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【年表付】マイケルジャクソンの人生は?名曲やダンス、死因など生涯まとめ

マイケル・ジャクソン(以下、マイケル)は、1958年8月29日アメリカ合衆国のインディアナ州の貧しい黒人家庭に生まれました。マイケルは、シンガーソングライター、ダンサー、実業家、慈善活動家など多数の顔をもち、音楽、ダンス、歌唱力、カリスマ性、全てを兼ね備えた究極のエンターテイナーでした。

マイケル・ジャクソン

マイケルは、10歳で兄弟達と「ジャクソン5」としてデビューするやいなや、その天才的な音楽センスと歌唱力で一躍大人気になります。ソロとしては、アルバム「スリラー」を始め、発表するアルバム全て爆発的なヒットとなり、ムーンウォーク、ゼロ・グラビティなどマイケル独自のダンスも有名となりました。

1970代~2000年代と、これほどの長きにわたりショービジネスの世界でトップを走り続けた人は、マイケル以外にはいないでしょう。する事なす事全てがニュースになる、まさにスーパースターでした。

また、マイケルは心から世界平和を願っており、その思いは曲の中でもメッセージとして発し続けられました。特に自らの失われた子供時代を取り戻すかのように、子供たちを愛し、全ての子が教育を受けられるように、多くの子供を助けたいと自ら財団を設立しています。

歌とダンスで世界を魅了した

マイケルは生前、数々の誹謗中傷、差別、ゴシップに苦しめられましたが、それらに対して「歌とダンス」と言う手段でメッセージを発信し、戦い続けました。2009年6月、ツアーのスタートが目前に迫る中、自宅にて息を引き取ります。原因は、処方薬の過剰摂取による急性中毒とされていますが、本当の意味でその死は謎に包まれています。

小学生の時「BADツアー」の日本公演を見て、「この世にこんなにカッコイイ人がいるのか」と衝撃を受けて以来、マイケルに関するあらゆるビデオや本を見漁った私が、マイケル・ジャクソンの生涯について解説します。

マイケル・ジャクソンとはどんな人?

名前マイケル・ジョセフ・ジャクソン
誕生日1958年8月29日
没日2009年6月25日
生地アメリカ合衆国インディアナ州ゲーリー
没地アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス
配偶者なし
埋葬場所フォレスト・ローン・セメタリー

マイケルジャクソンの生涯をハイライト

マイケルジャクソン

マイケルジャクソンは1958年8月29日に、父ジョセフと母キャサリンの六男として誕生します。音楽好きな両親の影響で、マイケルは兄弟たちと共に小さなころから音楽に触れて育ちました。

才能を開花させたマイケルは兄弟たちと共にジャクソン5を結成しました。1968年には「帰ってほしいの」でメジャーデビューを果たし、全米チャート1位を獲得します。たちまち人気者になったジャクソン5はその後もヒット曲を連発しました。

1979年、音楽プロデューサーであるクインシージョーンズの力を借り「オフ・ザ・ウォール」でソロデビューを飾ります。1982年12月には世紀の大ヒットアルバム「スリラー」を発表しグラミー賞を総ナメする快挙を成し遂げました。

マイケルは1985年の「ウィ・アー・ザ・ワールド」を始めとして、数々の慈善活動も行ってきました。1992年には難病に苦しむ子供たちのために「ヒール・ザ・ワールド基金」を設立しています。

そんなマイケルですが、肌の色の変化による整形疑惑や幼児虐待で2度も告訴されるなど様々なスキャンダルの的となりました。晩年までマイケルは様々な報道やインタビューにより好奇の目に晒され苦しんだと言います。

マイケルは2009年6月に、麻酔薬プロポフォールの過剰摂取による呼吸停止及び心肺停止によりこの世を去ります。この結果を受け、マイケルの主治医が過失致死罪で有罪判決を言い渡されました。

数えきれないマイケルの名曲

数えきれないほどの名曲を残した

マイケル・ジャクソンは、数々の名曲を発表しました。マイケルの曲全てが名曲と言っても過言ではありません。ここでは、売上、メッセージ性などを考慮した上でいくつかの名曲をご紹介します。

まず最初に1983年にリリースされた「ビリー・ジーン」は間違いなく名曲と言えます。マイケルが作詞・作曲をしており、嘘ばかりのゴシップ記事にうんざりしていたマイケルの気持ちが良く現れています。また、ムーンウォークがはじめて披露されたのも、このビリー・ジーンのパフォーマンスの中でした。

そして、「スリラー」を忘れてはいけません。シングル曲「スリラー」のヒットにより、収録したアルバム「スリラー」が爆発的なヒットとなりました。「スリラー」ヒットの要因はそのミュージックビデオにあり、制作費1億円をかけた13分に及ぶミュージックビデオは、世界の音楽シーンに大きな影響を与えました。

スリラー

1992年リリースの「Heal The World」は、マイケルの代表的なメッセージソングです。紛争や貧困など社会問題を扱い、「世界を良くしていこう」と歌っています。また、マイケルは「ヒール・ザ・ワールド財団」を設立しました。

