天才画家ルノワールとはどんな人物?代表作品や名言まとめ【年表付】

ルノワールの生涯具体年表

1841年 – 0歳「ピエール=オーギュスト・ルノワール誕生」

7人の兄弟で6番目に生まれたルノワール

1841年2月25日、夫のレオナルド・レノアと妻のマルグリート・メルレとの間にルノワールは生まれました。ルノワールには5人の姉・兄と1人の弟がいるため、全員で7人兄弟です。

ルノワールが生まれた町・リモージュは当時、再開発地域だったのですが富裕層と貧困層との差が大きかったそうで、ルノワール一家は子供が7人ということもあり大変貧しかったそうです。

その経済的困窮からか、ルノワールの兄弟でも2人は早くに亡くなっています。

1844年 – 3歳「パリに一家で移住する」

貧しかった一家は職を求め移住

ルーブル美術館の近くに引っ越した

仕立屋として働いていた父レオナルド・レノアですが、やはり生活は苦しく1844年になると新たな職を探すため一家でパリへ移住します。

新たな家はアルジャントゥイユ通りというパリの中でも中心地でさらにルーブル美術館に近い場所でした。美術館の近くで生活していたこともあってか、小さなころから絵画については興味があったそうです。

音楽を学んでいたルノワール

絵に興味があった一方、歌も上手かったルノワールはシャルル・グノーという作曲家がしていた教会の聖歌隊に入り音楽を学んでいました。

その歌声はグノーも驚くほどの美しい声であったとされ、グノーはルノワールの両親に対し彼をオペラ座の合唱団に入れるべきだと言ったそう。しかしながら、貧困だったため父は知り合いからの仕事の提供を優先し、合唱団の入団を断ったという話があります。

1854年 – 13歳「絵付け職人の見習いになる」

弟子として始めた絵付け

絵付けの仕事を始める

困窮していた一家に、父の知り合いからルノワールを絵付けの弟子にしたいという話がありました。そのためルノワールは聖歌隊から去ることを決め、絵付けの弟子として働き始めました。

絵に興味があった彼には絵付けという仕事が合っており、この頃からしばしば家の近くにあったルーブル美術館に通いながら絵の勉強もしていたとされています。弟子として働き始めて4年になる頃、絵付けの世界も次第に機械化が進み、さらには産業革命が起こりました。

これらの出来事はルノワールの職が無くなることを意味し、結局絵付け職人になることはなくルノワールは新たな仕事を探し出しました。

さまざまな仕事を行いながらデッサンに通う

絵付け職人を諦めたルノワールはその後、美術様式の1つであるロココ時代に有名だった画家たちの作品を扇子に描く仕事や、お店の壁に絵を描くなどの仕事をしていました。

そして絵をもっと極めたいと考えた彼は、仕事のかたわら空き時間には無料のデッサンを学べる学校に通い、コツコツと絵について勉強しました。

その努力もあってか、ルーブル美術館では模写をしても良いとの判断もされたそうです。

1861年 – 20歳「画家になることを決意」

絵への関心はさらに深まり画塾へ

画塾の経営者シャルル・グレール

13才から仕事をしていたルノワールですが、機械化により絵付けの職を失い、その後の仕事でも安定的な収入は得られませんでした。

さらに彼の絵に対しての関心は高くなる一方であったため、ルノワールは画塾に通うことを決めます。この画塾はシャルル・グレールという画家が開いた塾で後に有名になる画家、クロード・モネやフレデリック・バジールも入塾しています。

塾で出会った画家たちとは以降、塾を辞めた後でも交流はあり彼の人生で大切な期間であったことが伺えます。

美術学校にも通い精力的に絵を学んだ

画塾へ通いながら美術の学校にも通っていたルノワールはデッサンや解剖学を学んでいました。しかし当時、派手な色彩で「良くない」と排除されていたドラクロワに影響されて描いた作品は批判をされ、先生からは怒られることもあったそうです。

