マイケル・ジャクソンの名言は?
I’m never pleased with anything, I’m a perfectionist, it’s part of who I am.
僕はどんなことにも決して満足しない。僕は完璧主義者で、それが僕という人間なんだ。
When I see children, I see the face of God. That’s why I love them so much. That’s what I see.
子供達を見るとき、そこに神様の顔がみえる。だから僕は子供達が大好きなんだ。それこそが僕が見てるものなんだ。
We have to heal our wounded world. The chaos, despair, and senseless destruction we see today are a result of the alienation that people feel from each other and their environment.
僕たちは、傷ついたこの世界を癒さなければならない。今日僕たちが目にする混沌や絶望、無意味な破壊は、人々がお互いや周りの環境から感じる疎外感に起因する。
I will never stop helping and loving people the way Jesus said to.僕は人々を助け、そして愛することを決してやめない。イエスがそうしろと言ったようにね。
In a world filled with despair, we must still dare to dream. And in a world filled with distrust, we must still dare to believe.
絶望に満ちた世界にあっても、あえて夢を追わなければならない。不信に満ちた世界にあっても、あえて信じなければならない。
It all begins with forgiveness, because to heal the world, we first have to heal ourselves.すべてはゆるすことから始まる、なぜなら、世界を癒すためには、まず自分自身を癒さなければならないから。
マイケル・ジャクソンの名言10選!発言に込められた意図や背景も解説
マイケル・ジャクソンは一体何がすごいのか?
すごさ1「マイケル・ジャクソンは、死んでからも稼ぎ続ける」
米国でマイケルの価値は死亡してから急騰したといわれています。2013年、英フォーブス誌が発表した「死んでから最も稼いでいる著名人」の2013年版でマイケルは1位を獲得し、その額は1億6000万ドル(約163億円)と言われています。
晩年のマイケルは、様々な誹謗中傷やゴシップに苦しめられました。そして、彼の音楽や作品への注目よりも、ゴシップに注目が集まっている状況でした。しかし、マイケルが亡くなってからは、一人の人としてのマイケル・ジャクソン、そして彼の音楽やダンス、音楽業界への貢献などが再評価されました。
まさに、マイケルは死後に復活を果たしたと言えるのではないでしょうか。マイケルは生きていた時も、亡くなってから現在に至るまでも大成功を続けているスーパースターなのです。
すごさ2.「ゼロ・グラビティ」
1988年、マイケル主演の映画「ムーンウォーカー」が公開されました。映画の中の楽曲「スムース・クリミナル」で披露されたのが、マイケルの有名なダンスの一つ「ゼロ・グラビティ」です。当時多くの人が、体をまっすぐにしたまま前に倒れる「ゼロ・グラヴィティ」に驚かされました。
ミュージックビデオでは、身体をワイヤーで吊るして支えていましたが、靴のかかとの部分にV字の金属板を仕込み、床に備え付けられたフックに引っかけるという方法で、1992年からライブでも「ゼロ・グラビティ」が見られるようになりました。
ゼロ・グラビティの何が凄いかというと、靴を金具にひっかけているだけということです。つまり、倒れないように真っすぐ体を傾けるのも(最大45度も傾けます)、傾けた体勢から元の直立の状態に戻るのも、全て全身の筋肉の力を使った「自力」なのです。
それをライブという長時間にわたるステージで、しかも失敗が許されない中で披露し続けたのです。改めて、マイケルのパフォーマンスのレベルの高さが分かりますね、
