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歌川広重とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作品や逸話も紹介】

歌川広重にまつわる逸話

逸話1:歌川広重は東海道を旅してない?

歌川広重の名を一躍有名にした代表作「東海道五十三次」。これは広重が京都へ赴く道中で作成した東海道の53箇所の宿場のスケッチが元になっているとされてきました。

しかし最近の研究で「実は広重は東海道を旅しておらず、すでに存在していた絵などを参考に制作された」という説がでてきています。

たとえば京都の三条大橋の橋杭が石製なところを木製で描かれていたり、8月の真夏に東海道を旅したはずなのに蒲原(かんばら)では雪景色を描いていたりと、絵の描写に疑問点が見られることと、旅をしたという記録が残っていないためです。

真相のほどは謎ですが、たとえ他の絵を参考にして制作されたものだとしても大衆や海外からの支持を得ているので、素晴らしい作品であることは間違いないですね。

逸話2:「海外の有名なアーティストたちに多大な影響を与えた」

世界中のアーティストから注目された広重

歌川広重の作品は日本だけにとどまらず、海外の有名なアーティストたちに多大な影響を与えました。特にゴッホは広重の浮世絵の模写を多数残し、また書簡の中で広重に対する敬意を綴っています。

日本の芸術を研究してみると、あきらかに賢者であり哲学者であり知者である人物に出合う。彼は歳月をどう過しているのだろう。地球と月との距離を研究しているのか、いやそうではない。ビスマルクの政策を研究しているのか、いやそうでもない。彼はただ一茎の草の芽を研究しているのだ。ところが、この草の芽が彼に、あらゆる植物を、つぎには季節を、田園の広々とした風景を、さらには動物を、人間の顔を描けるようにさせるのだ。こうして彼はその生涯を送るのだが、すべてを描きつくすには人生はあまりにも短い。いいかね、彼らみずからが花のように、自然の中に生きていくこんなに素朴な日本人たちがわれわれに教えるものこそ、真の宗教とも言えるものではないだろうか。日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ。われわれは因襲的な世界で教育を受け仕事をしているけれども、もっと自然に帰らなければいけないのだ

(引用:「ゴッホの手紙」エミル・ベルナール 編、硲 伊之助 訳)

ここまで言われると、同じ日本人として鼻高々に感じますね。

逸話3:「春画を描く際の画号は色重」

歌川広重は春画も描いていた

江戸時代の絵師は春画を描くこともよくあったそうですが、広重も春画を描いていたそうです。生い立ちなどから広重には真面目そうなイメージを持っていたのでちょっと意外ですね。

広重が春画を描く時に用いていた画号は「色重(いろしげ)」と言われています。ライバルである葛飾北斎の春画を描く時の画号「鉄棒ぬらぬら」と比べるとやはり広重のほうが真面目な印象は受けます。

歌川広重のクイズ

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Q1/Q30
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歌川広重の生まれはどこの国でしょう?

Q2/Q30

歌川広重の本名は次のうちどれでしょう?

Q3/Q30
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歌川広重らが活躍した時代で、江戸時代後期に下記の浮世絵などが発展した町人文化を何というでしょう?

Q4/Q30
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化政文化期に活躍した作家で、下記の作品など滑稽本を出版した人物は次のうち誰でしょう?

Q5/Q30
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広重と同じく化政文化期に活躍した浮世絵師で、下記の作品を描いた人物は次のうち誰でしょう?

Q6/Q30
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歌川広重の代表作であり、江戸日本橋から京都を目指す人々でにぎわったとされる五街道の一つは次のうちどこでしょう?

Q7/Q30
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広重の代表作「東海道五十三次」より、こちらはどの宿場町を描いたものでしょうか?

Q8/Q30
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広重の代表作「東海道五十三次」より、こちらはどの宿場町を描いたものでしょうか?

Q9/Q30
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下記の「大はしあたけの夕立」などが収録された江戸の名所が収められた作品集は次のうちどれでしょう?

Q10/Q30
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「名所江戸百景」に収録されているこちらの名所は次のうちどこでしょう?

Check Answers

このクイズの続編はこちらから回答してみてください!

【歌川広重クイズ#2】風景画で一世風靡した浮世絵師。 【歌川広重クイズ#3】風景画で一世風靡した浮世絵師。

歌川広重の簡単年表

1797年
江戸八代河岸に生誕
1797年、歌川広重は、江戸の八代河岸(やよすがし)の定火消同心(じょうびけしどうしん)、安藤源右衛門の長男として生誕しました。
幼名は徳太郎、のちに重右衛門、鉄蔵、徳兵衛と名前を変えました。
1809年
13歳にして家督を継ぐ
1809年(文化6年)2月に母が他界し、父も同年12月に他界します。これにより広重は13歳にして家督を継ぐことになりました。

江戸時代の男子の元服は15歳と言われているので、当時としても家督を早く継いだことになります。幼い頃から絵心はあったとはいえ、絵師になるどころではなかなったのではないかと思います。

1811年
歌川豊広に弟子入り
家督を継いだものの絵を描くことを諦めきれない広重は絵師の元に弟子入りすることを決意します。

はじめ、歌川豊国への弟子入りを希望しましたが、門下生が満員ということで断られ、結局は歌川豊広の元に弟子入りすることになりました。

1812年
「歌川広重」の名を与えられる
弟子入りの翌年には、師である歌川豊広と自らの名前から一文字ずつとって「歌川広重」の名を与えられました。
1818年
「一遊斎」としてデビュー
1818年(文政元年)、「一遊斎」の画号で錦絵「中村芝翫(しかん)の平清盛と中村大吉の八条局(はちじょうのつぼね)」と「中村芝翫の茶筌売(ちゃせんうり)と坂東三津五郎の夜そば売」の2図を発表します。これが広重のデビュー作と言われています。
1821年
結婚
1821年(文政4年)、広重は同じ火消し同心の岡部弥左衛門の娘と結婚します。
1823年
家督を譲り絵師に専念
1823年(文政6年)、祖父の息子・仲次郎に家督を譲ります。家督は譲ったものの仲次郎はまだ8歳だったため引き続き代番を勤めました。

