小林一茶とはどんな人?生涯・年表まとめ【有名俳句や代表作、松尾芭蕉との関係についても紹介】

小林一茶にまつわる逸話

逸話1「不幸の塊?慟哭の一茶」

一茶の人生は「不幸の塊」とも言われるほどに、不幸続きでした。まず、3歳で母親を亡くします。ここから怒涛の不幸がはじまります。

8歳のとき、父は後妻(一茶の継母)を娶りますが、勝気な性格で一茶とは合わず、祖母が一茶の養育にあたったと言われています。その後14歳で祖母を亡くしました。さらに39歳で父を亡くします。

52歳のとき一茶は菊という女性と結婚し、都合四人の子供を授かりますが、54歳で生まれて間もない長男・千太郎を亡くし、57歳で長女・さとを亡くし、58歳で次男・石太郎を亡くし、さらに61歳のときに妻と三男・金三郎を亡くします。

この他に病気(皮膚病や中風発作)があり、65歳で亡くなる半年前には火事で家屋敷まで亡くしています。世に不幸話は数多くあれど、ここまで不幸を集めてしまった一茶の人生は特異というほかなく、まさに慟哭につぐ慟哭だったことでしょう。

一茶の人生は、慟哭にあふれていた

逸話2「絶倫の塊?愛欲の一茶」

一茶の人並外れた特異点が、その性欲です。一茶は筆まめで、妻との性交渉の回数まで記録していました。一茶の時代の平均寿命や栄養状態に鑑みても、類まれな特質(体質)だったと見ることができます。

ひとつには、やはり一茶の生い立ちとその後の人生における不幸が背景にあるとの見方があります。家族に囲まれて育まれる中で受けるべきであった愛情の欠落と、長い遺産相続争いにより遅れた婚期。思うようにならぬ人生の鬱屈が、一茶をして愛欲に駆り立てさせたと考えられます。

もちろん、先天的な一茶の個性であったり、一茶自身つとめて「あるがまま」をもとめていたような節もあります。俳諧においても一茶には飾ったところが少なく、寂寥や欲望に忠実であろうとする人間臭さを強く感じます。

春画(『風流艶色真似ゑもん』(1770年、鈴木晴信:画)) のような一茶の性行

逸話3「6年の旅の間、一度も風邪を引かなかった」

50歳まで病気のない健康な人だった

一茶は非常に健康に恵まれていた人で、6年の旅の間一度も風邪を引かなかったそうです。また、健脚だったそうで、江戸から故郷の柏原まで1日あたり約40kmを歩きました。これを6日間行ったというのですから驚きです。

歩く速度も早く、一緒に柏原へと向かっていた4人の同行者を途中で待つこともありました。

ただ、体は丈夫でも歯が良くなく、50歳を迎える頃にはすべての歯を失ってしまいました。また、年には勝てなかったのか、50歳を過ぎてからは皮膚病やマラリアを患って寝込むことも増えました。

とはいえ、それ以前は病気らしい病気にかかっておらず、厳しい旅で体調を崩すこともなかったのを考えると素晴らしい丈夫さですね。

小林一茶の生涯歴史年表

1763年 – 0歳「一茶、誕生」

信濃国柏原に生を受ける

1763年(宝暦13年)、小林一茶は父・小林弥五兵衛、母・くにの長男として、信濃国柏原(現在の長野県上水内郡信濃町柏原)に誕生しました。一茶はのちの俳号で、本名は弥太郎と名づけられました。

小林家(本家)は、柏原においては有力な農民の家系であり、一茶誕生当時の小林家もそこに連なる分家として、中級の自作農をしていました。

北国街道・柏原宿の本陣跡

善光寺にほど近い柏原の地は、浄土真宗の地盤でもあり、一茶の精神面に大きな影響を与えています。また、宿場に近い生育環境で常に人や荷馬が移動するさまを見ていたためか、一茶自身もその生涯の大半を歩き続けました。

もともとの暮らしぶりは安定しており、幼少期のこうした暮らしが、のちの俳諧をはじめとする猛勉強を支える下地としてあったものと考えられます。

母の死

1766年(宝暦16年)、一茶の母・くにが病死します。一茶は、父と祖母・かなとの暮らしになりました。以後、一茶の養育はかなが受けもつようになります。

1770年(明和7年)、一茶の継母・はつが嫁いできます。翌年には義弟・弥兵衛が誕生します。はつと一茶とはもともと性格が合わず、弟の誕生によってその確執はさらに激しいものとなってしまいます。

