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歌川広重とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作品や逸話も紹介】

1811年 – 15歳「歌川豊広の門をたたく」

歌川豊国への入門を断られ歌川豊広へ入門

歌川豊広「江戸八景 待乳山夜雨」

13歳で家督を継いだものの、絵の道を諦められなかった広重は1811年(文化8年)、絵師のもとに入門することを決意します。

広重はまず歌川豊国の門をたたきます。しかし、歌川派の中興の祖とも言われ大変人気だった歌川豊国のもとにはすでに多数の門下生がいて、満員を理由に入門を断られてしまいます。

広重はそれでも諦めきれず、歌川派の歌川豊広のもとに弟子入りします。その後、20年に渡り歌川豊広のもとで絵の研鑽を重ねることになります。

1812年 – 16歳「「歌川広重」の名を与えられる」

師の名前と自分の名前から一字ずつとって「広重」

1812年(文化9年)、広重は師である豊広と自らの名前から一字ずつとって「広重」という名前を与えられます。

入門して翌年には名前を与えられたことからも実力は認められていたのだと思います。ただ、このあと芽が出るまでには数十年の歳月がかかります。

1818年 – 22歳「「一遊斎」としてデビュー」

画号を「一遊斎」としてデビュー

1818年(文政元年)に「一遊斎」の画号を使用して錦絵「中村芝翫(しかん)の平清盛と中村大吉の八条局(はちじょうのつぼね)」と「中村芝翫の茶筌売(ちゃせんうり)と坂東三津五郎の夜そば売」の2図を発表します。これが広重のデビュー作と言われています。

1821年 – 25歳「結婚」

火消し同心の娘と結婚

1821年(文政4年)には、自分と同じ火消し同心の岡部弥左衛門の娘と結婚します。家族についての情報はあまり残されていませんが、特に目立ったエピソードも知られていないので円満な家庭を築いていたのではないでしょうか。

1823年 – 27歳「家督を譲る」

家督を譲り絵師業に注力するように

広重は絵に没頭したいと望んでいた

1823年(文政6年)、広重は祖父方の息子である仲次郎に家督を譲ります。絵師業に専念したい、という思いがあったのかもしれません。

ただこの時、仲次郎はまだ8歳であったため完全に家督を譲ることにはならず、広重は代番として引き続き定火消の仕事を続けます。

代番で仕事は続けるものの、家督自体を譲ったことで絵師業へ注力できるようになってきたとのだと思います。この頃あたりから広重の作品が多く発表されるようになっていきます。

1828年 – 32歳「師・豊広の他界と風景画への思い」

師・歌川豊広が他界、風景画の制作に注力しはじめる

後に自身の代名詞となる風景画に取り組み始める

1828年(文政11年)、広重が約20年に渡り師事した歌川豊広が他界します。そしてこの頃から広重は風景画の制作に注力するようになっていきます。

風景画に注力しはじめた理由には諸説あり、師である豊広の遺言に何かしら書かれていたというものや、当時人気を博していた葛飾北斎の影響を受けて、というものがあります。

個人的には、北斎からの影響を受けつつ、師からの何かしらの言葉がきっかけで、風景画に注力するようになったんじゃないかなと思います。

1831年 – 35歳「「東都名所」を出版するも売れず」

自信作「東都名所」を出版するも北斎の影響で売れなかった

歌川広重「東都名所 御茶之水之図」 出典:たばこと塩の博物館

1831年(天保2年)、風景画に注力しはじめて3年後。広重は自信作である「東都名所」を発表します。しかし自信作にも関わらずこの作品はあまり売れませんでした。

それもそのはず、同じタイミングで北斎が「富嶽三十六景」を発表し世間の目は全てそちらに向いていたからです。「富嶽三十六景」は行楽ブームも相まって大ベストセラーとなっていました。

北斎の「富嶽三十六景」に焚きつけられる

葛飾北斎「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」

広重は自信作の「東都名所」が売れなかったことにショックを受けつつも、北斎の「富嶽三十六景」の斬新な表現方法に衝撃を受けて、かえって意欲を掻き立てられたといいます。

この時に画号も「一立斎」に改めています。浮世絵風景画の新たな境地を開拓する意気込みの現れだと言われています。

一説には、教えを請うために北斎のもとへたびたび訪れていた、とも言われています。

1832年 – 36歳「家督を本格的に譲り絵師業に専念」

家督を本格的に譲り絵師業に専念

歌川広重「近江八景図」

以前家督を譲った仲次郎が17歳で元服したため正式に家督を譲り絵師業に専念できるようになりました。

定火消の仕事をしているときには中々できなかった絵の研鑽がやっとできるようにり、このころには文人画家・大岡雲峰(うんぽう)のもとで中国の南宗画に由来する南画(文人画)を学んだと言われています。

京都御所へ訪れていた?