すごさ3.「数多くのギネス世界記録を持つ 」
マイケル・ジャクソンはなんと数多くのギネス世界記録を持っています。ここにその内容をご紹介しましょう。
- ソニーとの契約金8億9000万ドルが「最高契約金額」
- 最も成功したコンサート(1989年ロンドン公演)
- 「Ghost」が長さ35分の「最長ビデオ、アルバム」
- アルバム「スリラー」の全米アルバムチャート37週首位で「最長期間首位」
- シングル「You Are Not Alone」で「全米シングルチャート初登場第1位を獲得した史上初のアーティスト」
- アルバム「スリラー」で「史上最も売れたアルバム」
- 1984年グラミー賞で8部門受賞という「グラミー賞最多受賞」
- シングル「Scream」の700万ドルという「史上最も費用がかかったPV」
- 「史上最も成功したアーティスト」
特に、アルバム「スリラー」の売上は今後も破られることはないのではないか、と言われています。
マイケルジャクソンの功績
功績1「ウィー・アー・ザ・ワールドを作詞作曲」
アフリカの貧困層を飢餓から救うために、1985年に発表されたチャリティソングが「ウィー・アー・ザ・ワールド」です。世界を代表するアーティストが数多く集まり、「USAフォー・アフリカ」としてチャリティに参加しました。
この「ウィー・アー・ザ・ワールド」の作詞・作曲をライオネルリッチーと共に担当したのがマイケルジャクソンでした。シングル・アルバム・ビデオの合計で6300万ドル以上を売り上げ、すべての印税はチャリティとして寄付されています。
1985年のアメリカン・ミュージック・アワードが開催された後に、ハリウッドのスタジオでレコーディングされました。世界中を飛び回るアーティストたちが一斉に集まれたのは奇跡というほかありません。
功績2「生涯で約500億円以上を寄付」
マイケルジャクソンは慈善活動家としての顔も持っていて、生涯で約500億円以上を様々な形で寄付しています。個人で行った寄付の最高額としてギネス記録に認定されました。
1992年には、前年に発表されたマイケルのアルバム「デンジャラス」に収録された楽曲のヒール・ザ・ワールドになぞらえ、世界中の難病に苦しむ子供たちのために「ヒール・ザ・ワールド基金」を設立しました。同年に開催されたマイケルのワールドツアーの収益金はすべて基金に寄付されています。
その他にもアメリカ同時多発テロの被災者支援を行ったり、日本の阪神・淡路大震災や2005年にアメリカを襲ったハリケーン・カトリーナの際にはチャリティーソングを作り収益金を寄付しています。
マイケル・ジャクソンにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「マイケル・ジャクソンは死が迫っているのを知っていた」
マイケルの歌には、社会問題や人種差別などメッセージ性の強い曲が多いですが、特に晩年の曲には隠されたメッセージが多く見られると言われています。これらのメッセージは、世界を牛耳っていると噂される組織や巨大な権力を持つ団体などに対するもの、またこれらの正体を世間に知らせるためのメッセージだと言われています。
例えば、「MONEY」という曲では「お金の為なら何だってするんだ。嘘だってつくし命だって捨てる。悪魔に魂だって売るんだ。」というフレーズがあり、権力者を批判し、否定するような内容となっています。
そのため、マイケル自身も数多くの組織から自分が狙われている事を自覚していたと言われています。特に、ライブで人前に立つ直前には「撃たれるのが怖い!」と発言していたこともあるそうです。
また、生前に事務所のメンバーと顔を合わせた際(これが最後となってしまいますが)、まるで自分がもうすぐ殺されるのを知っていたかのように、一人一人に別れと感謝を告げていたといわれています。
都市伝説・武勇伝2「マイケル・ジャクソンは肌を漂白したのか」
マイケルには様々な噂がありますが、その一つに、「マイケルは白人になりたくて肌を漂白した」というものがあります。ご存知の通りマイケルは黒人ですが、1980年代後半から肌の色が徐々に白くなっていきました。