1776年 – 14歳「祖母の死、その後一茶は江戸へ」

祖母・かなの死

1776年(安永5年)、一茶の祖母・かなが亡くなります。一茶の味方がいなくなったことで、継母の一茶への風当たりはさらに強まります。

父・弥五兵衛は、これをみて一茶を江戸に奉公に出すことを決めます。継母と一茶とを引き離すことで、目の前の危機を脱しようと考えたのでしょう。

翌1777年、一茶は江戸での暮らしを開始します。その生活は、よく分かってはいません。10年ほどにわたり、一茶のの消息が途絶えるためです。寺院、医者、商家あるいは書家の伝手とさまざまに推測があります。

しかし、何より重要なことは、その江戸での生活の中で、一茶が「俳諧」との出会いを果たしていたことにあります。宗匠の執筆役などをつとめながら、江戸から上総、下総、安房に地盤を有する葛飾派に属したことが分かっています。

江戸という世界最大級の都会で、一茶は俳諧に出会う

1787年 – 25歳「最初期の一茶作品現る」

1787年(天明7年)、一茶の最初期の作品が現れます。翌年には、葛飾派の宗匠である二六庵竹阿に師事するようになり、本格的に俳諧の道を歩み始めます。

1789年(寛政元年)には、奥州を旅して「奥州紀行」を著したとされています。物証は乏しいものの(象潟を訪れた記録があります)、この時代の俳諧宗匠に必須とされた奥羽旅行をしたわけで、すでに一茶が俳諧宗匠への道を歩んでいることがわかります。

師・二六庵竹阿の死と帰郷、そして修行の旅へ

1790年には、一茶の師匠であった二六庵竹阿が亡くなります。翌年、一茶は、14年ぶりに柏原に里帰りをしました。

1792年(寛政4年)には、下総から安房を巡回した後、西国行脚の旅にでました。ここから足掛け7年にわたり京阪、四国、九州の各地へと足を運んでいます。浦賀、伊東、遠江を経て京に入り、前年の帰郷の際父から頼まれた西本願寺へ代参りをしました。

さらに大坂、淡路島を経て四国に入ると、讃岐(現在の香川県)観音寺を拠点としつつ、伊予から九州へと足を伸ばします。1973年(寛政5年)を九州周遊に充てた一茶は、1974年に山口から四国の讃岐観音寺に入り、年を越しています。

1795年(寛政7年)は、伊予(現在の愛媛県)松山で、酒造業を営み俳人としても著名な栗田樗堂を訪ねています。その後大坂に戻り摂津、河内、大和、播磨などを周りました。また、同年ここまでの旅の記録を『たびしうゐ(旅拾遺)』という本にまとめ著しています。

1796年(寛政8年)、伊予の栗田樗堂宅を拠点に伊予各地を周遊し、翌年は備後、高松、小豆島、近江と周り、大和(現在の奈良県)長谷寺で年を越します。

1798年(寛政10年)、近畿地方を周ったのち、一茶は江戸に向かいました。柏原へ立ち寄り、江戸へ入っています。この長い旅の仕上げとして『さらば笠』を著しました。

1800年(寛政12年)には、この旅の成果が認められたのか、師匠の庵号であった「二六庵」を名乗ることを許されています。

1801年 – 39歳「父の死」

1801年(享和元年)、3月一茶は柏原に里帰りをしています。その直後、4月に一茶の父・弥五兵衛が病に倒れました。

一茶は柏原に留まり、父の看護にあたりました。しかし、病勢は変わることなく、父の弥五兵衛は6月に他界します。一茶は、父の死に接しての思いと俳諧を『父の終焉日記』にまとめて著しました。

一茶は、最後の理解者であった父を喪った

一茶の理解者であった父の逝去は、継母・義弟と一茶との遺産相続争いのはじまりでもありました。ちなみに、この時代の柏原地区の慣習では兄弟による均分相続が一般的で、父・弥五兵衛もその旨の遺言を残しています。

しかし、継母・義弟にしてみれば、長く家を不在にしていた一茶にかわり農作業や家事雑事に勤しんだのは自分たちだとの思いもあったようです。実際に継母と義弟のはたらきにより、小林家の財産は増えていました。結果、この遺産相続争いは長期化してしまうことになります。

なお、俳諧でも一茶の身辺に動きがあり、一茶はこの年限りで「二六庵」の呼称を使うことができなくなりました。これは、葛飾派内での人間関係の摩擦によるものと言われています。

1804年 – 42歳「俳諧宗匠としての基盤構築」

『文化句帳』と「一茶園月並」

1804年(文化元年)、一茶は『文化句帳』を著しています。また「一茶園月並」を主宰します。

俳諧宗匠としての基盤づくり、とりわけ生計を安定させるための苦闘が続いていました。当時の俳諧宗匠の収入源は、宗匠が各地を巡回して指導にあたる方法と、月並句会を開き発句を募集する方法とがありました。

