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歌川広重の歴史・年表まとめ【代表作品や特徴、功績も紹介】

2020年のパスポートのデザインに採用されることになった世界的にも有名な絵師・葛飾北斎。実は北斎にはライバルが存在しました。

そのライバルが今回紹介する「歌川広重」です。

歌川広重の肖像画

歌川広重は、葛飾北斎が37歳で絵師として独立した1797年に江戸に誕生します。のちに北斎のライバルになる広重ですが、はじめは家督である定火消(じょうびけし)という役人仕事をやるかたわらで絵の勉強を重ねますが、なかなか絵師としての芽が出ませんでした。

しかし、北斎の「富嶽三十六景」に衝撃を受け、代表作となる「東海道五十三次」を発表。これがターニングポイントとなり北斎のライバルとして競い合うようになります。

この記事では、北斎のライバルであり日本の6大絵師にも数えられる「歌川広重」にスポットをあてて、その生涯を紹介させていただきます。

歌川広重とはどんな人?

名前歌川 広重(うたがわ ひろしげ)
誕生日寛政9年(1797年)
生地江戸 八重洲河岸(やよすがし)
没日安政5年9月6日(1858年)10月12日
配偶者火消同心の岡部弥左衛門の娘
埋葬場所 足立区伊興町 東岳寺

歌川広重の本名は?

かの有名な葛飾北斎とライバル関係にあった歌川広重。姓は「安藤」、名は幼名「徳太郎」のちに「鉄蔵」「重右衛門」「徳兵衛」と変わっていきます。

ちなみに「安藤広重」と呼ばれたり記載されたりすることもありますが、「安藤」は実名、「広重」は画号(ペンネームのようなもの)なので、本人が「安藤広重」と名乗ったことはないそうです。

ちなみにライバルの葛飾北斎も「鉄蔵」を名乗ったことがあるそうです。「鉄蔵」という名前は当時の流行りだったのかもしれませんね。

歌川広重の代表作は?

本の挿絵なども含めると、生涯で2万点にも及ぶ作品を残した歌川広重の代表作といえば以下になります。

東海道五十三次

歌川広重「五十三次 蒲原」

歌川広重といえばこれ。当時、北斎の富嶽三十六景を抜いて人気を博し、広重の名が一躍有名になった作品です。

「五十三次」なので53枚の作品からなるシリーズ作品と思われがちですが、実は55枚の作品が含まれています。

名所江戸百景 大はしあたけの夕立

歌川広重「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」

かの有名な画家・ゴッホも油絵で模写した作品です。広重の作品の特徴の一つである「雨」の表現がよく分かる作品です。

木曾海道六拾九次之内 大井

歌川広重「木曾海道六拾九次之内 大井」

「雪の表現で広重に並ぶものはいない」とまで言われている理由が分かる作品です。背景の細かい白い点で描かれた雪や松に積もる雪の表現からしんしんと雪が降り積もる風景が想像できます。

歌川広重にまつわる謎:歌川広重は東海道を旅していない?

歌川広重の名を一躍有名にした代表作「東海道五十三次」。これは広重が京都へ赴く道中で作成した東海道の53箇所の宿場のスケッチが元になっているとされてきました。

しかし最近の研究で「実は広重は東海道を旅しておらず、すでに存在していた絵などを参考に制作された」という説がでてきています。

たとえば京都の三条大橋の橋杭が石製なところを木製で描かれていたり、8月の真夏に東海道を旅したはずなのに蒲原(かんばら)では雪景色を描いていたりと、絵の描写に疑問点が見られることと、旅をしたという記録が残っていないためです。

真相のほどは謎ですが、たとえ他の絵を参考にして制作されたものだとしても大衆や海外からの支持を得ているので、素晴らしい作品であることは間違いないですね。

歌川広重の名言・辞世の句は?

