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大河ドラマで話題!明智光秀とはどんな人?生涯・年表まとめ【家紋や子孫についても紹介】

来年の大河ドラマの主人公明智光秀。彼を一言で表すと「日本の戦国時代の歴史を大きく変えた人物」と言えるでしょう。明智光秀は「本能寺の変」で天下統一に王手をかけた織田信長を殺害。     

その結果、豊臣秀吉による天下統一や徳川家康によって安定の世を作り出した徳川幕府成立などきっかけを作り出した人物であると言えます。

また明智光秀は来年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公に選ばれており、現在最も注目度の高い戦国武将と言えます。

明智光秀は上記で紹介したように歴史を変革させた戦国武将で、小説や歴史書などを読みあさった私が、来年の大河ドラマ「麒麟がくる」の放映前に明智光秀の全てを伝えたいと思います。

明智光秀とはどんな人物か?

名前明智光秀
誕生日1528年(明智軍記説)もしくは1512年(当代記説)
没日1582年7月2日
没地下関市桜山
配偶者玉 光慶 光泰 乙寿丸
埋葬場所滋賀県大津市西教寺 京都府亀岡市谷性寺 和歌山県高野町奥の院

明智光秀の生涯をハイライト

明智光秀の生涯

本能寺の変で有名な明智光秀は、多彩な才能を持った武将です。そんな光秀がどのような人生を送ったのか、簡単にまとめてみました。

1528年、明智光秀は美濃の明智家に生まれ、幼少時は斎藤道三に仕えていたと言われています。しかし斎藤道三の息子である斎藤義龍との戦いで、光秀の父親の居城「明智城」が陥落してしまい、明智家は離散したそうです。

明智光秀の出生や幼少時については確かな資料がなく、信憑性の低いものしか残っていません。そのため、彼が表舞台へ出てくる1569年までの期間は謎に包まれています。

1569年、明智光秀が41歳の頃に、当時仕えていた足利義昭が泊まっている本圀寺が三好家の襲撃を受けます。光秀は足利義昭を守るために防衛線に参加し、初めて軍功をあげました。

1571年には織田信長が実行した比叡山焼き討ち作戦に参加します。この作戦で活躍した光秀に、信長は比叡山の領土や近江志賀郡を与えました。光秀は、織田家で初めての一国一城の主となったのです。

比叡山焼き討ちの図

この頃の光秀は足利義昭と織田信長の2人に仕えていました。しかし足利義昭とトラブルがあったのをきっかけに、信長をただ1人の主君と定めます。

1575〜1579年まで、明智光秀は丹羽・丹後の攻略を命じられ、少しずつ進めていました。なぜ少しずつだったのかというと、有能な光秀は各地の戦線にも参加させられていたからです。そのため、丹波・丹後の攻略はゆっくりとしたものでした。

1579年、ついに丹波・丹後の攻略が終わります。織田信長は丹波・丹後の攻略を成功させた光秀を高く評価し、感状を送って褒めたたえました。

この頃の光秀と信長の仲は良好でしたが、1582年に本能寺の変が起こります。光秀は信長に命じられて豊臣秀吉を助けるための援軍として移動していましたが、途中で方向を変えて本能寺へと向かったのです。

信長のいる本能寺へ到着し、寺を包囲すると光秀は総攻撃を仕掛けました。光秀は信長を殺した後、二条城に泊まっていた信長の息子も殺害し、謀反を成功させます。

織田親子を倒し、天下統一に近づいた光秀でしたが、いち早く異変に気づいた秀吉と大阪で対決することになります。約一万三千の明智軍と約四万の豊臣軍。結果は火を見るより明らかで、明智光秀は敗走しました。

光秀は近江にある自分の居城へと逃れようとしましたが、途中にある小栗栖で農民の襲撃にあい、亡くなります。

明智光秀の出身やゆかりの地は?