1832年(天保3年)の夏、広重は八朔御馬進献の行事を記録するために京都へ向かい、その道中のスケッチをもとに「東海道五十三次」を描いた、という説があります。

しかし、実は京都へ行ってはいない(「東海道五十三次」も実際のスケッチから制作されたものではない)のではないか、という説も存在します。

1833年 – 37歳「「東海道五十三次」を版行」

歌川広重「東海道五十三次 日本橋」

代表作「東海道五十三次」を版行し一躍有名に

1833年(天保4年)、広重は版元「保永堂」から東海道をテーマにした「東海道五十三次」を版行します。

この「東海道五十三次」は行楽ブームや、少し前に発表され流行していた十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」の主人公を登場させるなどのマーケティング的な工夫もあり、北斎の「富嶽三十六景」以上の大ヒットとなります。

当時の東海道の旅

歌川広重「東海道五十三次 平塚 縄手道」

東海道は日本橋から京都までの約490kmを結ぶ街道で、53箇所に宿場が設置されていました。街道であり宿場があるとは言いえ、途中には箱根、鈴鹿などの峠、大井川や天竜川といった大河川、伊勢湾といった難所があり楽な旅ではありませんでした。

男性だと1日約40キロほど歩き、大体10~14日間で江戸から京都まで歩き通していたそうです。一方で幕府公用の重要な文書を運ぶ継飛脚(つぎびきゃく)は約3日間でこの距離を走りきったと言われています。

ちなみに、継飛脚は宿から宿へ文書や品物をリレーしながら目的地まで届けていました。一人で全距離を走りきっていたわけではないようです。

「東海道五十三次」は実は55枚の絵からなる

歌川広重「東海道五十三次 原(保英永版)」

広重の代表作として有名な「東海道五十三次」。名前から53枚の絵で構成されると思いきや、実は55枚の絵で構成されています。

というのも、東海道の53箇所の宿場町に加えて出発点と終着点の日本橋と京都の2枚の絵が加わっているからです。

技巧派の北斎と叙情的・感傷的な広重

「東海道五十三次」をキッカケに一躍有名になった広重。この頃から当時すでに人気だった北斎とは「技巧派の北斎、叙情的・感傷的な広重」と言われ、風景画以外でも競い合うようになります。

実際には世間が勝手に比べていただけで、当人たちは意識はするものの競い合う、という感じではなかったのではないかと思います。

1841年 – 45歳「甲府へ向かう」

歌川広重「不二三十六景 甲斐夢山裏富士」

幕絵制作の依頼を受け甲府へ

1841年(天保12年)、広重は現在の山梨県若松町である甲府縁町一丁目の町人から甲府道祖神祭礼に使用する幕絵の制作を依頼され、甲府に向かいました。

甲府では東海道の風景が描かれた39枚の幕絵を描き、また幕絵の他にも甲府町人からの依頼で屏風絵や襖絵の制作も行ったそうです。

旅の記録、甲州日記

広重は江戸から甲府に向かう道中や甲府滞在中に風景のスケッチや芝居見物や接待された料理屋での感想、記録を残しました。

これは「甲州日記」と呼ばれ、当時の甲府城下町の状況を知ることができる貴重な記録資料とされています。

1848年 – 52歳「「天童広重」の制作」

歌川広重「犬目峠春景図・猿橋冬景図」

200点以上からなる「天童広重」を制作

1848年(嘉永元年)、広重は天童藩からの依頼で200点以上に及ぶ肉筆の浮世絵を制作します。

当時の天童藩は財政難で、裕福な商人や農民からも借金をしている状態でしたが、返金することができず代わりに広重の作品を譲ったとされています。

「天童広重」は弟子とともに制作した?