なぜ、マイケルの肌が白くなってしまったかというと、「尋常性白斑」という肌の病気を患っていたからです。この病気は、皮膚の色素が一部または広範囲にわたって抜け落ちる皮膚病で、人種を問わず100人に1人程度の割合で起こる病気とのことです。
マイケル本人も、この病気に罹っていること、この病気が父方の遺伝であること、そして自分が黒人であることに誇りを持っていることをインタビューで語っています。しかし当時は、この病気の知名度は低く、今ほど研究も進んでいなかったため、マイケルは「白人になりたがった」「肌を漂白した」など酷い誹謗中傷を浴びていたのです。
マイケル・ジャクソンの略歴年表
1958年8月29日、アメリカ合衆国インディアン州ゲーリーの貧しい黒人家庭の6男として生まれました。父ジョセフはクレーンの操縦士、母キャサリンはデパートで働ていました。
ジャッキー、ジャーメイン、ティト、マーロンの兄たちと結成したバンド「ジャクソン5」のリードボーカルとして活動し、1969年モータウンと契約し、全米デビューしました。ジャクソン5はデビュー曲から続けて4曲がビルボード・ホット100及びビルボード・ソウル・シングルズ・チャートで1位を獲得し、デビュー1年で最も人気のあるグループへと成長しました。
1979年初のソロアルバム「オフ・ザ・ウォール(Off The Wall)」を発表しました。初の自作曲「今夜はドント・ストップ」や「ロック・ウィズ・ユー」「オフ・ザ・ウォール」「あの娘が消えた」の4曲が全米チャートトップ10に入るという偉業を成し遂げ、アルバム自体も全米で800万枚を売り上げる大ヒットとなりました。
1982年に2枚目のソロアルバム「スリラー」を発表しました。収録曲9曲のうちシングルカットされた全7曲が全米チャートトップ10に入るという快挙を達成し、アルバムは現在に至るまで少なくとも6500万枚を売り上げ「史上最も売れたアルバム」としてギネス世界記録に認定されています。第26回グラミー賞では史上最多の7部門を制覇しました。
1984年、ペプシのCM撮影中の事故で頭部に火傷を負い、その傷は頭部の皮膚の深くにまで至るほどだったとのことです。この事故がきっかけで、鎮痛剤への依存に陥ってしまったのではないかといわれています。事故で受け取ったペプシからの和解金は、マイケルがすべて病院に寄付したようです。
1987年3枚目のそろアルバム『BAD』を発表しました。このアルバムから「マン・イン・ザ・ミラー」など世界平和や世相批判などを訴える曲が作られています。9月からおこなわれた初のソロツター「バッド・ワールド・ツアー」は日本からスタートしました。アルバム「BAD」の売上は約3000万枚で、シングルカットされた曲が5曲連続で全米チャート1位を獲得し、史上初の快挙を達成しました。
1991年に発売されたアルバム「デンジャラス」は前作の「BAD」の売上を上回りました。「肌の色なんか関係ない」と歌った先行シングル「ブラック・オア・ホワイト」は、20か国のチャートで1位を獲得します。翌1992年から2度目のワールドツアーがスタートしました。
1993年、ジョーダン・チャンドラーという少年に性的虐待をしたとして訴訟を起こされます。後におこなわれた裁判で、ジョーダンの父イヴァンの異常性が明らかとなったり、またジョーダン本人の証言にも多数の矛盾が発覚しました。
1994年、マイケルは、エルヴィス・プレスリーの娘リサ・マリー・プレスリーと結婚しました。しかし、2年後の1996年離婚します。
1995年発売のアルバム「ヒストリー」には、1993年の起訴以降の世間からのバッシングや誹謗中傷に対するマイケルの悲しみや怒りが強く表現された曲、アメリカ社会抱える数々の社会問題や環境問題をテーマにした曲が多く見られます。妹ジャネットとのデュエット「スクリーム」が「史上最も費用の使われたミュージック・ビデオ」として、シングル「ユー・アー・ノット・アローン」が「全米チャート初登場1位」として、ともにギネス世界記録に認定されました。
1996年、マイケルは、看護師であるデビー・ローと二度目の結婚をしました。また、3年後に離婚しています。
2001年発売のアルバム「インヴィンシブル」しましたが、この頃、マイケルとソニーの確執が表面化し始めます。アメリカ同時多発テロの被災者支援のためのチャリティーコンサートを行い、新曲「ホワット・キャン・アイ・モア・ギブ」を披露しました。