この「一茶園月並」は、一茶の事務負担が大きかったこともあり一年余りで頓挫してしまいます。

葛飾派を離れる

同じ年、二六庵の庵号問題が尾を引いたのか、一茶はそれまで属した「葛飾派」から離れ、知己である俳人・夏目成美の派に属しその庇護を受けました。

あわせて住まいも、それまで住んでいた江東区大島から墨田区緑の貸家に転居しています。

1808年 – 46歳「遺産相続問題の一応の決着」

取極一札之事

1808年(文化5年)、祖母の33回忌法要のため帰郷した一茶は、遺産相続問題について交渉し「取極一札之事」を交わしました。これにより正式に田畑、山林、家屋敷の半分の権利が一茶のものと認められることになったのです。ただし、このときの交渉でも最終的な解決には至りませんでした。

この年の12月、遺産相続交渉で江戸の貸家を200日あまり空けていたため、大家が別人に家を貸し渡してしまい、一茶は家を失うという珍事が起きました。

「一茶社中」へ向けた準備

翌1809年(文化6年)も4月に帰郷し、長野、豊野、中野、小布施などを巡回します。北信濃一帯に起こりつつあった俳諧ブームに乗じ、愛好家への指導で生計を立てようとする一茶の計画でした。この時期の一茶の活発な運動は、あたかも武田信玄や上杉謙信が北信州で覇をきそったような緊張感に満ちていました。

一茶は、義弟に対する遺産相続の交渉の傍ら、いわゆる「一茶社中」を築く準備を行ないます。それは故郷に定住しようとする、一茶の決意の表れでもありました。

なお、この年から「宗門人別帳」に戸主として記載されたほか、年貢も課されるようになりました。それまでは義弟の(扶養)家族扱いとなっていたようです。

『七番日記』を開始

1810年(文化7年)に、一茶は『七番日記』というタイトルで日記を書きはじめます。文章と句によって構成されるこの日記は1818年(文政元年)まで続いています。代表作『おらが春』と並ぶ、一茶の代表作品とされている『七番日記』には、妻を抱いた回数まで記録されており、史上希にみる赤裸々な日記となっています。

炎天寺(東京都足立区)の句碑(『七番日記』より「やせ蛙まけるな一茶是にあり」)

1813年 – 51歳「遺産相続問題の最終解決と結婚」

「熟談書附之事」

1813年(文化10年)、父の13回忌のため前年末に帰郷した一茶は、借家を借り故郷定住の意思を表示します。

交渉は、父の死去後、一茶が相続すべき田畑からの収益を義弟が手に入れていたことについてでした。結果として、小林家の菩提寺である明専寺の住職が調停役となり11両2分(一茶の要求は30両)を義弟が支払うことで決着しました。

一茶は、相続した耕作地における農業を小作人にあたらせる一方、北信濃に点在する「一茶社中」の門人を巡回指導して生活基盤の安定化に努めています。

尻の腫物のため寝込む

この年の6月、一茶は尻に腫物ができ、善光寺町の門人宅で寝込んでしまいます。驚いた門人たちが駆けつけ、義弟まで見舞いに来るほどでした。75日にわたり病臥を余儀なくされた一茶。その後も皮膚病を患っており、梅毒に罹患していたとの説もあります。

結婚

翌1814年(文化11年)は、一茶の生活が一変した年になりました。ひとつは、義弟と二分した実家での暮らしを始めたことです。もう一つが、一茶の結婚でした。実家の分割を行ったのは、結婚が本決まりになり生活の場が必要になったためと言われています。

相手は、野尻宿の常田菊(1787年ー1823年)でした。年齢は28歳で、51歳の一茶とはまさに「親子ほど」年の離れた夫婦です。菊は生真面目な性格だったのか、一茶の身の回りを助けるだけでなく、義弟や継母にはじまり近所付き合いに至るまでをこなしています。

51歳にして妻を娶った一茶

1816年 – 54歳「長男誕生」

長男・千太郎の出生と死

1816年(文化13年)、一茶と菊の夫婦に待望の長男が誕生しました。しかし、体質が虚弱で発育に問題があり、千太郎は生後わずか28日で亡くなってしまいます。

1818年 – 56歳「長女誕生」

長女・さとの出生と死と「おらが春」

1818年(文政元年)、一茶は改めて長女を授かります。さとと名付けられたのは「聡い子」に育ってほしいとの願いからだったと言われています。

しかし、そうした一茶と菊の願いも虚しく、さとは翌年5月に天然痘にかかり、6月に亡くなってしまいます。1歳になったばかりのことでした。一茶は、さとの誕生から死に至るまで詠んだ句と文章とを、一茶の代表作でもある『おらが春』という作品にまとめています。

1820年 – 58歳「次男の誕生と死」

次男・石太郎の誕生と死

1820年(文政3年)10月、一茶は次男・石太郎を授かりました。石太郎という名前は、石のように強い子であってほしいという願いが込められていたようです。しかし、翌年1月、石太郎もまた世を去ってしまいました。母・菊の背に負われたまま窒息死してしまったりと伝えられています。

