キュリー夫人の功績
功績1「ラジウムを発見した」
キュリー夫妻は1898年にラジウムを発見しました。ラジウムは水に激しく反応し、酸に溶けやすい性質を持ちます。科学的性質はバリウムに似ていました。
キュリー夫妻は、二酸化ウランからなる「閃ウラン鉱」(ピッチブレンド)の中にバリウムに似た性質の物質があり、その物質が放射線を発しているのに気づきます。そして、放射線を発している物質とバリウムを分離精製に成功しました。
夫妻が見つけ出した塩化ラジウムは青白い光を発していたといいます。夫が亡くなった後もマリは塩化ラジウムの研究を続けました。そして、塩化ラジウムを電気分解することで貴族ラジウムを精製することに成功します。
功績2「放射能の発見でノーベル賞受賞」
マリ・キュリーの最も偉大な功績は、ラジウムとポロニウムという放射性元素の発見です。放射能(radioactivity)という言葉はマリが発案したものです。
マリは放射能研究のパイオニアとして、生涯に渡って放射能の研究を続けました。その成果が認められ、マリは二度もノーベル賞を受賞しています。また、マリの娘のイレーヌも同じく化学の道に進み、1935年にノーベル化学賞を受賞しています。
マリの死因は放射線被爆による再生不良性貧血でした。当時は放射線物質が有害であるということが知られておらず、研究を続ける中でマリは放射線に被爆していたのです。
マリ・キュリーという女性は、生涯を放射線の研究に捧げた偉大な科学者でした。
功績3「女性差別に立ち向かう」
マリ・キュリーが生きた当時のヨーロッパは女性蔑視の風潮が強く、女性が科学の勉強をできる教育機関は限られていました。そんな中でマリは努力を積み重ね、パリで物理学の学士資格を取得します。
学士資格を取得後に本格的な研究を始めたマリでしたが、女性であることや外国人であることから事あるごとに理不尽な扱いを受けます。
最初のノーベル賞では、夫婦の共同研究ということでマリとピエール、二人が推薦されていたのですがマリの名前だけ意図的に除外されてしまいます。ピエールの申し立てによりマリの名前は推薦状に復帰し、女性初のノーベル賞受賞という快挙を成し遂げました。
マリ・キュリーにまつわる逸話
逸話1「キュリー夫人に不倫騒動?」
マリ・キュリーは38歳の頃に夫を事故で亡くし、未亡人となりました。最愛の人を失くしたことにマリは酷くショックを受けます。
そんなとき、マリは夫の教え子であるポール・ランジュヴァンという男性と親密になっていきます。ポールには妻子がいましたが、夫婦仲は冷え切っており別居状態だったそうです。
当時の新聞はマリの不倫を大々的に取り上げ、彼女を誹謗中傷することだけを目的に事実無根の記事を書きました。記事が原因で世間からバッシングを受けたマリはうつ病になってしまいます。
マリとポールが本当に不倫関係にあったのかどうか、事実は不明です。
逸話2「アインシュタインとの関係」
不倫騒動で世間からバッシングを受けた際、マリの擁護に回った科学者は多数いました。その中には、相対性理論で有名なアルベルト・アインシュタインもいました。
アインシュタインは手紙でマリを励まし「批判など無視するのが一番だ」と言っていたそうです。アインシュタインは科学者としてのマリを心から敬愛していたといいます。
アインシュタインからの手紙はマリの大きな励みになり、彼女は無事に科学の世界に復帰しました。
キュリー夫人の生涯年表
1867年 – 0歳「ポーランドで生まれる」
教育者の両親のもとで生まれる
マリはポーランドのワルシャワで産声を上げました。両親は優秀な教育者だったため、五人の兄弟と共にマリは充実した教育を受けながら育ちます。
マリが6歳の頃、父親が秘密裏に行っていた講義がロシア政府に発覚し、仕事と住居を失います。同時期に母親が体調を崩し、一家は困窮状態に陥りました。数年後、マリは姉と母を病気で亡くします。
1883年 – 16歳「学校を卒業する」
優秀な成績で卒業
マリはギムナジウムという中等学校を優秀な成績で卒業しました。マリは進学を希望しましたが、当時のポーランドでは女性が大学進学することを禁じられていたため進学は叶いませんでした。
父親はマリに息抜きをさせるため、親戚の住む田舎に住まわせます。1年間、マリは田舎での穏やかな生活を堪能しました。
1885年 – 18歳「大学で勉学に励む」
非合法の大学へ進学
田舎からワルシャワへ戻ったマリは家庭教師の仕事を始めます。仕事を通じて知り合った女性教師に「ワルシャワ移動大学」と呼ばれる非合法の大学を紹介され、進学を決めます。
ワルシャワ移動大学は「さまよえる大学」とも呼ばれていました。女性の大学進学が禁じられていた当時、政府に大学の存在が知られないよう場所を転々と移動している大学であったためその呼び名が付けられたそうです。
1891年 – 24歳「パリへ移住する」
科学を学び始める
当時の恋人と喧嘩別れをしたことをきっかけに、マリはフランスのパリへ移住します。パリ大学は女性が科学を学ぶことのできる数少ない学校でした。
パリ大学へ入学したマリは、科学や物理、数学などを学び始めます。生活費を稼ぐために家庭教師の仕事も続けました。生活が困窮することもありましたが、パリに住んでいた姉夫婦の手助けもあり、マリは無事に物理学の学士資格を獲得します。
1894年 – 27歳「ピエール・キュリーに出会う」
ピエールとの出会い