東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん

(「死んだら西方浄土の名所を見てまわりたい」という意味)

友人であった三代目・歌川豊国の「死絵」に描かれています。各地の名所画である「東海道五十三次」や「名所江戸百景」などで浮世絵に「風景画」という新しいジャンルを確立した広重らしい辞世の句ですね。

歌川広重が影響を受けた・与えた人物たち

葛飾北斎

葛飾北斎の肖像画

今や世界でも有名な芸術家の一人である葛飾北斎。しかし当時は歌川広重のほうが大衆の支持を得ていたと言われています。

といっても北斎は広重の大先輩。広重の生涯の節目節目では先輩である北斎から影響を受けていたことがうかがえます。

たとえば、広重が風景画に注力し始めたきっかけは北斎の影響だったという話もあります。

また、広重の代表作である「東海道五十三次」は北斎の「富嶽三十六景」の革新的な構図や技法に焚きつけられた広重が、風景画の研鑽を重ねに重ねた末に生まれた大ヒット作だとも言われています。

狂人とまで言われる北斎と役人仕事をしながら絵師を続けた広重。正反対な二人だからこそお互いに刺激し、高め合うことができたのかもしれませんね。

ゴッホ

ゴッホ「ひまわり」

誰でも一度は目にしたことがある独特の画風で有名なオランダの印象派画家・ゴッホ。彼は浮世絵コレクターとしても有名で、そのコレクション数はなんと600枚以上。

そんな浮世絵大好きなゴッホですが、広重の絵に関してはコレクションするだけでなく多数の模写を行っています。

特に「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」や「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」の模写は構図などがほとんどそのままで模写されていることで有名です。広重の絵を隅から隅までを観察し少しでも多くを学ぼうとするゴッホの執念のような熱意を感じることができます。

ちなみにゴッホは広重が62歳で他界する5年前に誕生しています。こうやって歴史を見てみると、北斎から広重へ、そして広重からゴッホへと想いや技術が脈々と伝わっていくことが感じられて、歴史を知ることがより楽しくなってきますね。

歌川広重にまつわる都市伝説・武勇伝

武勇伝1「海外の有名なアーティストたちに多大な影響を与えた」

世界中のアーティストから注目された広重

歌川広重の作品は日本だけにとどまらず、海外の有名なアーティストたちに多大な影響を与えました。特にゴッホは広重の浮世絵の模写を多数残し、また書簡の中で広重に対する敬意を綴っています。

日本の芸術を研究してみると、あきらかに賢者であり哲学者であり知者である人物に出合う。彼は歳月をどう過しているのだろう。地球と月との距離を研究しているのか、いやそうではない。ビスマルクの政策を研究しているのか、いやそうでもない。彼はただ一茎の草の芽を研究しているのだ。ところが、この草の芽が彼に、あらゆる植物を、つぎには季節を、田園の広々とした風景を、さらには動物を、人間の顔を描けるようにさせるのだ。こうして彼はその生涯を送るのだが、すべてを描きつくすには人生はあまりにも短い。いいかね、彼らみずからが花のように、自然の中に生きていくこんなに素朴な日本人たちがわれわれに教えるものこそ、真の宗教とも言えるものではないだろうか。日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ。われわれは因襲的な世界で教育を受け仕事をしているけれども、もっと自然に帰らなければいけないのだ

(引用:「ゴッホの手紙」エミル・ベルナール 編、硲 伊之助 訳)

ここまで言われると、同じ日本人として鼻高々に感じますね。

武勇伝2「春画を描く際の画号は色重」

武勇伝と言っていいのかどうかわかりませんが…

江戸時代の絵師は春画を描くこともよくあったそうですが、広重も春画を描いていたそうです。生い立ちなどから広重には真面目そうなイメージを持っていたのでちょっと意外ですね。

広重が春画を描く時に用いていた画号は「色重(いろしげ)」と言われています。ライバルである葛飾北斎の春画を描く時の画号「鉄棒ぬらぬら」と比べるとやはり広重のほうが真面目な印象は受けます。

歌川広重のクイズ

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Q1/Q30
Question Image

歌川広重の生まれはどこの国でしょう?

Q2/Q30

歌川広重の本名は次のうちどれでしょう?

Q3/Q30
Question Image

歌川広重らが活躍した時代で、江戸時代後期に下記の浮世絵などが発展した町人文化を何というでしょう?

Q4/Q30
Question Image

化政文化期に活躍した作家で、下記の作品など滑稽本を出版した人物は次のうち誰でしょう?

