歌川広重とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作品や逸話も紹介】

2020年のパスポートのデザインに採用されることになった世界的にも有名な絵師・葛飾北斎。実は北斎にはライバルが存在しました。

そのライバルが今回紹介する「歌川広重」です。

歌川広重の肖像画

歌川広重は、葛飾北斎が37歳で絵師として独立した1797年に江戸に誕生します。のちに北斎のライバルになる広重ですが、はじめは家督である定火消(じょうびけし)という役人仕事をやるかたわらで絵の勉強を重ねますが、なかなか絵師としての芽が出ませんでした。

しかし、北斎の「富嶽三十六景」に衝撃を受け、代表作となる「東海道五十三次」を発表。これがターニングポイントとなり北斎のライバルとして競い合うようになります。

この記事では、北斎のライバルであり日本の6大絵師にも数えられる歌川広重の生涯を年表にまとめつつ、代表作品や逸話、影響を与えた人物も交えて紹介させていただきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

歌川広重とはどんな人物か?

名前歌川 広重(うたがわ ひろしげ)
誕生日寛政9年(1797年)
生地江戸 八重洲河岸(やよすがし)
没日安政5年9月6日(1858年)10月12日
配偶者火消同心の岡部弥左衛門の娘
埋葬場所 足立区伊興町 東岳寺

歌川広重の生涯をハイライト

歌川広重は1797年に生まれた江戸時代の浮世絵師です。広重の本名は安藤重右衛門。江戸の「定火消し」安藤家に生まれました。定火消しは江戸市内の防火や警備を担当する役職で、若年寄支配下の武士です。

広重の師である歌川豊広が描いた「江戸八景」の「佃島帰帆」 出典: Wikipedia

1809年、広重の母が亡くなり、父が隠居しました。そのため、広重は13歳で家督を相続し火消同心となりました。しかし、絵に対する彼の興味は消えません。家督相続の2年後、広重は歌川豊広の弟子となり、「広重(ひろしげ)」の名を与えられました。

24歳のとき、広重は同じ火消同心の岡部家の娘と結婚しました。その後、仲次郎を養子として迎え家督を譲ります。1832年に仲次郎が元服したのを機に火消同心の職も仲次郎に譲りました。これで、広重は絵師専業となります。

東海道五十三次の終点である京都の「三条大橋」 出典:Wikipedia

広重の代表作といえば「東海道五十三次」ですが、この大作を書いたのは広重が絵師に専念するようになった1832年でした。その後も広重は日本各地の名所を描く名所絵の浮世絵を数多く制作します。

広重が刊行した「名所江戸百景」の表紙 出典:Wikipedia

60歳になった広重が挑んだのが「名所江戸百景」。タイトル通り100枚以上(実際は119枚)の浮世絵で江戸の四季を描きました。この連作浮世絵は広重の集大成といってもよいでしょう。その翌年、広重は61歳でこの世を去りました。

歌川広重の本名は?

かの有名な葛飾北斎とライバル関係にあった歌川広重。姓は「安藤」、名は幼名「徳太郎」のちに「鉄蔵」「重右衛門」「徳兵衛」と変わっていきます。

ちなみに「安藤広重」と呼ばれたり記載されたりすることもありますが、「安藤」は実名、「広重」は画号(ペンネームのようなもの)なので、本人が「安藤広重」と名乗ったことはないそうです。

ちなみにライバルの葛飾北斎も「鉄蔵」を名乗ったことがあるそうです。「鉄蔵」という名前は当時の流行りだったのかもしれませんね。

歌川広重が属した「歌川派」とは?

歌川豊春作の「浮絵和国景跡京都三拾三軒堂之図」 出典:Wikipedia

歌川派は江戸時代後期から明治時代にかけて画壇に強い影響力を与えた絵師集団です。歌川派の創始者歌川豊春は浮世絵に西洋画の遠近法の技法を取り入れ、奥行きのある絵を描きました。

歌川豊国作「役者舞台之姿絵 はま村や」 出典:Wikipedia

豊春の弟子のひとり、歌川豊国は役者絵や美人画の名手として絶大な人気を得ました。豊国の最盛期は文化・文政年間(19世紀前半)です。広重は豊国の弟子になろうとしました。しかし、弟子がたくさんいたので入門を断られます。

歌川豊広作「御殿山の花見図」 出典:東京国立博物館

かわって、広重が弟子入りしたのが歌川豊広でした。豊広も豊春の弟子の一人です。彼の得意分野は風景画でした。豊国に比べ比較的地味な作風でしたが、豊国と同時代にかなりの数の作品を残しています。のち、弟子の広重が風景画をより発展させることになりました。