学士資格を獲得した後、マリは研究により収入を得られるようになります。研究所が次第に手狭になり困っていたところ、マリの知り合いの物理学教授が研究所の提供ができそうな人物を紹介してくれました。それがマリの後の夫となるピエール・キュリーだったのです。
ピエールは研究熱心で慎ましい性格のマリに惹かれ、熱心なアプローチを始めます。いつかポーランドに帰りたいと思っていたマリは返事に困りましたが、翌年にピエールのプロポーズを受け入れ結婚しました。
1898年 – 31歳「ラジウムとポロニウムを発見する」
共同研究で新元素を発見
マリはピエールと共同で放射能の研究をしていました。掘っ立て小屋のような研究所での研究は困難を極めましたが、ついに新たな放射能であるラジウムとポロニウムを発見します。
二人は論文を書き上げ学会に発表しますが、反応は冷たいものでした。新元素の塊を発見しなければ学会で認められることは難しいのです。マリはラジウムとポロニウムの塊を見つけ出すことを決意します。
1902年 – 35歳「ラジウムとポロニウムの塊を発見する」
ラジウム塩化物を精製することに成功
ポロニウムの塊を分離することにはすぐに成功したものの、ラジウムの塊を見つけることは容易ではありませんでした。貧困の中、キュリー夫妻は働きながら研究を続けました。
ラジウムの発見から4年が経った1902年、とうとうラジウム塩化物を精製することに成功します。キュリー夫妻は学会に研究成果を発表、夫妻の研究は原子物理学の世界に多大な影響を及ぼしました。
ラジウムの存在が広く知られるようになる
キュリー夫妻の研究発表から、学者たちは次々にラジウムの研究を始めるようになります。ラジウムは皮膚病治療に効果的であることが判明し、医療分野でも扱われるようになりました。
キュリー夫妻はラジウム精製の特許を取得しなかったため、誰もが自由にラジウムを精製することができました。マリは、報酬よりも他の学者が自由にラジウムの研究を進めることが重要だと考えたのです。
1903年 – 36歳「ノーベル物理学賞を受賞」
共同研究の成果が認められた
放射線の共同研究の成果が認められ、キュリー夫妻はノーベル物理学賞を受賞しました。受賞を機に二人の名前は一気に世間へ知れ渡ります。
1906年 – 38歳「ピエールが逝去する」
夫のピエールが事故で逝去
荷馬車との事故に遭い、夫のピエールが死亡します。最愛の人であり研究のパートナーでもあったピエールを亡くしたマリは酷く悲しみました。
1911年 – 43歳「ノーベル化学賞を受賞」
ラジウムの研究成果が認められた
ピエールの死後もマリはラジウムの研究を続け、その成果が認められ1911年にノーベル化学賞を受賞します。マリは世界で初めて二度のノーベル賞を受賞しました。
1934年 – 66歳「逝去」
放射線被曝が原因で死亡
体調不良が続いていたマリは、再生不良性貧血で亡くなります。長年の放射線研究により、被曝していたものと考えられました。マリの骨は夫のピエールと同じフランスの墓に埋められました。
キュリー夫人の死因は?研究が原因の病気だった?研究内容との関係を解明
キュリー夫人の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
小学館版 学習まんが人物館 キュリー夫人
マリ・キュリーの生涯を漫画で分かりやすく描いた一冊です。小学生でも楽しく読めるように工夫されているため、科学が好きな子供さんには特におすすめです。
キュリー夫人―ラジウムを発見、人々の幸せに役立てたポーランドの科学者
こちらはマリ・キュリーの生涯を綴った伝記です。科学のことはもちろん、マリ・キュリーが生きた当時の時代背景や政治のことなどについても書かれています。
マリー・キュリー―激動の時代に生きた女性科学者の素顔
マリ・キュリーの本は科学者としての功績を記したものが多いのですが、こちらの本は物理学者の視点でマリ・キュリーの素顔を書き出した一冊です。当時のマリ・キュリーの立ち位置や人間関係などが詳しく書かれており、読み応えがあります。
おすすめの映画
Radioactive(原題)
こちらは2020年に公開予定のフランス映画です。小説『放射能―キュリー夫妻の愛と業績の予期せぬ影響』を原作とし、マリ・キュリーの生涯を描いた伝記映画となっています。マリの死後から80年以上経った現代で彼女の物語はいったいどのように蘇るのか、注目を集めています。
関連外部リンク
キュリー夫人についてのまとめ
マリ・キュリーは男尊女卑の風潮が強い時代の中で研究を続け、自力で研究成果を学会に認めさせました。こうしてマリの生涯を改めて振り返ってみると、同じ女性として尊敬できる面がたくさんあると感じます。
男女平等が唱えられている現代の日本でも、男尊女卑の風潮は根強く残っています。ひとりひとりがマリのように小さな努力を積み重ねていけば、いつか社会の風潮を変えられる日がくるかもしれませんね。
小学3年生です
自学に役立っていてとても助かります♪
少し漢字が難しいですね!
できればふりがなを入れて欲しいです。
学校に出すレポートを書くときにとても参考になってよかったです
これからも、記事を書くの頑張ってください!!
私も、たくさん勉強になったので良かったです!
学校で同じないようなので役にたちました
> こgまrさん
コメントありがとうございます!
記事を書く励みになります!
とてもわかりやすかったけど、ふりがなを付けたらもっといいと思います。
グヘッへ//