また学校で行われた構図のテストでは12人中9位という結果ではあったものの、彫刻やスケッチのテストでは106人中10位とかなり高い成績を残しています。

このことから当時のルノワールは構図を深く考えることなく感覚で絵を描いていたことが分かりますね。

1863年 – 22歳「サロンへ応募し落選と入選を繰り返す」

本格的に活動を開始

サロンドパリの様子

いよいよルノワールは本格的に画家として活動します。その第一歩として彼はサロン・ド・パリという当時入選すると画家として認められる展覧会に作品を応募したのです。

しかし、結果は残念ながら落選し、展覧会に飾られることはありませんでした。それでも翌年再びサロンに応募すると今度は入選し、やっと画家として仕事ができ始めました。

サロンで落選するも地道に活動

数年にわたり入選していたサロンですが次第に審査がシビアになっていき、落選することも増えてきました。そんなルノワールを支えていた活動が肖像画を描くことです。

不特定多数の人へ向けて描く絵よりも、特定の人物に向けた絵を描いた方が作品を買ってもらえる可能性が高いため、ルノワールは依頼してくれた人物の肖像画やその家族の肖像画を生涯を通して多く描いています。

1869年 – 28歳「印象派が誕生」

モネと過ごす時間が増えた時期

ルノワールと交流の深かったモネ

画塾で出会って以降、交流はずっとあったルノワールとモネですがこの時期は特に一緒にいました。その理由としてはルノワールが肖像画を描いて画家として生活できていた一方、モネはかなり貧しい状態だったためです。

ルノワールは貧しいモネに食事を持って行ったり、絵の具を買ったりと助けていました。そうして長い時間モネといた際に新たな絵の描き方が生まれ「印象派」と言われる流派が出来上がったとされています。

擁護されることもあったルノワール

当時サロンへ応募した作品の中には賛否両論になるものもありましたが、そんな中ルノワールの作品を擁護する人もでました。

それがアルセーヌ・ウーセです。彼は評論家だったのですが、雑誌でルノワールとモネの作品を褒め「ルノワールを入選させたのは良い判断である」と評価しました。こうして徐々にルノワールの作品は多くの人に見られることが増えていきました。

1870年 – 29歳「戦争へ出兵し生命の危機が訪れる」

普仏戦争が開始

普仏戦争

1870年の大きな出来事と言えば普仏戦争です。ルノワールも戦争に参加することになりしばらくの間戦地へ行きました。

戦地に出向いたルノワールですが、衛生状態の悪さから赤痢にかかり、翌年除隊することとなりました。病気になったことで命さえも危険な状態に陥りましたが、叔父に引き取られ何とか危機を脱する事ができたそうです。

その後はパリへ戻ると再び絵を描き始めました。

スパイと間違われたルノワール

スパイの容疑をかけられた

未だ戦争の混乱が続いていた頃、ルノワールは絵を描くためにセーヌ川へ訪れていました。しかしその時、敵対していた政府のスパイと間違われて逮捕されてしまう事件が起こったのです。

幸い途中で知り合いだったパリの警察官と遭遇し釈放となったものの、勘違いから逮捕されていたかもしれないと考えると怖いですね。

1874年 – 33歳「第1回印象派展を開催」

サロンの方針が気に入らず印象派展を作る

戦争により新たな政府となってからはサロンも保守的な態度をとることが増えました。その影響からか、ルノワールの作品はことごとく落選しました。

そのため、ルノワールをはじめクロード・モネやカミーユ・ピサロなどは印象派の画家たちを集めて印象派だけの個展を開くことを計画したのです。

第1回印象派展にルノワールは7点ほどの作品を出し、他の画家たちも作品を出品しその数は165点を超えるほどでした。しかしこの個展はとても不評で、世の中には印象派の素晴らしさが伝わることはありませんでした。