「ヒロシゲブルー」は欧米で高評価

美しい青(藍色)が印象的な「東海道五十三次 沼津宿」 出典:Wikipedia

歌川広重の作品は欧米で高く評価されました。その理由は構図の大胆さと彼が使う「青」の美しさにあります。特に、広重が使う青は「ヒロシゲブルー」とよばれ、欧米人が称賛しました。確かに、広重の作品の青は非常に印象に残ります。

では、広重は何を使って「ヒロシゲブルー」を描いたのでしょうか。その答えは「ベロ藍」です。ベロ藍は18世紀初めにドイツで偶然発見された青色の顔料でした。ベロ藍はそれまで使われていた藍などの顔料に比べ発色や色の定着に優れています。このベロ藍が輸入されるようになると、日本の浮世絵に革命がおきました。

広重はこのベロ藍を効果的に用いることで「ヒロシゲブルー」とよばれる美しい青を作り出すことができました。ちなみに、ベロ藍は他の絵師も愛用します。葛飾北斎や伊藤若冲の絵にもベロ藍は用いられていますよ。

歌川広重の死因はコレラ?

歌川広重の死因はコレラと考えられています。コレラとはコレラ菌によって引き起こされる感染症のこと。コレラの潜伏期間は1~3日程度とされ、発症すると激しい下痢や脱水症状に見舞われます。

もともとインドのガンジス川下流域で流行していたコレラは世界貿易が発達したことにより各地に伝播。何度も世界的な大流行を引き起こしました。日本では日米修好通商条約が締結された1858年に外国から持ち込まれ大流行します。

「虎列刺(コロリ)退治」の絵 出典:虎列剌退治〔コレラタイヂ〕

コレラは日本では「虎狼痢(ころり)」とよばれました。一説にはコロリと死んでしまうからだともいますが定かではありません。この1858年の流行に広重も巻き込まれてしまったようです。そして、広重は1858年10月12日に江戸で亡くなりました。享年61歳です。

歌川広重の代表作品

本の挿絵なども含めると、生涯で2万点にも及ぶ作品を残した歌川広重。その中でも選りすぐりの代表作品を紹介していきます。

『東海道五十三次 蒲原』

『東海道五十三次 蒲原』 出典:Wikipedia

『東海道五十三次』は1834年に刊行された歌川広重による連作浮世絵です。広重は刊行の2年前に幕府の命令で「八朔御馬献上」の一員として東海道を旅しました。このときに描き溜めたスケッチをもとにして『東海道五十三次』を書いたといわれます。

現在の東京近郊にあたる江戸日本橋や品川から始まった浮世絵は、小田原・箱根を抜け浜松・岡崎と東海道を東に進みます。桑名から伊勢湾を渡り対岸の四日市に到達した後、亀山・大津を経て京都の三条大橋までたどり着きます。

まるで旅をしているかのような壮大な浮世絵は刊行当初から人気を博しました。広重の『東海道五十三次』シリーズは葛飾北斎の『富嶽三十六景』とならんで名所絵のジャンル確立に貢献します。

『東海道五十三次 庄野』

『東海道五十三次 庄野』 出典:Wikipedia

この作品は三重県鈴鹿市にあった庄野宿付近の坂道を描いたものです。「白雨」という副題がつけられていますが、これは夕立やにわか雨のこと。突然降ってくる雨が坂道を往来する人々を容赦なく濡らします。

雨に濡れている竹林が風にあおられていますが、その様子からかなり激しい風が吹いていることが手に取るようにわかりますね。

『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』

『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』 出典:Wikipedia

『名所江戸八景』は1856年から1858年に刊行された連作浮世絵で、歌川広重晩年の作品となります。彼は死の直前まで『名所江戸百景』の作成をつづけましたが、未完でこの世を去ります。その後、二代広重が補筆して完成させました。

「大はしあたけの夕立」は、広重の傑作の一つに数えられます。絵の下のほうに描かれているのは「新大橋」。橋の奥が雨にけむってかすんでいます。画面上部に描かれた黒雲から降り出した激しい夕立が橋を渡る人々を容赦なく濡らしていますね。

ちなみに、タイトルになっている「大はし」は橋の名前、「あたけ」は安宅船、江戸時代の軍船の名前です。この場所は幕府の軍船が停泊する場所だったので「あたけ」とよばれました。夕立の風景が印象的なこの絵はオランダのゴッホにも大きな影響を与えました。