明智光秀の出身地は諸説があります。明智光秀の出身地の有名な説は美濃(みの、現在の岐阜県)で、「立入隆佐記」によれば美濃国住人と記されています。

また、現在岐阜県には明智と呼ばれる地名が二ヶ所あるから有力な説として言われています。

しかし近年、明智光秀は近江(現在の滋賀県)出身だったのではないかと言われています。その理由として「淡海温故録」という書物に明智光秀の二、三代前の明智家の当主が近江に住んでおり、この当主の結縁者が明智光秀だと言われている説が出現しています。

このように明智光秀は出身地が謎に包まれておりますが、現在の所美濃国出身の武将だと言われています。

明智光秀はイケメンだった?

明智光秀の肖像画、と思われていたが別人だった

明智光秀と言えばイケメン、というイメージがありますが、実ははっきりとした文献が残っていません。

なぜこういったイメージがあるのか。フロイスの記録に光秀の息子たちについて「非常に上品な子供たちで、欧州の王子を思わせるほどだ」と記述されており、子どもがイケメンなら親もイケメンだろう、という予想からきています。

実際、光秀の娘の細川ガラシャは絶世の美女です。そう考えると、明智光秀のイケメン説は否定できないでしょう。

明智光秀は教養を持った戦国武将

明智光秀は高い教養を持った戦国武将でした。

例えば明智光秀は連歌が好きで本能寺の変がおきる数日前に行った「愛宕山」での連歌会や坂本城を築城した時にも連歌を歌い上げています。

また明智光秀は戦国時代に流行っていた茶の湯にハマり、有名な茶道家である千利休へ弟子入りして学んでいます。他にも和歌を嗜み「我ならで誰かはうえむひとつ松こころしてふけ志賀の浦かぜ」と言う歌をよんでいます。

このように明智光秀は戦国時代の武将には珍しく教養を持った人物だったのです。

明智光秀は実は医者でもあった?

光秀の名前が記されている医学書『針薬方』

軍事・政治に優れていた明智光秀は、医学的な知識にも通じていました。その根拠とされる理由が2つあります。

まず、明智光秀は近江志賀軍の領主としての仕事と、京都の行政の仕事をしていました。領主としての仕事は近江の居城で行っていたのですが、代官の仕事は京都の施薬院全宗(しやくいんぜんそう)という医者の家で行っていたのです。

当時はホテルや旅館がない時代で、泊めてもらうとなれば知り合いの家になります。つまり光秀は、医者と親しくなるほどの繋がりがあったと考えられます。

ではなぜ医者と親しかったのか。明智光秀は『針薬方』という、今でいうところの「家庭の医学」的な内容が記された書物の内容を、文を読むことなく口に出すことができました。京都の医者と親しかったのは、光秀が医療に高い関心があったからです。

このことから、光秀には簡単な医学知識と向上心があったのは確かでしょう。

明智光秀は人心掌握にも優れていた

光秀が祀られている福知山市御霊神社

明智光秀は教養だけでなく、人身掌握にも優れていました。

比叡山焼き討ちなどでは冷酷さが前面に出ていますが、光秀は家臣たちには優しく接していました。合戦で家臣が負傷したさいはお見舞いの手紙を送り、討ち死にしてしまった家臣には、名を書いた文書と共に、近江国の西教寺に供養米を寄付しています。

また、領民にも慕われており、福知山市の御霊(ごりょう)神社に神として光秀は祀られています。なぜ祀られるまでに至ったのかというと、水害から町を守るための治水事業を行ったこと、三年間税の免除をしたことが理由です。

こうした光秀の優しさは、攻略した丹波の武将たちの心もつかみました。さらに、光秀の優しさは信長の苛烈さを和らげる働きも持っており、信長は光秀を大いに頼っていました。

明智光秀の妻や子孫、家族構成は?