ルノワールが出展した作品のひとつ「桟敷席」

酷評が続く中でも続けた印象派展

1回目の個展を開いた翌年は第2回印象派展を、またその翌年は第3回印象派展を開いた印象派の画家たちですが、やはりほとんどが不評に終わってしまいました。

しかし逆に「印象派」という流派が多くの人に知られることにもなり、ルノワールは以前から行っていた肖像画の仕事も増えたとされています。

1878年 – 37歳「批判していたサロンに応募し印象派から離れる」

貧困からサロンへの復活

ルノワール「シャルパンティエ夫人とその子供たち」

数年間、サロンへの作品応募をしていなかったのですが1878年に再び参加しました。その理由として大きかったのは「貧しさ」でした。

サロンで評価されなければ画家としての価値がないに等しかった当時は、入選することが1つの画家としての目安だったため、数年間サロンに参加していなかったルノワールは次第にお金に困り始めたのです。

印象派の仲間からは批判続出

生活の困窮のためにサロンへ応募したのですが、サロンに不満を感じていた印象派の仲間たちからは批判をされました。

そのため第4回の印象派が開いた個展には、サロンに応募した者は参加できないというルールを新たに作られてしまったのです。しかしながらサロンに応募した作品は見事入選し、さらに高評価を得られたためルノワールにとっては画家として地位を築き上げていくきっかけになりました。

1883年 – 42歳「印象派を離れ「アングル風」へ」

旅に出て感性を磨いた日々

ドミニク・アングル「24才の自画像」

絵についてさらに理解を深めたかったことから、北アフリカやヨーロッパ各国へ旅に出ました。そこで目にした作品にはとても刺激を受けたようで、特にドミニク・アングルという画家からは大きな影響を受けました。

アングルの作品と出会ったことで新たな表現技法と出会い、ここから「アングル風」という今までとは違ったどこか冷たく感じる作品へと変化していきます。

ルノワールの個展を開催

デュラン・リュエルという画商の支援で個展が開催されました。およそ70点にも及ぶ作品の中には現在でも有名な作品が多く展示され、知名度を上げるイベントにもなったそうです。

一方で新たな表現法「アングル風」には賛否両論あり、今までルノワールを経済的に支援していた人たちの中には作品を求めなくなる人も出てきたため絵画が売れなくなった時期でもありました。

1890年 – 49歳「アリーヌ・シャリゴと結婚」

長く交際を続けていた2人

長年の恋人との結婚

1879年に出会った2人はもともと画家とモデルという関係でした。しかしモデルのアリーヌを描いていたルノワールは、徐々に恋愛感情を抱き始め次第に2人は恋人関係になったのです。

ただ2人の交際を知人たちが知ることはほとんどなく、密かに愛を育んでいました。そのわけとはアリーヌが労働階級、つまり貧困な家庭に生まれていたためです。

そのため約11年という長い間、静かに愛を育んでいたと考えられます。長い年月だったことを考えるとどれだけ2人が互いを大事に思っていたのかがわかりますね。

ルノワール「海辺にて」は
アリーヌを描いた作品の1つ

実は結婚前に子供が生まれた

1890年に結婚した2人でしたが、実は1885年に第一子となる長男ピエールが誕生しています。その後1894年には次男ジャンが誕生、さらに1901年に三男クロードが誕生し、ルノワール夫妻は3人の子供に恵まれました。

しかも子供たちの才能も素晴らしく、後に長男は俳優・次男は映画監督となっています。

1900年 – 59歳「ルノワールが世間から認められる」

パリ万国博覧会に参加・レジオンドヌール勲章を受賞

パリ万博博覧会

絵画が多くの人に評価されたルノワールは、パリ万国博覧会へ参加します。11点の作品はどれも素晴らしく、同年レジオンドヌール勲章を受賞しました。この賞はナポレオン1世が作ったとされ、フランスの中でも1番すごい賞です。