『名所江戸百景 亀戸梅屋舗』

『名所江戸百景 亀戸梅屋敷』 出典:Wikipedia

この絵のモデルになった亀戸梅屋敷はかつて亀戸天神社の裏手にあった梅園です。画面手前にある大きな梅の木は「臥竜梅」と呼ばれます。この臥竜梅は8代将軍徳川吉宗に褒められたという伝承を持っていました。

ゴッホによる『名所江戸百景 亀戸梅屋敷』の模写(右) 出典:Wikipedia

赤と緑の敗色がとても印象的な浮世絵で、ゴッホが油彩画で模写したことでも知られています。

『木曾海道六拾九次之内 大井』

『木曾海道六拾九次之内 大井』 出典:Wikipedia

『木曾海道六拾九次之内』は1835年から1837年に刊行された連作浮世絵です。出発点は『東海道五十三次』と同じく江戸日本橋ですが、ルートは内陸部を通る中山道でした。ただし、この『木曾海道六拾九之内』は広重だけではなく渓斎英泉という別の絵師も作成に加わっています。

広重が描いたもののうち、『木曾海道六拾九次之内 大井』は大井宿付近の甚平坂付近の様子を描いたものでした。大井宿は美濃国恵那郡大井(岐阜県恵那市)に会った宿場です。降りしきる雪の中、黙々と歩き続ける旅人の様子を描いていますね。

『不二三十六景 甲斐犬目峠』

『不二三十六景色 甲斐犬目峠』 出典:Wikipedia

『不二三十六景』は富士山をモチーフに広重が描いた風景画のシリーズで全36枚あります。広重死後の1859年に蔦屋吉蔵によって刊行されました。

『富獄三十六景 甲州犬目峠』 出典:Wikipedia

画題に取り上げられている犬目峠は神奈川県と山梨県の境目にある山梨県上野原市にありました。江戸から山梨県甲府に抜ける甲州街道上に位置し、峠を抜けると富士山が見える絶好のビューポイントです。同じ画題で葛飾北斎も描いているので、そちらも有名ですね。

歌川広重が影響を受けた・与えた人物

葛飾北斎

葛飾北斎の肖像画

今や世界でも有名な芸術家の一人である葛飾北斎。しかし当時は歌川広重のほうが大衆の支持を得ていたと言われています。

といっても北斎は広重の大先輩。広重の生涯の節目節目では先輩である北斎から影響を受けていたことがうかがえます。

たとえば、広重が風景画に注力し始めたきっかけは北斎の影響だったという話もあります。

また、広重の代表作である「東海道五十三次」は北斎の「富嶽三十六景」の革新的な構図や技法に焚きつけられた広重が、風景画の研鑽を重ねに重ねた末に生まれた大ヒット作だとも言われています。

狂人とまで言われる北斎と役人仕事をしながら絵師を続けた広重。正反対な二人だからこそお互いに刺激し、高め合うことができたのかもしれませんね。

ゴッホ

ゴッホ「ひまわり」

誰でも一度は目にしたことがある独特の画風で有名なオランダの印象派画家・ゴッホ。彼は浮世絵コレクターとしても有名で、そのコレクション数はなんと600枚以上。

そんな浮世絵大好きなゴッホですが、広重の絵に関してはコレクションするだけでなく多数の模写を行っています。

特に「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」や「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」の模写は構図などがほとんどそのままで模写されていることで有名です。広重の絵を隅から隅までを観察し少しでも多くを学ぼうとするゴッホの執念のような熱意を感じることができます。

ちなみにゴッホは広重が62歳で他界する5年前に誕生しています。こうやって歴史を見てみると、北斎から広重へ、そして広重からゴッホへと想いや技術が脈々と伝わっていくことが感じられて、歴史を知ることがより楽しくなってきますね。

東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん

(「死んだら西方浄土の名所を見てまわりたい」という意味)

友人であった三代目・歌川豊国の「死絵」に描かれています。各地の名所画である「東海道五十三次」や「名所江戸百景」などで浮世絵に「風景画」という新しいジャンルを確立した広重らしい辞世の句ですね。

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14 COMMENTS

そら

めちゃくちゃ参考になりますが、
書いた浮世絵の作品もあるとよかったです

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京藤 一葉

コメントありがとうございます!記事を執筆する励みになります。

浮世絵作品に関しては更新していきます!

引き続き宜しくお願い致します。

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72%かかお

学校の勉強で使わせていただきます!とってもいいサイトで参考になります!

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京藤 一葉

> 72%かかお さん
嬉しいコメントありがとうございます!
引き続き、よろしくお願いします^^

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うた

学校で新聞を書かなくては行けなくてなにかいいさいとがないかなと思って開いて見てみるととてもわかりやすかったです。他の歴史人物のサイトも見てみます。

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