マイケルのテーマ曲とも言えるのが、1988年リリースの「マン・イン・ザ・ミラー」です。メッセージ性が強く、ゴスペルを基調とした名曲です。ミュージックビデオでは、人種差別、環境破壊、戦争などに反対する映像や、歴史的な人物も数多く登場します。コンサートの最後に歌われ、神々しいマイケルの姿にファンたちが涙を流している映像は有名ですね。

マイケルの代名詞「ムーンウォーク」

ダンスをするマイケル

ムーンウォークは足を交互に滑らし、前に進んでるように見せながら後退するストリートダンスの技法です。マイケルジャクソンが自身の楽曲である「ビリージーン」で使用したことで、世界的に有名になりました。

マイケルが初めてムーンウォークを披露したのは、1983年のモータウン25周年コンサートでのことでした。ビリージーンの間奏部分で初めて披露した瞬間の、観客の歓声がすべてを物語っています。

実はシャイな性格だった?

ステージでのマイケル

ステージでの自信に満ちた堂々とした振る舞いからは想像できませんが、実はマイケルは恥ずかしがり屋でとてもシャイでした。そのため普段からサングラスを愛用していたと言います。

しかし音楽に関してはとてもストイックで完璧主義者でした。納得がいくまで何度もリハーサルをやり直し、コンサートが終わってからも滞在先のホテルで練習していたというのは有名な話です。

才能豊かなマイケルの兄弟たち

才能豊かなマイケルジャクソンの兄弟たち

マイケルジャクソンの兄弟たちも音楽の才能に溢れていました。ジャクソン5で一緒だった次男のティトジャクソンや三男のジャーメインジャクソンなどは、現在でもソロで音楽活動をしています。

そしてマイケルの次に成功しているのは三女のジャネットジャクソンでしょう。1989年に発表されたアルバム「リズム・ネイション1814」でポップスチャートとR&Bチャートの両方で1位を獲得し、全米だけで約850万枚もの売上を記録しました。

三人の子供にも恵まれた

マイケルの子供たち

マイケルには三人の子供がいます。長男のマイケル・ジョセフ・ジャクソン II、次男のプリンス・マイケル・ジャクソン II、長女のパリス・ジャクソンです。

長男ジョセフは、King’sSonProductionsという会社を設立し、プロデューサー業をしながら、次男プリンスと従兄弟と共に映画レビューのYouTubeチャンネルを立ち上げ、YouTuberとしても活躍しています。

次男プリンスは、幼少期から空手を続けており、兄ジョセフとともにYouTuberとして活躍しています。他の2人と違い、SNSをしていないため私生活は謎に包まれています。

有名が故にゴシップに悩まされたことも

長女のパリスは、父マイケルへの数々のゴシップや遺産を巡る親族のトラブルなどによって不安定になった時期があり、自殺未遂騒動を起こしました。現在は、モデルや女優として活躍しています。

長男のジョセフと長女のパリスは、マイケルの二番目の奥さんと某精子提供者(マイケルの友人と言われている)との子供で、マイケルと血の繋がりはないと言われており、次男のプリンスのみ、代理母から生まれた実子だと言われています。

マイケルの追悼式で当時11歳だった長女パリスは、「私が生まれたときから、パパはこの世で想像しうる限り最高のお父さんだった。ただ、今はパパに私がとっても愛しているということを伝えたいの……」とスピーチをしました。

三人の子供達にとってマイケルは素晴らしい父親であった、それが全てではないでしょうか。

死因は「医療ミス」とされているが…?

2009年、マイケルは自宅の寝室で心肺停止で横たわっていたのをボディーガードに発見され、病院に搬送されるもそのまま死亡してしまいました。死因は、当時の主治医コンラッド・マレイが投与した麻酔薬プロポフォールの過剰摂取による呼吸停止及び心肺停止と言われています。

医療ミスと言われているが…

後に、コンラッド・マレイ元医師は、過失致死罪で禁錮4年の実刑判決を受けています。しかし、誰がコンラッド・マレイを雇ったのか分からないこと、また、主治医自身に多額の借金があったことなどから、マイケルは医療ミスを装って殺されたのではないか、という説が強く残っています。

実際に、娘のパリスは米紙ローリングストーンに「父の死はしくまれたもの。父は殺された」と発言し、「いろいろな人に狙われていると、ほのめかしていた」「『いつかあいつらに殺される』と言っていた」「父が殺されたことは、本物のファンや家族はみんな知ってる。父の死を願っていた人は大勢いる」と話しています。

また、マイケルの死の真実を探っていた顧問弁護士が、マイケルが亡くなった翌年に謎の死を遂げているのも不可解です。いつか真実が明らかになる日が来るのでしょうか。

ネバーランドとはなんだったのか?