Q5/Q30
Question Image

広重と同じく化政文化期に活躍した浮世絵師で、下記の作品を描いた人物は次のうち誰でしょう?

Q6/Q30
Question Image

歌川広重の代表作であり、江戸日本橋から京都を目指す人々でにぎわったとされる五街道の一つは次のうちどこでしょう?

Q7/Q30
Question Image

広重の代表作「東海道五十三次」より、こちらはどの宿場町を描いたものでしょうか?

Q8/Q30
Question Image

広重の代表作「東海道五十三次」より、こちらはどの宿場町を描いたものでしょうか?

Q9/Q30
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下記の「大はしあたけの夕立」などが収録された江戸の名所が収められた作品集は次のうちどれでしょう?

Q10/Q30
Question Image

「名所江戸百景」に収録されているこちらの名所は次のうちどこでしょう?

Check Answers

このクイズの続編はこちらから回答してみてください!

【歌川広重クイズ#2】風景画で一世風靡した浮世絵師。 【歌川広重クイズ#3】風景画で一世風靡した浮世絵師。

歌川広重の略歴年表

1797年
江戸八代河岸に生誕
1797年、歌川広重は、江戸の八代河岸(やよすがし)の定火消同心(じょうびけしどうしん)、安藤源右衛門の長男として生誕しました。
幼名は徳太郎、のちに重右衛門、鉄蔵、徳兵衛と名前を変えました。
1809年
13歳にして家督を継ぐ
1809年(文化6年)2月に母が他界し、父も同年12月に他界します。これにより広重は13歳にして家督を継ぐことになりました。

江戸時代の男子の元服は15歳と言われているので、当時としても家督を早く継いだことになります。幼い頃から絵心はあったとはいえ、絵師になるどころではなかなったのではないかと思います。

1811年
歌川豊広に弟子入り
家督を継いだものの絵を描くことを諦めきれない広重は絵師の元に弟子入りすることを決意します。

はじめ、歌川豊国への弟子入りを希望しましたが、門下生が満員ということで断られ、結局は歌川豊広の元に弟子入りすることになりました。

1812年
「歌川広重」の名を与えられる
弟子入りの翌年には、師である歌川豊広と自らの名前から一文字ずつとって「歌川広重」の名を与えられました。
1818年
「一遊斎」としてデビュー
1818年(文政元年)、「一遊斎」の画号で錦絵「中村芝翫(しかん)の平清盛と中村大吉の八条局(はちじょうのつぼね)」と「中村芝翫の茶筌売(ちゃせんうり)と坂東三津五郎の夜そば売」の2図を発表します。これが広重のデビュー作と言われています。
1821年
結婚
1821年(文政4年)、広重は同じ火消し同心の岡部弥左衛門の娘と結婚します。
1823年
家督を譲り絵師に専念
1823年(文政6年)、祖父の息子・仲次郎に家督を譲ります。家督は譲ったものの仲次郎はまだ8歳だったため引き続き代番を勤めました。

代番を勤めてはいたものの、家督自体は譲ったためほぼ絵師業にセ専念できる状態になりました。

1828年
師である豊広が他界。風景画に注力
1828年(文政11年)、師である歌川豊広が他界します。そしてこの頃から広重は風景画の制作に注力していきます。

これには、師である豊広の死や遺言から何かしら思うところがあったのではないか、という説や当時人気を博していた葛飾北斎に刺激を受けて、といった説があります。

1831年
東都名所を版行するもあまり売れず
1831年(天保2年)、自信作である「東都名所」を版行しましたがあまり売れませんでした。というのも、同時期に葛飾北斎が「富嶽三十六景」を版行していたからです。

この出来事が広重に火を付けて、のちに大ヒットとなる「東海道五十三次」の制作につながったとも言われています。

1832年
正式に家督をゆずり絵師に専念
1832年(天保3年)、仲次郎が17歳で元服したため代番を勤めていた家督を正式に譲り、いよいよ絵師業に専念することができるようになりました。
1833年
「東海道五十三次」を発表し大ヒット
1833年(天保4年)、広重の代表作「東海道五十三次」が版元「保永堂」から版行されます。当時の行楽ブームも相まってこの作品は大ヒット。風景画家としての広重の名は葛飾北斎以上に世間に評価されることになりました。