さらに同じ年には個展を開催するなど、画家として誰もが羨む仕事をこなしていました。

1910年 – 69歳「体調が悪化し描くことも難しくなる」

長い間付き合っていた病「リウマチ」

10年以上にわたり患っていた病、リウマチが悪化し歩行も困難になっていました。そんな自力で歩くことも出来なくなった彼を心配し、多くの若い画家たちが家を訪れたといいます。

また体が思うように動かなくなっていた当時、自らの手に筆をくくってでも創作していたという説があり彼の情熱がうかがえます。

1915年 – 74歳「妻アリーヌが死去」

息子2人の怪我と妻の死

妻に先立たれてしまう

1914年に始まった第一次世界大戦にルノワールの息子であるピエールとジャンの2人が参加したのですが、2人とも負傷をしてしまいました。

そのため妻アリーヌは2人のお見舞いに向かうことがあったのですが、そのお見舞いから帰っていた6月27日、もともと患っていた糖尿病の悪化と心筋梗塞により突然亡くなってしまいました。

病を隠していたアリーヌ

妻のアリーヌは、夫のルノワールに糖尿病であることを隠していたそうです。彼がリウマチを患っていたため、アリーヌは自分の病を打ち明けることなく夫を看病していたのです。

アリーヌはルノワールのモデルを長年勤めたうえに、3人の子供を育て上げるなど妻として完璧だったとされ、ルノワールはアリーヌが亡くなったことにひどく落ち込みました。

1919年 – 78歳「ピエール=オーギュスト・ルノワール死去」

ルノワールの終の住処

レジオンドヌール勲章とルーブル美術館

この年、フランスで最も権威ある賞のレジオンドヌール勲章を受賞しました。さらに画家になる前から通っていたルーブル美術館でルノワールの作品が展示されることになり、彼はとても感動したそうです。

これらのことから、ルノワールは腕が動かない中でもずっと精力的に作品を作っていたことが分かります。

肺充血で死去

亡くなる直前まで絵を描いていたルノワールですが、12月3日肺充血により78才で亡くなりました。

多くの画家たちが悲しんだルノワールの死ですが、特に長年ルノワールと交流があり、互いに刺激を得ていたクロード・モネは「私だけが残ってしまった」ととてもショックを受けました。

たくさんの人が悲しんだ彼の死からは、画家としてだけではなく人としても魅力のある人間であったと考えられますね。

ピエール=オーギュスト・ルノワールの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

ルノワール名画集 近代絵画

この本はルノワールの名作を解説している本です。解説も分かりやすく、さらに電子辞書で無料のため初めてで「どんな本を読めばいいか分からない。」といった方におススメの本となっています。

印象派という革命

ルノワールをはじめ印象派だったクロード・モネやドガなど6人の画家たちの生涯や性格を書いている本です。ルノワール1人だけでなく、印象派の画家たちの生涯を知ることで当時の時代背景や彼らの葛藤がより分かるので面白いですよ。

おすすめの動画

世界の美術歴史人物 ピエール=オーギュスト・ルノワール vol13

ルノワールの生涯を説明している動画です。その説明の後にはたくさんの絵画の紹介があるため分かりやすく一度にルノワールを知ることができる動画となっています。

おすすめの映画

ルノワール 陽だまりの裸婦

ルノワールの晩年にフォーカスをあてた作品で、「浴女たち」という絵画がどうして誕生したのかを明かしている映画です。ルノワールやその子供たちの関係性も分かり大変面白い作品です。

ルノワールについてのまとめ

本記事では、ピエール=オーギュスト・ルノワールの生涯や絵画を年表にしてまとめました。いかがでしたでしょうか?

同じ人物が描いている作品でも、時代や年齢、影響を受けたものによって全く違うような作品になるのは絵画を見るうえで大変面白く、興味深いものですよね。

筆者としては、何も知らないまま作品を見ることもいいと思いますが、人物を知りそのうえで作品を見ると新たな発見や新たな感情が湧いてきて楽しめると思っています。

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