現在も残る細川ガラシャ生誕の地

明智光秀の奥さんは妻木煕子(つまきひろこ)と言います。彼女は明智光秀が越前朝倉家に仕えて間もない頃、お金がなくて苦しい時、自分の髪の毛を売って光秀を支えていたエピソードが残っています。

このように妻木煕子は明智光秀を支えてきた糟糠の妻と言える存在で、彼との間には三男四女を設けます。

  • 長男明智光慶
  • 次男明智光泰
  • 三男明智乙寿丸
  • 長女明智光春の奥さん(名前不明)
  • 次女明智光忠の奥さん(名前不明)
  • 三女細川ガラシャ(明智珠)

明智光秀はなぜ水色の家紋を使用したのか

戦国時代には多くの旗に自分の家の家紋を描いて、戦場へ赴きます。

明智光秀が水色の家紋を使用した理由は、光秀が美濃の名族である土岐氏の支流だったからです。土岐氏は桔梗紋を水色に塗った家紋を使用していました。

そのため土岐氏の支流であった明智光秀は土岐氏が使用していた家紋を受け継いで使ったとされています。

明智光秀の功績

功績1「織田家で最初に家法を制定」

織田家は織田信長が作り出した国の法律はありますが、織田軍の司令官クラスに所属している豊臣秀吉や柴田勝家、丹羽長秀らは自分軍隊の中での軍律を確立することなく、戦いを行っていました。

しかし明智光秀は織田家の中で一番早く、軍隊の規律と呼べるものを策定します。

明智家の軍律は1条~18条まであり、軍団の秩序や規律、軍役について記されています。また明智光秀は軍の兵士が平定した土地で乱暴などを働かないように礼節などについて書かれている部分もあるそうです。

功績2「近世城郭のモデルを築いた光秀」

明智光秀像。現在、坂本城があった場所は住宅地となっており、石碑などが残っている

安土城のような近世城郭のルーツを作ったのは織田信長ですが、そのモデルを作ったのは明智光秀です。

近世城郭とは、石で作られた城のことを指します。私たちが日本の城と聞いてイメージするお城は、だいたいが近世城郭です。

近世城郭のルーツ『安土城』

高い石垣に広い水堀、瓦の屋根で守られた城壁はその時代、珍しいものでした。当時は城と言えば山の地形を利用したもので、土で壁を高くしたり、山を削ったりして道を作ったりと、ほぼ全体が土でできていました。

当時、存在していなかった石の城を建てた光秀の知識は相当なものと言えるでしょう。

『フロイス日本史』にも、光秀は築城について豊富な知識を持っており、優れた建築家だったと記述されています。彼が持てるすべてを注いで建築した坂本城は、信長が建てた安土城についで有名なものでした。

その他にも丹波を攻めるさいに拠点とした「亀山城」「福知山城」「周山城」の建築や「黒井城」の改宗なども任されています。

このように、近世城郭の発展に光秀は貢献しました。

功績3「本能寺の変を起こし、歴史を変えた光秀」

本能寺焼き討ちの様子

明智光秀の最も有名な功績と言えば、やはり本能寺の変でしょう。本能寺の変は、織田の政権を終わらせ、豊臣の世を築くきっかけとなりました。

光秀は豊臣の援軍に行く、と見せかけて本能寺に滞在していた織田信長を襲撃しました。襲撃の理由についてさまざまな説があり、はっきりとしたことはわかっていません。

しかし、良好な関係を保っていた両者が仲違いするほどの何かがあったのは確実でしょう。原因の一つとしては四国の外交問題があります。

落合芳幾による長宗我部元親像

光秀は、当時四国で勢力を拡大していた大名長宗我部元親の交渉役をしていました。ところが、本能寺の変が起きる2年前に、信長は長宗我部を従わせるよりも自分の領土にした方がいいと方針を変えてしまいます。

自らの家臣の娘を嫁がせてまで仲を取り持っていた光秀からすれば、面目を潰されてしまった形です。そのことで怒りを感じ、本能寺の変を起こしたのではないかと言われています。

ともあれ、当時最大の勢力を誇っていた織田信長の死亡は、日本の歴史に影響を与えました。もし、本能寺の変がなかったとしたら、豊臣秀吉の世はなく、今の歴史は違うものとなっていたかもしれません。

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