この頃から葛飾北斎とは、お互いに意識し合うライバルのような関係だったそうです。世間も「技巧派の北斎と叙情的・感傷的な広重」といった対比で二人の天才絵師を評価していた、とも言われています。

1841年
甲府へ向かい39枚の幕絵を制作
1841年(天保12年)、広重は現在の山梨県若松町である甲府縁町一丁目の町人から甲府道祖神祭礼に使用する幕絵の制作を依頼され、甲府に向かいました。

このときの記録は「甲州日記」に残されていて、東海道の風景画描かれた39枚の幕絵を描き、5両の報酬を得たと記されています。また、幕絵の他にも甲府町人からの依頼で屏風絵や襖絵の制作も行っていたそうです。

1848年
200点以上の肉筆画「天童広重」
1848年(嘉永元年)、広重は天童藩からの依頼で200点以上に及ぶ肉筆の浮世絵を制作します。この作品には遠近法が用いられていたことも有名です。

また、短期間で大量に制作されたことから、広重だけでなく弟子の作品も含まれているとされています。

1849年
葛飾北斎、他界
1849年(嘉永2年)、広重のライバル的存在の葛飾北斎が90歳で他界します。直接的な交流についての情報は殆ど残されていませんが、広重は北斎の死を惜しんでいたに違いありません。
1853年
ゴッホ生誕
1853年、開国を求めて黒船が日本へ来航します。そしてその同年、オランダの地に、のちに広重の浮世絵を多数模写し多大な影響を受けることになるゴッホが生誕します。
1856年
118枚の大作「名所江戸百景」、ジャポニズム
1856年(安政3年)、広重の制作意欲は60歳になっても衰えず、118枚からなる「名所江戸百景」を制作しました。

また同時期に海外では、北斎の「北斎漫画」がきっかけでジャポニズムが起こっていました。その中で広重の作品も鮮やかな藍色から「ヒロシゲブルー」と呼ばれ、ジャポニズムをさらに盛り上げました。

1858年
コレラに感染し62歳で他界
1858年(安政5年)8月、感染症のコレラが日本で大流行。江戸では10万人以上の死者が出るほどの猛威をふるったそうです。広重もコレラに感染し62歳で他界しました。

歌川広重の具体年表

1797年 – 0歳「江戸八代洲河岸に生誕」

江戸の定火消屋敷の息子として誕生

歌川広重は1979年(寛政9年)、江戸の八代洲河岸(やよすがし)定火消(じょうびけし)屋敷の同心である安藤源右衛門の息子として誕生します。

TIPS:定火消とは
1657年(明暦3年)に起きた大火災を教訓に幕府の命で設立された、江戸城の火災警戒専門の組織。定火消の火消し人足は臥煙(がえん)と呼ばれ広重の描いた火事絵「江戸乃華」にも記述があります。

定火消出動の様子

広重の父である源右衛門はもともとは田中家の人間でしたが安藤家に婿養子として入り、長女、次女、長男の広重、そして広重の下に三女をもうけました。

幼い頃から絵心があった広重

広重は幼い頃から絵が得意で、10 歳の頃には琉球使節の行列の絵を描いて父を驚かせたそうです。

ただ、この後すぐに絵師としてデビューするわけではなく家督である定火消の仕事を継ぐことになります。

1809年 – 13歳「両親が他界し、家督を継ぐ」

13歳にして家督を継ぐことに

1809年(文化6年)2月に母が他界し、同年の12月に父も他界します。これにより広重は、若干13歳にして家督を継ぐことになりました。

江戸当時の男子の元服が15歳ころと言われているので、当時としても早く家督を継いだ状況です。
こういう生い立ちのせいもあるのか、ライバルと言われる葛飾北斎とは対照的に、広重には目立った逸話なども少なく真面目な人物の印象を受けます。

