明智光秀とはどんな人?生涯・年表まとめ【家紋や子孫についても紹介】

明智光秀の名言

明智光秀の性格がよくわかる名言

敵は本能寺にあり

明智光秀の名言の中で最も有名なこちらの言葉は、本当の目的や目標は別にあることを指します。光秀は本来、豊臣の援軍に向かっていました。しかし援軍に向かうと見せかけて出陣し、織田信長を討ちます。

このことから「敵は本能寺にあり」は本当の目的が別にあることを意味するようになりました。

鳴かぬなら私が泣こうホトトギス

この句は「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」など真ん中部分の違いが、織田や豊臣、徳川の性格を表すとして有名です。実は光秀のものもあり、上記の句の「私が泣こう」は彼の優しさを表しています。

誰かの代わりに泣けるほど、光秀は相手に心を砕く優しい性格だったのでしょう。

光秀の性格を表す句には、他にも「鳴かぬなら放してしまえホトトギス」があります。放すとは逃すという意味で、こちらも彼の優しさを表しています。

仏の嘘をば方便といい、武士の嘘をば武略という。これをみれば、土地百姓は可愛いことなり

光秀は家臣を大切に扱いました。この言葉は、「仏や武士の嘘に比べれば、税金を誤魔化す百姓の嘘はかわいいものではないか」と言っています。上記の句と合わせて、光秀の優しさが伝わってきますね。

家臣だけでなく、領民も大切にしていたことがうかがえます。

明智光秀の人物相関図

明智光秀の人物相関図

明智光秀と織田信長はどんな仲だった?

明智光秀は織田信長の関係は、本能寺の変までは良好でした。

最後には裏切っているため、光秀と信長の仲は悪かったと勘違いされることもあります。しかし、信長は光秀のことを信頼していましたし、光秀は信長の期待に答えようと努力していました。

その証拠に、丹波の国を平定した時には「丹波の国を平定した日向守(明智光秀の官職名)の働き天下の面目をほどこし候」と絶賛し、織田家で初めて領主として国を任されています。

また、信長は光秀が仕え始めたばかりの頃に、重要な地域である京都の行政を任せる一員に加えました。能力の高い光秀は、信長に重用されていたのです。

しかし明智光秀にとって大きな兵力を与えられることによって苦労することにもなりました明智光秀は自分が攻略する担当地域があるにも関わらず、織田信長から色々な戦線へ向かわされ、へとへとになってしまいます。

その結果、明智光秀は体調を崩して病にかかってしまったそうです。

明智光秀のふたりの君主に仕えていた?

このように織田家の家臣として能力を発揮していた光秀ですが、実は織田家に仕え始めた頃は、足利幕府の将軍足利義昭にも仕えていました。

足利幕府の将軍「足利義昭

そのため、2人が揉めたさいには間に入って仲裁しなければいけなかったため、とても苦労していたという話が残っています。

こうした苦労性は昔からだったようです。織田信長を主と仰ぐ前、光秀は越前の朝倉家に仕えていました。しかし朝倉家の給料はあまり多いとは言えず、収入面で非常に苦労していました。

明智光秀にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「合理主義者だった明智光秀」

明智光秀は比叡山延暦寺を焼き討ちした際、比叡山延暦寺が保有していた領土をすべて没収し、自らの領土にしています。

明智光秀は織田信長が行った比叡山延暦寺の焼き討ち作戦には反対していたとされる説も存在していますが、どちらが本当の明智光秀だったのかは、定かになっていません。

もし前説が明智光秀の性格だったとすれば、合理主義者としての考え方を持っていたことになります。

明智光秀はどんな性格だった?様々なエピソードから人物像を考察

都市伝説・武勇伝2「実は明智光秀は死んでいなかった?」

光秀の謎はもはや誰にも確かめられない

明智光秀は本能寺の変の後、豊臣秀吉と戦って敗北し、農民によって討ち取られたとされています。

しかし一説によると、明智光秀は討ち取られずに生き残って、徳川家康に仕えた南光坊天海と言われています。

南光坊天海が明智光秀かもしれない可能性として徳川家康が祀られている日光東照宮には明智光秀が使用していた水色桔梗の家紋があるそうです。明智光秀=南光坊天海かどうか分かりませんが、強く否定できる要素も無い為、謎のままになっています。

都市伝説・武勇伝3「本能寺の変の前に連歌会で謀反を起こす宣言をしていた?」

光秀、連歌会の様子

明智光秀は本能寺の変が起こる直前に、京都の愛宕山で連歌会を開いていました。そこで歌われた

時は今 雨が下しる 五月哉

には、謀反を起こす意志が込められているのでは、と言われています。

「時は今」には、以下の二つの意味が込められています。

  • 今が千載一遇のチャンスである
  • 明智光秀の先祖「土岐氏」を示している

「雨が下しる」は「天下に号令する」、つまり天下をとるために動くという宣言です。光秀が詠った句を解釈すると、「土岐市の子孫である光秀が、天下を取るチャンスである」と取れます。

意図して詠ったのかはわかりませんが、連歌会で本能寺の堀の深さを尋ねていたこと、本能寺の変の直前だったことを考えると、あながち間違いではないかもしれませんね。

ちなみに、本能寺の直前に光秀は、愛宕神社でおみくじを引きました。結果は、3回引いて全部「凶」だったそうです。

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