22億円をかけて購入した遊園地「ネバーランド」とは一体…

ネバーランドとはマイケルジャクソンが1987年に22億円をかけて購入した遊園地で、施設内にはマイケルの自宅やレコーディングスタジオなども併設されていました。「ピーターパン」に登場する年を取らない魔法の島から名付けられました。

世界の恵まれない子供たちのためにネバーランドを開放していたマイケルでしたが、児童虐待の疑惑が持ち上がり、違う意味で有名になってしまいます。マイケルは2005年の裁判で無罪判決を受けると、ネバーランドから引っ越し二度と戻りませんでした。

マイケル・ジャクソンの生存説とは?

生存説もささやかれている

2009年に亡くなったマイケルですが、「実は生きている」という生存説が存在します。きっかけとなったのは、マイケルの遺体を乗せた検死車両からマイケルが歩いて出てくるという動画です。しかし、情報の出所がTMZというアメリカのゴシップ誌ですので、信憑性は薄いかもしれませんね。

他にも、マイケルの棺桶写真は偽物であり、合成写真だったというものや、街中でマイケルを見た、病院の裏口から出てくるのを見た、など様々な目撃情報もあるようです。最近では、娘パリスが公開した動画の車の後部座席にマイケが乗っている、息子プリンスの卒業式に現れた、というものもあるようです。

いたずら好きのマイケルですから、私たち一般人には思いつかないような方法で「自らの死」を作り上げたのかもしれません。ファンとしては、たとえ表に出てこなくても、世界のどこかで幸せに生きていて欲しい、と願うばかりです。

マイケル・ジャクソンの名言は?

I’m never pleased with anything, I’m a perfectionist, it’s part of who I am.
僕はどんなことにも決して満足しない。僕は完璧主義者で、それが僕という人間なんだ。

When I see children, I see the face of God. That’s why I love them so much. That’s what I see.
子供達を見るとき、そこに神様の顔がみえる。だから僕は子供達が大好きなんだ。それこそが僕が見てるものなんだ。

We have to heal our wounded world. The chaos, despair, and senseless destruction we see today are a result of the alienation that people feel from each other and their environment.
僕たちは、傷ついたこの世界を癒さなければならない。今日僕たちが目にする混沌や絶望、無意味な破壊は、人々がお互いや周りの環境から感じる疎外感に起因する。

I will never stop helping and loving people the way Jesus said to.僕は人々を助け、そして愛することを決してやめない。イエスがそうしろと言ったようにね。

In a world filled with despair, we must still dare to dream. And in a world filled with distrust, we must still dare to believe.
絶望に満ちた世界にあっても、あえて夢を追わなければならない。不信に満ちた世界にあっても、あえて信じなければならない。

It all begins with forgiveness, because to heal the world, we first have to heal ourselves.すべてはゆるすことから始まる、なぜなら、世界を癒すためには、まず自分自身を癒さなければならないから。

マイケル・ジャクソンは一体何がすごいのか?

すごさ1「マイケル・ジャクソンは、死んでからも稼ぎ続ける」

ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイム

米国でマイケルの価値は死亡してから急騰したといわれています。2013年、英フォーブス誌が発表した「死んでから最も稼いでいる著名人」の2013年版でマイケルは1位を獲得し、その額は1億6000万ドル(約163億円)と言われています。

晩年のマイケルは、様々な誹謗中傷やゴシップに苦しめられました。そして、彼の音楽や作品への注目よりも、ゴシップに注目が集まっている状況でした。しかし、マイケルが亡くなってからは、一人の人としてのマイケル・ジャクソン、そして彼の音楽やダンス、音楽業界への貢献などが再評価されました。

まさに、マイケルは死後に復活を果たしたと言えるのではないでしょうか。マイケルは生きていた時も、亡くなってから現在に至るまでも大成功を続けているスーパースターなのです。

すごさ2.「ゼロ・グラビティ」

45度ほどまで傾くゼロ・グラヴィティ

1988年、マイケル主演の映画「ムーンウォーカー」が公開されました。映画の中の楽曲「スムース・クリミナル」で披露されたのが、マイケルの有名なダンスの一つ「ゼロ・グラビティ」です。当時多くの人が、体をまっすぐにしたまま前に倒れる「ゼロ・グラヴィティ」に驚かされました。

ミュージックビデオでは、身体をワイヤーで吊るして支えていましたが、靴のかかとの部分にV字の金属板を仕込み、床に備え付けられたフックに引っかけるという方法で、1992年からライブでも「ゼロ・グラビティ」が見られるようになりました。

ゼロ・グラビティの何が凄いかというと、靴を金具にひっかけているだけということです。つまり、倒れないように真っすぐ体を傾けるのも(最大45度も傾けます)、傾けた体勢から元の直立の状態に戻るのも、全て全身の筋肉の力を使った「自力」なのです。