1811年 – 15歳「歌川豊広の門をたたく」

歌川豊国への入門を断られ歌川豊広へ入門

歌川豊広「江戸八景 待乳山夜雨」

13歳で家督を継いだものの、絵の道を諦められなかった広重は1811年(文化8年)、絵師のもとに入門することを決意します。

広重はまず歌川豊国の門をたたきます。しかし、歌川派の中興の祖とも言われ大変人気だった歌川豊国のもとにはすでに多数の門下生がいて、満員を理由に入門を断られてしまいます。

広重はそれでも諦めきれず、歌川派の歌川豊広のもとに弟子入りします。その後、20年に渡り歌川豊広のもとで絵の研鑽を重ねることになります。

1812年 – 16歳「「歌川広重」の名を与えられる」

師の名前と自分の名前から一字ずつとって「広重」

1812年(文化9年)、広重は師である豊広と自らの名前から一字ずつとって「広重」という名前を与えられます。

入門して翌年には名前を与えられたことからも実力は認められていたのだと思います。ただ、このあと芽が出るまでには数十年の歳月がかかります。

1818年 – 22歳「「一遊斎」としてデビュー」

画号を「一遊斎」としてデビュー

1818年(文政元年)に「一遊斎」の画号を使用して錦絵「中村芝翫(しかん)の平清盛と中村大吉の八条局(はちじょうのつぼね)」と「中村芝翫の茶筌売(ちゃせんうり)と坂東三津五郎の夜そば売」の2図を発表します。これが広重のデビュー作と言われています。

1821年 – 25歳「結婚」

火消し同心の娘と結婚

1821年(文政4年)には、自分と同じ火消し同心の岡部弥左衛門の娘と結婚します。家族についての情報はあまり残されていませんが、特に目立ったエピソードも知られていないので円満な家庭を築いていたのではないでしょうか。

1823年 – 27歳「家督を譲る」

家督を譲り絵師業に注力するように

広重は絵に没頭したいと望んでいた

1823年(文政6年)、広重は祖父方の息子である仲次郎に家督を譲ります。絵師業に専念したい、という思いがあったのかもしれません。

ただこの時、仲次郎はまだ8歳であったため完全に家督を譲ることにはならず、広重は代番として引き続き定火消の仕事を続けます。

代番で仕事は続けるものの、家督自体を譲ったことで絵師業へ注力できるようになってきたとのだと思います。この頃あたりから広重の作品が多く発表されるようになっていきます。

1828年 – 32歳「師・豊広の他界と風景画への思い」

師・歌川豊広が他界、風景画の制作に注力しはじめる

後に自身の代名詞となる風景画に取り組み始める

1828年(文政11年)、広重が約20年に渡り師事した歌川豊広が他界します。そしてこの頃から広重は風景画の制作に注力するようになっていきます。

風景画に注力しはじめた理由には諸説あり、師である豊広の遺言に何かしら書かれていたというものや、当時人気を博していた葛飾北斎の影響を受けて、というものがあります。

個人的には、北斎からの影響を受けつつ、師からの何かしらの言葉がきっかけで、風景画に注力するようになったんじゃないかなと思います。

1831年 – 35歳「「東都名所」を出版するも売れず」

自信作「東都名所」を出版するも北斎の影響で売れなかった

歌川広重「東都名所 御茶之水之図」

1831年(天保2年)、風景画に注力しはじめて3年後。広重は自信作である「東都名所」を発表します。しかし自信作にも関わらずこの作品はあまり売れませんでした。

それもそのはず、同じタイミングで北斎が「富嶽三十六景」を発表し世間の目は全てそちらに向いていたからです。「富嶽三十六景」は行楽ブームも相まって大ベストセラーとなっていました。

北斎の「富嶽三十六景」に焚きつけられる

葛飾北斎「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」

広重は自信作の「東都名所」が売れなかったことにショックを受けつつも、北斎の「富嶽三十六景」の斬新な表現方法に衝撃を受けて、かえって意欲を掻き立てられたといいます。

この時に画号も「一立斎」に改めています。浮世絵風景画の新たな境地を開拓する意気込みの現れだと言われています。

一説には、教えを請うために北斎のもとへたびたび訪れていた、とも言われています。

1832年 – 36歳「家督を本格的に譲り絵師業に専念」

家督を本格的に譲り絵師業に専念

歌川広重「近江八景図」

以前家督を譲った仲次郎が17歳で元服したため正式に家督を譲り絵師業に専念できるようになりました。

定火消の仕事をしているときには中々できなかった絵の研鑽がやっとできるようにり、このころには文人画家・大岡雲峰(うんぽう)のもとで中国の南宗画に由来する南画(文人画)を学んだと言われています。

京都御所へ訪れていた?