200点以上の作品からなる「天童広重」ですが、短期間に大量に制作されたことから、広重だけでなく弟子の制作した作品も含まれていると言われています。

この「天童広重」には当時まだ珍しい遠近法を利用した作品も含まれていたそうです。

1849年 – 53歳「葛飾北斎、他界」

ライバル・葛飾北斎が90歳で他界

1849年(嘉永2年)、ライバルであった葛飾北斎が90歳で他界します。このときの広重の様子を知ることはできませんが、風景画だけでなく花鳥画などでも競い合い、世間でも話題になった間柄です。北斎の死を惜しんでいたに違いありません。

1853年 – 57歳「ゴッホ誕生」

のちに広重ファンになる「ゴッホ」の誕生

日本に黒船が来航した1853年(嘉永6年)、のちに世界的に有名な画家となり、また広重の作品から多大な影響をうけることになるゴッホがオランダの地で誕生します。

結局は生涯お互い実際に面識を持つことはありませんでしたが、広重が作品を残したおかげでゴッホが世界的に有名な作品を残すことができなのかもしれません。

1856年 – 60歳「118枚の大作「名所江戸百景」」

118枚の絵からなる大作「名所江戸百景」の制作

歌川広重「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」

1856年(安政3年)、60歳になっても広重の制作意欲は衰えず、最終的に118枚からなる「名所江戸百景」を制作を開始します。

制作は広重が他界する直前まで続けられ、最終的には完成させることができませんでした。しかし、広重の弟子である二代広重が続きを制作し、「一立斎広重 一世一代 江戸百景」として版行されることになります。

「ヒロシゲブルー」、海外でジャポニズムが起こる

歌川広重「京都名所之内 淀川」

同時期に海外では、北斎の「北斎漫画」がきっかけでジャポニズムが起こっていました。その中で広重の作品も鮮やかな藍色から「ヒロシゲブルー」と呼ばれ、ジャポニズムをさらに盛り上げました。

このジャポニズムは、フランスのモネやオランダのゴッホに大きな影響を与えたため、歌川広重は日本の偉大な画家として世界でも有名になります。

1858年 – 62歳「コレラに感染し他界」

歌川広重、コレラで他界

1858年(安政5年)8月、感染症のコレラが日本で大流行します。江戸でも10万人以上の死者がでるほど猛威をふるい、広重もコレラに感染し62歳で他界します。

歌川広重、辞世の句

62歳でコレラに感染し他界した広重。墓所は足立区伊興町の東岳寺でした。
広重の辞世の句は、

東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん (「死んだら西方浄土の名所を見てまわりたい」の意)

友人であった三代目・歌川豊国の「死絵」に描かれました。
北斎とともに浮世絵に「風景画」というジャンルを確立した広重らしい辞世の句ですね。

歌川広重の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

広重決定版: 没後160年記念

まずは作品の美しさを楽しむところから入る方に向いているムック本です。解説やコラムも有名な学芸員の方によって書かれているので解説書としても申し分ありません。

もっと知りたい歌川広重―生涯と作品

歌川広重の代表作だけでなく社会の動きなどについても同時に解説されているため、広重の生涯をさらに深く知りたい方には最適な本です。

くらべてわかる 北斎vs広重

歌川広重と葛飾北斎の作品を比較して解説していくという面白い企画の本です。単に広重の作品だけ見ていると気づけない観点にも気づくことができ、新たな発見を楽しむことができます。

関連外部リンク

歌川広重についてのまとめ

もともと葛飾北斎が好きだったので彼の生涯を調べていたところ、歌川広重が北斎のライバルだったことを知りました。そして、まさか狂人とまで言われた葛飾北斎よりも大衆の支持を得ていたなんて驚きでした。

役人仕事をしながら好きだった絵を描くことを続け、最終的には世界のアーティストにも影響を与える作品を残した生き様から、好きなことを続ける大切さを改めて学ぶことができました。

この記事から歌川広重の生き様に勇気づけられたりする読者の方がいれば幸いです。

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3 COMMENTS

そら

めちゃくちゃ参考になりますが、
書いた浮世絵の作品もあるとよかったです

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京藤 一葉

コメントありがとうございます!記事を執筆する励みになります。

浮世絵作品に関しては更新していきます!

引き続き宜しくお願い致します。

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