それをライブという長時間にわたるステージで、しかも失敗が許されない中で披露し続けたのです。改めて、マイケルのパフォーマンスのレベルの高さが分かりますね、

すごさ3.「数多くのギネス世界記録を持つ 」

数々のギネス記録を樹立した

マイケル・ジャクソンはなんと数多くのギネス世界記録を持っています。ここにその内容をご紹介しましょう。

  • ソニーとの契約金8億9000万ドルが「最高契約金額」
  • 最も成功したコンサート(1989年ロンドン公演)
  • 「Ghost」が長さ35分の「最長ビデオ、アルバム」
  • アルバム「スリラー」の全米アルバムチャート37週首位で「最長期間首位」
  • シングル「You Are Not Alone」で「全米シングルチャート初登場第1位を獲得した史上初のアーティスト」
  • アルバム「スリラー」で「史上最も売れたアルバム」
  • 1984年グラミー賞で8部門受賞という「グラミー賞最多受賞」
  • シングル「Scream」の700万ドルという「史上最も費用がかかったPV」
  • 「史上最も成功したアーティスト」

特に、アルバム「スリラー」の売上は今後も破られることはないのではないか、と言われています。

マイケルジャクソンの功績

功績1「ウィー・アー・ザ・ワールドを作詞作曲」

あまりにも有名な「ウィー・アー・ザ・ワールド」

アフリカの貧困層を飢餓から救うために、1985年に発表されたチャリティソングが「ウィー・アー・ザ・ワールド」です。世界を代表するアーティストが数多く集まり、「USAフォー・アフリカ」としてチャリティに参加しました。

この「ウィー・アー・ザ・ワールド」の作詞・作曲をライオネルリッチーと共に担当したのがマイケルジャクソンでした。シングル・アルバム・ビデオの合計で6300万ドル以上を売り上げ、すべての印税はチャリティとして寄付されています。

1985年のアメリカン・ミュージック・アワードが開催された後に、ハリウッドのスタジオでレコーディングされました。世界中を飛び回るアーティストたちが一斉に集まれたのは奇跡というほかありません。

功績2「生涯で約500億円以上を寄付」

生涯で500億円以上の寄付

マイケルジャクソンは慈善活動家としての顔も持っていて、生涯で約500億円以上を様々な形で寄付しています。個人で行った寄付の最高額としてギネス記録に認定されました。

1992年には、前年に発表されたマイケルのアルバム「デンジャラス」に収録された楽曲のヒール・ザ・ワールドになぞらえ、世界中の難病に苦しむ子供たちのために「ヒール・ザ・ワールド基金」を設立しました。同年に開催されたマイケルのワールドツアーの収益金はすべて基金に寄付されています。

その他にもアメリカ同時多発テロの被災者支援を行ったり、日本の阪神・淡路大震災や2005年にアメリカを襲ったハリケーン・カトリーナの際にはチャリティーソングを作り収益金を寄付しています。

マイケル・ジャクソンにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「マイケル・ジャクソンは死が迫っているのを知っていた」

マイケルの歌には、社会問題や人種差別などメッセージ性の強い曲が多いですが、特に晩年の曲には隠されたメッセージが多く見られると言われています。これらのメッセージは、世界を牛耳っていると噂される組織や巨大な権力を持つ団体などに対するもの、またこれらの正体を世間に知らせるためのメッセージだと言われています。

例えば、「MONEY」という曲では「お金の為なら何だってするんだ。嘘だってつくし命だって捨てる。悪魔に魂だって売るんだ。」というフレーズがあり、権力者を批判し、否定するような内容となっています。

生前から暗殺を恐れていた

そのため、マイケル自身も数多くの組織から自分が狙われている事を自覚していたと言われています。特に、ライブで人前に立つ直前には「撃たれるのが怖い!」と発言していたこともあるそうです。

また、生前に事務所のメンバーと顔を合わせた際(これが最後となってしまいますが)、まるで自分がもうすぐ殺されるのを知っていたかのように、一人一人に別れと感謝を告げていたといわれています。

都市伝説・武勇伝2「マイケル・ジャクソンは肌を漂白したのか」

肌色が徐々に変化したマイケル

マイケルには様々な噂がありますが、その一つに、「マイケルは白人になりたくて肌を漂白した」というものがあります。ご存知の通りマイケルは黒人ですが、1980年代後半から肌の色が徐々に白くなっていきました。

なぜ、マイケルの肌が白くなってしまったかというと、「尋常性白斑」という肌の病気を患っていたからです。この病気は、皮膚の色素が一部または広範囲にわたって抜け落ちる皮膚病で、人種を問わず100人に1人程度の割合で起こる病気とのことです。

マイケル本人も、この病気に罹っていること、この病気が父方の遺伝であること、そして自分が黒人であることに誇りを持っていることをインタビューで語っています。しかし当時は、この病気の知名度は低く、今ほど研究も進んでいなかったため、マイケルは「白人になりたがった」「肌を漂白した」など酷い誹謗中傷を浴びていたのです。