1832年(天保3年)の夏、広重は八朔御馬進献の行事を記録するために京都へ向かい、その道中のスケッチをもとに「東海道五十三次」を描いた、という説があります。

しかし、実は京都へ行ってはいない(「東海道五十三次」も実際のスケッチから制作されたものではない)のではないか、という説も存在します。

1833年 – 37歳「「東海道五十三次」を版行」

歌川広重「東海道五十三次 日本橋」

代表作「東海道五十三次」を版行し一躍有名に

1833年(天保4年)、広重は版元「保永堂」から東海道をテーマにした「東海道五十三次」を版行します。

この「東海道五十三次」は行楽ブームや、少し前に発表され流行していた十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」の主人公を登場させるなどのマーケティング的な工夫もあり、北斎の「富嶽三十六景」以上の大ヒットとなります。

当時の東海道の旅

歌川広重「東海道五十三次 平塚 縄手道」

東海道は日本橋から京都までの約490kmを結ぶ街道で、53箇所に宿場が設置されていました。街道であり宿場があるとは言いえ、途中には箱根、鈴鹿などの峠、大井川や天竜川といった大河川、伊勢湾といった難所があり楽な旅ではありませんでした。

男性だと1日約40キロほど歩き、大体10~14日間で江戸から京都まで歩き通していたそうです。一方で幕府公用の重要な文書を運ぶ継飛脚(つぎびきゃく)は約3日間でこの距離を走りきったと言われています。

ちなみに、継飛脚は宿から宿へ文書や品物をリレーしながら目的地まで届けていました。一人で全距離を走りきっていたわけではないようです。

「東海道五十三次」は実は55枚の絵からなる

歌川広重「東海道五十三次 原(保英永版)」

広重の代表作として有名な「東海道五十三次」。名前から53枚の絵で構成されると思いきや、実は55枚の絵で構成されています。

というのも、東海道の53箇所の宿場町に加えて出発点と終着点の日本橋と京都の2枚の絵が加わっているからです。

技巧派の北斎と叙情的・感傷的な広重

「東海道五十三次」をキッカケに一躍有名になった広重。この頃から当時すでに人気だった北斎とは「技巧派の北斎、叙情的・感傷的な広重」と言われ、風景画以外でも競い合うようになります。

実際には世間が勝手に比べていただけで、当人たちは意識はするものの競い合う、という感じではなかったのではないかと思います。

1841年 – 45歳「甲府へ向かう」

歌川広重「不二三十六景 甲斐夢山裏富士」

幕絵制作の依頼を受け甲府へ

1841年(天保12年)、広重は現在の山梨県若松町である甲府縁町一丁目の町人から甲府道祖神祭礼に使用する幕絵の制作を依頼され、甲府に向かいました。

甲府では東海道の風景が描かれた39枚の幕絵を描き、また幕絵の他にも甲府町人からの依頼で屏風絵や襖絵の制作も行ったそうです。

旅の記録、甲州日記

広重は江戸から甲府に向かう道中や甲府滞在中に風景のスケッチや芝居見物や接待された料理屋での感想、記録を残しました。

これは「甲州日記」と呼ばれ、当時の甲府城下町の状況を知ることができる貴重な記録資料とされています。

1848年 – 52歳「「天童広重」の制作」

歌川広重「犬目峠春景図・猿橋冬景図」

200点以上からなる「天童広重」を制作

1848年(嘉永元年)、広重は天童藩からの依頼で200点以上に及ぶ肉筆の浮世絵を制作します。

当時の天童藩は財政難で、裕福な商人や農民からも借金をしている状態でしたが、返金することができず代わりに広重の作品を譲ったとされています。

「天童広重」は弟子とともに制作した?