代番を勤めてはいたものの、家督自体は譲ったためほぼ絵師業にセ専念できる状態になりました。

1828年
師である豊広が他界。風景画に注力
1828年(文政11年)、師である歌川豊広が他界します。そしてこの頃から広重は風景画の制作に注力していきます。

これには、師である豊広の死や遺言から何かしら思うところがあったのではないか、という説や当時人気を博していた葛飾北斎に刺激を受けて、といった説があります。

1831年
東都名所を版行するもあまり売れず
1831年(天保2年)、自信作である「東都名所」を版行しましたがあまり売れませんでした。というのも、同時期に葛飾北斎が「富嶽三十六景」を版行していたからです。

この出来事が広重に火を付けて、のちに大ヒットとなる「東海道五十三次」の制作につながったとも言われています。

1832年
正式に家督をゆずり絵師に専念
1832年(天保3年)、仲次郎が17歳で元服したため代番を勤めていた家督を正式に譲り、いよいよ絵師業に専念することができるようになりました。
1833年
「東海道五十三次」を発表し大ヒット
1833年(天保4年)、広重の代表作「東海道五十三次」が版元「保永堂」から版行されます。当時の行楽ブームも相まってこの作品は大ヒット。風景画家としての広重の名は葛飾北斎以上に世間に評価されることになりました。

この頃から葛飾北斎とは、お互いに意識し合うライバルのような関係だったそうです。世間も「技巧派の北斎と叙情的・感傷的な広重」といった対比で二人の天才絵師を評価していた、とも言われています。

1841年
甲府へ向かい39枚の幕絵を制作
1841年(天保12年)、広重は現在の山梨県若松町である甲府縁町一丁目の町人から甲府道祖神祭礼に使用する幕絵の制作を依頼され、甲府に向かいました。

このときの記録は「甲州日記」に残されていて、東海道の風景画描かれた39枚の幕絵を描き、5両の報酬を得たと記されています。また、幕絵の他にも甲府町人からの依頼で屏風絵や襖絵の制作も行っていたそうです。

1848年
200点以上の肉筆画「天童広重」
1848年(嘉永元年)、広重は天童藩からの依頼で200点以上に及ぶ肉筆の浮世絵を制作します。この作品には遠近法が用いられていたことも有名です。

また、短期間で大量に制作されたことから、広重だけでなく弟子の作品も含まれているとされています。

1849年
葛飾北斎、他界
1849年(嘉永2年)、広重のライバル的存在の葛飾北斎が90歳で他界します。直接的な交流についての情報は殆ど残されていませんが、広重は北斎の死を惜しんでいたに違いありません。
1853年
ゴッホ生誕
1853年、開国を求めて黒船が日本へ来航します。そしてその同年、オランダの地に、のちに広重の浮世絵を多数模写し多大な影響を受けることになるゴッホが生誕します。
1856年
118枚の大作「名所江戸百景」、ジャポニズム
1856年(安政3年)、広重の制作意欲は60歳になっても衰えず、118枚からなる「名所江戸百景」を制作しました。

また同時期に海外では、北斎の「北斎漫画」がきっかけでジャポニズムが起こっていました。その中で広重の作品も鮮やかな藍色から「ヒロシゲブルー」と呼ばれ、ジャポニズムをさらに盛り上げました。

1858年
コレラに感染し62歳で他界
1858年(安政5年)8月、感染症のコレラが日本で大流行。江戸では10万人以上の死者が出るほどの猛威をふるったそうです。広重もコレラに感染し62歳で他界しました。

歌川広重の生涯年表

1797年 – 0歳「江戸八代洲河岸に生誕」

江戸の定火消屋敷の息子として誕生

歌川広重は1979年(寛政9年)、江戸の八代洲河岸(やよすがし)定火消(じょうびけし)屋敷の同心である安藤源右衛門の息子として誕生します。

TIPS:定火消とは
1657年(明暦3年)に起きた大火災を教訓に幕府の命で設立された、江戸城の火災警戒専門の組織。定火消の火消し人足は臥煙(がえん)と呼ばれ広重の描いた火事絵「江戸乃華」にも記述があります。

定火消出動の様子

広重の父である源右衛門はもともとは田中家の人間でしたが安藤家に婿養子として入り、長女、次女、長男の広重、そして広重の下に三女をもうけました。

幼い頃から絵心があった広重

広重は幼い頃から絵が得意で、10 歳の頃には琉球使節の行列の絵を描いて父を驚かせたそうです。

ただ、この後すぐに絵師としてデビューするわけではなく家督である定火消の仕事を継ぐことになります。

1809年 – 13歳「両親が他界し、家督を継ぐ」

13歳にして家督を継ぐことに

1809年(文化6年)2月に母が他界し、同年の12月に父も他界します。これにより広重は、若干13歳にして家督を継ぐことになりました。

江戸当時の男子の元服が15歳ころと言われているので、当時としても早く家督を継いだ状況です。
こういう生い立ちのせいもあるのか、ライバルと言われる葛飾北斎とは対照的に、広重には目立った逸話なども少なく真面目な人物の印象を受けます。

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3 COMMENTS

そら

めちゃくちゃ参考になりますが、
書いた浮世絵の作品もあるとよかったです

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京藤 一葉

コメントありがとうございます!記事を執筆する励みになります。

浮世絵作品に関しては更新していきます!

引き続き宜しくお願い致します。

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