マイケル・ジャクソンの略歴年表

1958年
インディアナ州ゲーリーに生まれる
1958年8月29日、アメリカ合衆国インディアン州ゲーリーの貧しい黒人家庭の6男として生まれました。父ジョセフはクレーンの操縦士、母キャサリンはデパートで働ていました。
1969年
ジャクソン5としてデビュー
ジャッキー、ジャーメイン、ティト、マーロンの兄たちと結成したバンド「ジャクソン5」のリードボーカルとして活動し、1969年モータウンと契約し、全米デビューしました。ジャクソン5はデビュー曲から続けて4曲がビルボード・ホット100及びビルボード・ソウル・シングルズ・チャートで1位を獲得し、デビュー1年で最も人気のあるグループへと成長しました。
1979年
初のソロアルバムを発表する
1979年初のソロアルバム「オフ・ザ・ウォール(Off The Wall)」を発表しました。初の自作曲「今夜はドント・ストップ」や「ロック・ウィズ・ユー」「オフ・ザ・ウォール」「あの娘が消えた」の4曲が全米チャートトップ10に入るという偉業を成し遂げ、アルバム自体も全米で800万枚を売り上げる大ヒットとなりました。
1982年
伝説のアルバム「スリラー」を発表する
1982年に2枚目のソロアルバム「スリラー」を発表しました。収録曲9曲のうちシングルカットされた全7曲が全米チャートトップ10に入るという快挙を達成し、アルバムは現在に至るまで少なくとも6500万枚を売り上げ「史上最も売れたアルバム」としてギネス世界記録に認定されています。第26回グラミー賞では史上最多の7部門を制覇しました。
1984年
頭部を大火傷する
1984年、ペプシのCM撮影中の事故で頭部に火傷を負い、その傷は頭部の皮膚の深くにまで至るほどだったとのことです。この事故がきっかけで、鎮痛剤への依存に陥ってしまったのではないかといわれています。事故で受け取ったペプシからの和解金は、マイケルがすべて病院に寄付したようです。
1987年
アルバム「BAD」を発表する
1987年3枚目のそろアルバム『BAD』を発表しました。このアルバムから「マン・イン・ザ・ミラー」など世界平和や世相批判などを訴える曲が作られています。9月からおこなわれた初のソロツター「バッド・ワールド・ツアー」は日本からスタートしました。アルバム「BAD」の売上は約3000万枚で、シングルカットされた曲が5曲連続で全米チャート1位を獲得し、史上初の快挙を達成しました。
1991年
アルバム「デンジャラス」を発表する
1991年に発売されたアルバム「デンジャラス」は前作の「BAD」の売上を上回りました。「肌の色なんか関係ない」と歌った先行シングル「ブラック・オア・ホワイト」は、20か国のチャートで1位を獲得します。翌1992年から2度目のワールドツアーがスタートしました。
1993年
性的虐待の起訴を起こされる
1993年、ジョーダン・チャンドラーという少年に性的虐待をしたとして訴訟を起こされます。後におこなわれた裁判で、ジョーダンの父イヴァンの異常性が明らかとなったり、またジョーダン本人の証言にも多数の矛盾が発覚しました。
1994年
結婚する
1994年、マイケルは、エルヴィス・プレスリーの娘リサ・マリー・プレスリーと結婚しました。しかし、2年後の1996年離婚します。
1995年
2枚組アルバム「ヒストリー」を発表
1995年発売のアルバム「ヒストリー」には、1993年の起訴以降の世間からのバッシングや誹謗中傷に対するマイケルの悲しみや怒りが強く表現された曲、アメリカ社会抱える数々の社会問題や環境問題をテーマにした曲が多く見られます。妹ジャネットとのデュエット「スクリーム」が「史上最も費用の使われたミュージック・ビデオ」として、シングル「ユー・アー・ノット・アローン」が「全米チャート初登場1位」として、ともにギネス世界記録に認定されました。
1996年
二度目の結婚する
1996年、マイケルは、看護師であるデビー・ローと二度目の結婚をしました。また、3年後に離婚しています。
2001年
アルバム「インヴィンシブル」を発表
2001年発売のアルバム「インヴィンシブル」しましたが、この頃、マイケルとソニーの確執が表面化し始めます。アメリカ同時多発テロの被災者支援のためのチャリティーコンサートを行い、新曲「ホワット・キャン・アイ・モア・ギブ」を披露しました。
2003年から2005年
逮捕と裁判
2003年11月、ギャヴィン・アルヴィーゾという少年への性的虐待疑惑で逮捕されました。裁判ではギャビン少年やその母親の偽証があきらかになるとともに、2005年、マイケルは全ての起訴内容に対して無罪という判決を勝ち取りました。後にこの母親は福祉詐欺で起訴され、有罪判決を受けています。
2009年
マイケル亡くなる
2009年6月、自宅寝室にて心肺停止で発見されます。享年50歳。一か月後にワールドツアーがスタートする予定でした。

マイケル・ジャクソンの生涯具体年表

1958年 – 0歳「マイケル・ジャクソン誕生する」

インディアナ州ゲーリーにマイケル生まれる


1958年8月29日、アメリカ合衆国インディアナ州ゲーリーの黒人家庭の6男として誕生しました。父ジョセフは製鉄所のクレーン操縦士、母キャサリンはデパートのパートタイム従業員という貧しい家庭であったといいます。父ジョセフは音楽活動もしていたため、音楽が身近にある環境で育ちました。