1822年 – 60歳「三男の誕生と妻の死、そして三男の死」

1822年(文政5年)の一茶は、『まん六の春』『文政句帳』の執筆に取り組んでいます。

三男・金太郎の誕生と妻・菊の死

1822年(文政5年)、一茶は三男・金太郎を授かりました。今度こそ、の想いがあったのでしょう。「石よりも強い金」という命名には鬼気迫るものさえ感じられます。しかし、今度は妻・菊が健康を損ないました。産後の肥立ちが悪く、翌年の5月に亡くなってしまうのです。

次々と家族を喪ってゆく一茶

三男・金太郎の死

同じ年の12月、今度は三男の金太郎が亡くなってしまいます。1816年で長男・千太郎を授かって以降、わずか6年間で、一茶はじつに3人の男の子と1人の女の子、そして妻まで亡くしてしまったのです。また、この間、一茶は一茶で体調不良が続いていました。ヒゼンという皮膚病にかかり、またそれとは別に中風の発作を繰り返していました。身体的障害に加え、ときに言語障害まで起こす中風に苦しめられています。

1824年 – 62歳「再婚と離婚」

二度目の妻、ゆき

1824年(文政7年)5月、一茶は再婚を果たします。相手は飯山藩士の娘で田中雪といい、38歳の若さでした。しかし、武家から農家に嫁いできた雪は、慣れない農家の嫁としての暮らしに加え、俳諧師として家に寄り付かない夫との暮らしが心細かったのでしょう。結婚生活は3か月ほどで破綻し、8月には離婚することになってしまいました。

1826年 – 64歳「三度目の結婚と柏原大火」

三度目の妻、やを

1826年(文政9年)、一茶は三度目の結婚を果たします。相手はやをという32歳の女性でした。やをには私生児の男児・倉吉がいました。ようやく跡継ぎもでき、一茶の生活に平穏が訪れたかにみえました。

1827年 – 65歳「自宅焼失と一茶の最後」

一茶の自宅が焼失する

1827年(文政10年)7月、柏原に大火があり、柏原宿の8割が焼失する大火がありました。この時の大火災で一茶の屋敷も失われてしまいます。一茶は、かろうじて焼失を免れた土蔵に入り、ここで過ごすことになりました。

最晩年の一茶は、土蔵で暮らしていた

一茶、逝く

同年12月末、俳諧指導から柏原に帰宅した一茶は、自宅の土蔵に入りました。1月5日、気分がすぐれず寝ていた一茶は、同日夕に息を引き取ります。一茶は、明専寺にある先祖代々の墓に埋葬されました。なお、一茶が亡くなったとき、やをは一茶の子供を身ごもっていました。春に誕生した女児は「やた」と名づけられて成人し、一茶の子孫を遺しています。むろん、一茶はそのことを夢にも思わなかったことでしょう。

小林一茶の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

一茶俳句集 (岩波文庫)

一茶の俳句を、詠まれた年代順に整序してまとめた書籍です。一茶の俳句をひと通り読むのに最適な一冊です。注釈は最小限ではありますが、素材の良さを味わうように読むには十分です。

ひねくれ一茶 (講談社文庫)

一茶を主人公にした小説です。作者は田辺聖子。物語の展開は、ややドラマチックな感じもありますが、信州のことばで会話が繰り広げられており、臨場感を味わうことができます。

小林一茶 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)

古典文学のビギナー向けシリーズで、一茶の作品世界についてわかりやすく書かれています。逆境にあっても懸命に生き抜き、悲しみも苦しみも俳諧に昇華させた一茶の生き様を体感できます。

小林一茶のオススメ本・作品9選【絵本や小説、句集まで】

おすすめの動画

『ちば見聞録』#015「一茶と双樹」(2014.7.12)【チバテレ公式】

一茶の江戸滞在当時、親交の深かった流山の秋元双樹との関係を皮切りに、当時の一茶の消息を辿る動画です。考証とともに紹介される一茶の句が興味深いです。

関連外部リンク

小林一茶についてのまとめ

今回は、小林一茶の人生について、彼の年表を通して追体験しつつ、掘り下げてご紹介しました。

一茶は、小さな命を素材に俳諧を詠んだイメージがあまりに強く、それだけに好々爺然とした一茶像が一般的ですが、実際はかなり違うと感じます。

例えば遺産問題や北信濃における一茶社中構築など、川中島合戦を彷彿するような、大胆な戦略と緻密な戦術を見せており、軍記物の一軍師のような素顔さえ垣間見えます。ぜひ、そうした視点で、もう一度一茶の作品に触れてみてください。

この記事をきっかけに、一茶の作品に共感される方が増えてくれたら、嬉しいです!

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