたルノワールですが、その1つがこちらの作品です。先ほど紹介した「ピアノに寄る少女たち」と同じような構成ではあるものの印象はガラリと変わっていて、白と赤の服と黒の鍵盤は色が強いのにも関わらず1つにまとまっている様子が受けられます。
1908年「アンブロワーズ・ヴォラールの肖像」
画商として有名だったアンブロワーズ・ヴォラールを描いた絵です。髪や髭の繊細なタッチと机の柄、スーツのしわなど細部にまでこだわり描いたことが分かります。
ルノワールの略歴年表
2月25日に父で仕立屋だったレオナルド・レノアと母でお針子だったマルグリート・メルレとの間に生まれました。
貧しかった一家は新たな仕事を得るためにルノワールが3才の頃にパリに移住しました。
当時13才だったルノワールは経済的に貧しかったため父親の知り合いの元で働き始めます。器の絵付けの仕事でしたが絵に興味があったルノワールにとって楽しい仕事であったそうです。
仕事を順調に出来たのは束の間であったとされ機械の発達・産業革命などあらゆる時代の流れから次第に職人としての仕事は無くなり職を失いました。そんな彼が次に目指したのは画家でした。
サロンで入選することが画家として当たり前だった当時ルノワールも作品を応募しましたが初めてのサロンは落選、翌年は入選するなど落選と入選を繰り返していました。
ルノワールが画家として生活できていた一方モネはかなり貧しく、ルノワールが支援していました。モネとの過ごす時間が長くなった頃2人は新たな表現を見つけ出し「印象派」が誕生したと言われています。
29才だったルノワールも当時発生していた普仏戦争への参加を命じられ戦地へ向かいました。病気にかかり生命の危機がありましたが奇跡的に生還し、再び絵を描き始めます。
サロンへの応募を長年していたルノワールは入選することがあったものの、サロンの保守的な態度が気に入らず新たな展覧会を開きました。
サロンに入選することが画家としての評価だった当時、食べていくためには入選するしかありませんでした。金銭的に苦しかったルノワールはサロンに応募せずにはいられず印象派の仲間から批判されたそうです。
印象派の描き方に疑問を感じ始めたためしばらくの間さまざまな地域を旅しながら感性を磨き次第に新古典派であったアングルのような描き方になりました。
ルノワールが38才の時に出会った女性アリーヌ・シャリゴと約11年の交際を経て結婚しました。アリーヌ・シャリゴは素晴らしい妻であったそうで作品にもよく出てきます。
長年の画家としての活動が認められパリ万国博覧会に絵画が展示されたり、賞を獲得したりと巨匠と言われるまでになっていきます。
長年にわたり患っていたリウマチが悪化し歩行することさえ難しくなりました。
妻であったアリーヌ・シャリゴが糖尿病の悪化により亡くなりました。最愛の人の死にルノワールはとても悲しみました。
肺充血により78才で亡くなりました。