マイケルの音楽センスはずば抜けていた

マイケルの兄達は隠れて父のギターを演奏しており、ある日息子たちの演奏を聞いた父は、子どもたちに音楽を教えることを決意します。幼いながらも歌とダンスのセンスがずば抜けていたマイケルは、父が結成したグループ「ジャクソン5」に参加し、インディアナ州でツアーをおこないながら着々と人気を得ていきました。

幼い頃のマイケルは、父ジョセフから躾と言う名の酷い体罰を受けていたと言います。これは、ジャクソン5としてデビューしてからも続いたと、インタビューの中で証言しています。

1969年 – 11歳「ジャクソン5としてデビュー」

モータウンと契約しデビュー

ジャクソンファイブとしてデビュー

1968年モータウンと契約すると、1969年10月ファーストシングル「帰ってほしいの」でメジャーデビューします。「帰ってほしいの」はビルボードホットチャート100で1位を獲得し、続いて「ABC」「小さな経験」「アイル・ビー・ゼア」と連続1位を獲得します。その後も新曲が次々とトップ5入りし、ジャクソン5は一躍人気グループの仲間入りを果たしました。

メンバーの中で歌、ダンスともに天才的な才能を誇っていたマイケルは一番人気があり、1971年には「ガット・トゥ・ビー・ゼア」でソロデビューを果たします。さらに、映画「ベン」の主題歌「ベンのテーマ」、「ロッキン・ロビン」「アイ・ウォナ・ビー・ホエア・ユー・アー」などソロとしてもヒットを飛ばし、マイケル個人の人気は確固たるものになりました。

ダイアナ・ロスとの出会い

デビュー当時、カリフォルニア州に移ったマイケルは、モータウンのスターだったダイアナ・ロスと暮らしていました。この後もマイケルとダイアナ・ロスの友情は続き、マイケルの子供が生まれてからは、子供達の後見人にダイアナを指名しています。

1979年 – 21歳「ファーストソロアルバム「オフ・ザ・ウォール」発表」

アイドルからアーティストへ

オフ・ザ・ウォール

マイケル初のソロアルバム「オフ・ザ・ウォール」を発表します。クインシー・ジョーンズをプロヂューサーに迎えましたが、その起用には家族やレーベルの反対があったといいます。しかし、マイケルとクインシーで作り上げた70年代のディスコ・ブームとブラック・ミュージックの融合であるこのアルバムは高い評価を受け、全米で800万枚を売り上げ大ヒットとなりました。

ソロでは初の自作曲「今夜はドント・ストップ」「ロック・ウィズ・ユー」「オフ・ザ・ウォール」「あの娘が消えた」の4シングルが全米チャートトップ10に入りました。このアルバムの成功が、マイケルのソロ専念のきっかけとなったようです。

ジャクソン5の人気低迷と移籍

デビュー以降、爆発的人気を誇っていたジャクソン5ですが、マイケルがソロとして確固たる地位を築いていく一方、グループとしての人気は低迷していきます。原因は、ジャクソン5メンバーによるセルフプロデュースや方向転換をモータウンが許さなかったから、と言われています。

モータウンからCBSに移籍し、グループ名を「ジャクソンズ」に変更すると、1978年には全曲セルフプロデュースのアルバム「デスティニー〜今夜はブギー・ナイト」を発表しました。シングルカットされた「シェイク・ユア・ボディ」は、ビルボード・ホット100で7位、R&Bチャートで3位を獲得し、アルバムはプラチナ・レコードとなりました。

1982年 -24歳「最大のヒットアルバム「スリラー」を発表」

至上最も売れたアルバム「スリラー」の誕生

スリラー

1982年、再びクインシーとタッグを組んだアルバム「スリラー」を発表しました。「スリラー」は、全世界で6500万枚を売り上げたとされ、「史上最も売れたアルバム」としてギネス世界記録に認定され、その記録はいまだ破られていません。また、収録曲9曲のうちシングルカット7曲全てが全米チャートでトップ10入りし、第26回グラミー賞では史上最多の7部門を制覇しました。

ムーンウォークの披露

マイケルジャクソンの代名詞ムーンウォーク

1983年5月、モータウン25周年コンサートにジャクソンズとして参加し、ジャクソンズのパフォーマンスの後、スリラーからのシングル「ビリー・ジーン」を歌い、はじめてムーンウォークを披露しました。このモータウンのコンサートに出演する条件として、マイケルは「ビリー・ジーン」を歌うことを提示したといわれています。

ヴィクトリーツアーとジャクソンズ脱退

「スリラー」の大ヒットの後、既に世界的スターとなっていたマイケルと兄弟家族を巻き込んだ金銭的トラブルや音楽的方向性の分裂など、ジャクソンズの活動は困難を迎えます。そんな中、「ヴィクトリー・ツアー」に参加しますが、ツアー終了後、マイケルはグループを脱退しました。その後ジャクソンズは兄ジャーメインがリードボーカルを務めましたがうまくいかず、事実上解散状態になります。