200点以上の作品からなる「天童広重」ですが、短期間に大量に制作されたことから、広重だけでなく弟子の制作した作品も含まれていると言われています。

この「天童広重」には当時まだ珍しい遠近法を利用した作品も含まれていたそうです。

1849年 – 53歳「葛飾北斎、他界」

ライバル・葛飾北斎が90歳で他界

1849年(嘉永2年)、ライバルであった葛飾北斎が90歳で他界します。このときの広重の様子を知ることはできませんが、風景画だけでなく花鳥画などでも競い合い、世間でも話題になった間柄です。北斎の死を惜しんでいたに違いありません。

1853年 – 57歳「ゴッホ誕生」

のちに広重ファンになる「ゴッホ」の誕生

フィンセント・ファン・ゴッホの自画像

日本に黒船が来航した1853年(嘉永6年)、のちに世界的に有名な画家となり、また広重の作品から多大な影響をうけることになるゴッホがオランダの地で誕生します。

結局は生涯お互い実際に面識を持つことはありませんでしたが、広重が作品を残したおかげでゴッホが世界的に有名な作品を残すことができなのかもしれません。

1856年 – 60歳「118枚の大作「名所江戸百景」」

118枚の絵からなる大作「名所江戸百景」の制作

歌川広重「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」

1856年(安政3年)、60歳になっても広重の制作意欲は衰えず、最終的に118枚からなる「名所江戸百景」を制作を開始します。

制作は広重が他界する直前まで続けられ、最終的には完成させることができませんでした。しかし、広重の弟子である二代広重が続きを制作し、「一立斎広重 一世一代 江戸百景」として版行されることになります。

「ヒロシゲブルー」、海外でジャポニズムが起こる

歌川広重「京都名所之内 淀川」

同時期に海外では、北斎の「北斎漫画」がきっかけでジャポニズムが起こっていました。その中で広重の作品も鮮やかな藍色から「ヒロシゲブルー」と呼ばれ、ジャポニズムをさらに盛り上げました。

このジャポニズムは、フランスのモネやオランダのゴッホに大きな影響を与えたため、歌川広重は日本の偉大な画家として世界でも有名になります。

1858年 – 62歳「コレラに感染し他界」

歌川広重、コレラで他界

1858年(安政5年)8月、感染症のコレラが日本で大流行します。江戸でも10万人以上の死者がでるほど猛威をふるい、広重もコレラに感染し62歳で他界します。

歌川広重、辞世の句

62歳でコレラに感染し他界した広重。墓所は足立区伊興町の東岳寺でした。
広重の辞世の句は、

東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん (「死んだら西方浄土の名所を見てまわりたい」の意)

友人であった三代目・歌川豊国の「死絵」に描かれました。
北斎とともに浮世絵に「風景画」というジャンルを確立した広重らしい辞世の句ですね。

歌川広重の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

広重決定版: 没後160年記念

まずは作品の美しさを楽しむところから入る方に向いているムック本です。解説やコラムも有名な学芸員の方によって書かれているので解説書としても申し分ありません。

もっと知りたい歌川広重―生涯と作品

歌川広重の代表作だけでなく社会の動きなどについても同時に解説されているため、広重の生涯をさらに深く知りたい方には最適な本です。

くらべてわかる 北斎vs広重

歌川広重と葛飾北斎の作品を比較して解説していくという面白い企画の本です。単に広重の作品だけ見ていると気づけない観点にも気づくことができ、新たな発見を楽しむことができます。

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歌川広重についてのまとめ

もともと葛飾北斎が好きだったので彼の生涯を調べていたところ、歌川広重が北斎のライバルだったことを知りました。そして、まさか狂人とまで言われた葛飾北斎よりも大衆の支持を得ていたなんて驚きでした。

役人仕事をしながら好きだった絵を描くことを続け、最終的には世界のアーティストにも影響を与える作品を残した生き様から、好きなことを続ける大切さを改めて学ぶことができました。

この記事から歌川広重の生き様に勇気づけられたりする読者の方がいれば幸いです。

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