2003年11月、ギャヴィン・アルヴィーゾという少年への性的虐待疑惑で逮捕されました。裁判ではギャビン少年やその母親の偽証があきらかになるとともに、2005年、マイケルは全ての起訴内容に対して無罪という判決を勝ち取りました。後にこの母親は福祉詐欺で起訴され、有罪判決を受けています。
2009年6月、自宅寝室にて心肺停止で発見されます。享年50歳。一か月後にワールドツアーがスタートする予定でした。
マイケル・ジャクソンの生涯具体年表
1958年 – 0歳「マイケル・ジャクソン誕生する」
インディアナ州ゲーリーにマイケル生まれる
1958年8月29日、アメリカ合衆国インディアナ州ゲーリーの黒人家庭の6男として誕生しました。父ジョセフは製鉄所のクレーン操縦士、母キャサリンはデパートのパートタイム従業員という貧しい家庭であったといいます。父ジョセフは音楽活動もしていたため、音楽が身近にある環境で育ちました。
マイケルの兄達は隠れて父のギターを演奏しており、ある日息子たちの演奏を聞いた父は、子どもたちに音楽を教えることを決意します。幼いながらも歌とダンスのセンスがずば抜けていたマイケルは、父が結成したグループ「ジャクソン5」に参加し、インディアナ州でツアーをおこないながら着々と人気を得ていきました。
幼い頃のマイケルは、父ジョセフから躾と言う名の酷い体罰を受けていたと言います。これは、ジャクソン5としてデビューしてからも続いたと、インタビューの中で証言しています。
1969年 – 11歳「ジャクソン5としてデビュー」
モータウンと契約しデビュー
1968年モータウンと契約すると、1969年10月ファーストシングル「帰ってほしいの」でメジャーデビューします。「帰ってほしいの」はビルボードホットチャート100で1位を獲得し、続いて「ABC」「小さな経験」「アイル・ビー・ゼア」と連続1位を獲得します。その後も新曲が次々とトップ5入りし、ジャクソン5は一躍人気グループの仲間入りを果たしました。
メンバーの中で歌、ダンスともに天才的な才能を誇っていたマイケルは一番人気があり、1971年には「ガット・トゥ・ビー・ゼア」でソロデビューを果たします。さらに、映画「ベン」の主題歌「ベンのテーマ」、「ロッキン・ロビン」「アイ・ウォナ・ビー・ホエア・ユー・アー」などソロとしてもヒットを飛ばし、マイケル個人の人気は確固たるものになりました。
ダイアナ・ロスとの出会い
デビュー当時、カリフォルニア州に移ったマイケルは、モータウンのスターだったダイアナ・ロスと暮らしていました。この後もマイケルとダイアナ・ロスの友情は続き、マイケルの子供が生まれてからは、子供達の後見人にダイアナを指名しています。
1979年 – 21歳「ファーストソロアルバム「オフ・ザ・ウォール」発表」
アイドルからアーティストへ
マイケル初のソロアルバム「オフ・ザ・ウォール」を発表します。クインシー・ジョーンズをプロヂューサーに迎えましたが、その起用には家族やレーベルの反対があったといいます。しかし、マイケルとクインシーで作り上げた70年代のディスコ・ブームとブラック・ミュージックの融合であるこのアルバムは高い評価を受け、全米で800万枚を売り上げ大ヒットとなりました。
ソロでは初の自作曲「今夜はドント・ストップ」「ロック・ウィズ・ユー」「オフ・ザ・ウォール」「あの娘が消えた」の4シングルが全米チャートトップ10に入りました。このアルバムの成功が、マイケルのソロ専念のきっかけとなったようです。
ジャクソン5の人気低迷と移籍
デビュー以降、爆発的人気を誇っていたジャクソン5ですが、マイケルがソロとして確固たる地位を築いていく一方、グループとしての人気は低迷していきます。原因は、ジャクソン5メンバーによるセルフプロデュースや方向転換をモータウンが許さなかったから、と言われています。
モータウンからCBSに移籍し、グループ名を「ジャクソンズ」に変更すると、1978年には全曲セルフプロデュースのアルバム「デスティニー〜今夜はブギー・ナイト」を発表しました。シングルカットされた「シェイク・ユア・ボディ」は、ビルボード・ホット100で7位、R&Bチャートで3位を獲得し、アルバムはプラチナ・レコードとなりました。