頭に大火傷を負う

1984年、ペプシのCM撮影中の事故で頭部に大火傷を負うってしまいました。この火傷で頭部の深くまで傷を残してしまい、この事故がきっかけでマイケルは鎮痛剤を手放せなくなってしまったといわれています。マイケルは、ペプシから和解金を受け取りましたが、そのお金は全て病院に寄付されました。

1987年 -29歳「キング・オブ・ポップの誕生」

アルバム「BAD」を発表

BAD時代のマイケル・ジャクソン

1987年、前2作に続きクインシー・ジョーンズをプロヂューサーに迎え、アルバム「BAD」を発表しました。このアルバムは、「マン・イン・ザ・ミラー」など今までにはなかった世界平和や社会への批判などを歌った楽曲がみられます。全11曲中9曲がマイケル作成の曲となっています。

アルバムからのシングル5曲が連続で1位を獲得するという、ビルボード史上初の快挙を達成しましたが、前作「スリラー」の売上を越えることができずマイケル本人は残念がっていたと言われています。とはいっても、アルバム「BAD」も3000~4000万枚を売り上げています。

主演映画の公開

1988年、マイケル主演の映画「ムーンウォーカー」が公開されました。この映画は、マイケルが主演、原案、製作総指揮をとっているミュージカル映画となります。映画の中の曲「スムース・クリミナル」で、はじめて「ゼロ・グラヴィティ」が披露されました。

キング・オブ・ポップ誕生

親友エリザベス・テイラー

マイケルを表す有名な言葉「キング・オブ・ポップ」ですが、きっかけはマイケルの親友エリザベス・テイラーの言葉と言われています。1989年、BREアワーズにおいてポップ・ロック・ソウルの三部門を制した時、エリザベス・テイラーがマイケルのことを「ポップ・ロック・ソウルの真の王者」と呼んだことが始まりと言われています。

1991年 -33歳「アルバム「デンジャラス」を発表」

アルバム「デンジャラス」を発表

デンジャラス

1991年、これまでタッグを組んできたクインシー・ジョーンズから離れ、テディ・ライリーをプロデューサーに迎え、アルバム「デンジャラス」を発表しました。「デンジャラス」の売上は前作「BAD」を上回り、先行シングル「ブラック・オア・ホワイト」は世界20か国でチャート1位を獲得しました。

「 デンジャラス・ワールド・ツアー」をスタート

1992年、2回目のワールドツアー「デンジャラス・ワールド・ツアー」をスタートします。ツアーの収益金は全てマイケルが設立した基金「ヒール・ザ・ワールド基金」に寄付されています。

性的虐待疑惑

性的虐待疑惑で起訴

1993年8月、ジョーダン・チャンドラーへの性的虐待の起訴を起こされ、開催中の「デンジャラス・ワールド・ツアー」の中止を余儀なくされました。捜査の結果、少年の証言と一致するような証拠は見つからず、少年の父親エヴァンがただ単にお金欲しさにマイケルを恐喝しただけであったことが発覚しました。

しかし、この事件でマイケルが負った精神的ダメージは大きく、ツアー中止を発表する際のコメントで「虚偽の疑惑からの屈辱、不名誉、メディアの虚偽報道などからくるストレス、プレッシャーと、パフォーマンスで必要とされる大きなエネルギーとが、僕を追い詰め、身も心も疲れ果ててしまいました」と語っています。

マイケルの最初の結婚

1994年、エルヴィス・プレスリーの娘リサ・マリー・プレスリーと結婚しました。

1995年 -37歳「アルバム「ヒストリー」を発表」

アルバム「ヒストリー」を発表

ヒストリー時代のマイケルジャクソン

1995年、2枚組アルバム「ヒストリー:パスト、プレゼント・アンド・フューチャー:ブック1」を発表しました。1枚目が「HIStory Begins」というベスト盤で、2枚目が「HIStory Continues」と呼ばれる未発表曲集という2枚組です。このアルバムは、93年に起きた訴訟以降に受けた誹謗中傷や虚偽報道に対するマイケルの怒りや悲しみが込められたものとなりました。

マイケルへのバッシングや定着してしまったマイナスイメージの中、シングルカットされた「ユー・アー・ノット・アローン」は全米チャートで初登場1位を記録し、ギネス世界記録に認定されました。また、環境問題をテーマにした「アース・ソング」は、イギリスでマイケル最大のヒット曲となりました。

1996年に、3度目のワールドツアー「ヒストリー・ワールド・ツアー」をスタートしました。

マイケルの離婚と再婚

リサ・マリー・プレスリー

1996年、リサ・マリー・プレスリーと2年にわたる結婚生活にピリオドをうちました。その後1999年に、看護師であった一般女性デビー・ローと再婚し、2人の子供を設けました。

ジャクソン5としての活動

1997年、ジャクソン5としてロックの殿堂入りを果たします。2001年に開催された「マイケル・ジャクソン30周年記念ソロ・イヤーズ」ではジャクソン5が復活し、兄弟たちとステージに立ちました。

2001年 -43歳「アルバム「インヴィンシブル」を発表」

生前最後のアルバム「インヴィンシブル」を発表

2001年、若手プロデューサーを迎え、アルバム「インヴィンシブル」を発表しました。このアルバムが生前最後のスタジオ盤アルバムとなってしまいます。

2003年 -45歳「性的虐待疑惑で逮捕と裁判」

性的虐待疑惑で逮捕される

再び性的虐待の疑惑で逮捕

2003年11月、少年ギャヴィン・アルヴィーゾへの性的虐待疑惑で、証拠不十分にも関わらず逮捕されました。マイケルは、インタビューで「子供を傷つけるくらいならリストカットする」「警察から手荒な扱いを受けた」と語っています。

マイケル、無罪を勝ち取る

70人を動員して行った家宅捜索でも証拠となるものは発見されず、裁判ではギャビン少年やその母親の証言がコロコロ変わるなど、偽証があきらかになり、2005年、マイケルは全ての起訴内容に対して無罪という判決を勝ち取りました。後にこの少年の母親は福祉詐欺で起訴され、有罪判決を受けています。

2009年 -50歳「ツアーの発表と死」

最後のツアー「This is it」の発表

2009年、ロンドンで開いた記者会見で、「O2アリーナで最後のツアー『THIS IS IT』を行う」と発表しました。

マイケルの死

多くのファンが突然の死に涙した

2009年、This is itツアーを1か月後に控えた6月25日、自宅寝室にて心肺停止の状態で発見されます。病院に搬送されますが、死亡が確認されました。麻酔薬プロポフォールの過剰投与が原因とされています。50歳でした。

マイケル・ジャクソンの関連作品

おすすめの曲やアルバム

ESSENTIAL MICHAEL JACKSON

ジャクソン5時代の曲から晩年の曲まで、有名な曲ばかりを集めたアルバム。生前のマイケルを知らない世代の人達にマイケルのおすすめ曲を教えるならこのアルバムが役に立つでしょう。

スリラー

マイケルを一気にスターダムにのし上げたモンスターアルバムです。今聞いても色あせない名曲の数々に、あらためてマイケルの才能を感じ取れます。

おすすめ書籍・本・漫画

ムーンウォーク: マイケル・ジャクソン自伝

マイケルのことを知るにはこの一冊で十分というくらいの本です。マイケルをとりまく噂が数多くあるなか、マイケル自身が書いたこの自伝を読めば、何が真実で、マイケルがどんな思いで、そしてどれほどの努力をしてスターの地位を手に入れたかわかると思います。

ヤング・マイケル・ジャクソン写真集1974-1984

スーパースターになる前の、幼さが残るマイケルの素敵な写真が集められています。ファンのためというより、マイケル自身のお気に入りの写真を集めたような写真集です。キメキメでない、素顔のマイケルをみたい方におすすめです。

おすすめの動画

Another Part Of Me

マイケルのBADツアーでの一曲です。マイケルの一番勢いがある時期で、世界中がマイケルに熱狂していた様子がよくわかります。楽しそうに歌い踊るマイケルに、見ている側も癒されます。

スリラー

世界の音楽シーンに衝撃を与えた伝説のミュージックビデオです。マイケルの素晴らしい歌とダンスを堪能でき、同時に映画を見ているような感覚を楽しめます。

Michael Jackson Billie Jean

モータウン25周年のステージでのマイケルです。ここでビリー・ジーンとムーンウォークがはじめて披露されました。とても初々しいマイケルが可愛いです。

おすすめの映画

ムーンウォーカー

マイケル主演のミュージカル映画です。子供達を悪に立ち向かうマイケルが可愛くもかっこいいです。映画の中の楽曲「スムース・クリミナル」では、ゼロ・グラビティがはじめて披露されました。

マイケル・ジャクソン THIS IS IT

マイケルがおこなうはずだったThis is itツアーのリハーサル映像です。マイケルの死後公開されました。リハーサルとはいえ手を抜かず妥協を許さないマイケル、そして愛をもってアドバイスをするマイケルなど素顔のマイケルが見られます。

関連外部リンク

マイケル・ジャクソンについてのまとめ

マイケル・ジャクソンの生涯についてご紹介してきましたが、いかがでしたか?

小学生の頃、横浜スタジアムでおこなわれたマイケルのコンサート映像をみた時の衝撃は、今でも忘れられません。マイケルに関しては、様々な誹謗中傷や噂があり、何が真実なのか分からなくなったこともありました。

しかし、マイケルが残した作品の中に全ての答えはあります。そこには、マイケルが何を伝えたかったのか、マイケルの想いがあふれています。

この記事をきっかけに一人でも多くの人が、マイケルの素晴らしさに気づいてくれることを願っています。